LOGIN十歳の誕生日、あたしは靴を貰った。どこのお店でも売っているような、普通の靴。でも子供のあたしにとって……特別な日に貰ったその靴は、特別なものだった。大切だった。 やがてそれはボロボロになって。あたしが大きくなると、大きさも合わなくなって……。すぐに履けなくなった。それでも、ちょっぴり繕って……ずっと部屋の棚の上に飾っておいたんだ。けど……。「あの靴……いいかげんみすぼらしいから捨てておいたわよ。それより……あなたもそろそろお洒落とかした方がいいんじゃない? ねぇ、お母さん今流行ってるっていうやつ買ってきてみたんだけど……あなたに似合うかしら? ね、ほら……着てみて!」 突然、棚の上に並べてあった靴がなくなったのに気づいて……それを母に尋ねたときに返ってきた言葉だ。今でも、よく覚えてる。 誰でも経験するような些細な喪失。あたしは、その時泣きも怒りもしなかった。ただ「ああ、そうなんだ」って……なんかいろいろ、分かってしまったような気持ちになっただけ。 あの靴がどれだけ自分にとって大事かだったなんて、もう正確に思い出せないけど……この言葉を告げられた瞬間のことはいつまでたってもずっと……鮮明なまま。 時間とともに褪せていくこと。どうでもいいこと。取るに足らないこと。あたしが泣き叫んで喚いても、あたし自身が実際はそれに全く価値や意味が無いことをよく分かっていた。 でも、いつまでたっても忘れられなかった。 こんなことが、何回も繰り返された。その度に少しずつ、自分が大人になっていくような感覚がした。だから……大人になることは嫌なことなんだって、そんな気持ちが根を張った。「でもね、これは普通のことよ」「みんなそうやって大人になっていってるのよ」「社会に出れば、自分の思い通りにならないことばかりなんだから甘えてちゃいけないわよ」 誰に言われたわけでもないのに、心の中をこんな風な言葉が反響する。だからそう……。『……』 今まで通り、飲み込んで……。『…………』 痛みを痛みと思わないで……。『………………』 ちゃんと捨てて……。『……………………』 大人に、ならないと……。『……………………いやだ』「え、今あなた……なんて言ったの?」『ううん、お母さん……何でもないよ』 いやだ。「春、そろそろお前
重力から引き剝がされるように、異次元へと飲まれる。既に慣れ親しんだ感覚がいつもより重い。しかしそれは錯覚に過ぎず、ただ俺の心の不安が体さえも重く引きずっているだけだった。 一呼吸が終わらないうちに、光の奔流から吐き出され視界がひらける。次の瞬間、俺は体育館の床を踏みしめていた。「待っていましたよ」 俺が皐月の姿を捉えるよりも早く、冷たい声が耳元をかすめる。その確かに聞き覚えのある声に、内臓が縮み上がるかのようだった。この感覚は……恐怖に他ならない。 先生、俺たちができるだけ出会いたくない相手……。そして……きっと会うだろうという予感のあった相手……。 その声に呼吸は凍てつき、しかしこうなった今その顔を見上げるしかなかった。「今度は体育館に直通ね……。ま、何となくそんな気はしてたけど……まんまと私たちは誘われてきたわけだね」 皐月は先生と、それからその傍らに立つ春の方を見ながらため息を吐く。ただ、そのため息に絶望や失望の感情はこもっていなかった。「そういうわけだから、お誘い通りちゃんと来てあげたよ……先生……?」「ふふ……」 皐月の視線を受けて先生は笑う。春はただ縋り付くようにその腕に抱かれていた。「まぁ、わたしとしては別にどちらでもよかったのですが……手間が省けましたね。どのみちそこの忌々しい男は殺しますが……あなたはその限りではないのですよ?」 先生はこんな事態に至ってもまだ”慈悲深い指導者”を気取っているのか、皐月に憐れむような眼差しを注ぐ。それに皐月は言葉でなく、ただ中指を立てることで答えた。 決して臆さない皐月の姿に勇気づけられて、俺も先生と春の方へ一歩踏み出す。そして一目で作り物と分かる張り付いた微笑みを睨みつけた。「なぁ、今外で何が起こってるか……知らないってことはないよな? あんた、いったいみんなに、春に、何やったんだよ……先生……?」「先生……この立場と呼び名に関しては気に入っていましたが……あなたに呼ばれると不愉快極まりないですね。あなたが我が物顔で生きているだけで、今この瞬間わたしの聖域で呼吸をしているだけで気分が悪くて仕方がありません。ですが、あなたも所詮憐れな人形……わたしが何をしていたか、教えてあげましょう。そしてその上で全てを奪い去ってあげましょう」 先生もまた、こちらに一歩踏み出し
春の背中を追って凍り付いた地面の上を走る。自身の体重が足元に響く感覚が希薄で、妙な感触だった。ただもう流石に慣れても来たので足を滑らせるようなこともない。「春っ……!!」 交わした言葉も、共有した時間も少ない。それでも俺の声できっとその脚を止めてくれるだろうとその背中に呼びかけた。「……っ」 俺の声はその背中にしっかり届き、春をこちらに振り向かせる。その瞳は俺と、それからその隣に居る皐月を映した。「よかった……」 俺の声に反応してくれたことにひとまず安堵する。春の歩みも緩み、ややつまずくような形で氷の上を滑る。その前のめりになって転倒しそうになる背中に手を伸ばした。「春……見つけられてよかった。春も分かってると思うけど……今起きてることは普通じゃない……それで……」「それで、あの”教室”へ向かうのはやめて。黒幕はあそこの……先生だから」 焦りや感情が先行してしまっていた俺の言葉に、皐月が淡々と付け加える。春はアスファルト上に張った氷に踵を踏ん張らせてぎりぎり転倒を免れる。そして……。「分かってる。分かってるよ……そんなこと」 その肩に届こうとしていた俺の手を、春は振り払った。そしてすぐに、こちらから視線を外して再び走り出してしまう。「ちょ、春……!? だからダメだって……!」 とっさに引き留めようと言葉を吐き出すが、もう春は俺の声に応じない。どれだけ力を込めたとしても中学生の少女の腕力、しかしその明確な拒絶は物理的に伝わってくる衝撃以上の痛みをもたらした。「水瀬、悪いけど気遣ってられないから……ちょっと乱暴するよ……」 突然の拒絶に思考停止状態に陥ってしまっていた俺とは対照的に、皐月は冷静に手を下す。皐月は走り去ろうとしている春の背に手を伸ばすと、手のひらの中心から放出するように氷の結晶を撃ち出した。そのままの勢いで春を貫いてしまいそうな氷の結晶は、しかし命中する寸前で網のように広がり春に絡みつこうとする。が……。「……」 瞬間、鋭い光が氷に包まれた路地で跳ね返る。枯れ枝のように、血管のように大気を焼け焦がす、稲妻。それは一瞬だけ眩く輝くと、密度の薄い煙になった。電撃によって砕かれた結晶が、散らばって凍った地面を滑る。それは俺たちのつま先にこつりとぶつかって、役目を終えたようにすぐに溶けてしまっ
ビルの陰から、通路の奥から……人の背丈の1.5倍ほどの怪物が這い出して来る。それらは少し前までは確かにここにあったはずの日常を瞬く間にむしばんでいった。どこかで誰かの悲鳴がする。その声すら搔き消すように、クリーナーたちの放つ攻撃が迸った。 皐月はその状況に退屈そうにため息を吐く。「はぁ……どいつもこいつも大したことなさそうな奴ばっか。そんなに面白くなさそうだね」「お、おい……そんなこと言ってる場合かよ……」「大丈夫……。ただ、いくら元人間って言ったって……少しくらいは痛い目見てもらうけどね」 皐月は俺の言葉にそう答えると、眼前で繰り広げられる戦場へと一歩踏み出す。そのつま先がアスファルトを叩いた瞬間、そこを中心に花弁が開くかのように地面が凍結していった。「……っ」 初めてちゃんと見る皐月の能力に息をのむ。凍結、という点では俺の使えるものとも同じだが……その影響範囲はこの数秒にも満たない時間で俺のものを優に超えていた。 地表を伝って広がっていく凍結はその結晶を成長させながら都市全域に広がっていく。その氷の結晶は魔物たちの動きを制する檻となった。「ま、足止めするってだけならこれで十分でしょ。あとは撃ち漏らしを個別に処理するだけ……」 幾分か寒くなった廃都近縁で、あまりにもあっけなく場を収めて見せた皐月は悠々と残りの仕事を片付けるために歩き出す。先ほどまで魔物と交戦していたクリーナーたちも、突如凍結した魔物を前にその手を止め、その眼差しを皐月に注いだ。「おい、あれって……」「皐月無垢、だよな……?」 惨状が一転、瞬く間に静寂に包まれた都市にクリーナーたちが口々につぶやく声が響く。「水瀬、ほら行くよ。まだ自由に動けてる魔物も居るはず、それに……まだ魔物になってない人も、まだまだ居るはず。ここはまだ安全とは程遠いんだから、気を緩めないで」「あ、ああ……分かった……」 皐月は周囲の人々の注目にうんざりしたような表情を浮かべ、少し入り組んだ路地の方へ逃げるように駆けていく。俺も数センチの厚さの氷が張った地面の上で滑りかけながらもその後を追った。「なぁ、皐月……あの魔物たちって、その……戻れるのか?」 残党を探す皐月の後ろに続きながら、尋ねる。皐月はそれ自体にはさして興味なさそうに「さあね」と答えた。「……でも、あの先生が
「……外が……」 まだ鹿間さんとの電話途中だが、少し外が騒がしくなってくる。皐月もそれが気になったようで、窓際に寄り下の景色を眺めた。『……すまない、水瀬くん……。ちょっと、こっちの方でも……対応しなきゃいけない事態みたいだ……。ちょっ……』 鹿間さんの方でも何かが起き始めているのか、電話に鹿間さん以外の不明瞭な声が割り込んでくる。その後『済まない、とにかく二人は……今は念のため外に出ないでいてくれ』とだけ言って、電話が切れてしまった。「あっ……」 いったい何がどうなっているのか。もう誰ともつながっていない電話をポケットにしまい、窓際の皐月に歩み寄る。そしてその肩越しに街並みを見下ろすと……。「なんだ……これ……」 朝の静けさの中にあった街の状況は、一変していた。「魔物だ……。それも、一体や二体じゃない」 皐月はホテルの外に広がる光景を冷静に言い表す。あの教室を除けばゲートすら存在していなかったこの廃都近縁に、多数の魔物が現れていた。大きさや姿はまちまち、ダンジョン内部の魔物に見られるような一貫性が……ここに突如として現れた魔物たちにはなかった。「あ、おい……皐月……!」 この状況を見るなり、皐月は部屋の出口へ駆け出してしまう。その肩を引き寄せようと手を伸ばすが、俺の指先はぎりぎり届かなかった。「待って、皐月! 鹿間さんが待ってろって……!」「知ってる。聞こえてた。水瀬は……言うとおりにしたいって言うなら、ここで待ってればいい。けど……結局私たちが何のためにここに来てるのか、やらなきゃいけないことが何なのか……後悔しない選択をした方がいいよ」「それはっ……」 一度は足を止めた皐月だったが、俺を試すかのような一瞥をくれると……いよいよ外へ駆け出してしまった。「それは……そう、だけどさ……」 ホテルの部屋のドア。そこを潜り抜けてしまえば、俺はおそらく……この混沌の渦中に放り込まれる。鹿間さんの命に背いてだ。今思えば……こういう時の皐月を引き留めるのも、鹿間さんが俺に期待した役割だったのかもしれない。 あのドアの向こうへ俺も行きたい。一度踏み出してしまえば、ある意味では……楽になれるのだ。けれど……。「……ふっ」 うじうじと得意でもないのに色々と考える俺が、少しばかばかしくなってくる。そうだ、この期に及ん
鹿間さんには、部屋で皐月と一緒に居たときに連絡をした。電話をかけたのは俺だが……実のところ状況の説明はほとんど皐月が行った。鹿間さんは……正直俺たちの報告には終始半信半疑といった感じだったが、なんにしてもすぐに対先生に動けるわけでもないのでひとまず後日にということになった。そして現在……。「……」 現在朝七時、不規則な生活リズムを強いられる今回の任務では珍しく……まだ早いうちから勝手に目覚めていた。いまいち気が休まらなかったようで、感覚としてはまだ昨日と地続きで日付を跨いだ感覚が希薄だ。 あの少年が俺たちのホテルを知っていた以上、先生もここを知っている可能性は十分あったが……結局ここを襲撃されるようなことはなかった。まぁ別にそればかりを気にしていたわけでもない。俺の頭の中を占めていたほとんどのことは、これからどうなるかということよりこれまでのことだった。 あの不思議な教室、春との出会い、先生の見せる夢……。特にあの夢、今でも曖昧ながらその内容を覚えているが……あの光景に覚えはない。しかし不思議と、心を動かされたのだ。あの時の感覚が、未だ胸に微かな言葉にしがたい感情を残している。 いろいろと経験した俺たちに鹿間さんから下された指令は「一旦待機」だ。しかしこうして部屋で一人思いを巡らせるのもなんだか気が滅入る。まるで水中から息継ぎをするかのようにカーテンを少し開いて外の景色を眺めると、昼間の活気に少し疲れた心を元気づけられるような気がした。「なんだかなぁ……」 ここに来てからずっと、何かが心に引っかかっているような感覚がある。結局、少年少女たちは……何を求めてあの教室へ行っていたのだろう?先生の夢に一度落とされた今……彼らの乾きに近いものを少し理解してしまったようで、それが俺の心をかき乱しているのかもしれない。 窓の外を何を見るでもなく見つめていると……。ガチャリ……。俺の部屋の鍵が、一人でに開く音がした。「……!」 まさか先生が律儀に入り口から「お邪魔します」なんてことはないだろうが、少し身構える。当然この部屋の鍵を持っているのは俺しかいない。この場合考えられる可能性としては……ホテルの従業員とかなんだろうが、なんにせよ今は状況が状況だから少し過敏になっていた。それに……従業員ならいきなりノックもなく解錠って