ソファに座ってみんなで世間話をした。最近の天気の話とか、ネットニュースで話題になってることとかだ。これもいつものことで、ユウさんが土産話をしたことなど一度も無かった。そもそもユウさんが、どこで何をしているのかさえ話したことはなかったのだし。
一時間くらいそうしていて、ユウさんが急に立ち上がった。「帰るの?」 ミユキ母さんがユウさんを見上げる。「うん。みんなが待ってるから」 ミユキ母さんも立ち上がりコートハンガーから革ジャンを取って、「気をつけてね」 と送り出す。あたしも見送るため玄関まで一緒する。ユウさんは玄関に腰掛けて厚底のドクターマーチンを履きながら、「夏波。イケメンには気をつけろ」 と言った。これには本当にびっくりした。あたしが成人したからなのか、こんなこと言われたのは初めてだったのだ。「恋愛とか興味ありませんから」ミユキ母さんがしゃがんでユウさんの背中に手を当てた。「大丈夫だから心配しなくていいよ」 ユウさんは靴を履き終えると立ち上がり、「それじゃ、また」 そう言い残して玄関ドアの向こうに姿を消したのだった。それを見て、あたしは胸の内に仕舞った言葉を口に出せなかったことを悔やんだ。これもいつものことだけど。 取り残されの二人でリビングに戻ったけれど、なんだかさっきの続きをする気にならなかった。「二度寝するね」「ごゆっくり」 部屋に戻って、今日貰った十八個目の手乗りカレー★パンマンを壁の棚の一番端に置いてベットに寝転んだ。棚の上では早速歓迎会の準備が始まっていそうだった。あの子たちはみんな貰ったときのままで綺麗だ。でも枕元のこの子はよだれとか手垢とかでよごれてほつれとかもある。赤ちゃんのころからずっと一緒のこの子なら、あたしよりユウさんのことをよっぽど鮮明に覚えてるんじゃないだろうか? あたしには心に引っかかっている記憶がある。それは普通はそんなの覚えてないとされる産まれたばかりの記憶だから、いつか見た夢を記憶だと勘違いしているんじゃないかと思う時があるくらいのものだ。そこは密閉され明かりが届かずあるとき施設の意地悪な先生が、「あなたは神社の床の下に捨てられていたのよ。可愛そうに、育てられない事情があったのね」 と言った。神社の床の下と言うのもひどいけど可愛そうなのがあたしではなく捨てた人のほうだと考えていることがもっとひどいと思った。それと同時に、あたしを捨てた人には何か事情があったのだ、決してあたしが嫌いだったから捨てたのじゃないという気持ちが芽生えたのもたしかだ。覚えている最初の誕生日は三歳だったと思う。手乗りカレー★パンマンが手元にすでに二つあったから。その日ユウさんが施設にあたしのことを訪ねてきて、手乗りカレー★パンマンをはだかのまま手渡したのを覚えている。その時、あたしは、「あなたはあたしのお母さんなの?」 と聞いたのだったが、ユウさんは、「違うけど、夏波のことはとっても大切に思っているよ」 と答えた。その真意は今でも分からないが、その時あたしは幼かったのでもっと分からなかった。それで、「いつか迎えに来てくれる?」 と聞いたのだけど、それは、あたしが大切な人とは同じ家に住む人のことだと思っていたからだ。それに対してユウさんは、「ああ、きっとね」 そう約束してくれたのだった。 四歳になって、あたしは藤野の家に迎え入れられることになった。あたしもその気で月一でお泊まりに行ったりして大人たちの間で準備が進められていた。あたしがそれをすんなり受け入れられたのは、以前からあたしの所に何度かお見舞いに来てくれていた二人の女性のうちの一人がユウさんそっくりだというのもあったのかもしれない。クロエちゃんのことだ。そしてお誕生日の朝、施設の先生にお迎えに来たよと言われた。この日のために先生たちと用意した自分の荷物を持って面会室に行くとミユキ母さんとクロエちゃんが待っていた。「一緒にお家に帰りましょう」 ミユキ母さんが目いっぱいの笑顔で言ってくれた。それなのにあたしは、「違う」 と言って泣きながら面会室から逃げ出した。てっきりユウさんが約束通りに迎えに来てくれたと思ったのだ。あたしの中で、それと藤野家への迎え入れとがごちゃごちゃになってしまっていたらしい。そ
ソファに座ってみんなで世間話をした。最近の天気の話とか、ネットニュースで話題になってることとかだ。これもいつものことで、ユウさんが土産話をしたことなど一度も無かった。そもそもユウさんが、どこで何をしているのかさえ話したことはなかったのだし。一時間くらいそうしていて、ユウさんが急に立ち上がった。「帰るの?」 ミユキ母さんがユウさんを見上げる。「うん。みんなが待ってるから」 ミユキ母さんも立ち上がりコートハンガーから革ジャンを取って、「気をつけてね」 と送り出す。あたしも見送るため玄関まで一緒する。ユウさんは玄関に腰掛けて厚底のドクターマーチンを履きながら、「夏波。イケメンには気をつけろ」 と言った。これには本当にびっくりした。あたしが成人したからなのか、こんなこと言われたのは初めてだったのだ。「恋愛とか興味ありませんから」ミユキ母さんがしゃがんでユウさんの背中に手を当てた。「大丈夫だから心配しなくていいよ」 ユウさんは靴を履き終えると立ち上がり、「それじゃ、また」 そう言い残して玄関ドアの向こうに姿を消したのだった。それを見て、あたしは胸の内に仕舞った言葉を口に出せなかったことを悔やんだ。これもいつものことだけど。 取り残されの二人でリビングに戻ったけれど、なんだかさっきの続きをする気にならなかった。「二度寝するね」「ごゆっくり」 部屋に戻って、今日貰った十八個目の手乗りカレー★パンマンを壁の棚の一番端に置いてベットに寝転んだ。棚の上では早速歓迎会の準備が始まっていそうだった。あの子たちはみんな貰ったときのままで綺麗だ。でも枕元のこの子はよだれとか手垢とかでよごれてほつれとかもある。赤ちゃんのころからずっと一緒のこの子なら、あたしよりユウさんのことをよっぽど鮮明に覚えてるんじゃないだろうか?あたしには心に引っかかっている記憶がある。それは普通はそんなの覚えてないとされる産まれたばかりの記憶だから、いつか見た夢を記憶だと勘違いしているんじゃないかと思う時があるくらいのものだ。そこは密閉され明かりが届かず
ユウさんはミユキ母さんに背中を押されてリビングに現れた。ブレイズ髪にロゴ入りの白いパーカーを着て手に革ジャンをぶら下げ、ショートデニムをはいている。あたしがクロエちゃんと間違えたのは理由があって、二人は顔がそっくりなのだ。でも血のつながりはないそうで他人の空似らしい。それホントかよってくらい激似なのだ。うつむき加減になってリビングの入り口で立ち止まったままのユウさんを、ミユキ母さんがさらに押し出してあたしに近寄せる。「挨拶!」 ミユキ母さんの号令で、「夏波、おひさ。元気か?」 照れくさそうにしている。その仕草はまるっきり少女のよう。実際あたしぐらいと言ってもいいくらい瑞々しい面持ちをしている。ミユキ母さんやクロエちゃんと同い年だそうだから40代のはずなのだが。「ユウさん、こんにちは。お久しぶりです」「ちょっと遅くなったけど、いつもの。ほれ」 革ジャンのポケットからを黄色い小物を取り出し、ぎこちなさげに差し出した。手に取るとやっぱり手乗りカレー★パンマンで、いつものように何にも包まず裸のままだった。「ユウさん、いつもありがとうございます」「いつも」が嫌味に聞こえなかったか心配になったけど、ユウさんは気にする風もなく、「いいって。それより、大事ないかい?」 あたしの右手を取ってひとなでした。これも毎度の仕草だ。「ないです。元気です」 今度は右手を目の高さまで持ち上げて矯めつ眇めつしはじめる。これも一緒。「恋人が出来たとか?」「ないない」 ミユキ母さんが即答する。なんか失礼だな。「さ、座って。ユウさん。お腹すいてるでしょ。いま食べるもの用意するね。夏波はユウさんのお相手してて」 ミユキ母さんはユウさんにリビングのソファーに座るように促した後、キッチンでいそいそと食べるものの用意を始める。ユウさんはあたしの手を握ったままなのに気づいてないのか、ずっと手をつないでそこに立ちん坊になっていた。だからあたしもその場に立ち尽くしていたのだった。 窓の外を見ると庭のマリーゴールドが風に揺れていた。微妙に違う橙色の花が唱和しているようで、心が
「おー懐かしい、四宮浩太郎の「辻沢ノート」。これは辻沢調査の基本文献だよ。あたしも学生のころ熟読したもんだ。それじゃあ、この赤字は」 さらに黒縁めがねを引き上げて、「たしかに、鞠野フスキの字だよ」 「マリノフスキ?」「文化人類学者で偉大なエスノグラファーのブロニスワフ・マリノフスキーからとった鞠野先生のあだ名でね。みんな鞠野フスキって呼んでたんだよね」 その口ぶりは先生というより同級生の男子のことを話しているようだった。鞠野教頭先生は生徒に慕われる教師だったらしい。「じゃあ、これって何のことか分かる?」 ミユキ母さんはホロのページを行ったり来たりしながら、「そうだね、これなんかあのことなんじゃないかと思うよ」 と言ったのは、「鬼子は船であの世に渡る」 という書き込みだった。「あのこととは?」「補陀落渡海(ふだらくとかい)のこと」 補陀落渡海というのは中世ころの風習で、死を決した行者が少しばかりの水と食料を用意して小舟で海に乗り出し海の向こうにある浄土、補陀落に向かうことをいう。小舟は縄でつなげて沖まで曳航され、縄を切られた後は櫂も帆も付いていないため波に任せるまま漂流する。その時、行者は小舟に設えられた小館に入りその出入り口は木の板で蓋をして釘で打ち付けて出れなくされている。命が惜しくなって泳いで戻って来れないようにだ。「それってまるで」「即身成仏だよね。それでも行者の多くは喜んで小舟に乗り込んだそうだよ」 行き着くか分からない目的地に向かい、波に翻弄され幾日も幾日も空腹に耐えて、暗闇の中で行者さんはどんなことを考えていただろうか。その孤絶を思うと胸が締め付けられる思いがした。「ここで言ってる鬼子って行者さんのことなのかな」 修験道姿の鬼をイメージして聞くと、「この書き込みだけじゃ、わからないけど」 とミユキ母さんが言い終わらないうちに邪魔が入った。〈♪ゴリゴリーン お客様です〉「来た
「できました。異端のパンケーキ」 ミユキ母さんは、すぐさまパンケーキを素手で掴んでベーコンを包んでかぶりついた。「おいしい?」「胡椒がぜっふぃん(絶品)」冬凪とおんなじ反応だった。異端の胡椒は、あたしがレシピを読み間違えたのが初めだ。ネットに出ていたレシピに、牛乳とか卵とか薄力粉とかと並んで、B・Pとあったからてっきりブラック・ペッパーのことかと思って胡椒をたんまり入れて焼いた。その時最初に食べた冬凪が、「異端過ぎる。なんで胡椒?」 って聞いたから参考にしたレシピを見せると笑い出して、「B・Pはブラック・ペッパーでなく、ベーキング・パウダー(ふくらし粉)な」 その後、ベーキングパウダーに変えて作ってみた。多少膨らんだのはよかったけれど、なんか後味がエグエグしてたのと、関係あるか知らないけれど食べてしばらくしたらオナラがプップカ出たので、以後、パンケーキの時はブラックペッパーということにしている。 ミユキ母さんが紙本に顔を埋めながら手探りで三枚目を取ろうとしていたので、ベーコンを挟んで渡してあげる。「ありがと」「何の本読んでるの?」「『新しい太陽の書』っていうSFファンタジー小説」「面白い?」「面白いけど、セヴェリアンは中に入りすぎかな」「セヴェリアン?」「主人公。拷問者の」「拷問者が中に?」「そう、中に」ロックインのことかなと思ったけれど、話が長くなりそうなのでそれ以上聞かなかった。 その時、ふと思いついた。そうだ。あのことをミユキ母さんに聞いてみたらどうだろう。書き込みがミユキ母さんの指導教授のものだったとしたら冬凪よりいい情報が得られるかも知れない。「ミユキ母さんに見て欲しいものがあるんだけど」 紙本から顔を上げて質実剛健な眼鏡の縁に指を当てながら、こちらをまじまじと見た後、「なにかな?」 そこでリング端末で例の赤字の書き込みをホロ表示させた。ミユキ母さんは、「この本は?」 あたしは経緯から詳しく説明した。すると、「そうなんだ
またクチナシの人の夢を見た。それがいつもと少し違った上に妙にリアルだった。あたしが夜祭りを覗いていてクチナシの香りに誘われ志野婦神社の杜に踏み込みクチナシの人に出会うところまでは一緒だった。でもその後が違った。あたしのことを突き飛ばした人はカレー★パンマンのお面を被っていて、あたしはあたしでアン★パンマンのお面を付けていた。夜祭りだから? それと今、右手の薬指の付け根がズキズキとうずいている。今までこんなことはなかったのに。枕元の手乗りカレー★パンマンのぬいぐるみを手に取って、「あんたのせいだよ」 胸に抱くとなんだか指のうずきが収まるような気がした。このぬいぐるみはゲーセンにあるクレーンゲームの景品のようだが、知り合いが誕生日になると必ずくれるものだ。これと同じものが壁の棚に十六個並んでいる。 顔を洗い部屋着に着替えて階段を降りて行くとコーヒーのいい香りがしていた。朝日が差し込むキッチンテーブルでミユキ母さんが最近買ったぶっとい黒縁の眼鏡を掛け、カプチーノ片手に紙本の文庫を読んでいた。お休みの日だからのんびりしているのだ。「冬凪は?」 部屋にいなかった。「出かけたよ」「こんな早くに?」 いつもならまだ寝ている時間だ。「八月まで山椒摘みを手伝うんだって」 終業式がすぐで学校に行かなくてもよいにしても十日間もか。「四ツ辻?」「そう。紫子さんのところに住み込みで」 辻沢の西に位置する山並みを西山地区というが、そこに山椒農家が集まる古い集落があって、冬凪が懇意にしている紫子さんという農家さんがいる。フィールドワークをしていて知り合ったとか。月末まで留守か。この間鞠野文庫で見付けた本のこと、特に鬼子の書き込みのことを聞きそびれた。VRチャットで話せば済むけど、なんとなく直接聞きたかった。 それより、お腹がすいた。紙本に顔を埋めているミユキ母さんに、「朝ご飯食べてないよね?」 紙本から目をあげてあたしを見ると、「まだ。何食べよっか?」「なら、パンケーキ作るよ」「お、いいね。当然、異端の?」「異端の」 材料棚から