二年前のあの日、雨が降っていた。十六夜と初めて話した日だ。高校入学直後で部活も決まっていなかったから放課後はまだ冬凪と一緒に帰っていた。あたしは図書館に紙本を返しに寄っている冬凪を待って、雨降る校庭で傘を差して時間を潰していた。校庭は朝から降り続いた雨のせいで水浸しになっていて、幾筋もの雨水の流れが出来て、まるでジャングルを流れる大アマゾン川のように見えていた。あたしはその一つの流れにしゃがんで、澄んだ水の底を小さな砂礫が押し流されてゆく様子や、雨水が校庭の土を崩しながら新しい流れを作るのを眺めていた。神様の営みを小さくしたようなこの景色があたしは大好きだった。
傘に落ちる雨の音を聞きながらそうしていると、目の前の流れに鮮やかな緑の葉っぱが流れてきた。「眺めてるだけじゃ、万物流転を味わえないよ」 雨の小川の上流で声がした。立ち上がってそちらを見ると傘も差さずに前園十六夜が立って雨水の流れを見つめていた。同じクラスだったけどそれまで話したことはなかった。お互い教室の反対の隅で一人でいたし、十六夜についてはヤオマンHDのお嬢という情報から勝手に近づきずらいと思っていたからだ。「地面を崩しながら水が流れる様子って万物流転の理そのものだと思う」「万物流転」 あたしには聞き慣れない言葉だったけどそれを口に出してみると十六夜が言いたいことがストンと入ってきた。続けて十六夜が、「こんな身近なところで世界の真理を知れるなんてすごいよな」まさに、それこそあたしが思っていたことだった。自分と同じように考える人がそこにいた。それはとても新鮮で特別なつながりが感じられた。「でも眺めてていいのは神様だけだ。人は万物流転とともにあるから中に入らないと」 このミニアチュア世界に入る。「それで葉っぱを」「船を浮かべて流れに棹すんだ。でないと人生の面白味がわからない」「そっか」雨にそぼ濡れた十六夜に傘を差し掛けた。「ありがと。藤野さんなら分かると思った」と満足そうにした。「あたし前園十六夜。同じクラスの。十六夜って呼んで」と右手を差し出してきたので握手かと思って右手を出した。明かりのない地下道の、緩やかに傾斜する坂の途中に電灯がそこだけ灯って白く光っている場所があった。そこが地下横断歩道が横切っている場所だと分かるまで近づいてゆくと、その角の向こうからゴツゴツいう重い靴音が聞こえてきた。それは鬼子使いのあの子の足音ではなかった。あの子はいつものようにずっと後ろをローファーの音をさせて付いてきていたからだ。誰か知らないがこんな真夜中に呪われた地下道に降りて来るなんて。ボクは壁に体を寄せ暗がりに隠れるようにして、その光の中に現れるものを待った。 神経質そうに明滅する電灯の下に現れたのは人だった。屍人ではない。ボクの衝動がそれを最初に感じ取っていた。その人はその場に少し立ち止まると、地下道の向こう側の暗闇をのぞき込む仕草をした。その後、向き直ってこちらを指さし、「いたいた」 と迷う様子も無くボクのいる方に歩いてきた。ボクは一瞬身構えたが、すぐにその人と分かってこちらから近づいて行く。(夕霧太夫!) キツく編み込んだ黒髪に、金色の瞳と透き通るような肌、口元から銀牙が覗いている。ロゴ入りの白いパーカーに革ジャンを着て、ショートのジーンズに厚底のブーツを履いた女性が、「ひさしぶり、どう?」 と両手を開きボクを迎え入れた。(元気です) 鬼子のボクの声は人にはうなり声にしか聞こえないが、夕霧太夫には通じる。 夕霧太夫。全ての鬼子の親と言われる人。初めて「あたし」から鬼子のボクが発現した時、ボクの暴走を止めてくれた人でもある。あの時、目覚めたばかりのボクはすでに理性が真っ赤な皮膜に覆われていて殺戮の衝動に支配されていた。無性に何かを屠りたくてしかたなかったのだ。そして目に付いた人に飛びかかり、その喉笛に食らいついて咬み千切らんとしたその時、夕霧太夫が現れて血のように赤い糸でボクをぐるぐる巻きにした。そしてそのまま山奥の神社に連れて行き、祭壇もなにもない社殿のほこり臭い床に転がして言った。「キミは鬼子だ。今からその衝動を抑える術を授ける。いいね」 この世に生を受けたばかりのボクにとって自分が何者かなんてどうでもよかった。とにかく屠りたい。屠って屠って屠りまくりたい。そう欲望し続けた。その時のボク
二年前のあの日、雨が降っていた。十六夜と初めて話した日だ。高校入学直後で部活も決まっていなかったから放課後はまだ冬凪と一緒に帰っていた。あたしは図書館に紙本を返しに寄っている冬凪を待って、雨降る校庭で傘を差して時間を潰していた。校庭は朝から降り続いた雨のせいで水浸しになっていて、幾筋もの雨水の流れが出来て、まるでジャングルを流れる大アマゾン川のように見えていた。あたしはその一つの流れにしゃがんで、澄んだ水の底を小さな砂礫が押し流されてゆく様子や、雨水が校庭の土を崩しながら新しい流れを作るのを眺めていた。神様の営みを小さくしたようなこの景色があたしは大好きだった。傘に落ちる雨の音を聞きながらそうしていると、目の前の流れに鮮やかな緑の葉っぱが流れてきた。「眺めてるだけじゃ、万物流転を味わえないよ」 雨の小川の上流で声がした。立ち上がってそちらを見ると傘も差さずに前園十六夜が立って雨水の流れを見つめていた。同じクラスだったけどそれまで話したことはなかった。お互い教室の反対の隅で一人でいたし、十六夜についてはヤオマンHDのお嬢という情報から勝手に近づきずらいと思っていたからだ。「地面を崩しながら水が流れる様子って万物流転の理そのものだと思う」「万物流転」 あたしには聞き慣れない言葉だったけどそれを口に出してみると十六夜が言いたいことがストンと入ってきた。続けて十六夜が、「こんな身近なところで世界の真理を知れるなんてすごいよな」まさに、それこそあたしが思っていたことだった。自分と同じように考える人がそこにいた。それはとても新鮮で特別なつながりが感じられた。「でも眺めてていいのは神様だけだ。人は万物流転とともにあるから中に入らないと」 このミニアチュア世界に入る。「それで葉っぱを」「船を浮かべて流れに棹すんだ。でないと人生の面白味がわからない」「そっか」雨にそぼ濡れた十六夜に傘を差し掛けた。「ありがと。藤野さんなら分かると思った」と満足そうにした。「あたし前園十六夜。同じクラスの。十六夜って呼んで」と右手を差し出してきたので握手かと思って右手を出した。
「ちょっと待って、あたしに考えがある」 振り向くと、石橋のアクセスポイントに十六夜が立っていた。十六夜は、いつものように明るい顔色をしていて昨日のことがうそのように軽い足取りであたしたちの元に近づいてきた。あたしはその十六夜に気の利いた言葉を掛けることが出来なかった。それが十六夜の実態を投影しているのかどうか分からなかったから。 十六夜は黒と白の砂利山の間にしゃがんで双方をしばらく見比べていて、すっくと立ち上がった。「波を描こう。白と黒の」「どういうこと?」「今まで白い玉砂利だけで波紋を作っていたけど、白黒を交互に蒔いて描くんだよ。そうすると波紋がより立体的になる」 その意見に対してゼンアミさんがすかさず、「そういった事例がありません。これを採用すれば消失した六道園の再現という意図からはずれてしまいます」 当然そう言うだろうと思った。それに対し十六夜は意外なことを口にした。「どうして言える? このデザインがなかったって。あたし見たんだ。白黒にうねる州浜を。六道園で」 そういった時、十六夜が見ていたのはあたしたちではなかった。別の次元にある理想の日本庭園にいる十六夜自身を見ているようだった。 しばらくの間、十六夜とゼンアミさんは意見を闘わせていたが、曲げそうにない十六夜にゼンアミさんが折れる形で提案した。「ならば二つの意匠のプロジェクトを残しましょう。一方は今まで通りの白い州浜の、一方は白黒の波紋のある州浜の」 十六夜は自分のアイディアが本採用されなかったことに不満があるようだったが、それを承諾した。そして、「元祖」のところで両手の指でカギ括弧を作りながら、「あたしらの『元祖』六道園には舟を浮かべよう」「舟?」「舟と言っても木の船じゃない。石舟だよ。そういうのあるよね、ゼンアミさん」「たしかにございます。ただし六道園とは時代も意匠も異なる京都の大徳寺庭園に」「どうして舟が必要なんでしょう?」 鈴風が不安そうに尋ねた。その不安の原因は突拍子も無いアイディアにというより、いつもとは全然違う十六夜の振る舞いに対してのように見えた。「
ゼンアミさんが正気にもどって本日の作業の指示をくれた。「この州浜はまだまだ砂利が薄うございます。本日は匠の御方と鈴風様は私が用意する玉砂利をここに敷き詰めていただきたい」 というと、州浜の白い玉砂利を拾い、それを指をこすって大量の砂利を州浜の上にこぼしだした。なんだ、さっきのは予行練習だったのか。そしてあたしの目の前に膝高くらいの小山が出来ると、「よろしくお願いしますよ」 と立ち去ろうとした。その時ふと思い出した。サルベージした品の中にあった黒い玉砂利のことだ。「ゼンアミさん、黒い砂利は出せる?」「はい、調達物資に那智黒があれば造作も無いことでございます」 六道園プロジェクトで用意しているデータの中に黒い玉砂利があればということだ。「試してみて」 町役場のサルベージ物資の黒砂利をヤオマンHDが必要と考えてくれていれば、調達物資の中にあるはずだった。 ゼンアミさんは着ている半纏の袖に手を入れてまさぐると、「ありましたよ」 と言って指先にダルマを潰したような黒い石をつまんで下に落とし指先をこすると、ボトボトと音をさせて白い州浜の上に黒い小山を築きだす。そして先ほどの白い玉砂利と同じ嵩までになったところで止めた。「さて匠の御方。これをどうなさいますか?」 と言われたので、「白砂利の下に埋めたらどうだろう」 ゼンアミさんはいぶかしそうに小首をかしげ、「はて、そのような資料がありましたでしょうか?」「いや、ないけども、おそらくをそういう事なんじゃないかと」 言っておきながらなんだけれど、弱すぎると思った。この六道園プロジェクトはあくまで再現だ。新しい庭を作るのではない。現状で分かっていること以外の事柄を付け加えようとするならば、必ずエビデンスを必要とした。それについては庭師AIは徹底していて、何をするのも資料の存在を第一に指摘する。それゆえ、あたしは鞠野文庫へ忘れ去られた資料を探しに行ったのだった。「おそらくと申されましても、私の預かる資料にはそのようなことはございませんので同意しかねます」「鈴風もそう思う?」
VRブースの起動が完了してロックイン・OKのサインが点いた。あたしは右の、鈴風は左のブースに入って専用ゴーグルを装着し、六道園プロジェクトにロックインする。そういえば、このロックインという言葉もゲームから来ているんだった。ゲームで岩とか壁をすりぬけてしまうコリジョン抜けというバグがあるが、その岩を抜けた向こうの世界がメタバースっぽいところから言われるようになった。諸説あり。 ロックインが完了して、アクセスポイントの石橋に立つと、早速ゼンアミさんが目の前の州浜から、「佐倉鈴風様、いらっしゃいませ。夏波、ようおこし」 と挨拶してきた。ゼンアミさんまで生徒管理AIのような態度を取るようになったと思ったが、これは冗談だとすぐ分かった。表情はシルエットなので見えないが肩が小刻みに震えていたから。「よう、ゼン。元気か?」 とやり返すと、「あれあれ、名前の一部を取られる名作アニメみたいですね。これは参りましてございます。匠の御方」 縮こまって頭を掻く仕草をした。「さてと、今日の作業は?」 ゼンアミさんに聞くと自分が立っている白い玉砂利が敷かれた州浜を差して、「お二方には、州浜の敷石作業をお手伝いいただきたく」 と言ったのち、白い小石をつまんだ手をこちらに差し出した。それを掌で受けようとしたら、ゼンアミさんが小石をあたしの掌に落として指先をこすりだした。すると、ゼンアミさんの指先からいくつもいくつも小石が出て来て、あたしの掌の上から溢れ州浜に零れ落ちだした。小石はいつまで経っても停まらないものだから、州浜には銀閣寺の向月台のような小山が出来るんじゃないかという状態になった。「ちょっと、どうするの? これ」 ゼンアミさんは、再び肩を小刻みに上下させて、「仕返しでございます。私をゼンなどと言った」 けっこう根に持つ奴だな。「ゴメンね。大殿に頂いた大切な名前だったね。阿弥姓は」「さようでございます」 それでようやくニワカ向月台は消え失せたのだった。
「VRブース、火入れますね」 鈴風が二台のVRブースの起動スイッチを入れる。吸気音とともに振動がドコドコと部室に響きだした。暖まるのを待つ間、世間話。「鈴風は夏休み、旅行とか行かないの?」 予定では、学校がお盆休みで校門が閉まっている日以外、部活に参加することになっていた。「親からは誘われましたけど行かないです。ヴァーチャルで十分ってとこないですか?」「確かに。VRツアーならほぼ行ったと同じみたいだし」 最近流行のメタバース海外旅行。まだ値段は高いけど、体験解像度はリアルと同等かそれ以上だという。「あ、違います。ヴァーチャルはヴァーチャルでもゲームのほうです。ゲーム・フィールドを旅するんです」 どういうこと?「いつもプレイしているRPGをノン・エネミーモードっていう敵が出てこないモードにして、普段は独裁者の軍勢と闘う平原だったり、魔物が住む山林だったりする場所を一人でハイキングするんです。雄大で美しくって気持ちがいいんですよ」 現在のゲーム体験のリアルさは、視覚、聴覚、触覚はもとより、臭覚や味覚までが再現されているというレベルに来ている。「リアルよりゲームのほうが体験解像度が高い。もう、そういう時代だもんね」 鈴風はVRブースの外部モニタで起動状況をチェックしながら、「でも過剰にロックインすると瀉血するようになるんですよね」 ド直球を投げてきた。十六夜のこともあるから今一番したくない話題。「どうだろうね。あたしは全然想像付かないよ」 目が泳いでませんように。「あたしのクラスの子が誕生日に親からVRブースをプレゼントされたんです」 一年生といえば、後期未成人プログラム最初の年だから、親御さんとしては娘の成長を喜んでのことだろう。あたしの同級生でもそういう子いた。他ので言えば高級車一台買い与えるようなもの。正直お金持ち過ぎて羨ましくもなかったもの。十六夜はレベチ(死語構文)。「それで、毎日制限時間いっぱいの一時間みっちりロックインし続けて、連続60日に及んだそうです」 ふんふん。「そしたら、60日目に意識喪失、入院