中割れ扉が閉まり中が暗闇になると、腕の鉄管が締め付けてきた。やがて上腕から首筋とこめかみにかけて涼しく感じ出すと同時に床が抜けた。光の筋の宇宙空間を下降してゆく。これまでと違うのは異常な心拍数だった。ドキドキなんてものじゃない。ドドドドドといった早さで心臓が鼓動していた。再び暗闇、縦に光の筋が入って中割れ扉が開き、黒まゆまゆさんに迎えられた。いつの間にか鉄管は外れて無くなっていた。
「冬凪は?」「ここだよ」 すぐ近くの茶箱にもたれかかってこっちを見ていた。顔色は少しよくなった気がしたけれど憔悴していることに変わりなさそうだった。「あたしの顔、どう?」「牙がちょっと伸びたかな」 唇をめくって触ってみると犬歯が尖って長くなったようだったけれどそれは微妙な変化だった。手の爪を見てみた。いつもよりもすこし尖っていたけれどそれほどの変化ではない。あんまり変わってない感じ?「これくらいの血じゃ平気なのかも」「そうだといいけど」 黒漆喰の土蔵の中で泥水で汚れた服を着替えさせてもらった。登山用リュックを開けると一番上に辻女の制服が二組乗せてあった。冬凪がこっそり持って来たのだ。コーデしている時間はなさそうなのでそれに着替えることにした。冬凪は自分で着替える力も残ってなかったのであたしが着替えさせてあげた。 冬凪を抱き起こして黒まゆまゆさんに挨拶をし黒漆喰の土蔵を出た。そして外の光景を見て驚いた。あたりは静寂が支配していたけれど竹林がなくなっていた。それどころか千福邸も跡形も無くなっていて、竹垣の道まで全てが見通せていた。そこに広がっているのは爆心地。遺跡調査地と同じ爆心地の光景だった。しかしそれは出来立ての真新しい爆心地なのだった。よく見ると響先生の紫キャベツが竹垣の中に突っ込んで大破していた。でもそれだけだった。調レイカも響先生もだれも見当たらなかった。バモスくんを探した。どこにも無かった。もちろん鞠野フスキもいない。辻川ひまわりを探した。爆心地にはいなかった。冬凪を白漆喰の土蔵の前に残してあたりを探した。黒漆喰の土蔵の裏手でうめき声がした。そちらに回ると血まみれの辻川ひまわりが力なく横たわっていた。片羽がもげて離れた土の上に落ちていた。「何が「ご飯食べに行くよ」クロエちゃんの号令で鬼子神社を出発した。でもご飯にありつけるのは山道を1時間以上ひたすら歩いて四ツ辻に着いてからだと言った。それを聞いただけであたしのお腹は猛烈な空腹に襲われた。だって、昨日の異端のタコライス以来何も口に入れていなかったから。来た時とは別方向にある石段を登ると、杉木立の中にまっすぐな石畳の道があった。それは正式な参道らしく杉木立のトンネルが切れるあたりに朱に塗られた3本足の鳥居が見えていた。「気をつけて。すべるから」クロエちゃんが言ってくれたのに、早速こけたのはあたしだった。敷き詰められたゴロタ石全てが苔むして緑色をしていた。尻もちはつかなかったけれど、手をついた時に手首を捻ったらしく、それからずっとズキズキと痛み、それを耐えながらの山道になってしまった。途中、クロエちゃんが、「休もう」と丸太のベンチに腰掛けた。そこは休憩所兼見晴し台で眼下に明るい景色が広がっていた。遠くに霞んで見えるのはおそらく辻沢の街並みなんだろう。「あれって青墓の杜だよね」西山の裾野に近い所から黒々とした森が広がっていた。真ん中あたりに小高い丘がハゲ頭を出していて、それが青墓で一番高い亀山だとクロエちゃんは教えてくれた。それから北の端の辺りはヒイラギ林でその根の下は流砂地帯なのだそう。なんでそんなに詳しいのかと聞いたら、学生の頃ユウと一緒にスレイヤー・Rというバトルゲームに参戦したからだと言った。「スレイヤー・Rって、あの?」「逆に夏波は知ってるの?」知ってるも何もプレイヤーに襲われた。でもそのこと、クロエちゃんが知ってる範囲なのかどうかわからなかったから、冬凪に目線を送る。冬凪は小さく首を振ったので、「町誌を読んだら出てた」と苦しい言い訳をした。「そんなことまで書いてあるんだ。顕示欲お化けの元辻川町長だな、それ作ったの」なんとか誤魔化せたけど、後でどこまで言っていいかとか冬凪と擦り合わせしようと思った。再び山道を歩き出したけれど、お腹が空き過ぎて歩けなくなった。するとあたりの草陰から例の音がし始めた。下草を掻き分け踏み分けて付き従う音。ヒダルが森の中
クロエちゃんとあたしは冬凪の手を借りて船底のような所から出て、さらに階段を上って空祭壇の間に戻ってきた。「山の上はさすがに寒いね」クロエちゃんは奥の暗闇からブルーシートを引き摺って来ると空祭壇に寄りかかって座った。クロエちゃんを真ん中に冬凪とあたしを左右に座らせて、「これでしのげるといいけど」ブルーシートをかけた。それを掛けてすぐには暖かくならなかったけれど、クロエちゃんにくっついているだけでポカポカした。そのうち皆んなの体温で中もら温かくなって来た。そうなると隙間が気になってしまい、こっちのを無くそうとすると、あっちが開いてしまい、あっちを閉めるとこっちがってなって、冬凪とあたしとの争奪戦がしばらく続いたあとどちらからと言うこともなく急に止んだ。社殿の中に沈黙が広がる。ブルーシートについていた砂埃がサラサラと音を立てて板間に落ちる音がやけに大きく聞こえた。それからクロエちゃんが色んなことを話して聞かせてくれた。それは、どうしてここの地下が船底のようになっているかとか、どうやって地獄に行ったかとか、そこで何をしたかとか、戻って来方とかの話しだった。それを子守唄のようにうとうとしながら聞いているうちに寝てしまったようだった。「おはよう。よく寝られた?」ブルーシートの外にいるクロエちゃんが膝と手をついてあたしの顔をのぞいていた。いつから見ていたんだろう。「夢も見なかった」床に横たわってブルーシートを掛けられているのはあたしだけだった。冬凪は?「外に顔洗いに行ったよ」顔をあげて出入り口の襖を見ると外はもう明るかった。「何時?」「6時過ぎたところ」わりと早起き。「顔洗っておいで。外に手水舎あるから」ブルーシートを避けて起き上がり、簡単に畳んでから外に出た。空は雲ひとつない晴天だったけれど、お日様はまだみえていなかった。それはここが急な斜面の底にある神社だからだ。目の前の3本足の鳥居、石畳の参道。その脇に小さな手水舎。そこで冬凪が目をつぶって腰にぶら下げたタオルを取ろうとしていた。階を降りていって、「おはよ」「おはよ」冬凪は顔を拭きながら答えた
床に突き立てた棒を傾けるとメリメリと音がして一畳ほどの面積の床板が浮いた。「手伝ってくれる?」 その浮いた床板の隙間に棒を差し入れて持ち上げると床下の暗闇に向って木の階段が伸びていた。「ロウソク取って来て」ロウソクを手にしたクロエちゃんを先頭に階段を降りてゆくと、そこにも板敷きの広い空間があった。微かに木の匂いがしている。どこかで嗅いだことのある匂いのような気がしたけれど、埃くささが勝って思い出せなかった。クロエちゃんは板をきしませながらさらに奥の暗がりへと進んでいく。そして半畳ほどの四角い枠がある場所に立つと、「これ持ち上げられる? 前の時はみんなで持ち上げたけどあの時は大勢いたからな」 そこは太い木で出来た格子になっていた。すると冬凪がその格子を掴んで腰を落とすと、「せい!」 一度で外してしまったのだった。「すっご!」 その下も空間があった。クロエちゃんが、「ごめん、冬凪はここにいて。一人で登れる高さじゃないから」 クロエちゃんが暗闇の中に飛び降りて、「真下に降りてね。結構いろいろ出てるから」あたしも用心して続いた。下の空間に降りて、リング端末を照らした。あたしはその照らし出された光景を見て震えた。そこは沢山の木の板が整然と並んだところに太い木材が中央を貫いていて床が婉曲していた。それはあたしの一番古い記憶にある、あの船底そのままだった。あの端の板の壁にユウさんがあたしを抱いて座っていたんだ。そうだ。やっぱりあれは妄想なんかじゃなかったんだ。「覚えてないと思うけど」 クロエちゃんが言った。「夏波はここで生まれたんだよ。ユウの胸に抱かれて、かわいい赤ちゃんだった」 やっぱりあたしはユウさんの子だったんだ。鬼子は子を生さないっていうらしいけど、あたしは特別だったんだ。「でもユウが産んだんじゃない」あたしは口から出そうになっていた言葉を呑み込んだ。それは「お母さん」という言葉だった。「ユウとフジミユとマヒとアレクセイ、それとあたしが連れ帰ったんだよ」 連れ帰った? あたしを?「
クロエちゃんが言う。「それまでユウの中で押さえられていた鬼子がミヤミユに乗り移ったようだったって」 それを受けて冬凪が、「夕霧太夫は最後の闘いの時まだ動ける状態じゃなかった。だからエニシで繋がった鬼子使いの伊左衛門に自分の鬼子を託して闘った」 クロエちゃんは、あたしの前髪をかき分けながら、「夏波もきっと、託されたんじゃないかな」 いったい誰の? あたしは誰ともエニシの赤い糸で繋がっていない。咬み千切ってしまったから。 すると、冬凪があたしの左手を取って、「あたしには夏波の赤い糸が見えるよ。ほら自分の目で見てみなよ」 あたしは目の高さに掲げられた自分の左の薬指を見た。その根元には赤い糸が結んであるのがうっすらと見えた。そしてその糸の先を目で追うと社殿の暗闇の中に人の形が見えた。「十六夜?」 ここではない別の次元にいるらしい十六夜がこっちを見て微笑んでいた。その右手の薬指とあたしの左手の薬指が赤い糸で繋がっていた。「でも、十六夜のエニシの糸は冬凪に繋がってるって」 誰かがそう言ってなかったっけ? クロエちゃんがかなり無理した真剣な表情で、「この世界が不安定になるとき特別な鬼子が生まれる。その子たちは力を合わせてその問題を解決するようにエニシに仕向けられる。その目印としてその子たちは両手に赤い糸が付いている」 あたしの目の前に両手を差し出して見せて、薬指同士で「こことここ」と指した。「ユウの代、フジミユやミヤミユ、それにあたしが大学生だった20年前、あの世とこの世がひっつくような次元の歪みが生じた。今再び同じようなことが起こりつつあって、夏波たちはエニシにそれを解決するよう仕向けられた特別な子たちなんだと思う」 いきなり世界があたしの肩に乗っかってきた。とんでもなく迷惑な話だけれど、きっと十六夜なら「流れに棹させ」と言うだろう。そしてそのことがきっと十六夜の解放に繋がる、そう信じて進むしかないのだろうと思った。 クロエちゃんは言わなければいけないことを話した反動で黙ってしまった。クロエちゃんたちが経験した「あの世とこの世がひっつくような次元の歪み」につ
夕霧物語の額絵を見た後、クロエちゃんが聞いて来た。「夏波はどっちの記憶を持ってる?」 どっちとはよ。冬凪を見ると、「夕霧太夫の記憶か伊左衛門の記憶か。どっちの視点で記憶してるかっていう意味だよ」 それなら、多分伊左衛門のほうだと思う。記憶の中のあたしはずっと夕霧太夫に寄り添っていたから。「伊左衛門かな」「やっぱりね」 クロエちゃんはあたしが鬼子として発現したことに違和感を抱いていたのだという。あたしが生まれ変わりのコミヤミユウという人が鬼子使いということもそうだけれど、最初の発現が遅すぎるのが引っかかったのだそう。「普通はもっと小さい時にやっちゃう。ユウもあたしも小学生だった。ユウは児童公園であたしは教室で発現してしまった」 その時何が起きたかは言いたくなさそうだった。「やっちゃう、してしまった」という言い方にそれを感じた。あたしの場合、駅前でスレイヤーの皆さんに囲まれた時、もし冬凪に止めて貰わなかったら、あの人たちを皆殺しにしてたかも知れなかった。つまり人の中で発現するとはそういうことのよう。「フジミユやあたしたちも、伊左衛門が鬼子で夕霧太夫が鬼子使いなのかと思っていた時期があった。最後の死闘を闘ったのが伊左衛門だったからね」 けれど最近になってそれは逆だと気がついた。「ユウがエニシの不思議な力のことを教えてくれた」 クロエちゃんが辻沢ではじめてユウさんと出会った頃、ユウさんは潮時での発現を克服しようとしていた。エニシの力を借りるためコミヤミユウに一晩中手を繋いでもらうことを考えついて、ある潮時にそれを実行した。潮時に発現しないということは、襲い来る屍人や蛭人間、ヒダルを生身の人間のまま迎え撃たねばならないから相当苦戦すると覚悟した上のことだった。けれど、ユウさんはそれ以上の危機に直面する。その晩は何故かいつもの屍人や蛭人間、ヒダルは現れなかった。その代わり赤い襦袢や青い半纏を身につけた、灰色の肌、金色の瞳に銀牙が口から飛び出し鎌のような爪を振りかざした、まるで夕霧物語から出てきたような恐ろしく強いひだるさまが大挙して襲ってきたのだった。ユウさんは苦戦しつつも何とかしのいでいたけれど、やはり生身の人間で
「最初の額絵は夕霧太夫がいた阿波の鳴門屋の場面だよ」クロエちゃんが説明してくれた。夕霧太夫は阿波の鳴門屋という街道一の楼閣でとても人気があった遊女だったそうだ。そして一番近くにいるかわいらしい禿さんが伊左衛門で、この二人のつながりが鬼子の最初のエニシだと言った。「次のは鳴門屋が炎上した時の場面」 隣の額絵は阿波の鳴門屋が炎に包まれ、夕霧太夫が火中でもだえ苦しんでる様が描かれてある。すでに体は赤く焼けただれ、まるで火炎地獄で責めさいなまれる亡者のよう。「次のは伊左衛門が、鳴門屋が焼亡したあとの瓦礫の山の中から夕霧太夫を引き出す場面」焼け落ちた瓦礫の山から黒々とした異形の者が引き出される様子が描かれてあった。夕霧太夫は真っ黒な消し炭のような状態になっても生きていたのだそうだ。「その横のが三人のアラビア人と伊左衛門が再会する場面」ここに再び豆蔵くんと定吉くんとブクロ親方が登場する。そして旅姿の遊行上人(この人だけ説明付)が何かを指ししめていた。「遊行上人が夕霧太夫を青墓にあるブルーポンドに連れて行けと言ってる」ブルーポンド? それだけなんでカタカナ?「それでその次のが、黒焦げの夕霧太夫を幟旗の付いた土車に乗せて、伊左衛門と三人の異国の人たちが街道を運んでゆく場面」 道中の様子が描かれている中、暗い山道の箇所で夥しい数の怪物に一行が襲われていた。「これはひだるさまというヒダルとはレベチの強敵。あのユウでさえ手を焼いてた。あたしたちは地獄の獄卒って言ってた」婉曲した刀、シャムシールを振り回して先頭で交戦しているのは大男の豆蔵くんや定吉くんとブクロ親方だ。けれども相当苦戦しているのが分かった。伊左衛門などは片足を切り落とされてしまっている。「その次は、青墓の杜の近くの六地蔵の前で三人の異国の人たちと伊左衛門が握り飯を分けあっている場面」 この先に危険が迫っていることを知っている伊左衛門はここで豆蔵くんたちに別れを告げるけれど、豆蔵くんたちはそれを聴き入れず最後まで夕霧太夫に付き従うと言っているのだそう。「その次の場面は、青墓の杜でこれまでにない数のひだるさまに襲われた一行の激戦の雄姿