部活動棟の廊下は寒かった、それが奥に行けば行くほど酷くなった。
突き当たりの園芸部のドアなどは全面に霜がついていて、凍りついているかと思うほどだった。
「鈴風!」
ドアを激しくノックしたけど返事はない。
けれどこんな状況に巻き込みたくないからいないほうがかえってよかった。
すぐ後ろに蓑笠連中が迫っている。
ドアノブにリング端末をかざす。
一瞬反応が遅く感じたのはノブが凍りついたからかと思ったけれどそうではなかった。
不快な警告音のあと生徒管理AIの声で、
「緊急ロック中。解除用パスワードが必要です」
それ、十六夜しか知らんやつ。
「あたし! 藤野夏波! 開けて!」
「緊急ロック時用のパスワードが必要です」
普段馴れ馴れしいのにこんな時だけAIかよ。
「夏波だっての! 開けろ! クソAIが!」
沈黙。
いきなり真っ暗になった。
すぐにドア上の警戒灯が視界を赤く染める。嫌な感じがして振り向くと、どっから湧いたんだってくらいの蓑笠連中がひしめき合って隙間がなくなり光を遮断したのだった。
その何十という蓑笠と生首の濁った目であたしのことを舐め尽くそうとしている。
やがて蓑笠の中から生首がヌルヌルと首を伸ばし大口開けて迫って来た。
よだれが顔にかかるというところまで来た。
目を固く閉じて身構える。かぶりつかれる感覚を思い出して震える。
なぶるつもりか、なかなか噛みついてこない。
うっすらと目を開けると、さっきまでジト見していた全ての生首が後ろを振り向いたまま動きを止めていた。
後方で何かが起きていた。
その何かに反応して蓑笠連中の結束が崩れた。隙間ができて向こうの光景が飛び込んできた。
「豆蔵くん! 定吉くん!」
二人がシャムシールで蓑笠連中を薙ぎ倒す勇ましい姿が見えたのだった。
あたしも何とかしなくちゃと思った。
瀉血だ。
瀉血して鬼子になろ
冬凪が伊左衛門を膝に抱いて助手席に、鈴風とあたしが後部座席に座った。荷台に豆蔵くんと定吉くんが乗るのかと思ったけれど到底無理で、ブクロ親方は豆蔵くんに1万円札を渡して、分からない言葉で指示を出した。そのまま二人はタクシー乗り場に行った。バモスくんが発車すると同時に、「全速力で行きましょう」 と鞠野フスキの声がしたのでびっくりした。それは鞠野フスキでなく伊左衛門が鞠野フスキの声真似をしたのだった。そういえば鞠野文庫でも喉に指を当てて見事に真似てみせていた。 家に着いて玄関でクロエちゃんが出迎えてくれた。第一声は、「え、伊左衛門なの? あなた小さくなったのね」 だった。やっぱりだ。あたしの深層記憶に息づく伊左衛門は、もう少し大きかった気がしていたのだ。こんな小さなお稚児さんが、あの過酷な道行を夕霧太夫を守って全うできるものかなと思っていた。「あの時は夏波たちと同い年だったけれど、昔だから成長が」 それが言い訳なのは明らかだった。問い詰めると、「色々と都合がいい」 だそうだ。そりゃあ、こんなに可愛ければ、満員電車でお姉さんたちに守ってもらえるし、車に乗ったら冬凪のお膝にも座れるしな!みんなで順番にお風呂に入ることになったけれど、豆蔵くんと定吉くんは外の水道で水浴びするからいいと断って出て行った。それで最初に伊左衛門に入って貰おうとしたら、シャワーの使い方が分からないから誰かと一緒に入りたいと言い出した。それで冬凪が手を挙げたけれど、何故だかクロエちゃんがそれを制止した。「ダメだよ。伊左衛門はあたしが入れるから」まるでワンコのお風呂支度のようにTシャツと短パンに着替えて来ると伊左衛門を連れてお風呂場に行った。鈴風、冬凪が入っている間にお夕飯の下準備をして、最後にあたしがお風呂を使った。シャワーで頭を洗っていると、光の球に囚われた十六夜の姿がフラッシュバックして来た。辻沢のパニックで気を紛らわせ
今気づいたが、鈴風が隣に並んでいた。その口まわりは元どおになっていて、いつものマジメ顔の可愛い鈴風だった。「鈴風はどうするの?」 鈴風は古来より志野婦に仕えるクチナシ衆だとVRルームで白状した。ならばその集団の住処なりアジトなり居場所はあるのだろう。「私はみなさんと一緒にいたいです」 まるで家出少女のように不安げだった。「なら、うちにおいでよ」 冬凪が言った。簡単に誘ったみたいだけれどそうではない。連れて来るなら家族にするつもりでというミユキ母さんが決めた藤野家ルールがあるから、冬凪の誘いは、鈴風を藤野家の一員にするという意志を含んでのことなのだった。「いいんですか?」 そのことは鈴風は分かっていないけど、うれしそうに冬凪とあたしの両方を見ながら言った。「「いいよ」」 もちろんあたしも異論はない。でもミユキ母さんが不在の今、勝手に家族増やしていいものだろうか?クロエちゃんはずいぶん前に決定権を放棄しているし。 二本やり過ごしてやっと乗れた汽車の混みようは地獄絵図だった。豆蔵くんが人の波に押されて天井に顔を擦りつけていた。定吉くんは座席の下に潜り込んでしまってN市駅に着くまで行方知れずだった。冬凪と鈴風とあたしは腕を組んで輪を作り、伊左衛門を真ん中に入れて押しつぶされないようずっと踏ん張っていた。 N市の宮木野線ホームは、人が線路に押し出されて落ちるほどだった。そこからの陸橋は歩くというより押し流される感じで、やっと改札を出た時には右の半袖がちぎれて肘まで落ちていた。「みんないる?」 改札正面の自販機の脇に集まって点呼を採る。まず伊左衛門を確認。鈴風、いる。冬凪はあたしの横。豆蔵くんと定吉くんは仲良く自動改札に引っ掛かっていたけれど、無事みたいだった。 N市駅前で迎えの車が来るのを待った。辻沢駅でクロエちゃんに迎えに来てと頼んでいたのだった。「あたし免許ないから、誰か
トラギク自演乙(死語構文)映画が終わって体育館から出ると外は異様な風景だった。色褪せた世界は一変してリアルに戻っていた。たくさんの部活女子が行き場を失い校内を彷徨っている。夕暮れが近づく校舎の窓が全て破砕して無くなっていた。風にあおられたカーテンが狂ったようにはためいている。まるで世界の終末が訪れたかのようだった。 あたしはすぐにでも家に帰りたくなった。伊左衛門に辻女のVRブースから家に帰れないか聞くと、「VRゴーグルには飛べない」 と言われたのでバス停に向かうことにした。ところが辻バスが動いていなかったので、みんなで辻沢駅まで歩くことになった。 高台に聳え立ち、辻沢のシンボルだったヤオマン屋敷が爆発消失したということで、辻沢の街は人と車が道々に溢れとんでもない騒ぎになっていた。上空には早くもヘリが飛び交い、リング端末では、「特報 ヤオマンHD前園会長邸爆発 安否不明」 というニュースタイトルで上空からの爆心地の映像を見ることが出来た。それによると、元廓の旧爆心地に被る形で新たな巨大円が赤い土をむき出しにしていて、そこにあった豪華な建物いっさいが跡形もなく消え去っていた。辛うじて残っているのは裏道沿いの壁の一部だけ。これでは屋内にいた人は誰一人助からなかったに違いない。前園日香里や高倉さん、ホムンクルスの調由香里、もしかしたら響先生まで。あたしたちが十六夜をトラギクの六道衆から取り戻せなかったならば、ヤオマンHD創業家は消滅ということになる。 ひっきりなしにサイレンが鳴っている。街並みを歩きながら爆発の威力の凄まじさに驚きが止まらない。膨大なエネルギーで傾いてしまった家、そうでない家も窓ガラスがほとんど割れてしまっている。それが駅前通り近くまで累々とあった。どこからか焦げ臭いにおいも漂って来ていて、志野婦神社の麓あたりに救急車両が集まっているのが見えた。 いつもなら20分もかからない道
冬凪は体育館の中に入って見回した。みんなもそれに続いて中に入り忽然と消えた蓑笠連中が隠れていないか確かめるかのようにあちらこちらを見て回った。蓑笠連中が消えてしまった。トラギクなど姿も見ていない。そういえばエンピマンはどうなっただろう。あの時は鈴風奪還ばかり頭にあったから逃げた後まで考えが及ばなかった。あれで諦めるような輩ではないだろう。いや、待って。あいつ鈴風を人質に取って何がしたかったの? わざわざ正体まで晒して。こっちは時間稼ぎでそれに付き合ったけれど、実はあっちもそうだったんじゃ?何のために?あたしたちの気を引くため?何かからあたしたちの目を逸らせるため?トラギクがしようとしてることから?トラギクがここに来てるとすると何しに?ここではなくてこの時代に何をしに来たのか?胸のうちのザワザワが止まらなかった。その時、スルスルと舞台のスクリーンが降りてきた。そして全ての遮光カーテンが締まって体育館の中が真っ暗になった。
蓑笠連中の海を歩き出すとやっぱりそうなった。あたしが結界の中に収まっていると向こうは刺激を嫌って場所を開ける。少しでもそれがずれてあたしの体が晒されると、すぐ直近の蓑笠連中が気がづいて蓑の中から生首を出して食らいつこうとする。あたしはその生首から他に伝染する前に足を止めて結界が自分を包み込むのを待つ。生首は噛みついても結界にあたしが収まれば弾かれたように蓑の中に戻ってゆく。結界は前だけでなく後ろにズレたりするし、形にしても完全な球体ではないから出っ張った所、頭のてっぺんやら肩やらふくらはぎやら、おしりが出てしまい何回噛みつかれたか知れなかった。それでもなんとか進んで行って、体育館の入り口に着いた時には、生首がつけたヨダレで体中がデロデロだった。振り返るとはるか後方で豆蔵くんと定吉くんが蓑笠連中を追い立てているのが見えた。陽に照らされてキラキラと輝いて見えているのはシャムシールだろう。蓑笠連中はその勢いに押されて、こっちにどんどん寄せてくる。あたしはそこで囮になるのを待つ。タイミングが来たらあたしを取り巻く結界が解けて蓑笠連中の目の前に晒される。冬凪からの指示は、「蓑笠連中を引き連れて体育館の中に入ったら二階のテラスで待って」だった。二階のテラスに行くには蓑笠連中に追いつかれないようにコートを駆け抜けて舞台横の用具室内のハシゴに取り付く。もし用具室の扉に鍵が掛かっていたら。そう思ったけれど、あそこの鍵はずっと前からぶっ壊れてるから大丈夫。頭の中で何パターンもシミュレーションしてみて、8割方成功の見込みがあった。蓑笠連中のうねりが体育館に押し寄せてきた。いよいよその時が迫る。体育館前の階段の縁まで蓑笠連中が上がってきたとき、目の前がすっと晴れ渡った。最初何が起こったかと思ったけれどそれは予定通りで、結界が解けただけだった。するとすぐ手前にいた蓑笠の簔の中から生首が一気に4つ飛び出して肉薄してきた。それをきっかけに前列
豆蔵くんと定吉くんを先頭に、あたし、冬凪、鈴風、伊左衛門と隊形を作ってVRルームを出た。授業棟のいつも使っている階段を下り生徒用玄関までは結界のおかげで何事もなく来れた。そこからは校庭が見渡せるはずなのに、目に入るのは薄汚れた枯れ草色の蓑笠連中ばかりだった。連中は笠の破れから覗く黄色く濁った瞳だけをギョロギョロと動かすばかりでひと所でじっとしている。それは手をこまねいていると言うのではなく誰かの命令を待っているかのようだった。「慎重に行こう」 伊左衛門が言いたいことはあたしにも分かった。20年前の辻沢で、冬凪とあたしが光の球を追って志野婦神社に行った時と同じだったから。いつもならすぐに生首を飛ばして襲ってくるのに、志野婦神社の境内に溢れていた蓑笠連中は今のようにじっとして動かなかった。「トラギクがいそう」 すると冬凪が、「織り込み済み」 とはっきり言った。その瞳は確かな意志を湛えて前をまっすぐ見ていた。あたしはそれで安心して囮になれると思った。 にしてもこの溢れかえる蓑笠連中の前に出なければ囮の意味がない。体育館はその向こうにあるからだ。 冬凪が蓑笠連中の海を睨みつけて言った。「伊左衛門。張った後の結界って動かせるよね」「できるよ」これまでも伊左衛門は結界を自在に操って見せてくれた。それくらい簡単にできそうだけれど冬凪は何をするつもりなのか?「なら、夏波だけを結界で包んでそのまま移動させてくれる?」 それで体育館に向かえばこの泥縄色の海を渡れる。のか? 「やって」 あたしは豆蔵くんと定吉くんの前に進み出た。伊左衛門が印を結ぶと、あたしの周りが急激に寒くなって視界が白い霧に覆われたようになった。範囲が狭くなった分、寒さも強くなったらしく遮光カーテン持ってくればよかったと思ったくらいだった。今更だし寒いのはがまんするときめて動き出すのを待