「小野ジーだ」(小声)
と向こうに聞こえないように冬凪に言うと、しばらく考えてから、
「ありだね」
と言った。
小野ジー。受け持ちは古典。
授業中いっさい喋らず、あの黒いノートを手にひたすら黒板モニターを文字で埋め尽くすところから、板書魔王の二つ名を持つ教師だ。
ただ、内容は毎年同じなので、その板書を写した画像がVR空間に流出していて、生徒はそれをダウンロードしてテストに備えればよく、なんならテストの内容も毎回一緒。つまり授業やる意味のない教師なのだった。
当然印象も薄いし、授業中もずっと
影の薄い先生に限って生徒が覚えているか気にするらしい。
そしてエンピマンは女子高生ばかり襲うシリアルキラーだ。
小野ジーは宮木野沿線の女子高を正職にならずに非常勤講師のまま転々としてきたと聞いたことがあった。
そのことはきっと犠牲となった女子高生に近づくのに好都合だったのじゃないか。
つまり全て顔見知りの犯行だったということだ。
「分かったよ。あんたの正体は……」
と言いかけた瞬間、モニターが真っ白になって向こうの様子が見えなくなった。
そして、
「ううっ!」
女生徒確保! という豆蔵くんの声がモニターから聞こえてきた。続いて、
「うんう」
敵逃亡。と言ったのは定吉くんだった。
「何が起きたの?」
冬凪に聞くと、
「みんなに部活動棟に行ってもらった」
VRルームはいつの間にか冬凪とあたしだけになっていた。
あたしがエンピマンとやりとりしている間に、伊左衛門に頼んで、豆蔵くんと定吉くんと一緒に園芸部のVRブースに飛んで貰った。
そして廊下の結界をゲーム部の前まで広げて待機し、頃合いを見計らって突入。鈴風を奪還したのだった。
しばらくし待っていると、近くの二台のVRブースから排気音がした。
中の空気が揺らいだ後、一台
冬凪は体育館の中に入って見回した。みんなもそれに続いて中に入り忽然と消えた蓑笠連中が隠れていないか確かめるかのようにあちらこちらを見て回った。蓑笠連中が消えてしまった。トラギクなど姿も見ていない。そういえばエンピマンはどうなっただろう。あの時は鈴風奪還ばかり頭にあったから逃げた後まで考えが及ばなかった。あれで諦めるような輩ではないだろう。いや、待って。あいつ鈴風を人質に取って何がしたかったの? わざわざ正体まで晒して。こっちは時間稼ぎでそれに付き合ったけれど、実はあっちもそうだったんじゃ?何のために?あたしたちの気を引くため?何かからあたしたちの目を逸らせるため?トラギクがしようとしてることから?トラギクがここに来てるとすると何しに?ここではなくてこの時代に何をしに来たのか?胸のうちのザワザワが止まらなかった。その時、スルスルと舞台のスクリーンが降りてきた。そして全ての遮光カーテンが締まって体育館の中が真っ暗になった。
蓑笠連中の海を歩き出すとやっぱりそうなった。あたしが結界の中に収まっていると向こうは刺激を嫌って場所を開ける。少しでもそれがずれてあたしの体が晒されると、すぐ直近の蓑笠連中が気がづいて蓑の中から生首を出して食らいつこうとする。あたしはその生首から他に伝染する前に足を止めて結界が自分を包み込むのを待つ。生首は噛みついても結界にあたしが収まれば弾かれたように蓑の中に戻ってゆく。結界は前だけでなく後ろにズレたりするし、形にしても完全な球体ではないから出っ張った所、頭のてっぺんやら肩やらふくらはぎやら、おしりが出てしまい何回噛みつかれたか知れなかった。それでもなんとか進んで行って、体育館の入り口に着いた時には、生首がつけたヨダレで体中がデロデロだった。振り返るとはるか後方で豆蔵くんと定吉くんが蓑笠連中を追い立てているのが見えた。陽に照らされてキラキラと輝いて見えているのはシャムシールだろう。蓑笠連中はその勢いに押されて、こっちにどんどん寄せてくる。あたしはそこで囮になるのを待つ。タイミングが来たらあたしを取り巻く結界が解けて蓑笠連中の目の前に晒される。冬凪からの指示は、「蓑笠連中を引き連れて体育館の中に入ったら二階のテラスで待って」だった。二階のテラスに行くには蓑笠連中に追いつかれないようにコートを駆け抜けて舞台横の用具室内のハシゴに取り付く。もし用具室の扉に鍵が掛かっていたら。そう思ったけれど、あそこの鍵はずっと前からぶっ壊れてるから大丈夫。頭の中で何パターンもシミュレーションしてみて、8割方成功の見込みがあった。蓑笠連中のうねりが体育館に押し寄せてきた。いよいよその時が迫る。体育館前の階段の縁まで蓑笠連中が上がってきたとき、目の前がすっと晴れ渡った。最初何が起こったかと思ったけれどそれは予定通りで、結界が解けただけだった。するとすぐ手前にいた蓑笠の簔の中から生首が一気に4つ飛び出して肉薄してきた。それをきっかけに前列
豆蔵くんと定吉くんを先頭に、あたし、冬凪、鈴風、伊左衛門と隊形を作ってVRルームを出た。授業棟のいつも使っている階段を下り生徒用玄関までは結界のおかげで何事もなく来れた。そこからは校庭が見渡せるはずなのに、目に入るのは薄汚れた枯れ草色の蓑笠連中ばかりだった。連中は笠の破れから覗く黄色く濁った瞳だけをギョロギョロと動かすばかりでひと所でじっとしている。それは手をこまねいていると言うのではなく誰かの命令を待っているかのようだった。「慎重に行こう」 伊左衛門が言いたいことはあたしにも分かった。20年前の辻沢で、冬凪とあたしが光の球を追って志野婦神社に行った時と同じだったから。いつもならすぐに生首を飛ばして襲ってくるのに、志野婦神社の境内に溢れていた蓑笠連中は今のようにじっとして動かなかった。「トラギクがいそう」 すると冬凪が、「織り込み済み」 とはっきり言った。その瞳は確かな意志を湛えて前をまっすぐ見ていた。あたしはそれで安心して囮になれると思った。 にしてもこの溢れかえる蓑笠連中の前に出なければ囮の意味がない。体育館はその向こうにあるからだ。 冬凪が蓑笠連中の海を睨みつけて言った。「伊左衛門。張った後の結界って動かせるよね」「できるよ」これまでも伊左衛門は結界を自在に操って見せてくれた。それくらい簡単にできそうだけれど冬凪は何をするつもりなのか?「なら、夏波だけを結界で包んでそのまま移動させてくれる?」 それで体育館に向かえばこの泥縄色の海を渡れる。のか? 「やって」 あたしは豆蔵くんと定吉くんの前に進み出た。伊左衛門が印を結ぶと、あたしの周りが急激に寒くなって視界が白い霧に覆われたようになった。範囲が狭くなった分、寒さも強くなったらしく遮光カーテン持ってくればよかったと思ったくらいだった。今更だし寒いのはがまんするときめて動き出すのを待
本当のところ、十六夜はどう思っているんだろう? 左の薬指に耳を当ててみる。微かだけれど十六夜の息遣いが聞こえて来る。やっぱりそれは、とても心安らかでゆったりとしたものだった。「十六夜は望んで志野婦を孕んだ」冬凪を見ると肯いたけれど同時に戸惑っているようにも見えた。それはあたしも全く同じ気持ちだった。 あたしが十六夜のあの姿を初めて見た時、気が動転して高倉さんに早く解放してあげてと頼んだ。でも十六夜が望んでやっていることだからダメだと断られた。それは自分は犠牲になっても他の鬼子を助けるためだったはず。でも今の話では十六夜は志野婦を復活させるつもりだったということになる。あのメッセージはなんだったんだろう。どっちが十六夜の本心なんだろう。世間の女同士の友情がそれでおかしくなることがあるように、エニシの赤い糸で繋がれた十六夜とあたしの関係も、恋には勝てなかったということなんだろうか?いや。500年志野婦に仕えてきたクチナシ衆である鈴風にしてみれば、志野婦を守るためには何でも言うだろうことを忘れてはいけない。やっぱりこのまま、はいそうですかと引き下がる訳にはいかない。ここが終わったらすぐにでも十六夜に会いに行こう。行ってちゃんと十六夜の近くで確かめよう。そう思ったのだった。「さて、最後の仕上げをしなくちゃね」 話が一段落したところで伊左衛門が言った。「鈴風さんも協力してもらおうか」 冬凪の作戦は、伊左衛門の結界を広げて行って蓑笠連中を体育館に集約させるというものだった。今のところの進捗は、授業棟、教務棟、図書館棟、部活動棟の建物全体に結界を張って、辻女にあふれていた蓑笠連中を建物から外に追い出したところまで来た。次はそいつらを体育館に押し込める。「で、囮になってもらうのが」 伊左衛門が鈴風のことを見た。鈴風はすでに諦めの境地でうなだれたままだ。「あんたは逃げるから、あたしと一緒にいてもらう。夏波でよかったね」 伊左衛門はあたしに向って微笑んだ。なんか可愛いんですけど。「うん。あたし目一杯惹きつけるから」 そして豆蔵くんと定吉くんとを見上げ、「また頑張って闘ってくれるね」「「う」」 二人からは勿論という返事があった。「冬凪はあたしと一緒に」 冬凪は肯くと、「じゃあ、蓑笠連中掃討作戦、再決行します!」
「それは、十六夜を妊娠させようとして?」鈴風は肩を震わせながらうなづいた。「志野婦様は六道衆に囚われの身になってしまいました」クチナシ衆は妖術使いの六道衆に勝てなかった。トラギクの力は圧倒的だったのだ。「辻沢最凶のヴァンパイアを人柱にできるほどだからね」伊左衛門が付け足した。「それでわたしどもは志野婦様を借り移すことを考えました」 借り移すとは志野婦に魅了された女の腹に胎児として生まれ変わらせることだった。そしてそれは普通の人よりもヴァンパイアに近しい鬼子の方が上手く行くのだそう。「それで十六夜を? なんで他の鬼子でなかったの?」「他の鬼子でも試しましたが孕んでもしばらくすると、死んでしまう」 鈴風は最後の言葉をすごく言いにくそうに口にした。だから答えは分かったけれどあえて鈴風に聞いた。「母親と子供のどっちが?」 鈴風はその時も俯いたままで、「母親の方が」と力なく応えた。クチナシ衆は志野婦を復活させるために鬼子を犠牲にして来たのだった。それはとても許せることではないけれど、それよりも何で十六夜が鬼子だと分かったのかが知りたかった。あたしでさえ、ついこの間知ったばかりなのに。「それは響先生のお仕事をお手伝いして、ヤオマン屋敷に出入りしていたからでした」 響先生のお仕事とは浄血騒動や瀉血の流行に紛れて女子の生き血を集めることだと言った。それは十六夜が残したメッセージで語られたママの悪事の一つだ。それに鈴風も加担していたのだった。「響先生と前園会長が話をしているのを立ち聞きして十六夜さんが鬼子であることを知りました。しかも十六夜さんは夕霧太夫と近しいと聞いて、志野婦様の母君にうってつけと思ったのです」「それで無力な十六夜に術をかけた」と言うと鈴風は、その時だけは顔を上げてあたしを見ながら、「それは違います。志野婦様を受け入れることを望んだのは
鈴風は口がないのに、何でこんなことになったかを話した。 冬凪とあたしが辻女前でバスを降りたころ鈴風は園芸部にいた。VRブースの火を落として帰り支度をしていると室温が急激に下がりだしたのでたまらなくなって急いで外に出た。そこにエンピマンがいて捕まってしまった。普段ならそんなヘマはしないのだけれど体が言うことを聞いてくれなかった。実は今もそうで、正体を明かさずにいるつもりが変装を保っていられなくなってしまったのだそう。「急な寒さのせいだと思います」鈴風は夏でも長袖の制服を着るほど寒がりだ。でも鈴風がそういう体質だからなのかクチナシ衆というのが寒さに弱い人たちの集まりだからなのかはわからなかった。「そんなことより、あそこで何をしてたか、夏波と冬凪に言っておいた方がいいんじゃない?」 伊左衛門が窓際を離れて鈴風のところまで来ると顔を覗き込んで言った。バスのアナウンスに干渉し冬凪とあたしをここに呼びつけたり、さらに鈴風が正体を晒すような状況を作り出したのは伊左衛門だ。何か知っていてこれらを仕組んだということは当然考えられる。「言えません」鈴風はない口をつぐんだ。すると伊左衛門は印を結ぶフリをして、「もっと寒くしてあげようか?」強めの要求だった。それで鈴風はどおせ吐くことになると観念したようだった。そして、「十六夜さんに術をかけていました」と言うとあたしから目をそらした。あたしに知られたらまずいことをしていたらしい。「それは、今だけでないよね」伊左衛門が追求する。「ずっと前から」園芸部に入ったのも十六夜に近づき志野婦に魅了されるように仕向けるためだった。鈴風は十六夜に志野婦への思慕をすり込むためのイメージを園芸部から十六夜のVRブースに送り続けた。そのイメージというのが白馬の王子のイメージで、みんながあの夢を見るようになったのは、それがメタバースに漏洩してみんなの深層心理に浸透