ゲーム用VRブースに縛り付けられた鈴風は気を失っているけれど傷つけられている様子はなかった。
赤い取っ手のシャベルを持ってその横に立つエンピマンが薄気味悪い笑いをこちらに向けて言った。
「藤野姉妹。私のことを知っているね?」
そう言われてモニターの黒いシルエットをよく見てみた。
神経質そうな顔つき、猫背で痩せていて揃えた膝に隙間が目立つ体型。
「誰?」(小声)
見覚えはある気がするけど全然思い出せなかった。冬凪も、
「分かんない」(小声)
それで向こうが正解を言うのを待っているとエンピマンが、
「じゃあ、ヒントを出そう」
当てて貰いたいらしい。
「「いらない。別にどうでもいい」」
エンピマンは、まあ落ち着けと言う仕草をしてモニターの枠から出て行って、すぐに戻ってきた。
手に何かを持っている。
「このノートを見ても分からないか?」
それは黒い表紙の紙冊子だった。
「ノートだって、何あれ?」
「何だろね」
ノートと言えば鞠野文庫の「辻沢ノート」だけれど、あんな禍々しい外見ではなかったし、筆者の四宮浩太郎は調邸で写真を見たぐらいで知ってるとは言えなかった。
冬凪もあたしもヒントに全然反応しないのでエンピマンは、
「君たちが重宝しているノートだよ」
と言葉を付け足した。
「重宝?」
紙ノートにお世話になったことなんてないからいよいよわからなくなった。
「きみたち生徒が……」
とエンピマンが付け足そうとしたけれど、すでにいらいらしている冬凪が、
「答えを!」
けれどエンピマンは、
「思い出してもらおうか。でないとこの子の命はない」
シャベルの切っ先を鈴風の首に充てた。なんかおかしな展開になっているけれど、しかたないから記憶の中を探ってみた。
エンピマン、今「きみたち生徒」って言った。
なら辻女関係者か。生徒って言うの
トラギク自演乙(死語構文)映画が終わって体育館から出ると外は異様な風景だった。色褪せた世界は一変してリアルに戻っていた。たくさんの部活女子が行き場を失い校内を彷徨っている。夕暮れが近づく校舎の窓が全て破砕して無くなっていた。風にあおられたカーテンが狂ったようにはためいている。まるで世界の終末が訪れたかのようだった。 あたしはすぐにでも家に帰りたくなった。伊左衛門に辻女のVRブースから家に帰れないか聞くと、「VRゴーグルには飛べない」 と言われたのでバス停に向かうことにした。ところが辻バスが動いていなかったので、みんなで辻沢駅まで歩くことになった。 高台に聳え立ち、辻沢のシンボルだったヤオマン屋敷が爆発消失したということで、辻沢の街は人と車が道々に溢れとんでもない騒ぎになっていた。上空には早くもヘリが飛び交い、リング端末では、「特報 ヤオマンHD前園会長邸爆発 安否不明」 というニュースタイトルで上空からの爆心地の映像を見ることが出来た。それによると、元廓の旧爆心地に被る形で新たな巨大円が赤い土をむき出しにしていて、そこにあった豪華な建物いっさいが跡形もなく消え去っていた。辛うじて残っているのは裏道沿いの壁の一部だけ。これでは屋内にいた人は誰一人助からなかったに違いない。前園日香里や高倉さん、ホムンクルスの調由香里、もしかしたら響先生まで。あたしたちが十六夜をトラギクの六道衆から取り戻せなかったならば、ヤオマンHD創業家は消滅ということになる。 ひっきりなしにサイレンが鳴っている。街並みを歩きながら爆発の威力の凄まじさに驚きが止まらない。膨大なエネルギーで傾いてしまった家、そうでない家も窓ガラスがほとんど割れてしまっている。それが駅前通り近くまで累々とあった。どこからか焦げ臭いにおいも漂って来ていて、志野婦神社の麓あたりに救急車両が集まっているのが見えた。 いつもなら20分もかからない道
冬凪は体育館の中に入って見回した。みんなもそれに続いて中に入り忽然と消えた蓑笠連中が隠れていないか確かめるかのようにあちらこちらを見て回った。蓑笠連中が消えてしまった。トラギクなど姿も見ていない。そういえばエンピマンはどうなっただろう。あの時は鈴風奪還ばかり頭にあったから逃げた後まで考えが及ばなかった。あれで諦めるような輩ではないだろう。いや、待って。あいつ鈴風を人質に取って何がしたかったの? わざわざ正体まで晒して。こっちは時間稼ぎでそれに付き合ったけれど、実はあっちもそうだったんじゃ?何のために?あたしたちの気を引くため?何かからあたしたちの目を逸らせるため?トラギクがしようとしてることから?トラギクがここに来てるとすると何しに?ここではなくてこの時代に何をしに来たのか?胸のうちのザワザワが止まらなかった。その時、スルスルと舞台のスクリーンが降りてきた。そして全ての遮光カーテンが締まって体育館の中が真っ暗になった。
蓑笠連中の海を歩き出すとやっぱりそうなった。あたしが結界の中に収まっていると向こうは刺激を嫌って場所を開ける。少しでもそれがずれてあたしの体が晒されると、すぐ直近の蓑笠連中が気がづいて蓑の中から生首を出して食らいつこうとする。あたしはその生首から他に伝染する前に足を止めて結界が自分を包み込むのを待つ。生首は噛みついても結界にあたしが収まれば弾かれたように蓑の中に戻ってゆく。結界は前だけでなく後ろにズレたりするし、形にしても完全な球体ではないから出っ張った所、頭のてっぺんやら肩やらふくらはぎやら、おしりが出てしまい何回噛みつかれたか知れなかった。それでもなんとか進んで行って、体育館の入り口に着いた時には、生首がつけたヨダレで体中がデロデロだった。振り返るとはるか後方で豆蔵くんと定吉くんが蓑笠連中を追い立てているのが見えた。陽に照らされてキラキラと輝いて見えているのはシャムシールだろう。蓑笠連中はその勢いに押されて、こっちにどんどん寄せてくる。あたしはそこで囮になるのを待つ。タイミングが来たらあたしを取り巻く結界が解けて蓑笠連中の目の前に晒される。冬凪からの指示は、「蓑笠連中を引き連れて体育館の中に入ったら二階のテラスで待って」だった。二階のテラスに行くには蓑笠連中に追いつかれないようにコートを駆け抜けて舞台横の用具室内のハシゴに取り付く。もし用具室の扉に鍵が掛かっていたら。そう思ったけれど、あそこの鍵はずっと前からぶっ壊れてるから大丈夫。頭の中で何パターンもシミュレーションしてみて、8割方成功の見込みがあった。蓑笠連中のうねりが体育館に押し寄せてきた。いよいよその時が迫る。体育館前の階段の縁まで蓑笠連中が上がってきたとき、目の前がすっと晴れ渡った。最初何が起こったかと思ったけれどそれは予定通りで、結界が解けただけだった。するとすぐ手前にいた蓑笠の簔の中から生首が一気に4つ飛び出して肉薄してきた。それをきっかけに前列
豆蔵くんと定吉くんを先頭に、あたし、冬凪、鈴風、伊左衛門と隊形を作ってVRルームを出た。授業棟のいつも使っている階段を下り生徒用玄関までは結界のおかげで何事もなく来れた。そこからは校庭が見渡せるはずなのに、目に入るのは薄汚れた枯れ草色の蓑笠連中ばかりだった。連中は笠の破れから覗く黄色く濁った瞳だけをギョロギョロと動かすばかりでひと所でじっとしている。それは手をこまねいていると言うのではなく誰かの命令を待っているかのようだった。「慎重に行こう」 伊左衛門が言いたいことはあたしにも分かった。20年前の辻沢で、冬凪とあたしが光の球を追って志野婦神社に行った時と同じだったから。いつもならすぐに生首を飛ばして襲ってくるのに、志野婦神社の境内に溢れていた蓑笠連中は今のようにじっとして動かなかった。「トラギクがいそう」 すると冬凪が、「織り込み済み」 とはっきり言った。その瞳は確かな意志を湛えて前をまっすぐ見ていた。あたしはそれで安心して囮になれると思った。 にしてもこの溢れかえる蓑笠連中の前に出なければ囮の意味がない。体育館はその向こうにあるからだ。 冬凪が蓑笠連中の海を睨みつけて言った。「伊左衛門。張った後の結界って動かせるよね」「できるよ」これまでも伊左衛門は結界を自在に操って見せてくれた。それくらい簡単にできそうだけれど冬凪は何をするつもりなのか?「なら、夏波だけを結界で包んでそのまま移動させてくれる?」 それで体育館に向かえばこの泥縄色の海を渡れる。のか? 「やって」 あたしは豆蔵くんと定吉くんの前に進み出た。伊左衛門が印を結ぶと、あたしの周りが急激に寒くなって視界が白い霧に覆われたようになった。範囲が狭くなった分、寒さも強くなったらしく遮光カーテン持ってくればよかったと思ったくらいだった。今更だし寒いのはがまんするときめて動き出すのを待
本当のところ、十六夜はどう思っているんだろう? 左の薬指に耳を当ててみる。微かだけれど十六夜の息遣いが聞こえて来る。やっぱりそれは、とても心安らかでゆったりとしたものだった。「十六夜は望んで志野婦を孕んだ」冬凪を見ると肯いたけれど同時に戸惑っているようにも見えた。それはあたしも全く同じ気持ちだった。 あたしが十六夜のあの姿を初めて見た時、気が動転して高倉さんに早く解放してあげてと頼んだ。でも十六夜が望んでやっていることだからダメだと断られた。それは自分は犠牲になっても他の鬼子を助けるためだったはず。でも今の話では十六夜は志野婦を復活させるつもりだったということになる。あのメッセージはなんだったんだろう。どっちが十六夜の本心なんだろう。世間の女同士の友情がそれでおかしくなることがあるように、エニシの赤い糸で繋がれた十六夜とあたしの関係も、恋には勝てなかったということなんだろうか?いや。500年志野婦に仕えてきたクチナシ衆である鈴風にしてみれば、志野婦を守るためには何でも言うだろうことを忘れてはいけない。やっぱりこのまま、はいそうですかと引き下がる訳にはいかない。ここが終わったらすぐにでも十六夜に会いに行こう。行ってちゃんと十六夜の近くで確かめよう。そう思ったのだった。「さて、最後の仕上げをしなくちゃね」 話が一段落したところで伊左衛門が言った。「鈴風さんも協力してもらおうか」 冬凪の作戦は、伊左衛門の結界を広げて行って蓑笠連中を体育館に集約させるというものだった。今のところの進捗は、授業棟、教務棟、図書館棟、部活動棟の建物全体に結界を張って、辻女にあふれていた蓑笠連中を建物から外に追い出したところまで来た。次はそいつらを体育館に押し込める。「で、囮になってもらうのが」 伊左衛門が鈴風のことを見た。鈴風はすでに諦めの境地でうなだれたままだ。「あんたは逃げるから、あたしと一緒にいてもらう。夏波でよかったね」 伊左衛門はあたしに向って微笑んだ。なんか可愛いんですけど。「うん。あたし目一杯惹きつけるから」 そして豆蔵くんと定吉くんとを見上げ、「また頑張って闘ってくれるね」「「う」」 二人からは勿論という返事があった。「冬凪はあたしと一緒に」 冬凪は肯くと、「じゃあ、蓑笠連中掃討作戦、再決行します!」
「それは、十六夜を妊娠させようとして?」鈴風は肩を震わせながらうなづいた。「志野婦様は六道衆に囚われの身になってしまいました」クチナシ衆は妖術使いの六道衆に勝てなかった。トラギクの力は圧倒的だったのだ。「辻沢最凶のヴァンパイアを人柱にできるほどだからね」伊左衛門が付け足した。「それでわたしどもは志野婦様を借り移すことを考えました」 借り移すとは志野婦に魅了された女の腹に胎児として生まれ変わらせることだった。そしてそれは普通の人よりもヴァンパイアに近しい鬼子の方が上手く行くのだそう。「それで十六夜を? なんで他の鬼子でなかったの?」「他の鬼子でも試しましたが孕んでもしばらくすると、死んでしまう」 鈴風は最後の言葉をすごく言いにくそうに口にした。だから答えは分かったけれどあえて鈴風に聞いた。「母親と子供のどっちが?」 鈴風はその時も俯いたままで、「母親の方が」と力なく応えた。クチナシ衆は志野婦を復活させるために鬼子を犠牲にして来たのだった。それはとても許せることではないけれど、それよりも何で十六夜が鬼子だと分かったのかが知りたかった。あたしでさえ、ついこの間知ったばかりなのに。「それは響先生のお仕事をお手伝いして、ヤオマン屋敷に出入りしていたからでした」 響先生のお仕事とは浄血騒動や瀉血の流行に紛れて女子の生き血を集めることだと言った。それは十六夜が残したメッセージで語られたママの悪事の一つだ。それに鈴風も加担していたのだった。「響先生と前園会長が話をしているのを立ち聞きして十六夜さんが鬼子であることを知りました。しかも十六夜さんは夕霧太夫と近しいと聞いて、志野婦様の母君にうってつけと思ったのです」「それで無力な十六夜に術をかけた」と言うと鈴風は、その時だけは顔を上げてあたしを見ながら、「それは違います。志野婦様を受け入れることを望んだのは