LOGINラッセルは、エレベーターに向かって疾走するエヴィの後姿を凝視していた。彼女の髪はまとめたゴムから解けかけており、必死の一歩を踏み出すたびに、その垢抜けないスカートが風を孕んで激しく揺れていた。
エレベーターの扉が閉まり、彼女の姿が視界から消え去る。ラッセルは強く噛み締め、胸の奥でずっとくすぶり続けていた苛立ちを無理やり押し殺した。 「パパ……あの人、本当にママじゃないの?」 アモラがぽつりと呟いた。それは父親に問いかけるというより、自分自身に言い聞かせているかのような儚い声だった。 娘を見下ろすと、その頬には涙がひとすじ伝っていた。ラッセルはアモラが何かに夢中になると質問攻めにしてくることには慣れていた。だが、これはどうだ? 出会ったばかりの女に対して見せた、このあまりにも唐突で強烈な執着心。今までのものとは明らかに違っていた。 「あの人はお前のママじゃないよ、アモラ」 アモラが少しずつ自分の手から離れていくのを感じながらも、幼い娘を思いやって声を和らげた。 「でもね……ママと同じ目で、あたしのことを見てくれたの」 アモラは胸元に小さく頭をうなだれ、細い手で父親のシャツをぎゅっと握りしめながら囁いた。 消え残った涙が、ぽろりと彼女の頬をこぼれ落ちる。情緒が完全に乱れてしまっていたが、ラッセルにはそれを宥める術がなかった。こんな計画ではなかったのだ。突如として目の前に転がり込んできたあの女には、関わらないよう一刻も早く視界から消え失せろと命じたはずだった。 「さあ、いくぞ」 彼が足を踏み出すと、腕の中の少女は突然身をよじり、暴れ始めた。声を忍ばせて泣き出したが、その感情の昂ぶりを抑え込みきれないのは明白だった。ラッセルは少し離れた場所で隙なく警戒に当たるブルースへ視線を送り、顎をしゃくった。 「ボス、何か問題でも?」ブルースが状況を察して尋ねる。 「……今のところはない」 そう答えたものの、それが嘘であることは自分が一番よく分かっていた。アモラの瞳は困惑と胸を刺すような痛みに満ちていた。それは、子供だけが隠すことなく剥き出しにする、純粋で無防備な悲哀そのものだった。 その瞬間、ラッセルの胸に鋭い痛みが走った。自分は何か重大な過ちを犯したのだ。どうしてそうなったのかは分からない。だが、父親として失格だったことだけは分かっていた。 「パパ……」かすれた声で、少女が再び彼を呼ぶ。「あの人のところに戻っちゃダメ? もう一回だけ会いたいよ。お願い、一回だけでいいから……」 「アモラ」 ラッセルは重い溜息をつき、その吐息には焦燥の色が混じり始めていた。「帰るぞ。すぐにだ」 アモラは頑固で譲らない強い意志を瞳に宿し、まっすぐラッセルを見上げた。その目つきを彼はよく知っていた。この子は一度言い出したら絶対に引き下がらない。そして予想通り、彼女の感情は完全に決壊した。幼い泣き声が、長い廊下の端から端まで響き渡る。 「おい、泣かないでくれ……」 自分の肩を小さな拳でぽかぽかと叩いてくるアモラを、彼はしっかりと抱きしめた。いくら幼いとはいえ、一打一打の重みが身体に伝わってくる。周りの目を気にするように、彼は焦りを含んだ視線で周囲を見回した。 「ブルース」 再び配下の名を呼ぶ。だが今度の声には、絶対的な威厳が宿っていた。 「あのエヴィという女を連れ戻せ」 「さ、さっきの女ですか、ボス? 本当によろしいのですか?」 ブルースは片眉を跳ね上げたが、返事を待つことはしなかった。ボスの性格は熟知している。これ以上の説明など不要なのだ。彼はただ踵を返し、廊下の闇へと姿を消した。 アモラは彼の肩に顔をうずめたまま泣き続け、二人は廊下を歩いて行った。耳を打ち据える娘の叫び声は、彼に残されたわずかな忍耐力を削り取っていく。彼はただ、物事を単純にしておきたかっただけなのだ。事態が紛糾するのを防ぐためにエヴィを追い払ったはずなのに、結果として完全に泥沼へ足を踏み入れてしまっていた。 車に乗り込んでから自宅へ向かう道中、ラッセルは一言も発しなかった。後部座席ではアモラが泣き続けている。どんな言葉をかけ、思いつく限りの気休めを与えても、何の効力も持たなかった。時折、しゃくりあげながら「ママ……」と囁く娘は、会ったばかりの見知らぬ女――ただの幻想にすぎない存在にすがりついていた。 邸宅に到着すると、彼はすぐにアモラを抱き抱えてリビングへと向かった。お気に入りのソファに座らせ、大切にしているくまのぬいぐるみを渡す。使い古された古びた縫い目を撫でるうちに、アモラの中の激しい慟哭は次第に収まっていった。痛みはいまだ表情に色濃く残っており、息遣いも荒いままだったが、少女はようやく静かになった。 「アモラ」彼は娘の前にひざまずき、視線を合わせた。「あの人は来ない。いいな?」 涙で潤んだ瞳で彼を見つめる娘の顔からは、感情が消え失せていた。彼女は小さく頷いたが、それが本心でないことなど彼にはお見通しだった。アモラが頭の中で自分都合の物語を紡ぎ上げているのを、彼は知っていたのだ。エヴィが戻ってきて、優しく自分を抱きしめ、「もう大丈夫だよ」と囁いてくれる……そんなおとぎ話を。 「何がそんなに嫌だったのか、パパに話してくれるか?」 声を柔らかくして尋ねる。長年かけて築き上げてきた心の壁を自ら取り壊していくような感覚に、彼は自分自身が自分でないような錯覚を覚えていた。 アモラは何度か瞬きをし、残った涙を指で拭うと、ぽつりと囁いた。 「……ママだと思ったの」 「アモラ……」 彼は再び深く、重い溜息をついた。どう説明すればいいのか分からなかった。現実には存在しない幻想の呪縛から、どうすればこの幼い娘を解き放ってやれるのか、その答えを持っていなかった。 彼はアモラを抱き上げ、彼女が一番安心できる場所――ラベンダー色の壁紙とたくさんのぬいぐるみに囲まれた子供部屋へと連れて行った。ベッドに横たえ、毛布をかけてやる間も、小さな胸は残ったしゃくりあげで時折小さく跳ねていた。 「どうして帰ってきてくれないの、パパ?」 目の縁を真っ赤にし、目の下に隈を作った少女が尋ねてくる。 「それは……」 言葉に詰まりながらも、彼は口を開いた。「あの人はお前のママじゃないからだ、アモラ。人生にはね、出会ってもすぐに去っていってしまう人がいるんだよ。そういう風にできているんだ」 「でも……もしあの人が、ここにいたいって思ってたら?」かすれそうな声で、娘が囁く。 「そんなことは思っていない。あの人は俺たちの家族じゃないし、そうなりたいとも思っていないんだ。だから、いくら俺たちが無理強いしたところで、来てはくれないんだよ」 自分の言葉が残酷であることは分かっていた。だが、これが現実なのだ。娘に嘘の希望を抱かせ続ければ、最終的により深い傷を負わせることになる。 ベッドの端に腰掛け、娘の柔らかい髪に指を通しながら撫でてやった。激しく泣きじゃくって疲弊しきっていたアモラは、やがて静かに瞳を閉じた。 「……パパ、あたしが眠るまで一緒にいてくれる?」弱々しい声が漏れる。 「もちろんさ」 彼は答えると、娘の隣に横たわった。小さな身体を引き寄せると、その温もりが伝わってきて、規則正しい寝息とともにゆっくりと頬の涙が乾いていくのが分かった。 娘が完全に眠りに落ちた後も、ラッセルは天井を見つめたまま横たわっていた。頭の中をあらゆる思考が駆け巡る。今日起きた出来事はすべて彼の統制を離れて暴走しており、彼はその「制御不能」な感覚を激しく嫌悪していた。エヴィは去った。しかし、彼女は消えない爪痕を残していったのだ――娘が一瞬でしがみついてしまった、あの面影という痕跡を。そして、それを自分自身の手で消し去るだけの力が残っているのか、彼には確信が持てずにいた。 壁を殴りつけたい衝動に駆られた。くそっ! 今日の己の無力さに、何かを、誰かを殴り倒したくてたまらなかった。病院でアモラを見失い、挙げ句の果てにあの女にしがみつかせ、「ママ」と呼ばせてしまったこと。ママと同じ目で自分を見てくれた、と娘に言わせたこと。何よりも恐ろしかったのは……あの子の母親と出会うよりも前に、自分自身もまた、あの女から同じような視線を向けられたと感じてしまっていたことだった。 ラッセルは娘の頬を優しく撫でると、足音を殺して部屋を出た。 そして素早く携帯電話を取り出すと、ブルースの番号をダイヤルした。 「……あの女はどこだ?」エヴィは見覚えのない部屋で目を覚ました。全身を十回ぐらい殴り倒されたかのような痛みが走り、すぐには起き上がることができなかった。彼女は腕に巻かれた包帯にすぐさま気づいた。顔にそっと触れてみると、そこにも同じように包帯が貼られていた。彼女は部屋全体をじっくりと見回した。どれだけ記憶を張り巡らせても、この部屋にはまったく見覚えがなかった。クリニックのようには見えないし、病室にも見えない。それなのに、医療器具だけは完璧に整えられていた。彼女はゆっくりと体を起こし、ベッドから足を下ろそうとした。その時、ドアが突然開いた――ラッセルだった。二人の視線が交差する。意識を失う直前、彼が自分の手を固く握りしめていてくれたことをエヴィは思い出した。その瞬間、彼女の心臓が激しく拍動し始めた。「やっとお会いできましたね」ラッセルろの後ろに立っていた男へ、エヴィは視線を移した。男は彼女のもとへ歩み寄り、すぐに手を差し出して握手を求めてきた。「クルト・マグリーンです」手を握るべきなのかどうか、彼女は迷った。拒絶すれば失礼にあたるだろうが、彼女が手を挙げるより早く、ラッセルが即座に割り込んできた。「まだあまり動き回るな。全身アザだらけなんだから」クルトはニヤリと薄笑いを浮かべながら手を下ろした。「彼の専属医をやっています。ちなみにですが、ラッセルからお聞きしましたよ。妹さんが私の病院に入院されているそうですね」「あ、あぁ……」エヴィは心ここにあらずといった様子で返事をした。まだ頭が正常に働いておらず、自分が死の淵から生き延びたという事実を完全に呑み込めずにいた。「こ、ここはどこなんですか?」ラッセルとクルトは顔を見合わせた。二人が答えるべきかどうか迷っているのが見て取れ、エヴィの目は二人 prototype の間を泳いだ。「さて、エヴィの傷の手当ては終わったことだし、俺はこれで失礼するよ」クルトは二人にお別れを告げた。「病院でやることがまだ山積みだからね」クルトが去ってからの数分間、エヴィとラッセルの間には重苦しい静寂が漂っていた。それを最初に破ったのはラッセルだった。「こんなことに巻き込んでしまってすまない。だが、俺の世界に踏み込むことになるのだと、前もって警告はしておいたはずだ」「あなたを責めてるなんて一言も言ってないわ」エヴィは床に視線を落としたまま答えた。「助けて
どれほどの時間が過ぎたのか、エヴィには見当もつかなかった。体に弾丸が撃ち込まれる激痛を覚悟し、全身を硬直させていた。だが、胸を穿つような銃声の痛みではなく、低くかすれた耳慣れた声が耳に届いた。「間抜けな面だな」目を開ける間もなく、誰かが両手を掴み、彼女の体をそのまま一気に引き起こした。「目は開けるな」その時になって初めて、自分の手を握りしめているのが誰の手なのかを彼女の脳が察知した。ラッセルだ。そして彼が実際に自分の手を握っているという事実に、彼女の意識がようやく追いついた。顔が一気にカッと熱くなり、全身が硬直した。息を長く止めすぎていたせいか、今にも気を失いそうだった。ほんの数秒前まで自分の死を確信していただけに、激しいパニックが彼女の心を支配していたのだ。ここでようやく、彼女は再び息を吹き返すことができた。だが、過剰なショックの反動からか意識が急速に遠のいていき、視界は深い闇へと沈んでいった。「この車はこれ以上出ないのか?」ラッセルは窓の外を見つめながら、苛立ちを隠さずに吐き捨てた。ブルースはあえて答えず、アクセルペダルをさらに深く踏み込んだ。これまでの人生で、ラッセルがこんな状態になっているのを見たことがなかった。露骨に表へは出していなかったものの、凄まじい焦燥感と深い懸念が、まるで肌に刺さるような気迫となって全身から溢れ出ていたのだ。普段の彼なら、激怒した時は怒鳴り散らしていた。だが今日は違った。冷静な思考を保つため、必死で自分を押し殺しているかのように見えた。見境なく無鉄砲に突っ込んでいた以前の彼とは、明らかに違っていた。現場へ向かう道中、彼らは敵の陣地へ静かに侵入するための作戦を綿密に練り上げた。一挙一動が、慎重に考慮されていた。ブルースは悟った――この男は本当に変わったのだと。認めるのはどこか悔しかったが、その原因がすべてエヴィにある可能性は極めて高かった。「作戦を復唱する」ラッセルは耳に装着したイヤホンの位置を調整しながら言った。通信は全部下へと直通で繋がっている。「車は遠方に配置する」ラッセルが付け加える。「倉庫への潜入は一筋の風のように速く、気配を完全に消し、床に落ちる羽のように静かに行う。敵がこちらの存在に気づく前に、全員を即座に無力化する」港の敷地内は彼らにとって手のひらの上のようなものだったため、侵入自体は
強烈な平手打ちを喰らい、エヴィは跳ね起きるように目を覚ました。まぶしい光が視界を打ち、目を開けた瞬間に激痛が走ったため、彼女は即座に目を閉じざるを得なかった。その瞬間、先ほど自分の身に起きた出来事のすべてが脳裏に蘇った。恐ろしさと恐怖の波が、エヴィの胸を激しく締め付けた。どれほど記憶を掘り起こそうとしても、誰かの恨みを買うような覚えなど一切なかった。それとも、彼らは裏社会の組織なのだろうか? 自分を殺して内臓を摘出し、闇市場で売るつもりなのだろうか?ありとあらゆる恐ろしい妄想が、エヴィの頭の中を駆け巡った。再び容赦ない平手打ちが飛んできて、彼女は現実に引き戻された。その衝撃はあまりにも無慈悲で、彼女の体は冷たくざらついたコンクリートの床へと転がり落ちた。混乱とパニックの渦中にいたため、自分が手足を固く縛られていることに今更ながら気づかされたのだ。彼女は這い上がろうと虚しくもがいた。口の中に鉄の味が広がっていた。彼女は生きてきた中で、一度も顔をぶたれたことなどなかったのだ。ゆっくりと目を再び開けると、視界が追いつくにつれて、直面している過酷な現実がはっきりと形を成した。目の前に一人の女が立っていた。周囲には、銃を構えた男たちが何人も群がっている。恐怖が彼女を完全に支配した。男たちの中には、フィリピン人には見えない者たちも混ざっていた。そこは木箱や巨大なコンテナが積み上げられた巨大な倉庫のようだった。港の近くだろうか、とエヴィは推測した。潮の香りが鼻をつき、海が目と鼻の先にあることを確信させた。「あらあら? やっとお目覚めかしら、ディズニープリンセスさん?」エヴィの意識は、自分を見下ろす女へと引き戻された。女は外国人のようで、濃いメイクに黒いリップ、ブーツにショートパンツ、そして胸元を大胆に露出したトップスを身にまとっていた。「あの悪魔ボスの好みが、こんな女だなんて思いもしなかったわ」女はそう吐き捨てると、高笑いを上げた。ヒステリックで狂気じみた笑い声だった。(悪魔ボス……?)エヴィの心の中で問いが浮かんだ。「男の人たち……何か勘違いなさってます……」エヴィは振り絞るように声を上げた。今すぐここで撃ち殺されないよう、心の中で必死に祈りながら。サンシャインはどうなってしまうの? アモラは……?エヴィの思考が一瞬固まった。一体なぜ、こんな土壇場で
ろくに眠れていなかったというのに、エヴィはそれでもラクロワ邸へと向かっていた。彼女はまず花屋に立ち寄り、黄色いチューリップとデイジーを合わせた花束をひとつ買い求めた。こうした鮮やかな花々は、朝の空気の中で輝きを放ち、良い気分と明るいエネルギーをもたらしてくれると言われている。これはアモラにプレゼントするつもりだった。だが、店を出ようとしたその時、珍しい一輪の花が彼女の目を引いた――この国では滅ば滅多に見かけない種類のものだった。彼女はすぐ近くに立っていた店員に尋ねた。「あの、あの花は何という名前なんですか?」店員は彼女の視線を追った。「あぁ、あれはルピナス・ラッセルという花です。はるばるイギリスから輸入されているんですよ」「ラ、ラッセル……ですか!?」エヴィは思わずドギマギした声を漏らした。なんて偶然なのだろう!値札を確認してみると、なかなかのお値段だった。それでもエヴィは3本買い求め、花束に仕立ててもらった。アモラの大きな花束に比べればこぢんまりとしていたが、価格はこちらの方が遥かに高価だった。彼女はラッセルへ宛てた小さなメッセージカードまで、その花束の隙間にそっと忍ばせた。親子への感謝の印として2つの花束を抱え、エヴィは晴れやかな笑顔で花屋を後にした。サンシャインの手術は無事に成功し、彼女の胸には安堵の波が幾重にも押し寄せていた。胸の重荷がすっかり取り払われたような気分だった。アモラとラッセルが自分と妹のために尽くしてくれた全てに比べれば、この花を贈ることなどほんの小さな恩返しに過ぎなかった。彼らの行為が厳密には慈悲や慈善事業ではなかったとしても、エヴィにとってはそう感じられてならなかったのだ。我が子のシッターを雇うためだけに、これほどの破格の報酬を払う人間がどこにいるだろうか?まだ朝の7時になったばかりで、陽射しは肌に刺さるほど強くはない。エヴィはバス停まで歩くことにした。三輪タクシー(トライシクル)に乗ることもできたが、まずは朝日を浴びたかったのだ。それに、歩いてもたった15分の道のりである。彼女は歩きながら、鼻歌まで小さく口ずさんでいた。その時、1台の黒いワゴン車が彼女のすぐ隣に滑り込んできた。エヴィは気にせず歩き続けた。スライドドアが開く音が響く。彼女が反応する間もなく、2人の男が左右から彼女の両腕を強く掴み上げた。男のひとりが即
クルトが太ももから弾丸を摘出する作業を進める中、ラッセルは深く息を殺し、両目を強く閉じた。クルトは彼の専属医であり、長年の友人でもあった。「ったく、何発の弾を摘出すれば気が済むんだ、ラス?」クルトの声には呆れ混じりの苛立ちが込められていたが、友人への心配は隠しきれていなかった。「生きてる。それが全てだろ」ラッセルは全身が自分の汗で濡れ鼠になっているのも構わず、皮肉な笑みを浮かべて答えた。「麻酔がまるで効いてないぞ」「皮が厚くなっただけさ」激痛に顔を歪ませながらも、彼は軽口を叩いた。「酒の呑みすぎで神経が麻痺してるだけだ。毎度毎度弾を喰らっておきながら、自分の身体に入れるものには一切気を使わないんだからな」クルトは説教を続けた。「アモラを早々に天涯孤独の身にしたくないなら、少しは反省して体調を整えろ」ラッセルは沈黙した。友人を責めることはできなかった。クルトの言っていることが正しいと分かっていたからだ。彼がこんな状態になってから、三年という月月が流れていた。毎晩酒を飲むのは、アルコール中毒だからではない。ただ単に、今すぐ眠りに落ちたいからだった。「それともう一つ」クルトはラッセルの傷口を縫合しながら言葉を重ねた。「アモラとの時間を作れ。あの子はただでさえ、あの女に捨てられて――」「二度とその女の名前を口にするな……」ラッセルは苦々しい憎悪を込めて低く囁いた。クルトは深い溜息をついた。「俺が言いたいのは……アモラにはお前しかいないんだってことだ。妹を頼りにするわけにはいかんだろ。だから自分の体を大事にしろ。俺だって病院で忙しいんだ、四六時中お前の呼び出しに応じられると思うなよ」クルトの最後の言葉を聞いて、ラッセルの空気が一変した。「……アモラと二人で、お前の病院に寄った時のことを覚えているか?」クルトは頷いた。「警備員総出でアモラを探しまわってた時のことか?」「そうだ……」クルトが最後の結び目を切り落とすと、彼は体を起こした。「あの子はあそこで、ある女に出会った」クルトは片眉を跳ね上げた。「で、その女を『ママ』と呼んだと? アモラにはよくある話だろ」「いや、今回は違う」ラッセルは首を振って答えた。「アモラは一瞬でエヴィという女に懐いたんだ」「エヴィ?」今度はクルトの左右の眉が跳ね上がった。「へえ……でお前は、わざわざその女に自己紹介した
アモラがすっかり眠りについたのを確認すると、エヴィは少女の温かい抱擁から優しく抜け出した。幼いアモラは先ほどのお料理とお菓子作りで完全に疲れ切っていたようで、マットレスがわずかに沈んでも目を覚ます気配すら答えない。 彼女は床に散らばったおもちゃを丁寧に片付けた。眠る少女の姿を最後にもう一度見つめ、毛布を胸元まで綺麗に掛け直す。すべてが整ったことに心から満足してはじめて、彼女は静かに部屋を抜け出した。ドアの外で誰かが待ち構えているのを目にして、エヴィはあまりの驚きに跳ね上がらんばかりになった。「もう、マナン! 脅かさないでよ」彼女はあきれ顔で、低い声で不満を漏らした。「ほら、先にご飯をお食べ。サンシャインの分の料理も詰めておいたからね」その女性は温かい微笑みを浮かべ、エヴィの手を優しく引っ張った。マナン・ローナはラクロワ邸の家政婦長で、長年にわたってこの家に仕えていた。屋敷には他にも使用人がいたが、広大な敷地に実際に暮らしているラクロワ家の人間はアモラとラッセルの二人だけだった。ラッセルの両親はすでに他界しており、唯一の妹は現在ロンドンに住んでいる。身内はみな海外で暮らしているため、国内には他に家族がいなかった。「んー、すごく美味しいよ、マナン!」エヴィは一口一口を心から堪能しながら言った。家政婦長はただ愛おしそうに微笑んだ。「まあ、お世辞が上手なんだから」と彼女はおちゃめにからかい、目の前に水の入ったグラスを置いた。「あなたとアモラが焼いたケーキの方が、ずっと美味しかったわよ」「あ、アモラちゃんに言われたこと、忘れないでね、マナン?」エヴィは年上の女性に念を押した。「あのケーキの一切れは、パパの分なんだからね」「アモラと同じようなこと言っちゃって」マナン・ローナはくすくす笑った。「あの子ったら、私に何回も念を押してきたのよ」マナン・ローナがサンシャインのために用意してくれた料理の紙袋を抱え、エヴィは家政婦長に別れを告げて屋敷の出口へと向かった。敷地が広大すぎるため、正門まではかなりの距離があった。車道に次々と車が滑り込んできて、彼女の足が止まった。最初の2台は彼女の脇をそのまま通り過ぎていった。胸をなでおろそうとしたその瞬間、3台目の車が彼女のすぐ隣にピタリと停車した。中の人物がウィンドウを下ろした。その顔――ラッセルを目にした瞬間、エヴィの心