Share

マフィアの烙印されたベビーシッター
マフィアの烙印されたベビーシッター
Author: Sky_1431

​第1章

Author: Sky_1431
last update publish date: 2026-10-08 00:39:13

50万ペソ……。

一体どこでそんな大金を調達すればいいの?

エヴィは膝が床に落ちてガクガクと震えるのを感じながら、下唇を強く噛み締め、両手の手籠めな動きをどうにか抑え込んだ。彼女はただ虚ろな目で医師を見つめていた。声は聞こえているのに、言葉が何ひとつ頭に入ってこない。心の中を満たしているのは、妹のサンシャインの手術費として、どうやって50万ペソもの金を工面すればいいのかという焦燥だけだった。

それだけではない。実際の手術費用の上に、清算しなければならない入院費や治療費の請求が重なっていた。自分の人生のすべてが崩れ去っていくかのようで、それを止める術など彼女には何ひとつなかった。

「ガルトンさん?」

医師がエヴィの目の前でパンッと指を鳴らし、彼女を正気に呼び戻した。

ハッと息をのんだエヴィは、咄嗟に申し訳なさそうな笑みを浮かべた。「ド、ドクター? 何かおっしゃいましたか?」

「大丈夫ですか?」医師の顔には、本物の懸念が浮かんでいた。「先ほどから完全に意識が飛んでいるようですが」

「大丈夫です」エヴィは素早く頷いて嘘をついた。再び手が震え出したため、両手を強く握り合わせ、深く息を吐き出した。医師が話を続ける。

「もう時間がありません。今週か来週のうちに手術費用を支払えなければ、妹さんの命は保証できませんよ」医師は同情と警告の入り混じった溜息をつき、真剣な面持ちで告げた。

エヴィの喉はカラカラに乾き、目には涙があふれ出た。医師は深く切ない表情で首を振る。

「お気の毒ですが、これ以上オブラートに包んでお話しすることはできません。急いで資金を用意してください。さもなければ……妹さんは亡くなります」

その言葉を聞いているだけで、胸が千々に引き裂かれる思いだった。エヴィは両目を強く閉じ、一筋の涙が頬を伝うのを感じた。押し寄せる絶望の重みに小さく呻き声を漏らしながら、彼女はゆっくりと目を開けた。「わかりました、先生」彼女は囁くように答えた。「どうにかして工面します」

医師は力なく微笑んだが、その表情は痛々しかった。その瞳から放射されるあからさまな同情を、エヴィは忌み嫌った。誰かに憐れまれる感覚など、死んでも御免だった。

「ありがとうございました、先生」彼女は立ち上がりながら言った。「今夜、妹が目を覚ましたらまた戻ります」そう付け加えると、ようやく診察室を出て、背後のドアを静かに閉めた。

たった1週間で、どうしても50万ペソを集める方法を見つけなければならない。

彼女は髪をかき揚げ、両目を指で擦った。心身ともに限界だった。この悪夢のような現実に心を支配され、ここ何日もろくに眠れていない。サンシャインは彼女にとって唯一の家族だった。妹を失うことなど考えたくもなかったが、手元にはもう一銭の蓄えも残っていなかった。病院の支払いに加えて、借家の家賃も清算しなければならない。大切にしていた小さなカフェまで売り払ったというのに、それでもまだ足りなかったのだ。

「ママ?」

エレベーターへ向かって歩いていたエヴィは、廊下に響いたその声に思わず足を止めた。次の瞬間、誰かが彼女のスカートをぐいぐいと引っ張った。

「ママ!」幼い声が繰り返す。

眉をひそめ、エヴィは見下ろした。小さな小さな女の子が、夢中になって彼女のスカートを引っ張っていた。

「ママ!」少女はとびきり甘い笑顔を輝かせ、瞳をキラキラと光らせながら嬉しそうに声を上げた。

深く息を吸い込み、エヴィは無理に微笑みを浮かべると、少女の前にひざまずいた。「お名前はなんていうの?」そう尋ねながら、小さな両手をやさしく包み込む。

「ママったら、あたしの名前知ってるくせに!」少女はがっかりしたように小さく声を漏らした。どう見ても3歳かそこらにしか見えない。「アモラ・ラクロワだよ!」

「あのね、アモラちゃん」エヴィは下唇を噛んだ。今日出会った中で一番愛くるしいこの子の心を、どうやって傷つけずに事実を伝えればいいのか分からなかった。「お姉ちゃんは、アモラちゃんのママじゃないの。本物のママはどこにいるのかな? 一緒に探しに行こうか」

「ううん、ママはママだよ!」少女は首を振り、譲らなかった。一瞬にして瞳に涙が溜まり、唇がぷるぷると震え出す。「ママなんだもん、ママだもん……」と小さく呟いた。

「アモラちゃん、それは無理があるよ――」と言い終わらないうちに、少女は激しく首を振って泣き出してしまった。

「ママだって分かってるもん!」目を擦りながら、声を上げて涙を流す。

「よしよし、大丈夫だからね」エヴィはあやすように優しく声をかけ、立ち上がりながら少女をしっかりと抱き上げた。「じゃあ、今だけママになってあげる。でも、本物のママを探さなきゃ。ママはどこにいるの? どこで離れ離れになっちゃったの?」

アモラはエヴィの首にぎゅっと腕をまわし、肩に小さな頭を預けた。ようやく泣き声が収まる。エレベーターへと歩きながら、エヴィは愛おしさに耐えかねて少女の髪を撫で、その愛らしい頬にそっとキスをした。受付けにこの子を預けて去れば、両親か保護者が引き取りに来るはずだ。

「ママ、お名前は?」歩きながら、少女が尋ねた。

「んー……エヴィっていうの」

「パパとあたしと一緒に、おうちに帰ってくれる?」大きなヘーゼルブラウンの瞳で見上げながら、蚊の泣くような声で再び尋ねてくる。

エヴィが答えようとしたその時、エレベーターに辿り着く手前で、廊下の曲がり角から突然数人の男たちが現れた。彼女はその場に凍りついた。男のひとりが瞬時に拳銃を構え、エヴィの顔面に真っ直ぐ狙いを定めた。もうひとりの男もそれに続く。ふたりとも殺気立った真剣な表情で、今にも引き金を突き引きそうな雰囲気を漂わせていた。

エヴィは生唾を飲み込んだ。後ずさりしようとした瞬間、うなじにひんやりとした金属の感触が押し当てられた。

「ブルース?」少女がエヴィの肩から顔を上げ、小さく囁いた。だが、その視線は目の前の男たちではなく――背後に向けられていた。エヴィの真後ろに立つ、誰かに。

エヴィはゆっくりと振り返り、自分に向けられた銃口を目にして恐怖に目を剥いた。鋭い眼光が彼女を射抜く。何が起きているのか問い詰めようと口を開かけたその時、アモラが再び声を上げた。

「パパ! 見て、だれを見つけたと思う!?」

エヴィは弾かれたように振り返った。前方にいた男たちが即座に左右に分かれ、近づいてくる男――おそらく彼らのボス――のために道をあけた。接近してくる彼の、鋭いヘーゼルブラウンの眼光が即座にエヴィを捉える。男の視線はエヴィからアモラへ、そして再びエヴィへと跳ね返った。

「私の娘をどこへ連れて行くつもりだ? 俺から娘を奪おうなどと、いい度胸だな」男はエヴィの至近距離まで足を進め、低く唸った。エヴィが恐怖で身を引くと、首筋の銃口がさらに強く押しつけられた――明確な警告だった。

「ち、違います! 絶対に違います! そんなことしていません!」エヴィは声を取り乱し、震える声で弁明した。

「娘をどこへ連れて行く気だった?」男は目を極限まで細め、追及する。「誘拐でもしようとしていたのか?」

彼女は猛然と首を振った。「私、そんな人間じゃありません! ご両親が見つけやすいように受付けへ連れて行こうとしていただけです! あなたがこの子の父親だなんて知りませんでした!」

男の瞳に、さらに深い怒りの炎が燃え上がった。娘を引き取ろうと手を伸ばしたが、アモラはエヴィの首にしがみつく力を強めるだけだった。

「パパ、今日ママもおうちに帰ってくるの? これから一緒に暮らせるの?」

男の視線が、一直線にエヴィを突き刺した。「……ママ?」男は困惑したように呟いた。

「エヴィママだよ!」少女は飛び上がらんばかりの歓声を上げた。

男は危険な光を宿した瞳でエヴィを睨みつけ、エヴィは必死に否定しようと首を振り続けた。「ち、違うんです、私はこの子の母親じゃないって何度も言ったのに、聞いてくれなくて……突然泣き出してしまったんです!」言葉が滝のように溢れ出る。彼女の視線は武装した男たちとアモラの父親の間を激しく行ったり来たりした。背中には、相変わらず冷たい銃口がぴったりと押し当てられている。一体この人たちは何者なの? ひとつだけ確かなのは、全員が極めて危険な存在だということだ。これまでの人生で、これほど恐ろしい思いをしたことは一度もなかった。

エヴィは意を決して、アモラの父親の顔を正面から仰ぎ見た。なんてこと……。生まれてこの方目にした中で、間違いなく群を抜いて美しい男だった。烏羽色の黒髪、自分の内面まで見透かしてしまいそうな強烈で深遠な眼光、深い小麦色の肌、たくましい肩幅、そして頑強に鍛え上げられた巨躯。身長は少なくとも195センチ近くはあるだろう。威圧感と強烈な動揺を同時に引き起こす、圧倒的なオーラを放っていた。

エヴィは瞬きをし、自分がいま命の危険に晒されていること、そして一瞬で自分を殺せるような男に見とれている場合ではないことを咄嗟に思い出した。

「ごめんなさい、本当に知らなかったんです……」息も絶え絶えになりながら、彼女は静かに言った。「こ、この子が声をかけてきて……保護者の方がどこにいるのか分からなくて」

「パパ、ママを脅かさないで!」小さな少女が父親を叱りつけた。

「アモラ、この人はお前の母親じゃない」父親はそう答えた。数秒間、エヴィと視線を絡ませ合ってから、意識を娘へと移す。「おいで」そう命じると、彼はエヴィの腕から優しく少女を引き取った。

「ブルース」男が配下に声をかけた。背後に立ち、背中に銃を突きつけていた男のことだとエヴィは直感した。

ブルースと呼ばれた男が銃を下ろす。

「失せろ」アモラの父親は、娘を腕に抱いたまま冷たく命じた。

エヴィは迷うことなくその命令に従った。武装した男たちから慎重に距離を取り、十分な間隔が空くやいなや、エレベーターに向かって脱兎のごとく駆け出した。胸の中の心臓が、今にも破裂して飛び出してしまいそうだった

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • マフィアの烙印されたベビーシッター   第10章

    エヴィは見覚えのない部屋で目を覚ました。全身を十回ぐらい殴り倒されたかのような痛みが走り、すぐには起き上がることができなかった。彼女は腕に巻かれた包帯にすぐさま気づいた。顔にそっと触れてみると、そこにも同じように包帯が貼られていた。彼女は部屋全体をじっくりと見回した。どれだけ記憶を張り巡らせても、この部屋にはまったく見覚えがなかった。クリニックのようには見えないし、病室にも見えない。それなのに、医療器具だけは完璧に整えられていた。彼女はゆっくりと体を起こし、ベッドから足を下ろそうとした。その時、ドアが突然開いた――ラッセルだった。二人の視線が交差する。意識を失う直前、彼が自分の手を固く握りしめていてくれたことをエヴィは思い出した。その瞬間、彼女の心臓が激しく拍動し始めた。「やっとお会いできましたね」ラッセルろの後ろに立っていた男へ、エヴィは視線を移した。男は彼女のもとへ歩み寄り、すぐに手を差し出して握手を求めてきた。「クルト・マグリーンです」手を握るべきなのかどうか、彼女は迷った。拒絶すれば失礼にあたるだろうが、彼女が手を挙げるより早く、ラッセルが即座に割り込んできた。「まだあまり動き回るな。全身アザだらけなんだから」クルトはニヤリと薄笑いを浮かべながら手を下ろした。「彼の専属医をやっています。ちなみにですが、ラッセルからお聞きしましたよ。妹さんが私の病院に入院されているそうですね」「あ、あぁ……」エヴィは心ここにあらずといった様子で返事をした。まだ頭が正常に働いておらず、自分が死の淵から生き延びたという事実を完全に呑み込めずにいた。「こ、ここはどこなんですか?」ラッセルとクルトは顔を見合わせた。二人が答えるべきかどうか迷っているのが見て取れ、エヴィの目は二人 prototype の間を泳いだ。「さて、エヴィの傷の手当ては終わったことだし、俺はこれで失礼するよ」クルトは二人にお別れを告げた。「病院でやることがまだ山積みだからね」クルトが去ってからの数分間、エヴィとラッセルの間には重苦しい静寂が漂っていた。それを最初に破ったのはラッセルだった。「こんなことに巻き込んでしまってすまない。だが、俺の世界に踏み込むことになるのだと、前もって警告はしておいたはずだ」「あなたを責めてるなんて一言も言ってないわ」エヴィは床に視線を落としたまま答えた。「助けて

  • マフィアの烙印されたベビーシッター   第9章

    どれほどの時間が過ぎたのか、エヴィには見当もつかなかった。体に弾丸が撃ち込まれる激痛を覚悟し、全身を硬直させていた。だが、胸を穿つような銃声の痛みではなく、低くかすれた耳慣れた声が耳に届いた。「間抜けな面だな」目を開ける間もなく、誰かが両手を掴み、彼女の体をそのまま一気に引き起こした。「目は開けるな」その時になって初めて、自分の手を握りしめているのが誰の手なのかを彼女の脳が察知した。ラッセルだ。そして彼が実際に自分の手を握っているという事実に、彼女の意識がようやく追いついた。顔が一気にカッと熱くなり、全身が硬直した。息を長く止めすぎていたせいか、今にも気を失いそうだった。ほんの数秒前まで自分の死を確信していただけに、激しいパニックが彼女の心を支配していたのだ。ここでようやく、彼女は再び息を吹き返すことができた。だが、過剰なショックの反動からか意識が急速に遠のいていき、視界は深い闇へと沈んでいった。「この車はこれ以上出ないのか?」ラッセルは窓の外を見つめながら、苛立ちを隠さずに吐き捨てた。ブルースはあえて答えず、アクセルペダルをさらに深く踏み込んだ。これまでの人生で、ラッセルがこんな状態になっているのを見たことがなかった。露骨に表へは出していなかったものの、凄まじい焦燥感と深い懸念が、まるで肌に刺さるような気迫となって全身から溢れ出ていたのだ。普段の彼なら、激怒した時は怒鳴り散らしていた。だが今日は違った。冷静な思考を保つため、必死で自分を押し殺しているかのように見えた。見境なく無鉄砲に突っ込んでいた以前の彼とは、明らかに違っていた。現場へ向かう道中、彼らは敵の陣地へ静かに侵入するための作戦を綿密に練り上げた。一挙一動が、慎重に考慮されていた。ブルースは悟った――この男は本当に変わったのだと。認めるのはどこか悔しかったが、その原因がすべてエヴィにある可能性は極めて高かった。「作戦を復唱する」ラッセルは耳に装着したイヤホンの位置を調整しながら言った。通信は全部下へと直通で繋がっている。「車は遠方に配置する」ラッセルが付け加える。「倉庫への潜入は一筋の風のように速く、気配を完全に消し、床に落ちる羽のように静かに行う。敵がこちらの存在に気づく前に、全員を即座に無力化する」港の敷地内は彼らにとって手のひらの上のようなものだったため、侵入自体は

  • マフィアの烙印されたベビーシッター   第8章

    強烈な平手打ちを喰らい、エヴィは跳ね起きるように目を覚ました。まぶしい光が視界を打ち、目を開けた瞬間に激痛が走ったため、彼女は即座に目を閉じざるを得なかった。その瞬間、先ほど自分の身に起きた出来事のすべてが脳裏に蘇った。恐ろしさと恐怖の波が、エヴィの胸を激しく締め付けた。どれほど記憶を掘り起こそうとしても、誰かの恨みを買うような覚えなど一切なかった。それとも、彼らは裏社会の組織なのだろうか? 自分を殺して内臓を摘出し、闇市場で売るつもりなのだろうか?ありとあらゆる恐ろしい妄想が、エヴィの頭の中を駆け巡った。再び容赦ない平手打ちが飛んできて、彼女は現実に引き戻された。その衝撃はあまりにも無慈悲で、彼女の体は冷たくざらついたコンクリートの床へと転がり落ちた。混乱とパニックの渦中にいたため、自分が手足を固く縛られていることに今更ながら気づかされたのだ。彼女は這い上がろうと虚しくもがいた。口の中に鉄の味が広がっていた。彼女は生きてきた中で、一度も顔をぶたれたことなどなかったのだ。ゆっくりと目を再び開けると、視界が追いつくにつれて、直面している過酷な現実がはっきりと形を成した。目の前に一人の女が立っていた。周囲には、銃を構えた男たちが何人も群がっている。恐怖が彼女を完全に支配した。男たちの中には、フィリピン人には見えない者たちも混ざっていた。そこは木箱や巨大なコンテナが積み上げられた巨大な倉庫のようだった。港の近くだろうか、とエヴィは推測した。潮の香りが鼻をつき、海が目と鼻の先にあることを確信させた。「あらあら? やっとお目覚めかしら、ディズニープリンセスさん?」エヴィの意識は、自分を見下ろす女へと引き戻された。女は外国人のようで、濃いメイクに黒いリップ、ブーツにショートパンツ、そして胸元を大胆に露出したトップスを身にまとっていた。「あの悪魔ボスの好みが、こんな女だなんて思いもしなかったわ」女はそう吐き捨てると、高笑いを上げた。ヒステリックで狂気じみた笑い声だった。(悪魔ボス……?)エヴィの心の中で問いが浮かんだ。「男の人たち……何か勘違いなさってます……」エヴィは振り絞るように声を上げた。今すぐここで撃ち殺されないよう、心の中で必死に祈りながら。サンシャインはどうなってしまうの? アモラは……?エヴィの思考が一瞬固まった。一体なぜ、こんな土壇場で

  • マフィアの烙印されたベビーシッター   第7章

    ろくに眠れていなかったというのに、エヴィはそれでもラクロワ邸へと向かっていた。彼女はまず花屋に立ち寄り、黄色いチューリップとデイジーを合わせた花束をひとつ買い求めた。こうした鮮やかな花々は、朝の空気の中で輝きを放ち、良い気分と明るいエネルギーをもたらしてくれると言われている。これはアモラにプレゼントするつもりだった。だが、店を出ようとしたその時、珍しい一輪の花が彼女の目を引いた――この国では滅ば滅多に見かけない種類のものだった。彼女はすぐ近くに立っていた店員に尋ねた。「あの、あの花は何という名前なんですか?」店員は彼女の視線を追った。「あぁ、あれはルピナス・ラッセルという花です。はるばるイギリスから輸入されているんですよ」「ラ、ラッセル……ですか!?」エヴィは思わずドギマギした声を漏らした。なんて偶然なのだろう!値札を確認してみると、なかなかのお値段だった。それでもエヴィは3本買い求め、花束に仕立ててもらった。アモラの大きな花束に比べればこぢんまりとしていたが、価格はこちらの方が遥かに高価だった。彼女はラッセルへ宛てた小さなメッセージカードまで、その花束の隙間にそっと忍ばせた。親子への感謝の印として2つの花束を抱え、エヴィは晴れやかな笑顔で花屋を後にした。サンシャインの手術は無事に成功し、彼女の胸には安堵の波が幾重にも押し寄せていた。胸の重荷がすっかり取り払われたような気分だった。アモラとラッセルが自分と妹のために尽くしてくれた全てに比べれば、この花を贈ることなどほんの小さな恩返しに過ぎなかった。彼らの行為が厳密には慈悲や慈善事業ではなかったとしても、エヴィにとってはそう感じられてならなかったのだ。我が子のシッターを雇うためだけに、これほどの破格の報酬を払う人間がどこにいるだろうか?まだ朝の7時になったばかりで、陽射しは肌に刺さるほど強くはない。エヴィはバス停まで歩くことにした。三輪タクシー(トライシクル)に乗ることもできたが、まずは朝日を浴びたかったのだ。それに、歩いてもたった15分の道のりである。彼女は歩きながら、鼻歌まで小さく口ずさんでいた。その時、1台の黒いワゴン車が彼女のすぐ隣に滑り込んできた。エヴィは気にせず歩き続けた。スライドドアが開く音が響く。彼女が反応する間もなく、2人の男が左右から彼女の両腕を強く掴み上げた。男のひとりが即

  • マフィアの烙印されたベビーシッター   第6章

    クルトが太ももから弾丸を摘出する作業を進める中、ラッセルは深く息を殺し、両目を強く閉じた。クルトは彼の専属医であり、長年の友人でもあった。「ったく、何発の弾を摘出すれば気が済むんだ、ラス?」クルトの声には呆れ混じりの苛立ちが込められていたが、友人への心配は隠しきれていなかった。「生きてる。それが全てだろ」ラッセルは全身が自分の汗で濡れ鼠になっているのも構わず、皮肉な笑みを浮かべて答えた。「麻酔がまるで効いてないぞ」「皮が厚くなっただけさ」激痛に顔を歪ませながらも、彼は軽口を叩いた。「酒の呑みすぎで神経が麻痺してるだけだ。毎度毎度弾を喰らっておきながら、自分の身体に入れるものには一切気を使わないんだからな」クルトは説教を続けた。「アモラを早々に天涯孤独の身にしたくないなら、少しは反省して体調を整えろ」ラッセルは沈黙した。友人を責めることはできなかった。クルトの言っていることが正しいと分かっていたからだ。彼がこんな状態になってから、三年という月月が流れていた。毎晩酒を飲むのは、アルコール中毒だからではない。ただ単に、今すぐ眠りに落ちたいからだった。「それともう一つ」クルトはラッセルの傷口を縫合しながら言葉を重ねた。「アモラとの時間を作れ。あの子はただでさえ、あの女に捨てられて――」「二度とその女の名前を口にするな……」ラッセルは苦々しい憎悪を込めて低く囁いた。クルトは深い溜息をついた。「俺が言いたいのは……アモラにはお前しかいないんだってことだ。妹を頼りにするわけにはいかんだろ。だから自分の体を大事にしろ。俺だって病院で忙しいんだ、四六時中お前の呼び出しに応じられると思うなよ」クルトの最後の言葉を聞いて、ラッセルの空気が一変した。「……アモラと二人で、お前の病院に寄った時のことを覚えているか?」クルトは頷いた。「警備員総出でアモラを探しまわってた時のことか?」「そうだ……」クルトが最後の結び目を切り落とすと、彼は体を起こした。「あの子はあそこで、ある女に出会った」クルトは片眉を跳ね上げた。「で、その女を『ママ』と呼んだと? アモラにはよくある話だろ」「いや、今回は違う」ラッセルは首を振って答えた。「アモラは一瞬でエヴィという女に懐いたんだ」「エヴィ?」今度はクルトの左右の眉が跳ね上がった。「へえ……でお前は、わざわざその女に自己紹介した

  • マフィアの烙印されたベビーシッター   第5章

    アモラがすっかり眠りについたのを確認すると、エヴィは少女の温かい抱擁から優しく抜け出した。幼いアモラは先ほどのお料理とお菓子作りで完全に疲れ切っていたようで、マットレスがわずかに沈んでも目を覚ます気配すら答えない。 彼女は床に散らばったおもちゃを丁寧に片付けた。眠る少女の姿を最後にもう一度見つめ、毛布を胸元まで綺麗に掛け直す。すべてが整ったことに心から満足してはじめて、彼女は静かに部屋を抜け出した。ドアの外で誰かが待ち構えているのを目にして、エヴィはあまりの驚きに跳ね上がらんばかりになった。「もう、マナン! 脅かさないでよ」彼女はあきれ顔で、低い声で不満を漏らした。「ほら、先にご飯をお食べ。サンシャインの分の料理も詰めておいたからね」その女性は温かい微笑みを浮かべ、エヴィの手を優しく引っ張った。マナン・ローナはラクロワ邸の家政婦長で、長年にわたってこの家に仕えていた。屋敷には他にも使用人がいたが、広大な敷地に実際に暮らしているラクロワ家の人間はアモラとラッセルの二人だけだった。ラッセルの両親はすでに他界しており、唯一の妹は現在ロンドンに住んでいる。身内はみな海外で暮らしているため、国内には他に家族がいなかった。「んー、すごく美味しいよ、マナン!」エヴィは一口一口を心から堪能しながら言った。家政婦長はただ愛おしそうに微笑んだ。「まあ、お世辞が上手なんだから」と彼女はおちゃめにからかい、目の前に水の入ったグラスを置いた。「あなたとアモラが焼いたケーキの方が、ずっと美味しかったわよ」「あ、アモラちゃんに言われたこと、忘れないでね、マナン?」エヴィは年上の女性に念を押した。「あのケーキの一切れは、パパの分なんだからね」「アモラと同じようなこと言っちゃって」マナン・ローナはくすくす笑った。「あの子ったら、私に何回も念を押してきたのよ」マナン・ローナがサンシャインのために用意してくれた料理の紙袋を抱え、エヴィは家政婦長に別れを告げて屋敷の出口へと向かった。敷地が広大すぎるため、正門まではかなりの距離があった。車道に次々と車が滑り込んできて、彼女の足が止まった。最初の2台は彼女の脇をそのまま通り過ぎていった。胸をなでおろそうとしたその瞬間、3台目の車が彼女のすぐ隣にピタリと停車した。中の人物がウィンドウを下ろした。その顔――ラッセルを目にした瞬間、エヴィの心

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status