電器屋は瑞穂らが思っていた以上早く、マンションへとやって来た。 道にさほど迷わなかったのか、瑞穂がマンションに帰宅するとほぼ同時に、和田マネージャーのスマートフォンに、「もう、近くまで来ている」という電話があったのだ。 「角に、ガソリンスタンドがあっただろ? そこを右に曲がったら、一階に美容院が入ってるマンションがあるから……」 淀みない口調で電器屋をナビゲートする和田マネージャーのその様は、瑞穂に改めて胸の高鳴りを覚えさせた。 「失礼します」 11時前、和田マネージャーに連れ添われる形でやって来た電器屋は、アコースティックベースのような低い声で言った。 良く言えば、クール。 悪く言えば、どこか無愛想。 それが、電器屋に対して、瑞穂が最初に抱いた第一印象であった。 汗を防ぐ為なのか、頭に巻かれたタオル。 タレ目、ところどころに見られる無精髭。 全身から発せられる、男の匂い。 黒いTシャツの上に水色の作業着と、いわゆる「ガテン系」と呼ばれる風貌に身を包んだ電器屋は、壁の上部に備え付けられたエアコンに目をやった後、おもむろに懐へと手を入れた。 「古田電器の古田と言います。よろしくお願いします」 先程の低い声色を保ったまま、電器屋は告げると、取り出した名刺を両手で瑞穂に対して差し出す。 「よろしくお願いします。 スミマセン、急にご無理を言いまして」 瑞穂は名刺を受け取ると、型通りの言葉を電器屋である古田に対して返した。 「コイツ、高畑さんとタメなんだ。同い年。 トシが一緒だから、エアコンに限らず家電で何か困った事があったら、今後相談してみたらいいんじゃない?」 その時、瑞穂と古田のやり取りを見ていた和田マネージャーが、仲人のように親身といった様子で、二人に対して言う。 「そうですね。 じゃあ、また何か困った事があれば、古田さんに相談させてもらいますね」 その和田マネージャーの言葉に瑞穂は、取り敢えず、といった感じの愛想笑いを浮かばせながら、返答をした。 「じゃ、早速ですが、ちょっとエアコンの方を見させてもらいますね」 一方、古田は「我関せず」とばかりに、エアコンに対して一直線に向かうと、真下に養生シートを敷き、自身の任務であるエアコンの点検へと取り掛かる。 ·
地獄のような連日の熱帯夜に耐え、ようやく迎えた土曜日。 瑞穂は、国道沿いのドトールのテーブル席でアイスコーヒーを飲みながら、待ち人である和田マネージャーを、チラチラと入口に目をやりながら待っていた。 自動ドアが開く。 「いらっしゃいませ」と、型通りの言葉を発する店員。 朝焼け前の夜空を想起させる、蒼いシャツ。 ディッキーズのチノパン、vansのスニーカー。 普段見る、ポール・スミスのスーツ姿とはまた違った和田マネージャーが、そこにはいた。 何気ない私服であったが、和田マネージャーが着るとそれは、瑞穂の心を捕らえて離さない、魅力的なモノへと変化する。 時刻は、9時50分。 待ち合わせ時刻の、10分前であった。 「早いね。 ゴメン、ひょっとして待ったんじゃない?」 和田マネージャーは、ハムチーズとアイスコーヒーが載ったトレイを持ちながら歩み寄ってくると、開口一番瑞穂に尋ねた。 「いえ、アタシも本当に今、来たトコでしたから」 瑞穂は手を振り、和田マネージャーの弁を否定する。 「それなら、良かった」 和田マネージャーは安堵の表情を見せると、瑞穂の向かいの席に腰掛け、アイスコーヒーにシロップを入れる。 「しかし、昨日も暑かったよね。 高畑さん、大丈夫だった?」 「ホント、最悪でした……」 ふぅ、とため息をついた後、瑞穂はしかめっ面で言葉を継いだ。 「一昨日はまだマシだったんですけど、昨日は昼間に雨が降った、っていうのがあったからですかね? 部屋の中がサウナみたいにジメジメしてて、夜中に何回も目が覚めましたよ。 で、少しでも何とかしようと、濡れタオルで身体拭いたりとか、冷感敷きパッドを買ってきたりとかしたんですけど、ホント『焼け石に水』って感じでした。 汗、全然止まらなかったですし。 明日から、また涼しくなるみたいですから、取り敢えず熱帯夜からは解放されるんですけど、夏、この状態がずっと続くと考えたら、頭が痛くなりましたよ。 だから、電器屋を紹介する、って言ってくれた和田マネージャーには、感謝しています。 また暑くなって、あの熱帯夜が来たら、この間和田マネージャーが言ってたみたいに『暑くて寝れなくて、仕事出来ませーん』って、ホント言いかねない状態でしたから」 「そりゃ
「おはよーございます」 抑揚を欠いた声で挨拶を述べて瑞穂は出社すると、入浴する親父のように緩慢な動作で自らのデスクへと腰掛けた。 パソコンの電源を入れ、ログインパスワードを入力すると、瑞穂は睡眠不足を少しでも解消させる為、組んだ両手の上に頭を載せ、仮眠をとる。 「眠そうだな」 その時、瑞穂の後ろから声が聞こえてきた。 「……はい」 瑞穂は寝ぼけまなこで、ゆっくりと後ろを振り返る。 見慣れた、ポール・スミスのスーツ。 くっきりとした二重まぶた、高くそびえ立った鼻。 嗅いだ人間の心を取り込むような、ブルガリ・プールオムの香り。 我が営業二課のエースである和田マネージャーが、口元を曲げながら瑞穂を見下ろしていた。 「眠いッス……」 仮眠を妨害された瑞穂は、唇を尖らせながら和田マネージャーに対して返答する。 「その様子じゃ、殆ど寝てないって感じだな。 なんか、変な事でもしてたのか?」 「してませんよ、そんな事」 和田マネージャーのブラックジョークに、瑞穂は苦笑いを浮かばせながら反論した。 「ウチの、エアコンが壊れたんですよ。 昨日、真夏みたいに蒸し暑かったでしょ。 だから、掃除はまだしてなかったんですけど、その場しのぎって感じで電源を入れたんですね。 けど、何か変な音が鳴るだけで、全然涼しくならなくて……。 何か、水漏れとかもしてましたし。 で、仕方ないから、昨日は扇風機だけで寝たんですけど、あまりにも暑くて殆ど寝れなくて……。 それで、今、こんな状態って訳ですよ」 「窓、開けたら、少しはマシになるだろ?」 「ウチ、二階なんですよ」 「なるほど」 アクビ交じりの瑞穂の弁を聞き終えた和田マネージャーは、納得した、といった様子で顎に手をあてた。 「まっ、朝礼までには何とかしますから、出来ればそっとしておいて下さいよ」 両腕を高く上げて伸びをしながら、瑞穂は和田マネージャーへと向き直る。 「朝にシャワー浴びたりとか、野菜ジュース飲んだりとか、柑橘系の香水つけたりとか。こっちも、気を引き締めるように、それなりに色々何とかしてますんで」 「あっ、そういえば確かに今日の高畑さんは、いつもとは違う匂いがするな」 和田マネージャーが、鼻をひくつかせる。
· · · · · · ──この匂い、凄く落ち着く。 · · · · · · · ──────────────────── 「……ちょっと、勘弁してよ」 リモコンを握りしめたまま、瑞穂はため息をつくと、額に浮き出た汗を左手でおもむろに拭った。 引っ越し当初以来、ルームメイトのごとく瑞穂と共にこの部屋で生活を共にしてきた、エアコン。 しかし、寿命が来たのか、エアコンは電車の走行音のような物々しい音を立てながら、カビ臭い吐息を排出するのみであった。 まだ5月だというのに、NHKの集金みたく望まれていない、季節外れの真夏日到来。 汗まみれになりながら、就労。 カーディガンを着て出社した自分を激しく呪いながら帰宅し、心身共にリフレッシュとばかりに、スーパーで買った「ざるラーメン」をエアコンの効いた部屋で食べ、缶ビールを一杯。 発汗作用のある入浴剤を入れたお風呂でデトックスを行い、アイスで涼を得て就寝。 そんな、ささやかな野望を抱いていた瑞穂であったが、目の前で展開されている「エアコンの故障」という現実は、瑞穂のその野望を粉微塵にまで破壊した。 帰りの電車で見た、スマートフォンの天気予報によると、このふざけた真夏日はまだ3日も続くらしい。 ──となると、何も手を打たなかったら丸三日間。 ずっと、ビニールハウスみたいに蒸し暑いこの環境で、寝起きし続けなけりゃいけない訳? 「……あり得ない」 舌打ちをしながら、瑞穂はエアコンの電源を切ると、収納スペースとなっているクローゼットから扇風機を取り出し、カバーとなっているゴミ袋を力任せに引きちぎった。 そして、続く形でコンセントを挿し込み、扇風機のスイッチを押すと、生ぬるい温風を顔面に浴びながら、瑞穂は一人沈思する。 繰り返すけど、まだ5月だ。 この休みにリフレッシュ、とばかりにGWに旅行に出かけたものだから、貯金も心もと無い。 言うまでもなく、夏のボーナスはまだ先だから、エアコンを買い換えるという選択肢は極力取りたくない。 ──となると、修理か。 瑞穂はテレビの横に置かれているカラーボックスからクリアファイルを取り出すと、そこに入れてあるエアコンの説明書を探した。 エアコンの説明書は、程なくして