火曜日以降の和田マネージャーの態度は、月曜と変わらぬままだった。あのアバンチュール以降、瑞穂に対して続けられていた「素っ気ない態度」はすっかりと鳴りを潜め、和田マネージャーのその対応は、かつてのフランクな対応を彷彿とさせるモノであった。──先週はまだ話せない、とか言ってたし、やっぱりこの間の土日辺りに、何か和田マネージャーの心境を一変させるような出来事があったんだな。結論付けた瑞穂はそれを聞き出したくて仕方なかったが、その衝動をどうにか抑え込み、指定された木曜日まで唇を閉ざす。やがて、木曜日を迎えた。6時前に退社した瑞穂は、駅までの帰り道をしばらく歩くと、自然な体《てい》を装いながら脇道へと逸れ、そこでひっそりと営業している純喫茶へと入った。『お疲れさまです。今、「コロンビア」って喫茶店でコーヒーを飲んでいます。駅に向かって真っ直ぐ歩いた後、百均を左に曲がってしばらく歩けば出てきます。分からなければ、また連絡下さい』和田マネージャーにLINEを送ると、瑞穂はスマートフォンをテーブルの上に置き、バッグから取り出した文庫本を読みながら、和田マネージャーからの次のアクションを待つ。果たしてLINEに書かれた簡単な説明だけで、件《くだん》の喫茶店へとたどり着く事が出来たのか。瑞穂が文庫本を20ページ程読み進めた辺りで、入口のカウベルが店内に鳴り響き、和田マネージャーは来店してきた。「ゴメンね、手間かけさせちゃって」和田マネージャーは眉尻を下げながら瑞穂に歩み寄ると、着ていたレザージャケットを脱ぐ。「話ってなんですか?」瑞穂は文庫本とスマートフォンをバッグへと戻すと、これまでの積もった思いから、抑揚を欠いた声で冷淡さを演出しながら和田マネージャーに対して問い掛ける。「まぁ、高畑さんには色々と報告しなきゃいけない事があるからね……」和田マネージャーは直接的な回答を避けると、レザージャケットを椅子の背もたれにかけ、瑞穂の真向かいに座った。「さて、何から切り出すべきかな」冷水を持ってきた老紳士に、アメリカンのホットを注文すると、和田マネージャーは陰鬱な表情でため息を吐く。まるで、ガン宣告を告げる医者のようだ。その表情から、自身にとって「good news」ではないな、と思った瑞穂は覚悟を決めた。「まず、高畑さんには一つの報告をさせても
休日である土日を挟み、週が明けた月曜日の事だ。出社した瑞穂は、朝礼が終わるとほぼ同時に、「高畑さん」と和田マネージャーから声をかけられた。「はい」「悪いけど、宛名書いてもらえないかな?高畑さん、字が上手かったでしょ。俺が書くと性格が滲み出て、字が曲がっちゃうからお願いしたいんだ」「いいですよ」瑞穂は頷くと、デスクに座る。「ありがと」和田マネージャーは軽やかな足取りで喜びを表現すると、自らのデスクから封筒とA4用紙を一枚持ってきた。「ココに書かれてる社名を、宛名として書いて欲しいんだ。今日中に終われば、OKだから、もういつでもいいからさ」「分かりました」瑞穂は頷くと、社名が書かれたA4用紙にチラリと目を通す。「あの、和田マネージャー。これ、『前株』『後株』が書いてないんですけど……」椅子を回転させ、瑞穂は身体ごと振り返ると、自分のデスクに戻ろうとしている和田マネージャーをすぐさま掴まえ、言った。「あっ、ホントだ。なんだこりゃ、ゴメン」和田マネージャーは引き返してくると、瑞穂からA4用紙を受け取り、左手を縦にやりながら謝罪の言葉を述べた。「また、後で持ってくる。ゴメンね」そして、自分のデスクへ戻ると、和田マネージャーはマウスを操作しながら、液晶画面を凝視していた。和田マネージャーのその背中を横目で見ながら、瑞穂はふと思った。──さっきの和田マネージャー、何か前の和田マネージャーに戻った、って感じだったな。あの夜のアバンチュール以降、和田マネージャーは瑞穂に素っ気ない態度を取っていたが、さっきの和田マネージャーからは、そういう素振りは見られなかった。自分に頼み事をしたいが為に、「素っ気ない態度」という設定をかなぐり捨て、下手《したて》に出ただけなのか。それとも、単に自分の思い過ごしであるのか。真相は分からない。その答えは、全て和田マネージャーの胸の中にある。そういえば、もう一週間が経ち、和田マネージャーが全てを話す、というリミットを迎えた。もし、和田マネージャーが約束を覚えていればの話だが、どうして今まで素っ気ない態度を取っていたのか、という理由を、今週瑞穂はようやく聞く事が出来る。·『高畑さん。来週一日だけ、予定を俺の為に空けてくれたら嬉しい。会社帰りに、話したいからさ。この話は、休憩時間とかちょっと
8時半という、遅めの時間が奏功したのか、瑞穂と多香子の二人はトンカツ屋にすんなりと入る事が出来た。着席し、歩み寄ってきた店員に注文を告げると、二人は積もる話が尽きないのか、再び話し始める。「そういや、瑞穂。あのバーベキュー以降、何かいい感じになった人とかいる?」「うーん」瑞穂は小首をかしげたまま、明言を避けた。確かに、あのバーベキューをキッカケに和田マネージャーとの距離は縮まっていき、結果的には性交も行う事が出来た。が、その後の和田マネージャーの対応を思えば「いい感じになった」とはとても言えず、瑞穂は苦笑を浮かばせたまま、多香子の質問をやり過ごそうとした。「つーか、あのバーベキュー。カッコいい人、何人かいたよね。そういう意味では誘ってくれた事に感謝だけど、結局瑞穂はあのバーベキューで誰が目当てだったの?」「えーと……」瑞穂は湯呑みを手に取り、ほうじ茶を一口飲む。「ってか、アタシより姉さんは?姉さん、あのバーベキューの後、参加してた男の人と二軒目行ってたでしょ。それ考えたら、アタシより姉さんの方が面白そうな話がありそうなんだけどなぁ」和田マネージャーとの話をしたくないと思った瑞穂は、手に取ったボールを多香子へと投げ返す。「あっ、アタシはほぼアレっきりだよ。あのバーベキューの後、別の日に二人だけで会ったんだけど、それっきり。向こうはヤレれば誰でもいいのか知んないけど、会った後もしつこくLINE送ってくるんだよね。『また、メシでも食いに行こうよ』とか、能天気に。こっちとしては、一回二人っきりで会ったらある程度分かっちゃったから、LINE返信せず、そのまま既読スルーしてやった。しつこいんだよな。ロクに前戯もしねえクセに、すぐに入れようとしてきやがってよ」「あー、分かる。そういうタイプって、何でかこっちには『口でして』とか、訳分かんない事言ってくるよね。自分はそういうの、一切してくんないのに」「で、そういう奴に限って『イッちゃったの? イッちゃったの?』って、しつこく訊いてくると……」「あはは、いるいる。こんなのでイク訳ねーだろ、って」「いや、っていうか、そんな話はどーでもいいんだよ」多香子は吹き出すと、笑みを保ったまま再び瑞穂に対して切り出した。「だからさ、瑞穂はどうなの?あのバーベキュー以降、何かいい感じ
その着信があったのは、仕事を終えた木曜日の夜であった。ドラッグストアでレジの行列に並んでいた瑞穂は、精算を終えるとすぐさまバッグからスマートフォンを取り出し、着信主が誰なのか確認をした。電話を掛けてきたのは、多香子であった。高校時代、バイト先で色々と世話になった2つ年上の先輩であり、初夏のバーベキューでも何かと場を盛り上げてくれた、瑞穂の女友達だ。「もしもーし」瑞穂が電話をかけ直すやいなや、多香子はいつもの陽気な素振りを声色に表しながら電話に出た。「もしもし、何?」瑞穂はスマートフォンを耳にあて、レジ袋を折り曲げた左腕に引っ掛ける。「いや、百貨店に寄ったついでに、ちょっとあの水出しコーヒーの『blue』って喫茶店でコーヒー飲んでるんだよね。瑞穂、もう家に帰ってるとこ?そうじゃなかったら、ちょっと会えないかな、と思ったんだけど」「今、近くのドラッグストアを出たばっかりだから、会えない事はないよ。けど、歩いていくから、20分くらいかかると思う」「じゅーぶん」電話の向こうから、多香子の微笑が洩れ聞こえてきた。「じゃ、アタシはココでちびちびコーヒーを飲んで待っておくよ。あっ、別に急がなくてもいいよ。急用って訳じゃないし、ホントにただ会いたくなった、ってだけだから」「分かった。じゃ、また後でね」瑞穂は電話を切ると、スマートフォンをバッグに入れ、早足で多香子の待つ「blue」へと向かう。商店街を通り抜け、駅前の大通りで信号が青に変わるのを待っている間、瑞穂は不意に和田マネージャーの事を思い出した。──確か、あの夜もここで和田マネージャーと信号待ちをしたな。物凄い大雨で、折り畳みの傘が殆ど機能しなかったけど。甘美な思い出に、瑞穂は笑みをこぼしそうになる。が、その表情はすぐに曇りを見せた。その夜の交接が原因で、今現在のにべもない和田マネージャーの対応を引き起こしたかもしれないのだ。「来週話す」という言葉のみで、頑としてその理由を明らかにしない和田マネージャーの対応をも引き連れて思い出した瑞穂は胸を痛めると、ピヨピヨと歩行を促す誘導音を耳にしながら横断歩道を渡っていった。ため息を一つ吐きながら瑞穂は駅ビルへと入ると、ビル内に設営されているショッピングフロアを突っ切り、エスカレーターを降りる。地下街を数分かけて歩き、人通りがまば
古田との食事を終え、土日が過ぎると、瑞穂を待っていたのは代わり映えのしない退屈な日常であった。仕事は出来ないクセに、態度だけはやたらとデカイ男性社員。見栄えだけは良く、仕事においては殆ど使えない後輩。文句しか言わない、取引先。そういった存在とやり取りする時、瑞穂は極力波風を立てないよう、取り繕いの笑顔を浮かばせながら対応するのだが、やはり無理をしているからか。その際に生じたストレスは、掃除をし忘れた綿埃のように、どんどんと瑞穂の心の隅に積もっていった。以前ならそういったストレスも、和田マネージャーとのフランクなやり取りや女子社員同士の飲み会などで、ある程度解消する事は出来た。が、結婚などで仲の良い女子社員は次々と退社。そして、未だ素っ気ない対応を続けている和田マネージャーという状況では、ストレスの解消もままならず、瑞穂のため息の数は次第に増えていった。そんな状況下の中、瑞穂は誕生日を迎えた。30歳、「若い」と言われる年齢はとうに過ぎてはいるのだが、時の無情がもたらす「2」から「3」への数字の変化は、さすがに瑞穂を愕然《がくぜん》とさせた。新たなステージに入った自身の年齢に、瑞穂は舌打ちをくれたい気分だったのだが、かつて育んだ友情は瑞穂が踏み入れたその新たなステージを無邪気といった様子で歓迎してくれた。『高畑さん、誕生日おめでとう☆会社やめてから全然会ってないけど、また昔みたいに飲みに行ったりしようね』『おめでとう、瑞穂ちゃん。今年は旅行とか、バーベキューとか、サオリンの結婚式とかで瑞穂ちゃんとは何回も会ってるけど、お互いがお婆ちゃんになってもああいう風に会っていきたいよね。これからも私の良き「お母さん」でいて下さい♪』『みーづほ、誕生日おめでとう。こっちの世界へヨウコソ(笑)あのバーベキュー以来会ってないけど、またパンケーキとか二人で食べに行こうよ。ああいう集まりがあったら、また誘ってね♪』0時を過ぎるやいなや、LINEやメールを通じて続々と寄せられる、誕生日を祝うメッセージ。さすがに若い時に比べればその数は減ったものの、これらのメッセージはストレスで傷ついた瑞穂の心を癒し、これまで送ってきた自己の人生をも肯定してくれているような気分にさせた。··12月に入った。夏の猛暑の影響からか、今年は「暖冬」と天気予報で散
店を後にし、商店街を歩いている最中、瑞穂と古田は沈黙したままであった。あの落涙が、二人の間に妙な空気を作ってしまったのか、前を歩く古田の背中はどこか消沈しており、同じく気落ちしている瑞穂もその背中に言葉をかけようとはせず、二人は無言で歩を進めていった。行き掛けに見た、スプレーアートと言うには程遠い、チーム名なのかシンボルなのか判然としない壁の落書きを横目で見た後、瑞穂は先導する古田についていく形で国道沿いのコインパーキングへ入る。「今日は……、何かスミマセンでした」駐車料金の精算を済ませ、ワンボックスカーのフロントドアを開けた時、古田はようやく口を開き、瑞穂に対して謝罪の言葉を述べた。「いえ」霧雨のように静かな声で、瑞穂は言葉を返す。「こっちも、スミマセン。お店だってのに、変なトコ見せちゃったりして……」「いや、それは俺の下らない話が原因ですから」「あと、もつ鍋もごちそうさまでした。とても、美味しかったです」瑞穂はどうにか微笑を作り上げると、古田に対し心持ち頭を下げた。「いえ」瑞穂の様子に少し気を良くしたのか、古田は僅かに口角をあげると「どうぞ、乗ってください」と、瑞穂に乗車を促した。瑞穂は数秒逡巡したが、古田の言葉に応じ、ワンボックスカーの助手席に座った。先程、コインパーキングまで歩いた道中での雰囲気を考えれば、おそらく車内においても二人の間には重苦しい空気が漂うだろう。それ故、瑞穂は古田の送迎を断り、電車かタクシーで帰ろうとしたのだが、瑞穂は何故かそうせず古田の言葉に応じ、ワンボックスカーに乗り込んでしまった。無難に事を済ませようとする意思よりも強い「何か」が、瑞穂の背中を満員電車の駅員のように懸命に押していたのだ。「足塚ですよね、高畑さん」シートベルトを締めながら、古田が傍らの瑞穂に目を向ける。「そうです」古田の問いに瑞穂が頷くと、ワンボックスカーはゆっくりと発進した。瑞穂が予期した通り、車内の空気は重苦しいモノであった。瑞穂と古田の二人は、切り出す言葉が見つからない状態を続け、ワンボックスカーが作り出すタイヤの走行音を耳にしながら、無言で流れていく街の夜景を見るのみであった。「……あの」しかし、信号待ちでワンボックスカーが停車した時、さすがに耐えきれなくなったのか古田は瑞穂に水を向けた。·「はい」瑞