「失礼いたします。
トラヴィス様、キャメロン様がみえています。」僕が邸で執務をしていると、ヨルダンが姉の訪問を知らせに来た。
「何の用だ?」
「おそらく、アレシア様に話を聞いて欲しくて来たのではないかと思います。」
「頻繁に来ているのか?」
「はい、いつもアレシア様がお相手になられますので。」
アレシアが家出してから数日が経っていた。
しかし、一向に帰って来るようすはなかった。「仕方がない、今日はここに通すように。」
「承知しました。」
ヨルダンが去った執務室を、溜息と共に見つめる。
ここ数日、アレシアがもしかしたら邸に戻るのではないかと期待し、王宮に出仕してもすぐ邸に戻る生活を続けていた。何としてでも、彼女と話をしなければならない。
家出したままのアレシアを許せるはずがない。しばらくした後、ヨルダンに案内されてキャメロンがやって来た。
「トラヴィス、久しぶりね。
邸にいるなんて、ここ一年で初めてじゃない?」姉のキャメロンは、執務室に入るなり、腕を組み、ソファにどっかりと座る。
我が姉ながら、まるで我が物顔でソファに座るキャメロンに、本当に貴族なのかと問いたくなる。
無作法甚だしい。
「それで、何の用だ?
アレシアならいないぞ?」「聞いたわ。
アレシアは、あなたに夢中だったのに、どうしてこうなったの?」「そうなのか?
僕をいつまでも受け入れないのは、彼女の方だが?」「ちょっと、何それ?
トラヴィスはそう思っているの? ちゃんとしてよ。 アレシアがいないと困るじゃない。 私の話を誰が聞いてくれるの?」「僕ではダメか?」
「話にならないわ。
アレシアはトラヴィスに必要とされていないって言っていたわ。君が必要だと言って、たまには二人で出かけてあげればいいだけじゃない。
大切にしてあげて。」「そんなことアレシアは言っていたのか?」
「そうよ。」
キャメロンは怪訝な顔で、責めるように僕をじろじろと見る。
「わかった、なんとかする。」
「頼むわよ、私はアレシアがいないと困るの。
トラヴィスに会っても仕方ないから、帰るわ。アレシアの居場所をヨルダンに聞かなくちゃ。
どうせ、あなたに聞いても、無駄だろうから。でも、私達の家が貧乏だった頃から、あなたには頑張ってもらっているから、教えてあげる。
女は箱に入れてしまっておくだけじゃダメなの。
毎日手入れが必要なのよ。」そう言うと、キャメロンは来た時と同じように無遠慮に、帰って行った。
彼女もヨルダンも出て行ったアレシアを責めることはなく、結局、僕が責められる。
いつまでも、僕を受け入れないアレシアに不満を持つ僕がいけないのか?
僕が公爵家を継がないといけないのを知っていて、嫁いだのは彼女だろう?
アレシアは形だけの夫婦生活を望んでいると思っていたのに、違うのか?
その答えを正面から聞けずにいるうちに、もう三年が経ってしまった。
けれど、僕は諦めたくない。その時、キャメロンを見送ったヨルダンが、執務室に戻って来ていた。
「姉はよくこの邸に来ていたのか?」
「はい、頻繁にいらしてました。
アレシア様を訪ねていらして。 キャメロン様にとって、愚痴を優しく聞いてくれる家族は、アレシア様だけですから。それに、アレシア様はその内容を他の人に漏らすこともありませんから、安心してお話できるのでしょう。」
「そうか。」
僕達姉弟は公爵家と言っても、ただ王家の縁者というだけで、親を早くに無くしたため、格式や作法など重んじることもなく、必死で生きて来た過去がある。
だから、生ぬるく生きて来た普通の貴族とは違う感覚を持っていて、彼女も愚痴をこぼしたくなることが、多々あるのだろう。
姉は嫁ぎ先でうまくやれていないのだろうか?
考えてみたら、僕からそんなことを尋ねたことは一度もなかった。親はもういないけれど、彼女にとってはここが実家になる。
我が物顔で無作法にくつろいでも、アレシアは温かく迎えていたのだろう。
僕は貴族としてのオフリー家を守ってきたけれど、家族としては姉との関わりをほぼしていない。
一家を支え、リベルト王子の側近である僕には、姉の愚痴を聞く気も、時間もなかった。
先ほどの口ぶりだと、そのことについては理解しているようだ。
だから、僕にアドバイスしてきたのだろう。彼女なりに、僕達夫婦にうまくやってほしいと思っているということか。
アレシアは、姉にとってもいつの間にか大切な家族だったんだな。
僕ができなかったことを、陰でしていてくれたとは。
「姉は女には手入れが必要だと言っていた。
ヨルダンもそう思うか?」「はい、僭越ながら同感でございます。」
「そうか。
だが、それは受け入れられなくても、続けるべきことなのだろうか? では僕はどうすればいいのだろう?」「それは、ご自分でお考えいただくべきかと存じます。
しかし、もし私がトラヴィス様の立場でしたら、アレシア様を訪ねて、直接お話してみます。トラヴィス様は何を言われても受け止める覚悟がありますか?」
「何をとは?」
「それは、わかりません。
アレシア様がこの先のことをどう考えているのか、ということです。」「とりあえず、花やドレスを送ってみるか?」
ヨルダンは僕を見つめ、深い溜息をつく。
「アレシア様が今いるのは、ドレス公房です。
そこに、違う店のドレスを送ったら、大問題です。それに、花を贈るのは散々されて来ています。
送っても構いませんが、今の状況では効果はないかと。」「そうか。」
僕は段々と怒りが湧いてきた。
どうして僕がこんなにもアレシアのことを考え続けねばならないのか?彼女が僕を受け入れないのに、これ以上、何を求めているのか見当もつかない。
ヨルダンも姉も、まるで僕が残念な者であるかのように、溜息をつく。
「アレシアのことは、しばらく様子を見ることにしよう。」
そう言って僕は、また現実から目を逸らす道を選ぶ。
策略や駆け引きが当たり前の王宮で働いている人々の方が、よほど理解しやすいなんて僕はどうかしている。
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夕方近くにトラヴィスがリベルト王子の執務室に行くと、早速やるべき書類が山積みになっているが、皆出払っている。
仕方なく書類を片付けていると、リベルト王子が部屋に戻って来た。
「おい、トラヴィス、邸の方は大丈夫なのか?」
「そちらはもう手遅れかもしれません。」
「ちゃんと夫人と話してみろよ。」
「せっかくお暇をいただいても、彼女が邸に戻りませんので。」
「だったら、夫人のいるところに行ってみたらどうだ?
居場所ぐらいは把握しているんだろう?」「執事なら…多分。」
「おい、それまずいだろ。
今すぐ帰った方がいい。 あの日からトラヴィスはずっと顔をしかめているぞ、自覚ないのか?」「はい。」
僕はそんなにわかりやすくしかめ面をしていたのか?
悩みが顔に出るなんて、貴族としてはあるまじきことだ。 そんな自覚は全くなかった。ただ、アレシアがいないせいで、よく眠れずに頭が回らない気がしている。
「もう、トラヴィス、休んでいいぞ。
私が頼りになるからと、そばに居てもらい過ぎたんだ。 反省している。」「いえ、リベルト様が謝ることではありません。
私が分かり合えない夫婦生活に正面から向き合わず、遠のいていただけです。」「いや、私が悪かったよ。」
リベルト様は申し訳なさそうな表情で、しきりに謝っている。
僕が問題に背を向けている内に、彼が謝りたくなるほど僕達夫婦は深刻になってしまっていたのか?
この冷え切った関係は、アレシアが望んだものだと思っていた。
政略結婚では、よくあることだ。だが、どんなに仮面夫婦だとしても、夫婦であることを貫くのが大前提である。
それなのに、彼女が邸を出て行くなんて思いもしなかった。僕はアレシアに怒りを感じていたが、周りの反応を見ると、段々と不安になって来た。
運良く、近々王宮で夜会がある。
アレシアも貴族の一員として、王家が開く夜会には、僕と一緒に出席するはずだ。
その時にきちんと話をしよう。
今日もアレシアは静かに湖を眺めていた。 水面に降り注ぐ陽の光が反射して、とても綺麗ね。 空も澄み渡って、どこまでも青い。 すべてを失っても、陽の光と青い空、この湖の美しさ、澄んだ空気は変わらないわ。 お兄様が選んだこの場所が、閉ざされた地下ような狭く息苦しい所でないだけ救いかもしれない。 その時、ふと湖に目をやると、湖に浮かぶ小さな船が何隻も見えた。 ここに来てから、船なんて一度も見たことが無かったわ。 その船達はどんどん島に近づいて来るように見える。 もしかしたら、私を助けてくれる船かもしれない。 けれど、同じぐらいの確率で悪意のある人達が襲おうとしているのかも。 怖いわ。 でも、どこにも逃げ場なんて、この島にはないのだ。 考えただけで、体が震えるほどの恐怖に襲われる。 とりあえず、…お兄様。 必死に別邸の中を走り回って探しても、どこにも姿が見えない。 こんな時にお兄様は、一体どこに行ってしまったの? 自分から彼を探すことがないから、どこをどう探せばいいのかすらわからない。 焦りだけが募る中、湖岸に船が着き、剣を手にした男達が、まっすぐ邸へ向かって駆けてくるのが見えた。 不安と焦燥が胸をかき乱す。 玄関の方から、誰かが扉を叩くような音が響いた。 続けざまに、強く、激しく。 ドンドン、ドンドンドン。 私は思わず息を呑み、急いで寝室に入り、ベッドの横に身を潜める。 息を殺して、なるべく小さくなるようにしゃがんだ。 でも、寝室に人が入って来たら、すぐに見つかってしまうだろう。 これではとても隠れたうちに入らない。 バキ、バキバキッ。 ドアが破られる音が聞こえる。 もし、見つかってしまったら、今日が人生最後の日になるかもしれない。 そう思って、寝室で小さくなり震えていると、走る足音がいくつも響き、その一つが近づき、後ろから優しい声が聞こえる。「アレシア、ここにいたんだね。 もう大丈夫だよ。 一緒に帰ろう。」「トラヴィス様なの?」 久しぶりに聞くトラヴィス様の声に、咄嗟に上を向くと、彼が微笑んで、私を見つめている。「そうだよ。 君の夫のトラヴィスだ。 無事で良かった…本当に。 一緒に帰ろう。」「私、お邸に戻ってもいいの?」「もちろん、そのために迎えに来たんだから。」 私は躊躇いがちにトラヴ
アレシアは今日も変わらず、湖のほとりをどうすることもできずに歩いていた。 泳いで渡るには大き過ぎるし、いかだを作ったこともなければ、そのための技術もない。 それなら、小さな空き瓶にお手紙を入れて流してみるのはどうかしら? いつか誰かがそれに気づいて、手紙を読んで、この湖を渡って助けに来てくれるかもしれない…。 わかっている。 その可能性はほぼないに等しい。 けれど、このまま何もしないよりは、できる事を試してみよう。 そうして、お手紙をしたためる。 「私がこの島に閉じ込められていること。」 「オフリー公爵へこのお手紙を渡してほしいこと。 私は彼を心から想っていて、きっと彼はこの手紙を読んだら、届けてくれたあなたを邪険にすることはないこと。」 トラヴィス様は、私のことを過去だと思っても、私の救出のために動いてくれる。 そんな優しさは、短い結婚生活で感じていた。 だから、嫌われているとわかっていても最後に頼りたいのは、やはりトラヴィス様だったし、想い浮かべるのもやはり彼だった。 離縁したいと一方的に姿を消すことで、彼の人生に傷をつけ、失望させたのもわかっている。 それでも、変わらず彼のことが好きだった。 「もし、彼が無理ならばせめて、モナンジュにお願いしたいこと。」 「願いが叶ったならば、報酬もお渡ししたいこと。」 それらを丁寧にしたため、署名した。 そのお手紙の入った瓶を十ほど流してみたけれど、時間をかけてそのほとんどが波に押し戻され、再び湖畔に戻って来てしまった。 私は落胆しながら、再びその瓶を湖に流し、穏やかな湖を見つめる。 お兄様の計画は完璧で、どんなに私が足掻こうとしても、湖を渡る方法は見つかりそうにない。 そんな私とは対照的に、彼はいつもと変わりなく、湖へ行くという私を優しく送り出し、成果がなく、夕方になりしょんぼりと帰る私に、食事を作ってくれている。 一見すれば、穏やかな兄妹の生活だけど、私はお兄様の内に潜む狂気が怖い。 今だトラヴィス様から、離縁状のサインがもらえず、私達はかろうじて兄妹のままだ。 でも、もしトラヴィス様がサインをしてしまったら、きっとお兄様は私と無理矢理結婚するだろう。 その時、ここに囚われたままの私に逃げ場などないし、助けを求めれる相手すら誰もいない。 けれど私は、どんな理由があ
「夜遅くにすまない。 入れてもらえないだろうか?」 トラヴィス達がモナンジュを訪れると、困惑した顔のレオニーと言う店の女性と、あまり会いたくないと思っていたカーライルが、僕らを迎え入れた。「オフリー公爵様、お久しぶりです。 どうかなさいましたか?」「こちらにアレシアが来ているかい?」「いえ、オフリー公爵様と離縁することになったと言って、一度顔を出したきりです。」「やはり、こちらにもいないか。」「公爵様、アレシア様は落ち着いたら、また来ると言っていました。 でも、こんなに長く来ないなんて、何かあったのではないかと心配しているところでした。 ところで、そちらの方は?」 「こちらは私の友人のリベロと言う男です。 彼はアレシアの兄が気にかかると、一緒に来てくれたのです。」 リベルト王子は軽く会釈するが、カツラを被っているため、レオニー達は彼が王子だと気づかない。 彼は時々、こうして王都の街を自由に歩き回っている。 その時、ずっと黙っていたカーライルが重い口を開ける。「オフリー公爵様、僕のことを快く思っておられないのは承知しておりますが、お話してもよろしいでしょうか?」「ああ。」「では奥にいらしてください。」 アレシアがカーライルのところにいないのなら、彼よりホリック卿が中心となっている可能性が高い。 だが、それは彼とじっくり話をしてみないとわからない。 本来であれば、彼に助けを求めるなど絶対にしたくなかったが、今はそうも言っていられない。 彼女を取り戻すためには、どんな手段も惜しまない。 その中には嫌いなこの男と協力することも含まれている。 屈辱ではあるが、その覚悟はすでにできていた。 僕達四人は店を閉めて、奥の部屋で腰を据えて話をすることにした。「アレシア様が最後にここに来た時、とても沈んだ様子でした。 オフリー公爵様に、肌を美しくする薬を飲んでいたことを咎められたと。 そして、嫌われたまま邸にいるのはつらいから、もう離縁するつもりだと。 けれど、その時ふと思ったのです。 肌が綺麗になる程度の薬を飲むだけで、両家やその親族、さらには貴族社会全体の力関係にすら影響を与えるような結婚を、それだけで蔑ろにする男などいない。 きっと根本的な何か、別の重要な理由があるはずに違いないと思いました。 だから僕は、このまま
「まだいたのか? 浮かない顔をしているな。 夫人と何かあったのか?」 トラヴィスが王宮で急ぎもしない執務を片付けていると、リベルト王子が現れて、早速触れてほしくない話題を口にする。「リベルト様、お耳汚しになりますので気になさらず。」「そんなことを言っても、私にも関わることだから、ちゃんと話してもらうぞ。」 観念した僕は、リベルト王子に従い、彼の私室で、強めの酒を酌み交わしながら口を開く。「ここに僕を連れて来た時は、どんな尋問よりも隠しごとを許さないですよね?」 ここは完全な私室で、近衛兵が入り口を警備し、限られた者しか近づくことさえできない。 だから、ごく個人的な話でも人に聞かれることなく話せるのだ。「で、何があったんだ?」「妻が再び出て行きました。 僕はアレシアには好きに生きていいなんて言いながら、実は隠しごとをせず、僕に本当の気持ちを話して欲しかったんです。 そして、彼女は今でも心を開くつもりがないと知った時、気持ちを抑えきれず、ついに彼女を突き放してしまいました。 それからは、彼女と向き合うことができず、顔を見るのを避けていたんです。 それでも朝方になると彼女のいるベッドに入り、彼女を抱きしめてわずかに眠りつく、そんな日々を送っていました。 けれども、彼女は僕を許せなかったのでしょう。 ついに使用人達の静止を振り切って、邸を出て行ったそうです。」「でも、いつものモナンジュというドレス工房にいるんじゃないのか?」「おそらく、そちらにはいないでしょう。 今回はアレシアの兄のホリック卿と出て行ったと、邸の者が話していたので。 それに、アレシアからの代理で、そのホリック卿から離縁状が送られてきております。 つまり、アレシアは本気で僕と別れたいと思ったのでしょう。 今はもう後悔しかありません。 どうして僕はあの時、子供は諦めるから、そばにいてほしいと言わなかったのかと。」「その話は、初めて聞いたよ。 夫人は子供が欲しくなかったのかい?」「はい、アレシアは僕が気づいていないと思って、最初から避妊薬を飲んでいました。 結婚したばかりの頃はまだ、彼女の妊娠したくないと言う気持ちを尊重して、深く詮索するつもりはありませんでした。 けれども、一年が経っても全くやめようとしないその姿に絶望したのです。 アレシアは、一生僕
目が覚めるとアレシアは、湖を見渡せる別邸のベッドに横たわっていた。 白く可愛らしい寝室には、自分が寝ている大きなベッドがあり、目の前には陽の光に照らされてキラキラ輝く湖が広がっている。「やあ、目覚めたかい? 僕の眠り姫。 何をしても起きないから、驚いたよ。 眠りが深いのは、相変わらずなんだね。」 お兄様がベッドサイドの椅子に腰掛けて、微笑んでいる。「最近、トラヴィス様を想って眠れなかったから、余計に寝てしまったのね。 でも、眠りが深いのは変わらずなの。 それに良く寝たから、元気が出て来たわ。 ここがお兄様の言っていた湖の見える別邸なのね。 とても綺麗だわ。」「そうだよ。 この別邸を初めて見た時から、アレシアをずっとここに連れて来たかったんだ。」「嬉しいわ。 ありがとう。」「ここで二人で暮らそう。」「よろしくお願いします。 あれ? このベッドの頭の所に掛かっている大きな絵は私?」 ベッドの頭側の壁に、両手を広げるほどの絵画が飾られていて、そこには椅子に座り微笑んでいる私が、描かれている。 おそらく、私の結婚前の頃の絵ね。 どうしてここにあるのかしら。「そうだよ。 綺麗だろ?」「こんな絵をいつ書いてもらったのかしら? 全然覚えていないわ。」「邸にいた者で絵の才能があるやつがいたんだ。 その者に書かせたよ。 それよりお腹が空いただろう? 食事にしよう。」「はい。」 二人は湖の見える庭で、朝食を食べる。 テーブルには、パン、スープ、果実水が並ぶが、どこか違和感がある。 何だろう?「美味しいかい?」「ええ、自然の中だと食欲が湧くわ。 最近、食事が喉を通らなかったから。」「だったら、もう少し運んで来ようか?」「いいえ、これだけで十分よ。 近くで湖を見てもいいかしら?」「もちろんだよ。 一緒に行こう。」 二人は並んで静かな湖の景色を眺めている。「とっても綺麗、水が透き通っているのね。」「そうだ。 湖はとても深いことを知っているかい?」「そうなの? 知らなかったわ。」「湖はね、深いし、広いから泳いで渡ることは不可能なんだ。」「ふふ、向こうの岸さえ微かに見える程度なのよ。 ここを泳ごうとする人なんていないわ。」「そうだね。」 邸に戻ると、寝室のベッドは乱れたままだった。「あ
もうどれくらいの間、トラヴィス様のお顔を見ていないかしら。 アレシアは、昼間はモナンジュで仕事に集中し気を紛らわせていたが、夜一人になると静まりかえる寝室で、ただトラヴィス様の帰りを待つ日々が続いている。 もしかしたら、今日こそ彼が寝室を訪れ、もう一度やり直す機会を与えてくれるかもしれないと淡い期待を捨てきれずにいた。 私が元々美人で、肌の美しさにこだわったりしなければ、トラヴィス様は私を嫌わずにいてくれたのかしら? それとも、二人の間に秘密を持たずに、お薬のことを打ち明けていれば、許してくれたのかもしれない。 反対に、もっと早くトラヴィス様が、「薬を飲む私が嫌だ。」と言ってくれたなら、どれほど肌が荒れようとやめたのに。 いいえ、違うわ。 私は嫌だと言われるのがわかっていたから、内緒で続けていたんだわ。 だから、どこまでも私が悪い。 結果的に私は、彼の思いを裏切ってしまい、今となってはもう手遅れね。 きっと彼は二度と私に微笑んでくれることはないだろう。 昨日、お兄様にお手紙を書いた。 もう、トラヴィス様を諦める潮時なのだろうと思ったから。 彼には、私を避けるのではなく、もっと身体を休めるために寝室を使ってほしい。 私達がこうなる前のトラヴィス様は、以前より元気そうで溌剌としていた。 きっと彼は、私を避けないで生活すれば、いくら忙しいとはいえ、もう少し健やかに暮らせるのだろう。 私がここに居座ると、トラヴィス様の穏やかな生活の妨げになってしまう。 それも、避けたかった。 でも、一番は私に再び心を向けてくれたトラヴィス様が、また背を向けてしまったことに、もう耐えられなくなったからだと思う。 結婚三年目のお祝いの時も苦しかったけれど、今の苦しみは重くて、深い。 彼の口から、私を拒絶する言葉を聞いてしまったのだから。 あれから何度も思い返し、そのたびに悲しみに沈む。 まるで身体から全ての血が失われたように、抜け殻で、考えることも、感じることも息を奪う。 なんとか浅く息を繰り返すだけで、精一杯だった。-------------------------------------------------------------------------------------「やあ、アレシア、随分と塞いでいるじゃないか?」「お兄