「このドレス素敵ですね。
いつもありがとう。」「こちらこそありがとうございます。」
王宮で案内された先には、侍女達が数人待機していて、出来上がったドレスを受け取った。
貴族令嬢に「破局するドレス。」と呼ばれたモナンジュのドレスも、職業婦人である王宮の侍女達にとっては問題なく、注文をいただいているそうだ。
しかし、令嬢達のドレスを一着作るよりも利益が少ない。
そして、求められる色は灰色や黒、茶色など地味で機能的なドレスばかりなので、レオニーはあまりやる気が出ず、内心は渋々作っているらしい。
「あなたのところ大変だって、噂を聞いたわよ。」
「はい、こちらまで噂が届いていましたか?」
「ええ、ここは噂などあっという間に広がるところだから。」
「とりあえず、資金繰りの目処はつきましたので、店を閉めることはありません。
これからもよろしくお願いします。」「そう?
なら頼んでもいいかしら?」「はい。」
それから、いくつかの注文をもらい、レオニーとアレシアは帰路についた。
「彼女達のドレスを作るために、生地屋に寄って帰ってもいいでしょうか?」
「もちろんよ。」
「そちらは、エイダにも紹介したんですよ。
お邸のカーテンなどを新調するとかで。」「トラヴィス様の青色のカーテンを買ったお店ね。」
「そうです。」
二人は更に生地屋へと向かう。
レオニーと歩きながら、いつもはこんなに出歩くことがない私は、どんな瞬間も新たな発見で、この時間も貴重だと感じた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「いらっしゃいませ。」
王都で一番大きな生地屋に足を運び、侍女達のドレス用の生地を探していると、突然後ろから声をかけられた。
「今日はお忍びで、ドレスの生地選びですか?」
「カーライル、珍しいわね。
店頭にいるなんて。」振り向いたその先で、レオニーと男性が話している。
カーライルと呼ばれるその男性は、繊細そうな緑色の瞳とほっそりとした体つきで、女性に好まれ易い爽やかな青年だった。
そして、私をじっと興味深そうに見つめて、視線を外さない。
「この女性は?」
「あら、本当にカーライルの目利きは素晴らしいわね。
もうバレてしまったけれど、この方は貴族でいらっしゃるの。」「やっぱりそうだよね。
普通の民とは纏う雰囲気が違う。」「そうなの?
私、そう見えないように努力しているつもりなのだけど。」私の民のフリを見抜かれてしまったことがショックだった。
王宮では、誰にも気づかれなかったのに。「大丈夫ですよ。
普通なら気づかないと思いますから。 僕は正しい目利きをすることで、事業をしている。 それだけですから。お名前を伺ってもいいですか?
ぜひお近づきになりたい。」「どうして?」
「あなたが素敵だからですよ。
民のフリをしているのも気になりますし。」「私はアレシアよ。
よろしくね。」「美味しいお茶を一緒にいかがですか?
ぜひお話してみたい。 さあ、奥へ参りましょう。」カーライルは、あっという間に、奥の応接室へと私達を案内する。
「待って、私達、生地を探している途中なの。」
「アレシア様、お望みの生地を応接室にお持ちします。
あなたは希望の生地を伝えてくれるだけでいい。 それをお持ちしますので。」「ありがとう。
アレシア様がいるから、わかりやすく特別扱いなのね。」「アレシア様には、いつでも特別待遇いたします。」
カーライルは応接室のソファに私達を座らせると、ニコリと笑って私を見つめる。
「カーライル、あなた勘違いしているかもしれないけれど、アレシア様は結婚しているのよ。」
「えっ、そうなのですか?
それは最近聞いた中で一番残念です。」カーライルは、大袈裟に手を額に当てて、悲しげに下を向く。
「それもお仕事の一貫なの?
だって、私達は今会ったばかりよ。」「違いますよ、本当にアレシア様に心を奪われたんですよ。
誰にでもこうしているわけではありません。でも、…わかりました。
そもそも貴族でいらっしゃるなら、高嶺の花ですよね、諦めます。だけど、親しい知人にはなれますよね?
僕は生地のことに関しては、誰よりもお役に立ってみせます。」「それは嬉しいわ。
実は私、今モナンジュでお手伝いさせてもらっているの。」「何故、噂をご存知では?」
「ええ、聞いているわ。
レオニーの友人にとてもお世話になっているの。 それで、何か私にもできることがあるかもしれないと思って。」「なるほど。
正直、あの悪い噂を消し去ることは、かなり難しいでしょう。 レオニーには悪いが、再建はなかなか困難だと思っていました。でも、アレシア様が関わるならば、僕が力になりますので、何なりとお申し付けください。
僕がモナンジュ担当になります。」「えっ、カーライル、私にはそんなこと言ってくれたことないじゃない。
酷いわ。 私の方が付き合いが長いし、今まで生地を沢山買ってきたのに。」「レオニー、モナンジュで買われている生地の量は、うちの店にとってはそれほど多い方ではない。
でも、モナンジュにアレシア様がいれば、工房は立て直され、いずれ売り上げが確実に上がるだろう。
だから、担当になるのさ。」「それって、アレシア様への個人的な好意ではなく?」
「もちろんそれもある。
でも、それだけではないよ。 僕の直感が言ってるんだ。 アレシア様はきっとモナンジュの売り上げを大きく伸ばすよ。」「ありがとう、でも、どうしてそう思うの?」
「アレシア様は今、ただのワンピースを来ている。
けれども、彼女が着るととても質が良くて上品に見えるんだ。アレシア様が新しいドレスを着て街を歩けば、それ自体が良い宣伝になるからね。
きっと、皆の視線を集め、ドレスの売り上げを伸ばすだろう。」私はカーライルの目線を追い、今自分が来ているワンピースを見下ろす。
私は背は高くないが、ほっそりとしており、ワンピースのサイズにぴったり合う体型だ。
「そう言うものですか?」
「僕を信じて。」
カーライルは私を見つめながら、微笑む。
「ふふ、だから、私達さっき会ったばかりですって。」
「僕は生地の専門家ですよ。」
「そうでした。
信じます。」そう答えると、カーライルは満足そうに頷いた。
それから、彼はレオニーが欲しがっていた女官用の生地を探し出し、モナンジュに届けてくれるよう手配してくれた。
「モナンジュは今どのような状態ですか?」
「みんなで話し合って、経営不振に対する打開策を検討しているところよ。」
「なるほど。
では早速、僕もその仲間に加わります。 生地に関しては詳しいので、必ずお力になれると思います。」「でもそれだと、あなたが望むほどの報酬を、いつまで支払うことができるかわからないから申し訳ないわ。」
「いいじゃないですか、アレシア様。
報酬は出さないけれど、この先のモナンジュで使う生地はすべてこの店から買う契約にするわ。カーライルはここの店のオーナーでもあるから、いい話でしょ?」
「そうですね。
モナンジュの売り上げが上がれば、確実にうちの生地も売れる。 だから、こちらも利がある。僕は勝てると思う勝負しかしない人間です。
ですから、売り上げを伸ばすための努力は、惜しみません。」「さすが、二人は商売人ね。」
「カーライルは一見、人懐っこいただの店員に見えるけど、実はやり手なんです。
だからアレシア様、彼がそういうなら、仲間にしておいた方がいいですよ。王都のこの店も、他の地の店もすべてカーライルの手腕で広げているんです。」
「すごい人なのね。」
一見、爽やかなこの店の店員と思っていたカーライルは、実は優れた経営者であるようだ。
「では早速だけど、カーライル、明日時間がある時にモナンジュに来てもらえる?
話し合いたいことがあるの。」「喜んで。」
今日もアレシアは静かに湖を眺めていた。 水面に降り注ぐ陽の光が反射して、とても綺麗ね。 空も澄み渡って、どこまでも青い。 すべてを失っても、陽の光と青い空、この湖の美しさ、澄んだ空気は変わらないわ。 お兄様が選んだこの場所が、閉ざされた地下ような狭く息苦しい所でないだけ救いかもしれない。 その時、ふと湖に目をやると、湖に浮かぶ小さな船が何隻も見えた。 ここに来てから、船なんて一度も見たことが無かったわ。 その船達はどんどん島に近づいて来るように見える。 もしかしたら、私を助けてくれる船かもしれない。 けれど、同じぐらいの確率で悪意のある人達が襲おうとしているのかも。 怖いわ。 でも、どこにも逃げ場なんて、この島にはないのだ。 考えただけで、体が震えるほどの恐怖に襲われる。 とりあえず、…お兄様。 必死に別邸の中を走り回って探しても、どこにも姿が見えない。 こんな時にお兄様は、一体どこに行ってしまったの? 自分から彼を探すことがないから、どこをどう探せばいいのかすらわからない。 焦りだけが募る中、湖岸に船が着き、剣を手にした男達が、まっすぐ邸へ向かって駆けてくるのが見えた。 不安と焦燥が胸をかき乱す。 玄関の方から、誰かが扉を叩くような音が響いた。 続けざまに、強く、激しく。 ドンドン、ドンドンドン。 私は思わず息を呑み、急いで寝室に入り、ベッドの横に身を潜める。 息を殺して、なるべく小さくなるようにしゃがんだ。 でも、寝室に人が入って来たら、すぐに見つかってしまうだろう。 これではとても隠れたうちに入らない。 バキ、バキバキッ。 ドアが破られる音が聞こえる。 もし、見つかってしまったら、今日が人生最後の日になるかもしれない。 そう思って、寝室で小さくなり震えていると、走る足音がいくつも響き、その一つが近づき、後ろから優しい声が聞こえる。「アレシア、ここにいたんだね。 もう大丈夫だよ。 一緒に帰ろう。」「トラヴィス様なの?」 久しぶりに聞くトラヴィス様の声に、咄嗟に上を向くと、彼が微笑んで、私を見つめている。「そうだよ。 君の夫のトラヴィスだ。 無事で良かった…本当に。 一緒に帰ろう。」「私、お邸に戻ってもいいの?」「もちろん、そのために迎えに来たんだから。」 私は躊躇いがちにトラヴ
アレシアは今日も変わらず、湖のほとりをどうすることもできずに歩いていた。 泳いで渡るには大き過ぎるし、いかだを作ったこともなければ、そのための技術もない。 それなら、小さな空き瓶にお手紙を入れて流してみるのはどうかしら? いつか誰かがそれに気づいて、手紙を読んで、この湖を渡って助けに来てくれるかもしれない…。 わかっている。 その可能性はほぼないに等しい。 けれど、このまま何もしないよりは、できる事を試してみよう。 そうして、お手紙をしたためる。 「私がこの島に閉じ込められていること。」 「オフリー公爵へこのお手紙を渡してほしいこと。 私は彼を心から想っていて、きっと彼はこの手紙を読んだら、届けてくれたあなたを邪険にすることはないこと。」 トラヴィス様は、私のことを過去だと思っても、私の救出のために動いてくれる。 そんな優しさは、短い結婚生活で感じていた。 だから、嫌われているとわかっていても最後に頼りたいのは、やはりトラヴィス様だったし、想い浮かべるのもやはり彼だった。 離縁したいと一方的に姿を消すことで、彼の人生に傷をつけ、失望させたのもわかっている。 それでも、変わらず彼のことが好きだった。 「もし、彼が無理ならばせめて、モナンジュにお願いしたいこと。」 「願いが叶ったならば、報酬もお渡ししたいこと。」 それらを丁寧にしたため、署名した。 そのお手紙の入った瓶を十ほど流してみたけれど、時間をかけてそのほとんどが波に押し戻され、再び湖畔に戻って来てしまった。 私は落胆しながら、再びその瓶を湖に流し、穏やかな湖を見つめる。 お兄様の計画は完璧で、どんなに私が足掻こうとしても、湖を渡る方法は見つかりそうにない。 そんな私とは対照的に、彼はいつもと変わりなく、湖へ行くという私を優しく送り出し、成果がなく、夕方になりしょんぼりと帰る私に、食事を作ってくれている。 一見すれば、穏やかな兄妹の生活だけど、私はお兄様の内に潜む狂気が怖い。 今だトラヴィス様から、離縁状のサインがもらえず、私達はかろうじて兄妹のままだ。 でも、もしトラヴィス様がサインをしてしまったら、きっとお兄様は私と無理矢理結婚するだろう。 その時、ここに囚われたままの私に逃げ場などないし、助けを求めれる相手すら誰もいない。 けれど私は、どんな理由があ
「夜遅くにすまない。 入れてもらえないだろうか?」 トラヴィス達がモナンジュを訪れると、困惑した顔のレオニーと言う店の女性と、あまり会いたくないと思っていたカーライルが、僕らを迎え入れた。「オフリー公爵様、お久しぶりです。 どうかなさいましたか?」「こちらにアレシアが来ているかい?」「いえ、オフリー公爵様と離縁することになったと言って、一度顔を出したきりです。」「やはり、こちらにもいないか。」「公爵様、アレシア様は落ち着いたら、また来ると言っていました。 でも、こんなに長く来ないなんて、何かあったのではないかと心配しているところでした。 ところで、そちらの方は?」 「こちらは私の友人のリベロと言う男です。 彼はアレシアの兄が気にかかると、一緒に来てくれたのです。」 リベルト王子は軽く会釈するが、カツラを被っているため、レオニー達は彼が王子だと気づかない。 彼は時々、こうして王都の街を自由に歩き回っている。 その時、ずっと黙っていたカーライルが重い口を開ける。「オフリー公爵様、僕のことを快く思っておられないのは承知しておりますが、お話してもよろしいでしょうか?」「ああ。」「では奥にいらしてください。」 アレシアがカーライルのところにいないのなら、彼よりホリック卿が中心となっている可能性が高い。 だが、それは彼とじっくり話をしてみないとわからない。 本来であれば、彼に助けを求めるなど絶対にしたくなかったが、今はそうも言っていられない。 彼女を取り戻すためには、どんな手段も惜しまない。 その中には嫌いなこの男と協力することも含まれている。 屈辱ではあるが、その覚悟はすでにできていた。 僕達四人は店を閉めて、奥の部屋で腰を据えて話をすることにした。「アレシア様が最後にここに来た時、とても沈んだ様子でした。 オフリー公爵様に、肌を美しくする薬を飲んでいたことを咎められたと。 そして、嫌われたまま邸にいるのはつらいから、もう離縁するつもりだと。 けれど、その時ふと思ったのです。 肌が綺麗になる程度の薬を飲むだけで、両家やその親族、さらには貴族社会全体の力関係にすら影響を与えるような結婚を、それだけで蔑ろにする男などいない。 きっと根本的な何か、別の重要な理由があるはずに違いないと思いました。 だから僕は、このまま
「まだいたのか? 浮かない顔をしているな。 夫人と何かあったのか?」 トラヴィスが王宮で急ぎもしない執務を片付けていると、リベルト王子が現れて、早速触れてほしくない話題を口にする。「リベルト様、お耳汚しになりますので気になさらず。」「そんなことを言っても、私にも関わることだから、ちゃんと話してもらうぞ。」 観念した僕は、リベルト王子に従い、彼の私室で、強めの酒を酌み交わしながら口を開く。「ここに僕を連れて来た時は、どんな尋問よりも隠しごとを許さないですよね?」 ここは完全な私室で、近衛兵が入り口を警備し、限られた者しか近づくことさえできない。 だから、ごく個人的な話でも人に聞かれることなく話せるのだ。「で、何があったんだ?」「妻が再び出て行きました。 僕はアレシアには好きに生きていいなんて言いながら、実は隠しごとをせず、僕に本当の気持ちを話して欲しかったんです。 そして、彼女は今でも心を開くつもりがないと知った時、気持ちを抑えきれず、ついに彼女を突き放してしまいました。 それからは、彼女と向き合うことができず、顔を見るのを避けていたんです。 それでも朝方になると彼女のいるベッドに入り、彼女を抱きしめてわずかに眠りつく、そんな日々を送っていました。 けれども、彼女は僕を許せなかったのでしょう。 ついに使用人達の静止を振り切って、邸を出て行ったそうです。」「でも、いつものモナンジュというドレス工房にいるんじゃないのか?」「おそらく、そちらにはいないでしょう。 今回はアレシアの兄のホリック卿と出て行ったと、邸の者が話していたので。 それに、アレシアからの代理で、そのホリック卿から離縁状が送られてきております。 つまり、アレシアは本気で僕と別れたいと思ったのでしょう。 今はもう後悔しかありません。 どうして僕はあの時、子供は諦めるから、そばにいてほしいと言わなかったのかと。」「その話は、初めて聞いたよ。 夫人は子供が欲しくなかったのかい?」「はい、アレシアは僕が気づいていないと思って、最初から避妊薬を飲んでいました。 結婚したばかりの頃はまだ、彼女の妊娠したくないと言う気持ちを尊重して、深く詮索するつもりはありませんでした。 けれども、一年が経っても全くやめようとしないその姿に絶望したのです。 アレシアは、一生僕
目が覚めるとアレシアは、湖を見渡せる別邸のベッドに横たわっていた。 白く可愛らしい寝室には、自分が寝ている大きなベッドがあり、目の前には陽の光に照らされてキラキラ輝く湖が広がっている。「やあ、目覚めたかい? 僕の眠り姫。 何をしても起きないから、驚いたよ。 眠りが深いのは、相変わらずなんだね。」 お兄様がベッドサイドの椅子に腰掛けて、微笑んでいる。「最近、トラヴィス様を想って眠れなかったから、余計に寝てしまったのね。 でも、眠りが深いのは変わらずなの。 それに良く寝たから、元気が出て来たわ。 ここがお兄様の言っていた湖の見える別邸なのね。 とても綺麗だわ。」「そうだよ。 この別邸を初めて見た時から、アレシアをずっとここに連れて来たかったんだ。」「嬉しいわ。 ありがとう。」「ここで二人で暮らそう。」「よろしくお願いします。 あれ? このベッドの頭の所に掛かっている大きな絵は私?」 ベッドの頭側の壁に、両手を広げるほどの絵画が飾られていて、そこには椅子に座り微笑んでいる私が、描かれている。 おそらく、私の結婚前の頃の絵ね。 どうしてここにあるのかしら。「そうだよ。 綺麗だろ?」「こんな絵をいつ書いてもらったのかしら? 全然覚えていないわ。」「邸にいた者で絵の才能があるやつがいたんだ。 その者に書かせたよ。 それよりお腹が空いただろう? 食事にしよう。」「はい。」 二人は湖の見える庭で、朝食を食べる。 テーブルには、パン、スープ、果実水が並ぶが、どこか違和感がある。 何だろう?「美味しいかい?」「ええ、自然の中だと食欲が湧くわ。 最近、食事が喉を通らなかったから。」「だったら、もう少し運んで来ようか?」「いいえ、これだけで十分よ。 近くで湖を見てもいいかしら?」「もちろんだよ。 一緒に行こう。」 二人は並んで静かな湖の景色を眺めている。「とっても綺麗、水が透き通っているのね。」「そうだ。 湖はとても深いことを知っているかい?」「そうなの? 知らなかったわ。」「湖はね、深いし、広いから泳いで渡ることは不可能なんだ。」「ふふ、向こうの岸さえ微かに見える程度なのよ。 ここを泳ごうとする人なんていないわ。」「そうだね。」 邸に戻ると、寝室のベッドは乱れたままだった。「あ
もうどれくらいの間、トラヴィス様のお顔を見ていないかしら。 アレシアは、昼間はモナンジュで仕事に集中し気を紛らわせていたが、夜一人になると静まりかえる寝室で、ただトラヴィス様の帰りを待つ日々が続いている。 もしかしたら、今日こそ彼が寝室を訪れ、もう一度やり直す機会を与えてくれるかもしれないと淡い期待を捨てきれずにいた。 私が元々美人で、肌の美しさにこだわったりしなければ、トラヴィス様は私を嫌わずにいてくれたのかしら? それとも、二人の間に秘密を持たずに、お薬のことを打ち明けていれば、許してくれたのかもしれない。 反対に、もっと早くトラヴィス様が、「薬を飲む私が嫌だ。」と言ってくれたなら、どれほど肌が荒れようとやめたのに。 いいえ、違うわ。 私は嫌だと言われるのがわかっていたから、内緒で続けていたんだわ。 だから、どこまでも私が悪い。 結果的に私は、彼の思いを裏切ってしまい、今となってはもう手遅れね。 きっと彼は二度と私に微笑んでくれることはないだろう。 昨日、お兄様にお手紙を書いた。 もう、トラヴィス様を諦める潮時なのだろうと思ったから。 彼には、私を避けるのではなく、もっと身体を休めるために寝室を使ってほしい。 私達がこうなる前のトラヴィス様は、以前より元気そうで溌剌としていた。 きっと彼は、私を避けないで生活すれば、いくら忙しいとはいえ、もう少し健やかに暮らせるのだろう。 私がここに居座ると、トラヴィス様の穏やかな生活の妨げになってしまう。 それも、避けたかった。 でも、一番は私に再び心を向けてくれたトラヴィス様が、また背を向けてしまったことに、もう耐えられなくなったからだと思う。 結婚三年目のお祝いの時も苦しかったけれど、今の苦しみは重くて、深い。 彼の口から、私を拒絶する言葉を聞いてしまったのだから。 あれから何度も思い返し、そのたびに悲しみに沈む。 まるで身体から全ての血が失われたように、抜け殻で、考えることも、感じることも息を奪う。 なんとか浅く息を繰り返すだけで、精一杯だった。-------------------------------------------------------------------------------------「やあ、アレシア、随分と塞いでいるじゃないか?」「お兄