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#22 一匙の安らぎ

last update Last Updated: 2025-09-13 20:00:38

「うう、混んでる……」

東京駅で新幹線の改札を出た途端、泉は項垂れて呟いた。

大きなスーツケースを持った外国人観光客、分厚いビジネスリュックを背負い汗を滲ませているサラリーマン、私鉄へ乗り換える人々、その混雑の中で立ち止まったり座り込んだりしている若者たち。せめてきちんと目的の方向へ流れていればよいが、ここはカオスだった。

「まあまあ、あと一駅だから」と音川は後輩の背中を数回さすって宥めながら、タクシーに乗ればよかったと軽く後悔していた。目的のT製薬の本社ビルまで2キロ程度の距離なのに、学生時代を東京で過ごした音川にとっては細かな電車移動が当然すぎて思い至らなかった。だが、当時よりも人間が増えたのは明らかだ。

ホームに滑り込んできた地下鉄はすでに満員に近いが、更にドドドと人が流れ込む。泉の身体はそのまま流されて行きそうになるすんでのところで、音川に腕を掴まれ引き止められた。

そしてドアに背中を充てるように立たされ、白いシャツを袖捲りした音川の腕によって目の高さで囲われる。車内は隙間など無くぴったりと人が圧着している状態だが、泉には安定した足元と身じろぎする余裕が与えられた。まるで音川によって特別な個室がつくられたようだった。

泉が顔を目前の音川へ向けると、少し上から注がれているグリーンの瞳とぶつかった。

「大丈夫?」と耳元でそっと問いかけられ、ついうっかり、先日抱きしめられたことを思い出してしまった。あれは音川の思想に感動して涙を滲ませたところを、なだめてくれただけのハグであったが、偶然耳に触れた音川の唇は熱くて——

嬉し恥ずかしく、「子供扱いしすぎでは?」と照れ隠しに悪態をついてしまった。

ハハ、と音川に軽く笑いやりすごされ、その笑顔に不用意に見惚れてしまっていると『この先大きく揺れます』と車内アナウンスがあった。

「そうだった」と小さく呟いた音川が両腕の隙間を狭めて泉を全身で抱きしめるようにして固定した瞬間、ガタンと確かに電車は大きく傾いで、バランスを崩した乗客たちがぶつかり合う。

「降りるよ」

揺れの直後に電車は駅に到着し、最初にホームへ出た音川は再び泉の腕を引いて

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  • 世界で最も難解なアルゴリズム   #37 夜を走る衝動の名 -3-

    出発時刻とほぼ同時刻にJFK空港に降り立った音川は、時差のせいでこのフライト時間がゼロになることに少々不満を覚えた。運良くビジネスクラスに空席があったが、あまり眠れないたちだから長時間のフライトはそれなりに辛い。入国手続を通過し、タクシーに乗り込んで行き先を指定する。地図によれば、泉が滞在しているホテルまで30分程度で着くはずだ。高屋から入手した研修計画書によれば、すでに今日の行程は1時間以上前に終わっている。ホテルに到着した音川は、周りには目もくれずにつかつかとレセプションに向かい、自身の予約を告げてチェックインを申し出た。対応の女性スタッフは端末を確認しながら、「NYCをたった1泊で終わらせるなんて」と笑顔で冗談を投げかける。それに微笑を浮かべて、「しかも、1泊3日で東京NYの往復だと言ったら?」と返すと、彼女は「オーマイゴッド!」とアメリカ文化のステレオタイプさながらに大きな反応を見せてくれ、音川は笑みを強めた。カードキーで部屋をアンロックし、とりあえずシャワーを浴びて冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。非常によく冷えた液体が、頭の芯から身体を巡ってリフレッシュを促すようだ。しかし、それは音川の内心に付いた火を消すには至らない。ここまで突き動かされたのは一重に、堪えきれないほどの泉への恋心だった。音川はフライトの疲れが顔に出ていないか確認しながら身繕いをし、持参したスーツに着替えた。ノーネクタイだが、上質なシルクは引き締まった長駆と相まって品位を高める。鏡に、泉のために整えられた音川の姿が映る。無頓着な美貌に本人の意図が加えられたことで、その姿には、神々の彫像にも似た威厳が与えられていた。ゆるいウェーブがかった前髪は後ろへ撫でつけられ、カラスの羽のように艷やかで、白いドレスシャツから覗く喉元からは男の色香が立ち上る。肩幅は広く、腰は引き締まり、衣の下に潜む彫刻のような肉体を容易に想像させる。瞳は新緑のグリーンに輝き、視線を向けられた者はその鋭さに息を呑むだろう。だが音川の美は、冷たく遠いものではない。美貌というには生々しく、肉体というには洗練されていて&m

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    音川は遅い夏季休暇を申請し、副業であるAI開発に昼夜を忘れて没頭していた。泉がNYに発って1週間が過ぎようとしていた。 結局、出張について本人から聞かされていないままであったが、音川はそれを責める気など皆無で、ただ事実を受け入れていた。——平静なのか、と尋ねられれば、決してそうではない。 だから、休暇を申請してまで開発に没頭しているのだ。彼が音川に知らせなかった意味について、考える隙を自分に与えないために。リビングの窓を開け放し、どこか哀愁をはらんでいる夕暮れの風に吹かれながらソファに身体を沈め、視線は、コーヒーテーブルに置いたノートパソコンの画面に落とされていた。傍らには愛猫のマックスが背中をぴたりとくっつけて眠っている。 ようやく、泉が帰って来ないことを学習したようで、最近はドアの方向を向いて待ち続けることも少なくなった。音川は画面から視線を外して窓の外を見てみるが、どうしてもすぐにまた目が戻る。——そこには泉から届いたメールが、未読のままでおかれてあった。公私問わず返信を引き伸ばさない習慣を持つ音川であるが、今朝、個人のアドレス宛に届いたこのメールだけは、まだ開くことができずにいる。 しかし——読まずに削除する、という選択肢はありえない。音川はことさら大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出してから、そのメールにカーソルを滑らせ、クリックした。メールを開いた瞬間、音川の心臓が、ゆっくりと軋むように動いた。 息をするのも忘れて、指先がわずかに震える。 読み終えるまで数分かける。 一行ずつ、噛みしめるように読んで、読み終えた頃には、もう一度最初から読み返していた。 ——画面の光が滲んで、文字が霞む。 音川さん今、ホテルの部屋で、このメールを書いています。やっぱり言っておけばよかったと、いまさら後悔しています。 出張のことも、僕がそれを話せなかった理由も、全部。 ですが…… 音川さんの目に、独りで突き進んでしまっている自分がどう映るのか。 どこまで、音川さんの過

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  • 世界で最も難解なアルゴリズム   #33 警戒と信頼の間で

    互いを特別な存在だと認め合った夜——泉の希望により、2台のベッドが触れ合う中心で寄り添うようにして横になった。もちろん揃ってきっちりとナイトウェアを着て、だ。 大都会の中心にあるホテルだが——いや、だからこそ、夜は驚くほどに静寂で、夜風に揺らされる木々のざわめきが微かに聞こえる。 先に眠りについたのは泉で、音川はマットレスに肘をついてそちらに身体を向けた。 うっすらと微笑んでいるような寝顔を見つめていると、感情の海に沈んで行くような感覚に陥る。 長い睫毛の微かな震え、少しだけ眉間に寄せられた皺、目の下の薄い皮膚に毛細血管が微かに見え、音川はそれを親指でそっと撫で、髪に顔を寄せる。音川にとっては、泉の前で自分の全てをさらけ出した夜だった。 抱えていた苦悩を共有することで、泉への愛着が一層強まり——それは所有欲にも似た感情で、音川を戸惑わせる。 保木の問題では、自分に守らせて欲しい、と願っていた。 今では、どの状況下においても——どこにいても、他の誰でもなく自分だけが泉の守護者でありたい——と思う。 その許可を、音川は切実に望んでいた。それでも、感情や欲望だけで進められない大人の事情がある。 今、突っ走ればいずれ——罪悪感や背徳感で押しつぶされてしまうだろう。 現在の上司と部下という関係は、どう転んでも変えられない—— お互いの精神衛生上いかなるネガティブな要素も抱えたくなく、また、相手に抱えさせるべきではないと考えていた。早朝、軽く目を覚ました音川は、自分の右腕が微動だにしないことに気がついた。首を捻ると、そこは泉によってがっちりと抱きかかえられており——しかもよりによって——手の甲が泉の中心に当たっている。 それは柔らかく主張する彼の突起を想像させるのには十分すぎた。 音川は低く唸り声をあげると、右腕は切り捨ててしまったものとして考え、無理矢理に思考の窓を閉じて二度寝についたのだった。 そして、チェックアウト後すぐに泉をマンションまで送り届けた音川は、部屋への誘いを断り、その代わりに、泉に負担のない程度で週末は地元へ

  • 世界で最も難解なアルゴリズム   #32 あなたを独り占めしたい

    首筋をきつく吸う唇の熱さ、抱きしめられた胸の鼓動、低く囁かれた言葉。全てが竜巻のように泉を取り囲み、音川にとって自分は『特別』であると叫んでいる。泉はしばらく、その歓喜の嵐のなすがままになっていた。しかし、そこにははっきりと音川の葛藤も存在していた。泉は目を伏せ、絡められた指から伝わる熱を感じることに集中する。言葉にできないのか、したくないのか、すべきでないと思っているのか——それは唇へのキスも同じで——泉には分からなかった。自分が引いた境界線に阻まれて、音川は留まっている。それを強引に崩すのは——きっと間違っている。音川の中に、こんなにも熱い葛藤を起こさせるほど、自分という存在が大きいのだ。それだけで、もう何も要らないと思わせる。しばらく無言で、お互いの絡まる指を見つめていた。微かに音川が息を吐き、少し身じろいでまた静かに泉の額に唇を落とす。そうして二人の手がほどけ、泉は顔を上げるとはにかむように微笑む音川と目が合う。優しく濡れたグリーンの瞳。再びこめかみに唇が触れたかと思うと、音川はスッと立ちあがった。「俺はジムでも行くかな。今朝行けてないし」などと言いつつドアへ向かう。「ウェアあるんですか?」そんなことを聞きたいわけではないのに、口をついて出た。「館内で売ってるだろ」「そんな、買ってまで……?」心底不思議そうな問いかけに音川が見せた表情は、泉が釘付けになるほどに妖艶な自嘲を浮かべていた。「……体力を使い果たすまで戻ってこないから、安心してゆっくりしてて」「あ……まっ、」引き止める間もなく音川がドアの向こうへ消えた後、泉は顔のほてりを抑えるために両手を頬に当てたが、余計に熱くなるだけだった。音川の大人の男の色気は凄まじく、傍にいれば自分がどうにかなってしまっただろう。場を離れてくれたのは正解なのかもしれな

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