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第4話

Author: 誤字ラ
美空は小さく息を吐いた。

「……とりあえず、傷の手当てをしますね」

雅人は断らなかった。

そんな彼がどこかおかしいと、美空は思った。

そばに寄ると、鼻をつくほど強い酒の匂いがした。どうやら、本当に酔っているらしい。

もしかすると、自分がもう彼の秘書ではないことさえ、忘れているのかもしれない。

店員は助かったとばかりに、慌てて救急箱を取りに走った。

美空は長年、雅人のそばで働いてきた。

不測の事態に備えて応急処置の知識も身につけていたため、こうした手当てにはすっかり慣れている。

彼の隣に腰を下ろし、血にまみれた手のひらを見た途端、美空は思わず眉を寄せた。

「少し痛みますから、我慢してくださいね」

「……ああ」

美空は慎重に、掌に刺さったガラス片を一つずつ取り除いていった。

傷口を消毒し、薬を塗る。

そして、まるで子どもをあやすように、無意識のうちに傷口へそっと息を吹きかけた。

雅人は、そんな彼女の横顔をじっと見つめていた。

真剣で、優しくて、少しも手を抜かない。

昔から変わらないその姿に、喉仏がかすかに上下した。

やがて美空は、丁寧に包帯を巻き、最後にきれいな蝶結びを作った。

「これで処置は――」

言い終わる前だった。

雅人が怪我をしていないほうの手で美空の顎をつかみ、身をかがめて唇を奪った。

熱く、強引なキスだった。

逃がすまいとするような、激しい口づけ。

そこには、彼自身にも整理できていない感情が滲んでいた。

美空は驚きに目を見開いた。

けれど、次の瞬間には両手で雅人の胸を押し、ためらいなく彼を突き放した。

体勢を崩した美空は、そのまま床に尻もちをつく。それでも、彼女の目は動揺したまま雅人を見上げていた。

「……篠原さん」

雅人は椅子に座ったまま、彼女を見下ろした。掠れた声が、静かな個室に落ちる。

「美空……別に、辞めなくたってよかったんだぞ」

美空の胸が、音もなく締めつけられた。

昨日は自分を追い出しておきながら、今日は辞めなくてもよかったと言うのか。

ついさっきだって、友人に向かって、自分はただのおもちゃだと言い放っていたくせに。

美空には、雅人の瞳に浮かぶ熱がはっきりと見えていた。だからこそ、馬鹿らしくて、笑う気にもなれなかった。

「篠原さん。私たちはもう終わったんです。あなた自身がそう言ったでしょう?

こんなふうにいつまでも構われたら……私、あなたが本気で私を好きになったって勘違いしてしまいますよ」

その瞬間、雅人の瞳がわずかに揺れた。そこに浮かんでいた熱が、たちまち消え失せた。

冷えきった眼差しが、再び美空を捉える。

そのとき、雅人のスマホが鳴った。画面には玲奈の名前が表示されていた。

「篠原さん、婚約者の方からお電話ですよ」

美空はわざと声を張って告げた。

雅人はスマホに目を落とした。その表情から、わずかに残っていた温もりさえ消え、見る間に冷えきっていく。

「……失せろ」

美空は床から立ち上がると、足早に個室を出た。

扉をくぐった直後、背後で何かが砕け散るような音がした。

おそらく、雅人がスマホを叩きつけたのだろう。

美空の足が一瞬止まる。

けれど、今度は振り返らなかった。そのまま前を向き、歩き続けた。

店を出ると、美空は逃げるようにタクシーを拾った。

乗り込んで間もなく、バックミラー越しに運転手の視線を感じた。何か言いたげなのに、言葉を探しているような顔だった。

美空は不思議に思いながら、バッグから手鏡を取り出した。

そして、ようやく気づいた。

唇に塗っていた口紅が、さっきのキスですっかり崩れていたのだ。口角にまで色が広がり、ひどくみっともない有様になっている。

その姿を見つめているうちに、美空の意識はふっと過去へ引き戻された。

あれは連休明けの、とある朝のことだった。

2人は一緒に起きて、そのまま出社することになった。

美空は遅刻しないよう、洗面台の前で大急ぎで化粧をしていた。最後に口紅を塗ろうとしたとき、いつの間にか雅人が背後に立っていることに気づく。

彼は珍しく興味を示し、自分で口紅を一本選ぶと、美空に塗ってやると言い出した。

急ぎ支度をしたい美空は、深く考えずに唇を突き出した。

雅人は片手の指先で彼女の顎を支え、顔を上に向かせる。もう片方の手で口紅を持ち、丁寧に唇の輪郭をなぞっていった。

塗り終わっても、彼の手は顎から離れなかった。

美空は不思議そうに視線を上げ、彼と目を合わせた。

雅人はどこか意味ありげな眼差しで、じっと彼女を見つめている。

「……どうしたんですか?まだ塗り終わって――」

問いかけた途端、言葉の続きは唇ごと奪われた。

雅人のキスが終わった頃には、塗りたての口紅はすっかり崩れ、唇の周りにまで色がついていた。

美空は悲鳴を上げ、慌ててメイクを直し始める。

同じ鏡の中で、雅人は楽しそうに目を細めていた。唇の端についた紅を指で拭いながら、意味ありげな笑みを浮かべる。

「先に唇を突き出してきたのは、お前だろ。キスしてほしいのかと思った」

……

思い出から我に返った美空は、再び手鏡に目を落とした。

鏡の中の自分はいつの間にか、涙で顔を濡らしていた。

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