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二の次の愛と、届かぬ償い
二の次の愛と、届かぬ償い
Auteur: あの頃の月を愛す

第1話

Auteur: あの頃の月を愛す
ストレッチャーを追うように、私の魂は病室を抜け出していく。

廊下の蛍光灯が放つ無機質な白さが、シーツの下に横たわる体の冷たさを際立たせる。

タイルの継ぎ目を車輪が乗り越えるたび、規則的な軽い振動が響く。垂れ下がった手も、それに合わせてゆらゆらと揺れている。

シーツの中へしまおうと手を伸ばしても、指は空しく自分の手首をすり抜けるばかりだ。

病室の入り口に立つ研嗣は、しばらくその光景を眺めていた。視線が薬指の指輪に止まると、ふっと低く笑う。

「よく似てるな」

そのあと、怜花の点滴のチューブを整えながら、どこか甘やかすような声音で呟く。

「安奈が、こんなことで俺を驚かせるはずない。俺に嫌がらせするにしても、こんな縁起でもないことまでしないだろ」

見えていなかったわけではない。ただ研嗣は、私が自分を置いて死ぬはずなどないと、信じ切っているだけなのだ。

病室のドアが閉まる。外に取り残された私は、透明になった自分の手を見下ろす。

処置の時に貼られた電極パッドの焼けるような痛みがまだ皮膚に残っている気がする。けれど、もう胸の奥が痛むことはない。

研嗣はもう一度私にメッセージを送る。

【雨降ってきたから傘忘れるなよ。風邪ひくぞ】

雨に濡れるとすぐ熱を出すことも、喧嘩をしたあと、雨の中に私を長く一人でいさせてはいけないことも、研嗣は、ちゃんと覚えている。

たった一行のメッセージに、私は危うく、地下一階へ運ばれていく自分の体のことを忘れそうになる。

研嗣は私に電話をかけている。遺品袋に収められたスマホが、どこかで鳴り響く。

誰も電話に出ないまま切れると、今度はボイスメッセージを送る。

「わがままにもほどがある。もう怒ってないから、上着持ってきてくれ」

その声は、驚くほど優しかった。私たちが付き合って10年を迎えた記念日の夜と、まったく同じ声だ。

あの日は突然停電して、暗闇が苦手な私は思わず体をこわばらせた。研嗣は何も言わず、私を自分の膝の上に抱き上げ、スマホのライトで部屋を照らしてくれた。

そして、私の額にキスを落とした。

「お前は俺の一番大事な存在だ。病気になるどころか、少しでもケガをしたら、俺はきっと耐えられない」

大袈裟だと笑う私を強く抱きしめ、絶対に嘘はつかないと研嗣は誓った。

なのに今、私がもうこの世にいないことも知らず、彼は別の女のそばにいながら、私に上着を持って来いと命じている。

怜花がベッドの背にもたれ、小さな声で言う。

「なんだかお腹すいちゃった。下に新しくできたお寿司屋さん、食べてみたいな」

研嗣は点滴に目をやり、怜花を宥める。

「今夜はだめだ。魚介を食べすぎて胃腸炎になったばかりだろ。まだ食べるつもりか?」

「少しくらいならいいじゃない……」

「ダメだ。わがまま言うな」

少し間を置いてから、ふと思い出したように続ける。

「それに、安奈も魚介の匂いを嫌がるからな。帰ったらすぐ気づかれる」

私の名を口にするとき、わずかな苦笑が浮かんでいた。まるで私が今も家で腕を組み、彼の帰りを待っているかのようだ。

怜花はそれ以上ねだることなく、自分の手の甲をそっとさする。

「なんだか寒いね。手がすごく冷たい」

そう言って研嗣の手を握り締める。彼は振りほどかなかった。

しばらくすると、持っていた黒いバッグから小さな充電式カイロを取り出す。電源を入れ、怜花の手に押し込んだ。

冷え性の私のために、研嗣がくれたものだ。裏には、小さな文字で【家内安全】と刻まれている。

以前、怜花が一度だけ借りようとしたことがある。その時の研嗣はすぐに取り上げて言った。「安奈のものだ。勝手に使うな」

それなのに今、彼は怜花の手を優しく包み込んでいる。「これ持ってろ。冷えるぞ」

怜花は刻印を指先でなぞりながら、ふっと口元を歪めた。

「安奈が知ったら、怒るんじゃない?」

「あいつはこれくらいで怒るようなやつじゃない」

また、その言葉だ。私の寛大さには、どうやら限りがないらしい。誰もが好きなように使って、最後には私がすべてを受け入れればいい。

怜花の視線が、再び静まり返った廊下のほうへ向く。

「でも、さっきの指輪、本当に安奈のとそっくりだった。研嗣さん、なんだかイヤな感じがして……」

研嗣はスーツの内ポケットから、小さなベルベットの箱を取り出す。本来なら今夜、バレンタインの贈り物として私に渡されるはずだったものだ。

3か月前、ショーウィンドウの前で、私は一度だけそのネックレスに目を留めた。あのとき、研嗣は何も言わなかった。けれど、あとからこっそり注文していた。

箱を開けた怜花の目が、ぱっと輝く。研嗣は点滴のチューブを避けながら、ネックレスを彼女の手元に置く。

「これでもつけて、少し気を紛らわせろ」

「これ、安奈へのプレゼントじゃないの?」

研嗣の指が一瞬だけ止まった。私も息を殺し、その指を見つめる。ここで箱を閉じてくれれば、私はまだ自分を説得することができる。

カイロは怜花が病気だから仕方なかった。手を握ったのも、怖がっていたからだ。

せめて何が私のものなのかくらいは分かってくれているはずだと、自分に言い聞かせることができる。

けれど、研嗣は箱を閉じるどころか、さらに怜花の方へ押しやった。

「ただのネックレスだ。あいつなら気にしない」

怜花はそれをつまみ上げ、蛍光灯の光に透かしてみせる。ペンダントの裏側には、私たちの記念日が刻まれている。怜花は気づかなかった。研嗣も、何も言わなかった。

深夜11時、付き添いの手続きを終えた研嗣は、病室の椅子に腰を下ろしてスマホを見ている。

私からの返信はないが、彼はそれ以上催促することはなかった。ただメモアプリを開き、翌朝の予定を書き込む。

【安奈の機嫌取り。好物の雑炊を買っていく】

打ち終えてようやく、彼の眉間のしわがほどける。

「安奈は今夜のことが許せないだけだ」

怜花に言い聞かせるように、研嗣は呟く。

「明日になれば、またいつものあいつに戻れる」

私はその背後に立ち、画面に残る自分の名前を見つめている。

死別というものは、もっと劇的なものだと思っていた。しかし、違った。

私はもう、冷たい保冷庫の中にいるのに、研嗣はまだ明日の予定を立てながら、私がそこにいることを疑いもしない。

彼は今でも、私を愛しているのだろう。

ただ、その愛が私に向けられるのは、いつだって誰かを優先し、すべてを片づけたあとだ。

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