共有

第2話

作者: 硝子の砂糖
翌日、雪代は、五年前に慎一郎と共に暮らしていた家を訪ねた。

彼女がかつて心を込めてデザインした家は、今や夏実のものになっている。

雪代が戻ってきた後、慎一郎はようやく夏実にここから出て行くよう頼んだのだ。

「慎重に運んでね。これらは全て、慎一郎が大事にしているものよ」

雪代が玄関に入ると、書斎から夏実の声が聞こえてきた。

使用人たちが幾つかの箱を注意深く運び出している。

パタンと、一冊の写真アルバムが床に落ちた。

雪代の視線が自然とそこへ向かう。

物音に慌てて飛び出してきた夏実は、そのアルバムを拾い上げた。

そしてわざとらしく雪代に見せ始めた――

北ヨーロッパのオーロラの下で抱き合う二人、雪山の頂上でキスを交わす二人、デンマークの小さな町で手をつなぐ二人、クルーザーのデッキで朝日を眺める横顔……

それらは全て、かつて雪代が慎一郎と「いつか行こう」と約束した場所だった。

しかし今、写真に映っているのはすべて夏実の姿だ。

「あの時はみんな、姉さんが死んだと思ってた。慎一郎が、悔いを残したくないって言うから、私をこれらの場所に連れて行ってくれたんだ。姉さん、気にしないでね」

夏実は雪代を見て、目元に明らかな挑発を浮かべた。

雪代は冷たい瞳で彼女を一瞥した。「あなたが慎一郎に近づけたのは、単に私に幾分か似ていたからに過ぎない……」

「姉さんは、慎一郎が私を姉さんの代わりとして見てる、って言いたいの?」

夏実の口元がほころんだ。「そうだね、一つ賭けをしよう。今の彼の心の中で、どっちがより大事か、確かめてみない?」

雪代と夏実は同時に携帯電話を取り出し、慎一郎に電話をかけた。

待っている間、雪代の心中は不安でいっぱいだった。

彼女は元々、夏実とそんな幼稚なゲームを繰り広げるつもりはなかったが、それでもなお、答えを知りたくてたまらなかった。

数回の呼び出し音の後、雪代の電話が先に繋がった。

「雪代、どうした?」

「私の車が高速道路で故障してしまって……」彼女が適当な理由を口にしたが、言葉が終わらないうちに慎一郎に遮られた。

「慌てないで、今すぐ向かうから」彼の声には隠せない焦りと、優しい慰めが込められていた。

雪代は横目で夏実を見た。夏実の表情には一瞬の動揺が見えた。

夏実は再び発信ボタンを押した。

今度は繋がった。

「慎一郎、桜木町の栗きんとんが食べたいの。今、買いに行ってくれない?」

相手は一瞬沈黙し、しばらくしてから「待っていて」と答えた。

その声は冷静で、感情を読み取ることはできなかった。

電話を切ると、すぐに雪代の携帯が再び鳴った。慎一郎からだ。

「雪代、急なプロジェクトの問題で、今どうしても抜けられない。まずボディーガードを向かわせる」

彼の声には申し訳無さがにじんでいた。

雪代の胸は締め付けられ、喉も詰まったようだった。

「……わかった」

やっとの思いで声を絞り出すと、相手はすぐに電話を切り、ツーツーツーという無機質な音が、心を強く打つ重りのように響いた。

「姉さんの負けだよ」

夏実は携帯電話を置き、勝利者の姿を見せた。

「慎一郎は、私が食べたいって言うと、雨の中を買いに行ってくれるっていうのに、姉さんを高速道路に置き去りにするんだね。

今でも慎一郎が、私を姉さんの代わりとしてしか見てないと思う?

正直に言うと、慎一郎と私は全然離婚なんてしてないの。あの離婚届なんて、彼が姉さんを騙すための口実よ。法律的には、私と彼が正式な夫婦。今の姉さんこそが、私たちの間の第三者なんだ」

夏実は一歩一歩雪代に近づき、一言一言が刃のように雪代を貫いた。

30分後、慎一郎の車が別邸に到着し、彼は車からお菓子の包みを手に降りてきた。

雪代は向かい側に立ち、雨と涙が頬を伝うのを感じた。

全身が震えている。激しい雨に打たれる寒さよりも、心底から湧き上がる冷たさに凍えながら。

かつて、雪代が何気なく「隣町の老舗のチーズケーキが食べたい」と言えば、慎一郎は夜を徹して車を走らせ、朝一番の店頭に並んで買ってきてくれたものだった。

しかし今、雪代は、彼の愛情がもはや自分だけのものではないという、冷たい現実を突きつけられた。

よろめきながら帰路につく。たった数歩の距離が、果てしなく遠く感じられた。

かつての大火傷の古傷が、雨の度に疼く。今夜は特に、骨の髄まで凍りつくような痛みだ。

ドアを開け、中へ入った瞬間、視界がぐるりと回り、雪代は床に倒れ込んだ。

しばらくして、誰かが彼女を抱き上げ、「雪代!雪代!しっかりして!」と焦って呼びかける声が聞こえる。

ぼんやりと、慎一郎の整った顔が近くに見えた。幻ではないかと恐れ、彼女は必死にまぶたを持ち上げた。

すると突然、手の甲に鋭い痛みが走った。注射の針が刺さる瞬間、彼女は苦痛に顔をしかめた。

「もっと優しくしてくれ。雪代は痛がりなんだ」

慎一郎が医師をとがめるような口調で言う声で、雪代は完全に意識を取り戻した。

彼女がかすかに目を開けると、慎一郎は張り裂ける思いで彼女を抱きしめた。

「本当にすまない……全部俺のせいだ、ボディーガードが君を見つけられなくて……何度も電話したが、君が出なくて……」 慎一郎の言葉は嗚咽とともに途切れがちに続いた。

慎一郎は入り口で雪代が倒れているのを見た瞬間、心臓が止まるかと思った。

二度と雪代を危険にさらすまいと誓ったというのに。

「ロードサービスを呼んだけど」彼女は何でもないような口調でそう言った。

「真っ先に駆けつけるべきだった。そうすれば……そうすれば、君をこんな目に遭わせずに済んだのに」慎一郎はさらに自分を責め、涙を必死にこらえて、瞳を揺らせた。

雪代は、彼の赤く染まった目を見つめ、ついさっきの出来事を思い返した。胸が、きりきりと痛んだ。

雪代は、彼が必ず駆けつけて来るはずの理由を作ったつもりでいた。だってかつては、彼女に何かあれば、慎一郎は何をしていようと、全てを放り出してすぐに飛んで来たのだから。

なのに今、彼の心のうちで一番大切な場所を占める者は、もう夏実へと変わってしまっていた。

「……疲れた」 雪代が目を閉じた。

「ゆっくり休んで。俺がそばにいるから」慎一郎は布団の端を整え、囁いた。

翌朝、雪代が目を覚ますと、慎一郎はベッドの傍らにいた。

彼の目の下にはクマができ、一晩中まぶたを閉じずに彼女を見守っていたのだ。

「雪代、君の好きなお粥を作ったよ。温かいうちに」

彼は碗を手に取り、一口すくって食べさせようとした。碗の中のエビを見て、雪代は固まった。

「私、エビアレルギーよ。それは夏実が好きなもの」

雪代は拳を握りしめた。

彼は以前、彼女の好き嫌いをすべて覚え、家の者はもちろん、出入りの料理人に至るまで、彼女のエビアレルギーには細心の注意を払うよう言いつけていたのに。

五年の時が、彼のその記憶までも消し去ってしまったのだ。

慎一郎はすぐに思い出し、表情に一瞬の慌てた色が走った。「……すぐに作り直す」

彼が碗を置いて立ち去ろうとした時、電話が鳴った。

雪代には相手の声は聞こえなかったが、慎一郎の表情が一瞬で険しくなるのが見えた。

「雪代、ちょっと急用ができて……」

「行って」彼が言い終わらないうちに、雪代は先回りして言った。

何の用事か、知りたいとも思わなかった。

しかしその午後、雪代の携帯に届いたニュースのプッシュ通知が容赦なく現実を突きつけてくる――【財閥御曹司・桐原慎一郎と月島家次女、5年間の秘密結婚が発覚】
この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 二度と温まらない私たちの関係   第21話

    雪代は声をあげ、慎一郎に駆け寄ろうとした。その瞬間、横から手が伸び、夏実が彼女の首を絞め上げ、爪を皮膚に食い込ませた。「慎一郎、あなた命がけで彼女を助けたいんでしょ?だったらよく見ていなさい。今日この場で、この女をあなたの目の前で殺してやる」夏実は慎一郎に向かって怒号を浴びせた。慎一郎は二人の大柄な男に押さえ込まれ、蹴りを入れられながらも、雪代に向かって手を伸ばそうとする。「彼女に手を出すな!」その声は喉の奥から搾り出され、次の瞬間、一撃でかき消された。夏実は狂おしい笑みを浮かべ、手に力を込めた。激しい窒息感に、雪代は息もできず、目尻に涙が浮かび、視界がぼやけ始めた。意識を失いかけたその時、倉庫の大扉が轟音とともに倒れ、まばゆい陽光が差し込んだ。「警察だ!動くな!」数人の警官が突入し、夏実が状況を理解する前に地面に押さえつけられ、継母も素早く制圧された。賢人が駆け寄り、地面に倒れる雪代を抱き起した。「雪代、大丈夫か?俺の声が聞こえるか?」彼はこれまでにない慌てた声で彼女の名を呼んだ。雪代は応えようとしたが、意識が遠のいていき、ついに完全に消えた。再び目を開けると、鼻には慣れ親しんだ消毒液の匂いがした。雪代はまだぼんやりとして、これまでの出来事がすべて夢だったかのように感じている。「雪代ちゃん」嗄れた声が横から聞こえた。雪代が振り向くと、血走った瞳と視線が合った。賢人の様子に、雪代は胸を衝かれた。いつもは整った彼の髪は乱れ、あごには無精髭が青黒く生え、シャツには血痕さえ付着したまま、一度も着替えていないかのようだ。雪代が目を覚ましたのを見て、彼は激動して彼女の手を握りしめ、今にも彼女が消えてしまいそうだと恐れるように。「よかった……目を覚ましてくれて本当によかった……」彼の声は詰まり、そのまま言葉を失った。今もなお、あの時の恐怖が消えていない。あの日、彼はありとあらゆる手を尽くしてH市を探し回り、ようやく彼女を見つけ出したのだ。もしあと一歩遅れていたら、雪代はどうなっていただろうか。考えるだけで恐ろしい。涙が賢人の目尻から伝い落ち、彼は止めどなく雪代に詫びた。「すまない……しっかり守ってやれなかったのは全て俺の責任だ」「私、平気よ」雪代は苦労して手を持ち上げ

  • 二度と温まらない私たちの関係   第20話

    高杉家の当主は病状が悪化し、一日でも早く二人の結婚式を見届けたいと願ったため、雪代と賢人の結婚式は十日後に決まった。賢人は気が進まなかったが、雪代に説得され、渋ながらも承諾した。準備期間は短いものの、賢人は可能な限り盛大な式を挙げようと心がけた。各メディアは早くからこの情報を掴み、世紀の結婚式としてこぞって報じた。式当日、雪代は車で式場へ向かっている途中、突然、対向車線からワゴン車が猛烈な勢いで正面に突っ込んできた。運転手はブレーキを踏んだが、回避はならなかった。衝撃でボンネットは瞬時に押しつぶされ、運転手は割れたフロントガラスの破片を全身に受けて深手を負った。あまりに突然の出来事に、雪代が状況を理解する間もなく、ワゴン車から数人の黒ずくめの男たちが飛び出し、まっすぐ彼女めがけて突進してきた。男たちは無理やりドアを開け、素早い手刀を雪代の首元に振り下ろした。雪代は眼前が真っ暗になり、その場で気を失った。再び意識が戻った時、後頭部に鈍い痛みが走った。雪代は苦しそうに目を開けた。周囲は雑然としており、どうやら廃墟同然の倉庫の中らしい。もがいて動こうとしたが、両手は後ろ手に柱にしっかりと縛りつけられている。「目が覚めた?」頭上から、不気味に冷たい女の声が響いてきた。あまりにも聞き覚えのある声だ。雪代の全身が一瞬で硬直し、顔を上げると、夏実の冷たい瞳がまっすぐに自分を見据えている。信じられない。夏実は刑務所の中で判決を待っているはずではなかったか。どうして今、ここにいるのだろう?「驚いたでしょ、姉さん?」夏実は一步近づき、口元に不気味な笑みを浮かべた。「私がここにいるなんて、思いもよらなかったでしょ?」突然、彼女は雪代の髪を掴み、無理やりに顔を上げさせた。「私が大人しく刑務所で死を待ちながら、あなたが華々しく高杉家に嫁ぐのを見るしかないと、本気で思ったの?」頭皮の激痛に、雪代は思わず息を呑んだ。はっと我に返り、雪代は少し離れた場所に継母が座っているのに気がついた。「何が目的なの?」雪代は声の平静を保とうと努めた。すると、夏実の瞳に陰険な色が浮かんだ。「何が目的だって?姉さんにしてやることを、想像もつかないか?この半年間、私がどんな目に遭ってきたか分かる?」彼女の声は突然甲高く

  • 二度と温まらない私たちの関係   第19話

    車は郊外へと向かい、窓の外の景色は次第に記憶と重なり始めた。雪代は慎一郎がどこへ連れて行こうとしているのか、ほぼ察しがついた。ポルシェが急停車すると、慎一郎は彼女の手を引いて車から降ろし、湖畔のガジュマルの木の下へと連れて行った。そこは、昔、彼が彼女に告白した場所だ。雪代が木の下に立つと、目の前のガジュマルは記憶の中のと少しも変わっておらず、まるで過去に引き戻されたような錯覚に襲われた。慎一郎は木の根元に跪くと、手にしたシャベルで湿った土を狂ったように掘り始めた。深く、深く掘り進め、ついにさび付いた鉄の箱を見つけ出した。雪代の胸が痛んだ。あの箱は、昔、二人で一緒に埋めたものだ。中には、子供の頃からの、二人で積み重ねてきたすべての思い出が詰まっている。慎一郎がくれたホラ貝、手編みの真珠のネックレス、色あせた写真……八歳の時から、二人は毎年、ここへやって来て、二人にとって大切なものを一つずつ埋める。五年前までずっと続いてきた。慎一郎は大切そうにそれらのものを手に取り、探っている。やがて一枚の色あせたカードを見つけた。「これ、覚えているか?」彼はそのカードを彼女の目の前に差し出した。雪代はそのかすんだ筆跡を見つめた。それは彼女自身が書いたものだ。【許しカード――このカードで、雪代から无条件で一度だけ許してもらえる】十八歳の那年、雪代は波にのまれて溺れかけた。その時、慎一郎が命がけで彼女を救ってくれた。このカードは、その救命の恩に報いるため、彼女が慎一郎に渡したものだ。「俺が何をしようと、このカードがあれば、一度だけ許してくれるって、昔、言ったよな」慎一郎の声は嗄れている。「今……まだ有効か?」「機会は、もうあげたわ」雪代はまっすぐに慎一郎の瞳を見た。「あの時、ウェディングドレスショップで、あなたが夏実からの連絡を受けて立ち去ろうとした時、『いてほしい』って頼んだ。あの時、私は決めていた。あなたがいてくれさえすれば、すべてを説明してくれさえすれば、全てを許して何事も無かったことにすると。でも、あなた……行ってしまった」慎一郎の表情は次第に固くこわばり、彼女の言葉はナイフのように彼の心臓を刺し貫いた。あの時、雪代はとっくに知っていたのだ。「雪代……もう一度だけチャンスをくれ。最後だ。何でもする

  • 二度と温まらない私たちの関係   第18話

    賢人は呆然とした。その目には信じがたい色が満ちている。「今、何て言った?」すぐに我に返り、「雪代、あの話には気にしなくていい。俺も言っただろう、誰かの望みだとか、そんなもので、雪代を縛るつもりはない」「あの話とは関係ない。ただ、私の中でちゃんと決まったの。お互い一番辛い時に出会って、いろいろあったけど、またこうして巡り合えた。これはやっぱり、運命で結ばれるべきだったんだね」賢人の息遣いは明らかに止まった。雪代を見つめる瞳には、まだ一抹の不安が漂っている。「雪代、本当に俺との結婚を望んでいるのか?」雪代は彼の視線を受け止め、ゆっくりと頷いた。賢人と新しい始まりを築きたいと思っている。高杉家は二人の結婚の知らせを受けると、すぐに婚約を発表した。わずか数ヶ月のうちに、慎一郎の夫人となるはずだった雪代が高杉家に嫁ぐ、という報せは、早くも世間を騒がせた。加えて、高杉家の後継者が戻ってきたことで、かつて長い間鳴りを潜めていた高杉家は、再び世間の注目を浴びた。一瞬にして、世論は騒然となった。雪代の父は、知らせを聞くとすぐに人を遣って雪代を訪ねさせた。「お嬢様、ご主人様はその後真実を知り、夫人と大喧嘩なさいました。この間、毎日のようにご自身を責め、夜も眠れず、大勢の者を手配してお嬢様を探しましたが、何の手がかりもなく、お体の調子もどんどん悪化して、今は床に伏せております。お嬢様が戻られたと知り、どうしてもお会いしたいととおっしゃるのですが、お体がどうしても許さなくて……」執事は嘆きに満ちた声で続けた。「今、お戻りになりましたので、どうか……お顔をお見せいただけませんでしょうか?」雪代の頭の中を複雑な思いが駆け巡ったが、結局、執事について実家に戻った。父は雪代の姿を見ると、激動してベッドから起き上がろうとした。「雪代、やっと戻ってきたね。父さんが悪かった……盲目だった、あの母娘を信じたばかりに、たくさんの苦労をかけてしまった……それなのにさらに、雪代を疑うなんて……全て父さんの責任だ……」父は拳で胸を叩きながら自らを責め、話すうちにまた激しい咳き込みに見舞われた。執事が慌てて支えながら注意した。「お医者様は、くれぐれもご安静になさいますよう、と申しておりましたのに」雪代もすぐに父の体を支え、ベッドに寝かせた。

  • 二度と温まらない私たちの関係   第17話

    雪代は賢人に伴って、高杉家へ向かった。空港から山手へと延びる道を、黒いリムジンは静かに登っていく。車窓から見えるのは、緑深い山肌に点在する豪壮な別荘群。そして、頂にそびえるのは、遠目にも威容を誇る城のような屋敷だ。高杉家の名は、雪代もかすかに耳にしたことがある。H市きっての名門ながら、近年はやや凋落の気配さえ囁かれる旧家だ。彼女もてっきり、そう信じ込んでいた。だが、この圧倒的な光景を目の当たりにして、高杉家はこれまで単に表立たないようにしてきたに過ぎない、という事実を悟った。実のところ、桜木町の高級住宅地のほとんどが、高杉家の所有地なのだという。車が本宅の玄関前に停まると、上品な服装をまとった中年の女性が既に待ち構えていた。精緻な顔立ちにわずかな疲労の色を浮かべている。その人は賢人の継母である。彼女に導かれて二人は内へ入り、長い廊下を抜け、当主の寝室へとたどり着いた。病床には痩せ衰えた当主が横たわり、頬はこけ、周囲のモニター機器が規則的な電子音を響かせている。「旦那様、賢人が戻りましたよ」高杉夫人がそっと声をかけた。当主はゆっくりと瞼を開けた。濁った瞳が賢人の姿を捉えた瞬間、かすかな光が灯り、青白い唇が震えた。「賢人……」賢人は微動だにせず、雪代は、自分を握る彼の手がわずかに震えているのを感じた。彼女はそっと握り返し、静かに賢人を見つめて励ました。「わ…わりぃ……」当主の息はか細い。「お前には……苦労を、かけっぱなしだった……母さんにも、すまねぇと思ってる……每日、後悔して……」「死んでしまった人に、悔やんだって仕方ないでしょう」賢人の表情は一瞬で氷のように冷たくなった。当主の目の光は再び曇り、唇だけがむなしく動いた。やがてその視線は雪代に向けられ、「そちらが雪代さんか。賢人……いい娘さんをお連れしたな」雪代はどう返事すべきかわからず、礼儀深くうなずいた。「お前の傍に……雪代さんのような方がいてくれるなら、安心して任せられる。わしに残された時間は少ない……せめて……高杉家を継ぎ、家族を持ったお前の姿を……この目に焼き付けて逝きたい……」当主のこれからの言葉を察して、賢人は冷たく口を挟んだ。「ゆっくり休んでください。しばらく出る」そう言い放ち、雪代の手を取ってためらいなく部屋を出た。

  • 二度と温まらない私たちの関係   第16話

    慎一郎は緊急で病院に搬送された。雪代は彼の病床の傍らに座り、じっとその横顔を見つめている。幸い、火傷の深さも範囲もそれほどひどくなく、後遺症が残るようなものではない。慎一郎が身を挺して彼女を守った瞬間、それはまるで五年前に重なるようだ。あの時も彼は同じように彼女の手を強く握りしめていたが、爆発の衝撃波によって引き離されたのだった。雪代は複雑な気持ちになっている。ちょうどその時、病床からかすかな物音がして、彼女は現実に引き戻された。彼女が顔を上げると、ゆっくりと目を開けた慎一郎と視線が合った。その曇った瞳は、彼女を見た瞬間、一瞬で輝きを取り戻した。「雪代……」慎一郎の声はほとんど聞き取れないほどかすれている。彼は苦しそうに手を上げ、雪代に怪我がないかを確かめようとした。「雪代……無事か……怪我は?」彼の視線は、焦れったそうに彼女の体をくまなく探った。雪代は胸が締め付けられるようになり、一瞬、やりきれない切なさとも悲しみともつかない感情がよぎった。「ええ、大丈夫よ」その言葉を聞いて、慎一郎の張り詰めていた体の力が一気に抜けた。彼は笑顔を作ろうとしたが、激しい咳き込みを誘い、苦痛で顔を歪めた。「話すのはやめて」雪代は慌てて彼を支え、水を一口飲ませながら言った。「医師の話では、煙で肺を傷めてるから静養が必要なんだって」彼女の目に一瞬よぎった心配の色を、慎一郎は鋭く見逃さなかった。「……俺を心配してるのか?」彼は声をひそめて問いかけた。その瞳には、はかなくも微かな期待がきらめいている。雪代の手が一瞬止まり、コップをベッドサイドに戻すと、表情は再び平静を取り戻した。「私を助けて傷ついたんだから、情理を考えても放っておけない。今日、たとえそれが見知らぬ他人でも、私は同じことをするつもりよ」その言葉は、慎一郎の頭に冷水を浴びせかけられたようだ。彼は目を閉じ、ごくりと喉を鳴らした。再び目を開けた時、その瞳はかすかに潤みをたたえている。「雪代、すまない……あの時のことは全て俺が悪かった」彼の声は震えている。「本当に後悔している……雪代、頼む!もう一度だけチャンスをくれないか?過ちを償わせてくれ。俺たち、やり直せないだろうか?」彼は卑屈なまでに懇願し、その視線を雪代から離そうとしない。雪代

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status