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二度と温まらない私たちの関係
二度と温まらない私たちの関係
Author: 硝子の砂糖

第1話

Author: 硝子の砂糖
月島雪代(つきしま ゆきよ)は、財閥の御曹司・桐原慎一郎(きりはら しんいちろう)にとって、忘れえぬ「亡くなった」永遠の初恋だった。

一ヶ月前に、彼女は突然姿を現した。しかし、そこで知らされたのは、慎一郎が彼女の面影を残す異母妹・月島夏実(つきしま なつみ)と、結婚しているという現実だった。

……

「お願いです。もう一度だけ、確認していただけませんでしょうか?」

雪代は窓口に離婚届受理証明書を押し出し、声を詰まらせた。

職員は戸惑いながら首を振った。「お客様、これで三度目です。桐原慎一郎様と月島夏実様の離婚届の受理記録は、どこにもございません。お二人は現在も正式な夫婦です」

雪代の胸を、言い知れぬ絶望が襲った。

一ヶ月前、慎一郎は離婚届を手に、真摯な眼差しで、彼と夏実の間は単なる取引だったと、彼の心は決して変わっていないと、誓うように彼女に言ったのだ。

「雪代、あの時は君が死んだと思い込んでいた。それに、月島家も危機に瀕していた。桐原家が資本を注入する条件は、俺と夏実の結婚だった。全ては仕方なかったんだ」

その言葉を、雪代は信じた。

昨日、慎一郎のオフィスで、彼が夏実と夫婦名義で基金を設立すると計画を話しているのを偶然耳にするまでは。

聞き間違いだと願った。だが今、残酷な現実がもう目の前に。

雪代は偽りの離婚届受理証明書を握りしめた。七月の太陽が容赦なく照りつける中、彼女の心だけが、氷のように冷え切っていた。

……

雪代と慎一郎は幼なじみだった。小さい頃から、彼は彼女の騎士になると誓い、彼女を守り抜くと言っていた。

十歳の時、隣家の狼犬に追いかけられて噛まれそうになった彼女の前に、彼が身を挺し、腕の肉を食いちぎられる覚悟で守ってくれた。

十五歳の時、彼女が遊びに夢中になって山道で迷子になると、彼が人を連れて三日三晩探し回り、体力の限界で倒れそうになった頃に彼女を見つけた。

十八歳の時、海で波に飲まれた彼女を、死の淵から必死の思いで引きずり戻したのも彼だった。

同じ年、二人は交際を始め、五年間を共に過ごした。慎一郎が彼女をこの上なく寵愛していることは周知の事実だった。

彼はかつて、生涯彼女以外とは結婚しないとまで言った。

五年前、結婚式直前のあの事故が起こるまでは……誰もが彼女が火災で亡くなったと思い込んだ。

そして再び戻ってきた今、全てが変わっていた。

ウェディングドレスショップで、雪代は鏡の前に立ち、映る自分を見つめていた。

五年前に彼女が着るはずだった、慎一郎自らがデザインしたこのウェディングドレス。五年の時を経て全てが変わってしまい、昔のままなのは、このドレスだけだった。

「雪代、気に入ったか?」いつの間にか背後に立った慎一郎が、彼女の腰を抱きしめた。

「この日を俺は五年も待ち続けた。それでも、神様は俺を見捨てなかった。やっぱり君を俺の元に返してくれた」

その声は優しさに満ち、目には取り戻したものへの惜しみない愛おしさが溢れている。

雪代には、もうどちらが本当の彼なのか見分けがつかなかった。

「慎一郎……」彼女は振り向いて彼の目を見た。「あなたは、まだ私を愛しているの?」

慎一郎は一瞬たじろいだが、すぐに笑顔を浮かべた。「そんなこと、聞くまでもないだろう?十八歳の時から今まで、俺の心は微塵も変わっていない」

彼は彼女の鼻先を軽くつまみ、その眼差しには誠実さが滲んでいて、雪代は錯覚が起きたかと自分を疑った。

もしかしたら、あの離婚届には何か彼女の知らない事情があるのかもしれない。

そう口にしようとした瞬間、慎一郎の携帯が振動した。

ちらりと見えた画面には、夏実からのメッセージが表示されていた。

【慎一郎、今日、お腹の子が動いたの。パパに会いたいって。いつ来てくれる?】

雪代は全身の震えを覚えた。

お腹の子? パパ?

つまり、離婚届が偽物なだけでなく、二人の間には子供までいるということ?

慎一郎は表情を一瞬で硬くし、素早く画面を消した。

「雪代、会社に急ぎの用件が入って。行ってみないと」

彼は彼女が見ていないと思っている。

そして、平常を装って嘘をつき続ける。

「どんなに急ぎの用件? ドレスのフィッティングが終わってからじゃだめ?」雪代は自分の声が震えているのを感じた。

「悪い、雪代」慎一郎は既に上着を手に取っていた。「すぐに戻るから」

彼が振り向いた瞬間、彼女は彼の袖を掴んだ。

「慎一郎、いてほしいの」

以前なら、数千億円規模のプロジェクトの契約が待っていようと、彼女が「傍にいて」と一言言えば、慎一郎は全てを放り出して残ってくれた。

しかし今、慎一郎の目は一瞬揺らぎ、最後にはそっと彼女の手を振り解いた。

「すぐ戻るから、待っててね」

慎一郎は彼女の額に慌ただしくキスをすると、その場を離れた。

その断固として去っていく背中を見つめ、雪代は胸が締め付けられるような痛みを感じた。

かつて彼女を命のごとく愛したあの慎一郎は、もうどこにもいない。

今の慎一郎は、偽の離婚届で彼女を騙し、ほかの女性のために彼女を置き去りにし、そしてついに他の女性との間に子どもまで作った。

雪代は棒立ちになったまま、時が経つのも忘れていた。しばらくして、突然の着信音で我に返った。

「月島様、結婚式の招待状とポスターのご案内書類について、ご確認をお願いしたくて……」

「私の名前を、月島夏実に変えてください」

先方が言い終えるのを待たず、雪代は静かに遮った。

電話の向こうは呆然とした。「え? 何とおっしゃいましたか?」

「招待状とポスターの新婦の名前を、全て月島夏実に差し替えて」彼女は一語一語、力を振り絞るように言った。

「この件は、慎一郎には内密にしてください」

彼らこそが正式な夫婦なら、結婚式も当然すり替えるべきだ。

これで、彼らへのせめてもの祝福としよう。

電話を切り、彼女は別の番号にダイヤルした。

相手はすぐに出た。少し不安げで、優しい男の声だった。

「雪代ちゃん?」

「賢人」

雪代は鏡に映る、ウェディングドレスを纏った自分を見つめ、ついに音もなく涙がこぼれ落ちた。

「あなたの気持ち、受け入れる。付き合おう。あと半月だけ待っててね、M国に戻るから」

五年前、火災に閉じ込められた彼女を救い出したのは高杉賢人(たかすぎ けんと)だった。

この数年、最も辛い時期を共に支え続けてくれたのも彼だった。

幾度もの皮膚移植の苦痛に、彼女が諦めかけていた時、彼女の手を握り「俺はここにいる」と言ってくれたのも彼。

そして賢人が彼女に想いを打ち明けた時、彼女は言った。

「ごめん、私にはもう愛する人がいる」

その人こそ、慎一郎だった。

しかし今、彼はもはや彼女の愛する人と呼ぶに値しない。

彼が新しい人生を歩み始めたのなら、彼女も過去に執着し続けることはない。
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