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第3話

作者: 硝子の砂糖
この数年、慎一郎と夏実が結婚していた事実はごく一部の者だけが知るところで、世間的には夏実は慎一郎が探した「代わり」の恋人だと囁かれる程度だった。

何と言っても、当時の雪代と慎一郎は社交界で認められた、おとぎ話のようにめでたいカップルだったのだ。

彼女の事故後、慎一郎が彼女を追って幾度も自棄騒ぎを起こしたことは、大きく話題になった。

そんな中で秘め婚が発覚したのだから、世論が一瞬で沸き立つのも無理はない。

夜には、桐原家と月島家の合同チャリティー晩餐会が開催する。

雪代は行く気はなかったが、父からは「ここ数年は夏実がグループの業務を切り盛りしてきた。お前が携わりたいのなら、この社交界に再び溶け込まなければならない」と強硬に言い渡されていた。

晩餐会は、杯が交わされ、華やかな衣装が行き交う中で進んでいく。

慎一郎と夏実は両家の代表として、一つになるように並び立ち、美しい夫婦のように見えた。

「桐原社長ご夫妻は、本当にお似合いの仲でいらっしゃいます。慈善事業へのお心遣いもお二人揃って同じで」

噂が広まる中、早くも取り入るようなお世辞を口にする者も現れた。

慎一郎はわずかに眉をひそめたが、結局は否定せず、淡々と会釈をするだけだった。

雪代は少し離れた場所に立ち、増えゆく人々が恭しく夏実を「奥様」と呼ぶのを聞き、一つ一つのお世辞が針のように彼女の耳に刺さっていった。

彼女は背を向け、展望台へと向かった。

夜風は涼しいのに、彼女の胸の苦しみは吹き飛ばせない。

ほどなくして、夏実の声が背後から聞こえた。

「姉さん、どうしてここに隠れてるの?

ネット上の雑言、あまり気にしないでね」

彼女の紅唇がほころび、含み笑いのような挑発を浮かべた。

雪代は冷ややかに笑った。「あなたがやったんでしょ? 芝居くさくすることないわ」

夏実は眉を上げ、あっさり認めた。「そうよ、それが何か? 慎一郎も否定なんてしなかったし、私と一緒に出席してくれた。それでまだわからないの?」

彼女は桐原家の家紋が刻まれた有田焼の白磁ブレスレットを軽く揺らしながら、得意げに笑った。「桐原家の証であるこのブレスレットでさえ、今は私のもの。まだ理解できないの?」

それは桐原家に代々伝わるブレスレットで、桐原家の嫁にしか渡らないものだった。

かつては、慎一郎の母が直々に雪代の腕にはめてくれたそのブレスレットが、今、夏実の腕に煌いている。

雪代の瞳が冷たく冴え渡った。口を開く間も与えられず、夏実は突然彼女の手を掴むと、白磁のブレスレットを石彫りに叩きつけた。

パリンと硬質な音と共に、白磁は粉々に砕け、細かい破片が飛び散った。

夏実は一声悲鳴を上げ、よろめきながら後ずさった。「姉さん、欲しいなら言ってくれればよかったのに……これは桐原家の家宝よ、どうして壊すのよ?」

物音に驚いた人々が振り返ると、夏実が雪代をまっすぐ指差している姿が目に入った。

「ねえ、あの人、月島家の死んだはずの長女じゃない?」

「確か、社長と結婚目前だったのに、事故に遭って……」

「今、社長は彼女の妹を娶ったんだ。妬んでるんじゃないか?」

「桐原家の嫁にしか渡らない家宝さえ壊すなんて、ひどすぎる!」

非難の声が四方八方から押し寄せた。

混乱の中、慎一郎と両家の親が慌てて駆けつけた。

「姉さんのせいじゃないんです。このブレスレットは元々姉さんのもの。私が長年独占していたのが悪いんですから……姉さんが怒るのも無理はありません……」

夏実は手首を押さえ、たちまち哀れっぽい様子に変貌した。

慎一郎の母はそれを聞くや、雪代に鋭い目を向けて、言い放った。

「雪代さん、どうしてそこまで変わってしまったのですか? 何があろうと手を出すなんて……本当に失望しました」

雪代はその眼差しに胸を刺された。かつては実の子同然に慈しんでくれた慎一郎の母までもが、今は夏実に味方している。

「私が壊したんじゃありません……」雪代は説明しようとした。

しかし展望台に監視カメラはなく、誰も彼女を信じはしない。

「母さん、雪代がそんなことをするはずがありません」慎一郎はすぐに口を挟み、彼女の傍に立って庇った。「何か誤解があるに違いありません。俺は彼女を信じます」

庭園の他の賓客が去った後、慎一郎の母はしばし沈黙した後、ため息をついた。

「もういい、この件はここまでにしましょう。しかし、慎一郎……」 彼女は慎一郎に向き直った。 「世間の噂が立っているというのに、今日こんな事があっては。雪代さんとの結婚式は、ひとまず見合わせた方がいいでしょう」

慎一郎の母がそう言い終えると、夏実の瞳にかすかに勝利の笑みが掠めた。

慎一郎の表情は一瞬で険しくなった。「それはできません」

彼の声は揺るぎない決意に満ちていた。「母さん、俺が解決しますから、雪代との結婚式は予定通り執り行います」

慎一郎の母は彼のここまでの断固たる態度に予想外だったようで、一瞬言葉に詰まった。

「慎一郎……」

「外に運転手が待っています。先に家までお送りします」慎一郎は母の背中を押し、それ以上の言葉を遮った。

二人が遠ざかった後、雪代もその場を離れたが、廊下の突き当たりで二人の会話を耳にした。

「慎一郎、夏実はあなたの子を身ごもっているのです。彼女のことは考えなければなりません」

雪代の足が止まった。慎一郎の声が聞こえてくる。

「分かっています。だからこそ、夏実と離婚はしていないのです」

その答えに雪代の全身が冷え切った。これ以上聞くことはなく、彼女は足早にその場を通り過ぎた。

慎一郎の口調はさらに冷たくなっていた。「遅くとも夏実が子を産んだら、すぐに離婚します」

「それじゃあ、その時まで待ってから雪代さんと式を挙げなさい……」

「母さん、私はもう五年も待ちました。これ以上は待てません。雪代にもこれ以上のつらい思いをさせられないのです」

翌日、慎一郎のアシスタントが早朝から雪代を記者会見場へと招きに来た。

慎一郎が噂に対して正式な対応をするため、彼女には必ず同席して欲しいという。

雪代が到着した時、慎一郎と夏実はもうフラッシュを浴びて立っていた。

「この度の秘め婚に関する諸説について、正式にご説明申し上げます。月島夏実さんと、確かに五年前に婚姻関係を結んでおりました」
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