理仁は車を止めた後、佐々木俊介が財産を移した証拠のことを思い出し、車から降りようとしている唯花を呼び止めた。「友人に頼んで、佐々木俊介の財産の件を調べてもらった。あいつよくやってくれたよ、証拠は昨夜俺に渡しに来てくれたんだ。そのまま車の後部座席に置いてある。その黄色いファイルに入っているよ」「あなたのお友達って本当にすごいわね。こんなに短時間で証拠を集めてしまうだなんて」唯花は理仁の友人にとても感謝するとともに、興味が湧いてきた。どんな人なのか会ってみたい。彼女はこの証拠が集まるにはかなりの時間を要すると思っていたのだ。佐々木俊介は最近になってから財産を移したわけではないだろう。もっと前から計画的に行っていたはずだ。たった一日で、その友人は証拠をきれいに集めてしまった。「理仁さん、あなたのそのお友達、探偵事務所をやってないだなんて、すごくもったいないわよ、こんなに能力が高いのに」唯花は車を降りると、後部座席のドアを開け、中から黄色いファイルを取り出した。「彼の家族には専門に情報収集をして生業にしている人がいるからね。彼らのその人脈があってこそ、こんなに早く証拠が集められるんだ」九条家の情報網の範囲は非常に広い。星城市はもちろん彼ら九条家の地盤でもあるわけだから、星城内の情報の数といったら桁違いだ。九条家が知りたいことは余すことなくかき集めることができる。しかし、その費用は相当に高い。普通の人には九条家にお願いできるような資格もないのだった。「このような人って、私ずっと小説の中だけにしか出てこないと思っていたわ。まさか現実世界にもこんなすごい一家が存在しているだなんてね」唯花は黄色のファイルを取ると、理仁が彼女に贈ってくれた花束を座席の上へ戻した。理仁は彼女を見つめた。唯花は「お姉ちゃんは今、落ち込んでいるでしょ。私たちのこういうイチャついてるような様子はお姉ちゃんの前で見せないほうがいいわ」と慌てて説明した。彼女は彼に近寄って、顔にキスをして笑って言った。「あなたから花をもらって嬉しい気持ちは変わらないわ」人前でイチャつく機会なら今後いくらでもあるのだ。こんな時にそんなことをする必要などない。理仁は納得した。「君たち姉妹は本当に仲良しだな」「だって十何年もお互いに助け合って生きてきたんだもの。お
「清水さん、お姉ちゃんと陽ちゃんはやっと落ち着いて寝ているから、起こさないでおきましょう。お粥を作って、後で起きてきたら食べさせてあげてください」清水は頷き「わかりました」と返事した。三人は一緒に朝食を取った。唯花はインスタントコーヒーを入れて飲んで目を覚まさせた。清水は食事を終えると、食卓から離れて出て行った。彼女がいなくなったのを見て、ここぞとばかりに理仁は唯花の手を握った。「唯花さん」理仁は優しい声で言った。「君はここで休んでいて、俺が行ってくる」唯花は彼の手を握り返し、彼を諭すように言った。「大丈夫、コーヒーで何とかなりそうだから。それに、柏木家に行ったら喧嘩になるかもしれないでしょ。口喧嘩なら私のほうがあなたより強いわ。たぶん辰巳君たちでは英子に口で敵わないわよ」彼らはみんな教養があって品のある人たちだから、喧嘩は専門外だろう。「私は陽ちゃんの叔母だもの。陽ちゃんがあいつらにこんな目に遭わされて黙ってなんかいられない。絶対に仕返ししてやるんだから。昨日陽ちゃんが気を失って、こっちのことで頭がいっぱいだったから、柏木家に怒鳴り込みに行く時間がなかったわ。今日は陽ちゃんの調子もちょっと良くなったし、安心してあいつらを懲らしめに行けるのよ」理仁はじいっと彼女を見つめた。唯花は笑った。「理仁さん、そんな目でいつも私を見つめないで。私のこと誘ってるんじゃないか勘違いしちゃうじゃない。そんな目で見つめられたら、心臓バクバクして変なこと考えちゃうのよ。ああ、さっさとベッドに押し倒してあげたいわ。いいの?」結城理仁「……」「プルプルプル……」この時、理仁の携帯が鳴った。それは結城辰巳からだった。彼がその電話に出ると辰巳が話し始めた。「兄さん、俺たちXXインターの料金所近くの駐車場で待ってるよ」「わかった、今から行く」理仁は電話を切ると、唯花に言った「あいつらが昨日と同じ場所で待ってるって」唯花は飲みかけのコーヒーを二、三口で一気に飲み干した。そして清水に姉たちのことを任せると、夫婦は唯月の家を出て行った。道の途中で、神崎姫華から電話がかかってきた。「唯花、あなたに送った写真はもう見た?なんか親しさみたいなものを感じた?」姫華は唯花が実家の田舎のほうで昔女の子を養子にした人もいると聞いて
唯花が不安がっていると、姫華は話し始めた。彼女は異常なまでに落ち着いた声で唯花に尋ねた。「唯花、お母さんは昼に家に戻るの。あなたのところに陽ちゃんを迎えに行ってもいい?」姫華は自分の叔母に対してあまり印象がなかった。写真で見てみても、どうもピンとこない。唯花の話からすると、子供は小さい時はみんな可愛いということだが。陽が彼女の叔母に似ているというのであれば、ただほんの少しだけしか似ていないとしても、それを見過ごすことはできない。陽を連れて母親に会わせてみないことには。姫華はこの時、自分が唯花と初めて出会った時に感じたあの不思議な親近感を思い出していた。陽に初めて会った時も、同じように一目で彼のことを気に入ってしまった。もし陽が彼女の叔母の孫であれば、どうして彼女が一目で陽のことを好きになったのか説明もつくというものだ。彼女も陽と同じくらいの子供と接したことがないわけではない。しかし、陽に関しては他の子供たちと違い、陽を自分の甥っ子にしてしまいたいくらい一目で好きになってしまったのだ。陽におもちゃを買ってあげている時、一切の迷いなく、陽におもちゃ工場でも経営してあげて、彼のためだけにおもちゃの生産をしてあげたくなるくらいだった。それは唯花に対しても同じだった。姫華のこの身分であるから、身の回りにはいつも彼女と関係作りをしようとしてきたり、彼女をおだてて気に入られようとしてきたりする人間は後を絶たなかったが、そのような人たちは自分の視界にも入れなかった。26歳である彼女には本当の友人と呼べる人は指折り程度にしかいなかった。それは彼女の好き嫌いが激しいからだ。しかし唯花とは会った瞬間からまるで昔からの親友だったかのように感じたのだ。彼女に唯花の出身や家庭レベルなど気にもさせないほど、友達になりたいと思った。それは、ただ唯花が彼女に好きな人の落とし方を教えてくれたという理由だけではないのだ。それもあって、彼女は本当に心から唯花を好きになり、友達になりたいと思ったのだった。「姫華、今はちょっと都合が悪いの。陽ちゃん、ちょっとトラブルに巻き込まれちゃって」それを聞いて姫華の心は何かにぎゅっと掴まれたかのように苦しくなり、緊張した面持ちで尋ねた。「陽ちゃんに一体何があったの?」唯花は一瞬ためらったが、やはり本当のことを話
「うん、旦那って大家族なのよね。姫華、ありがとうね」姫華は唯花の夫が自分の家族を連れて助太刀に行くと聞き、安心して言った。「唯花、あなたと旦那さんってスピード婚なんでしょ?なんだか二人の関係はイイ感じみたいね。あなた達に何かある時には彼が必ず助けてくれるみたいだし」唯月の夫とはまったく違っている。知り合って十二年という長い時間は一体何の役に立つというのだ?そんなに長い付き合いなのに、唯花がスピード結婚した旦那に遠く及ばないではないか。「わかったわ、今回は私は遠慮しておきましょう。だけどね、次もしも何か困ったことがあったら、絶対に私に言ってよね。そうしてくれないなら、私をもう友達だと思わないでちょうだい。そうだ、お姉さんのお家の住所を教えてくれない?私、唯月さんのお家に陽ちゃんの様子を見に行ってくるわ」唯花は彼女のこのお願いは断らなかった。電話を切った後、唯花は姉の住所を姫華に送った。理仁はずっと耳を澄ませて唯花と姫華の通話を聞いていた。姫華が人を連れてやって来ると聞いた時には、彼は車のハンドルをぎゅっときつく握りしめていた。姫華がもし来たら、彼の正体がばれてしまうことになる。彼はこんな突然に真実を明かしたくなかった。それでは唯花に心の準備ができておらず、本当のことを受け入れられないだろう。それに、夫婦二人はまだ相手に対するお互いの気持ちがまだ定まっていない。だからいきなり正体をばらすのは相応しくないのだ。幸いなことに、唯花が姫華の好意をやんわりと断ってくれた。理仁は姫華に対しては好感を持ってはいなかったが、姫華の唯花に対する優しさは認めざるを得なかった。姫華のあの荒い気性とその身分が、彼女を何があっても心の赴くままに行動させていた。じっと我慢している必要はないのだった。理仁は何も気にしていないかのようなふりをして尋ねた。「神崎さん?」「うん、姫華がお母様と叔母様の小さい頃の写真を送ってきたの。あの山荘に行っていた日、ちらっと見ただけで何も気づかなかったんだけど、帰ってからよく見てみたらね、突然なんだか彼女の叔母様が陽ちゃんとすごく似てるなって思ったのよ」理仁は彼女のこの言葉に驚き、危うく前を走行している車に追突してしまうところだった。彼は焦って急ブレーキをかけた。唯花の体はその衝撃で前のめり
それか、姫華は叔母が大人になった後の姿をイメージできなかったのだろう。唯花は柏木家から帰って来た後、神崎家のそのおばさんが大人になった後のイメージを描いてみようと思った。姉に似ているだろうか?「そういうことなら、君のお母様が神崎さんの叔母さんだっていうこと?」理仁は「有り得ない!」と心の中で叫んだ。まったくもって有り得ない!そんなこの世で最も有り得ないようなことが、まさか自分の妻の身に起きるとは!最も助けてくれと叫びたくなることは、神崎姫華が以前、彼に公開告白をして、追いかけ回していたということだ。しかも唯花は姫華に彼を落とすためのアドバイスをしていたのだぞ。もしも彼が指輪をはめて神崎姫華にわざと見せていなければ、彼女は今でも毎日彼に付き纏い、彼を相当イラつかせていたことだろう。本来であれば、神崎姫華にはしっかりと教訓を与えてやるところだったのだが、まさかその彼女と唯花が仲の良い友人になるとは思ってもいなかったのだ。それで彼は何もできなくなってしまった。唯花に対して心から優しくしてくれる人には、彼は特別に好待遇をしてあげるつもりだ。内海家のあのクズどもは最近ピタリと鳴りを潜めていて、唯花に迷惑をかけにくることはなかった。彼が手を出したことだし、姫華も一役買っている。内海家は唯花の後ろ盾となっているのが彼であるということは知らず、姫華のほうだと勘違いしていた。それで姫華を恐れて今は静かになっているのだった。「私もどうなのかはわからないわ。お母さんは十五年前に亡くなっているし、もしも……」唯花は神崎夫人が数十年もの長い間ずっと妹の行方を捜していて、ようやく見つけたと思ったら、その妹はすでにこの世を去っていると知ったら、かなりのショックを受けてしまうだろうと思った。唯花は自分の母親に対しても、とても心が痛んだ。「たぶん、他人の空似だろう」唯花は落ち込んだ様子で言った。「神崎夫人は妹さんをずっと捜し続けて諦めたことがないわ。お母さんが生きていた頃、一度も自分の家族について話してくれたことはなかった。だけど、もし生きていたら、きっと、自分の家族を見つけたいと思ったでしょうね。お母さんは以前、私たちに話してくれたことがあるの。自分は一体実の両親に捨てられてしまったのか、それとも誘拐されて売られて来たのかを知りた
しかしそれよりも、今すべきことは陽のためにあいつらを懲らしめることだ。自分の正体については、まだ暫くの間は隠し続けることができるだろう。彼はもうすぐ桐生蒼真と雨宮遥の結婚式に出席するためA市に赴かなければならないのだから。どのみち、少しでも時間稼ぎができるなら極力そうするまでだ。彼も神崎夫人と会う前に、唯花に正直に話せばいい。その時は……唯花があまりに大袈裟な反応をしないのを祈るだけだ。彼は結婚当初、彼女に対して一切の感情も持っていなかったし、よく相手のことを知らなかったわけで、自分の正体を隠して彼女の人となりを見極めようと考えるのは、いたって普通のことだと思っていた。彼のこの身分なのだから、彼に近づいてくる女が金目当てなのか、それとも彼自身が好きなのか判断のしようがない。今、唯花の人柄や、物事を処理する際の向き合い方、自信を持ち強く自立した女性であることは正に彼の好みだった。そして彼女と共に過ごしていく中で、いつのまにか彼女に惹かれていった。電話をかけてきた姫華のほうは、唯花との電話が終わると、すぐに使用人に指示を出した。「坂下さん、ちょっと栄養の補助ができるような健康食品を用意してくれないかしら。子供が食べるものよ、人に贈るの」坂下は「そのお子様はおいくつでしょうか?」と尋ねた。「2歳ちょっとよ」「2歳過ぎのお子様でございましたら、特になにもなければ、栄養補助食品などは必要ないと思いますが」坂下はこのように自分の家のお嬢様に教えた。お嬢様はまだ結婚していない。子供のことをよく理解していないのは当たり前のことだ。彼女にこのように教えるのも彼女の仕事の一つなのだ。このお嬢様が相手に相応しくない贈り物をして恥をかき、家に帰って彼女に当たり散らすのを避ける必要もある。「まったく口にしちゃだめなものなの?」陽は健康だから、確かに何か栄養補助食品などは必要ないだろう。「鉄分、亜鉛、カルシウムなどの健康食品は問題ございませんが。しかし、こちらには置いていません」神崎玲凰は結婚しているが、自分の妻を溺愛中で、夫婦二人だけの世界にまだ浸っていたいので、子供は作っていなかった。神崎家の次男と長女である姫華は言うまでもなく、まだ独身貴族だ。それ故、家には幼児用の健康食品などは置いていなかったのだ。「だったらい
神崎夫人はそれを聞いて驚いた。「結城さんに彼女ができたの?」「結婚しているの。しかも奥さんにとても優しくて、溺愛してるみたい。お兄ちゃんでもその奥さんが一体誰なのか調べてもわからないんだから、情報が漏れないようにしっかり守っているんでしょうね」神崎夫人「……彼が結婚しているのなら、もう諦めなさいね。彼はそもそもあなたのものではないんだし、ずっとあなたの片思いだったし」神崎夫人は結城理仁のことを高く買っていたが、彼が自分の娘のことをまったく好きではないことがわかっていた。ただ娘自身が彼にアタックしてみたかったのだ。壁にぶち当たったのなら、他の道を探すまで。「お母さん、ちょっと話があるのよ」姫華は母親とこれ以上結城理仁の話をしたくなかった。彼の話題になると、ぎゅっと心が締め付けられる。長年好きだった男性が、ある日突然、結婚していると知ったのだ。彼女は危うく人の恋路の邪魔をする第三者になってしまうところだった。そしてその瞬間から彼のことを諦めなければならず、辛くないと言えば嘘になる。今の彼女は自分の気持ちを保つために、できるだけ結城理仁の話題は避けようとしていた。「なぁに?お母さん、もうすぐ家に着くわよ。それからじゃだめなの?」「あのね、聞いたら喜ぶと思って、叔母さんの新しい手がかりが掴めたのよ」それを聞くと、やはり神崎夫人は真剣な表情になり、驚きと喜びに溢れた。「姫華、手がかりが掴めたって?叔母さんは今どこにいるの?」「あの友達の唯花が、えっと、あの、この間『不孝者の孫娘』って炎上した子がいたじゃない?お母さんと叔母さんが小さい頃の写真を彼女に送って心に留めておいてもらおうと思って見せたんだけど、さっき彼女に電話した時、その写真をよく見たらなんだか彼女の甥っ子の陽ちゃんと叔母さんが似てるような気がするって言っていたの」それを聞いた神崎夫人の顔色は喜びの色から一転し、少し青ざめた。この間の炎上の件では、騒ぎは結構大きくなり、彼女は内海家が削除してしまった写真を見てはいなかったが、娘の口から大体のことを聞いていて知っていた。内海姉妹といえば、二人の両親はすでに他界しているはずだ。もし、唯花の甥が彼女の妹に似ているのであれば、それは唯花の母親が彼女の妹であるということで、その妹はすでに十五年前に亡くなっている
もし、唯花姉妹が神崎夫人の姪なのだとしたら……神崎夫人は二人の姪っ子が今までに味わって来た苦難を思うと、さらに心が締め付けられて苦しかった。「もうすぐ家に着くわ。待っててちょうだい、あなたと一緒に陽君に会いに行くから」これが最も可能性の高い手がかりだ。彼女は絶対に自ら妹に似ているという子供に会いに行くと決めた。……その頃、柏木家では。「お父さん、お母さん、引っ越さないでちょうだい。私、唯花に賠償金は払わせないって約束するから、これでいいでしょ?」英子は両親が家から出て行こうとするのを必死に止めていた。昨日、両親は帰るとすぐに荷物の整理を始めた。しかし、娘から泣きながら二度とあんな真似はしないと訴えられて、二人は一夜はなんとかここに留まっていたのだ。一晩もすれば、両親の怒りは収まると考えていたのだった。それがまさか今、やはり引っ越して出て行くと言われるとは思っていなかった。特に父親のほうの気がどうしても収まらないようだ。英子の夫である柏木輝夫も一緒に二人をなだめた。「義父さん、義母さん、英子の言うとおりです。引っ越してお二人の家に戻ったって、誰も世話をする人がいないのに、僕たちは安心できないですよ。僕たちと一緒に住んでいたほうが、家族一緒にわいわい楽しく過ごせるじゃないですか。義父さん、智哉も間違いを反省していますから。後で英子とあの子を連れて陽君に謝罪してきます。僕も昨日はしっかりと智哉にしつけてやりましたから」佐々木父はソファに腰かけてタバコをふかし、何も言わなかった。彼の横には荷物を整理したスーツケースが置かれていた。佐々木母は夫を見つめながら、何か言いたげだったが、言葉に出せないようだった。佐々木俊介に関しては、一言も発言することができないようだった。彼は昨日姉の家に着いて、甥が姉の旦那にひどくしつけられているのを見て、彼も怒りがほとんど消えてしまった。「お父さん」「黙っとれ」佐々木父は冷ややかに一喝し、顔を上げて娘をぎろりと睨みつけた。そして、彼の息子のほうはというと、一言も発せず隣に黙って立っているのを見て、彼はさらに怒りが込み上げてきた。それから、孫の智哉は娘婿にひどくしつけられたようだった。しかし、智哉の顔は氷で冷やした後、すぐに腫れが引いた。確かにまだ青あざは少し
姫華は唯花たちが引っ越し作業を終えてから、ようやく自分がそんなに面白いことを逃したのだと知ったのだった。だから彼女は明凛と唯花に不満を持っていた。明凛は唯花に姫華にも教えるよう言ったが、唯花が彼女はお嬢様だから家をめちゃくちゃにするという乱暴なシーンは見せたくないと思い姫華には伝えなかったのだ。確かに姫華は名家の令嬢であるが、神崎姫華だぞ。神崎姫華は星城の上流社会ではあまり評判が良くない。他人が彼女のことを横暴でわがまま、理屈が通じないというくらいなのだから、そんな彼女が家を壊すくらいのシーンで音を上げるとでも?逆に、彼女自身も機嫌が悪い時にはハチャメチャなことをしでかすというのに。「姉がもらうべき分はしっかりと財産分与させました。ただ内装費に関しては佐々木家が拒否したので、私たちが人を雇ってその内装を全て剥がしたんです」詩乃はそれを聞いて「それはそうすべきよ。どうして佐々木家においしい思いをさせる必要なんてあるかしら」と唯花たちの行動を当たり前だと言った。そして最後にまた残念そうにこう言った。「もし伯母さんが知っていれば、あなた達の家族として、大勢で彼らのところまで押しかけて内装費を意地でも出させてあげたものを。これは正当な権利よ」この時、唯花はふいに姫華の性格は完全に母親譲りなのだと悟った。「唯花ちゃん、もうちょっとしたらお店を閉めて私たちと一緒に神崎家に帰りましょう。家族みんなで食事をするの。そうだ、あなたの旦那さんはお時間があるのかしら?彼も一緒にいらっしゃいよ」唯花は「夫は今日出張に行ったばかりなんです。たぶん暫くの間帰ってきません。彼が帰ってきたら、一緒に詩乃伯母さんのお宅にお邪魔します」と返事した。「出張に行ってらっしゃるのね。なら、彼が帰って来てからお会いしましょう」詩乃はすぐに姪の夫に会えなくても特に気にしていなかった。彼女にとって、二人の姪のほうが重要だったからだ。今、彼女は姪を見つけることができて、姪二人にはこの神崎詩乃という後ろ盾もできた。ちょうど唯花に代わってその夫が頼りになる人物なのか見極めることができよう。「あなたのお姉さんは五時半にお仕事が終わるのよね?」「ええ」神崎夫人は時間を見て言った。「お姉さんはどこで働いていらっしゃるの?」「東グループです」神崎夫人は「そ
姫華は父親である神崎航と一緒に母親を気にかけていたので、理紗が忘れずにこの鑑定結果を持ってきたのだった。唯花は理紗から渡された鑑定結果を受け取って見た。彼女はその結果を見た後、少しの間沈黙してからそれをテーブルの上に置いた。「唯花ちゃん、あなたは私の姪よ。私のことは詩乃伯母さんって呼んでね」今世では妹と再会を果たすことはできなかったが、妹の娘である二人の姪を見つけることができただけでも、神崎詩乃(かんざき しの)にとっては一種の慰めになった。彼女は唯花の手をとり、自分のことを「詩乃伯母さん」と呼ばせた。「唯月ちゃんは?それから陽ちゃんも」神崎詩乃はもう一人の姪のことも忘れていなかった。「姉は昼にはここへは来ないんです。夕方五時半に退勤したら帰ってきますよ」唯花はそう説明して、明凛のほうを見た。明凛が陽を抱っこして近づいて来て、唯花が彼を抱っこした。「神崎おば様……」唯花がそう言うと、詩乃は言った。「唯花ちゃん、私のことは詩乃伯母さんって呼んでね。私はずっとあなた達を見つけられるのを夢見ていたのよ。ようやく見つけたんだから、そんな距離感のある言い方で呼ばれると寂しいわ」唯花は少し黙った後「詩乃伯母さん」と言い直した。DNA鑑定結果はもう出てきたのだ。彼女が神崎詩乃の血縁者であることが証明されたのだから、神崎夫人はまさに彼女の伯母にあたるのだ。本当にまるでドラマのようだ。詩乃は唯花に詩乃伯母さんと呼ばれて、目をまた赤くさせた。そして姫華がこの時急いで言った。「お母さんったら、もう泣かないで。陽ちゃんもいるのよ、お母さんが泣いたりしたら、陽ちゃんを驚かせちゃうでしょ」明凛と清水はみんなにお茶とフルーツを持ってやってきた。詩乃は陽を抱っこしたいと思っていたが、陽のほうはそれを嫌がり、背中を向けて唯花の首にしっかりと抱きついた。「陽ちゃん、こちらはおばあちゃんのお姉さんなのよ」詩乃は立ち上がって、陽をなだめようとした。「いらっしゃい、おばあちゃんが抱っこしてあげる、ね」しかし陽は彼女の手を振り払い「やだ、やだ、おばたんがいいの」と叫んだ。詩乃は陽が過剰な反応をしたのを見て、諦めるしかなかった。そして少し前の出来事を思い出し、彼女はまた容赦なくこう言った。「あの最低な一家が、陽ちゃんにショックを
数台の高級車が遠くからやって来て、星城高校の前を通り過ぎ、唯花の本屋の前に止まった。隣の高橋の店で暇だからおしゃべりをしていた結城おばあさんが、道のほうに目を向けると数台の高級車がやって来ていた。そしてすぐに顔をくるりと元の位置に戻し、わざと頭を低くした。あの数台の車から降りてきた人に見られないようにしたのだ。「唯花、唯花」姫華が車から降りて、唯花の名前を呼びながら店の中へと小走りに入ってきた。その時は隣の店でおしゃべりしていた結城おばあさんを全く気にも留めていなかった。その後ろの車から降りてきた神崎夫人の夫の神崎航がボロボロに泣いている妻を支えながら、娘の後ろに続いて店の中に入ってきた。理紗はボディーガードたちに入り口で待機するように伝え、それから彼女も店の中へと入ってきた。唯花は三分の一ほどビーズ細工のインコを作り終えたところで、姫華に呼ばれる声を聞き、その手を止めて姫華のほうへ視線を向けた。「姫華、来たのね。ご飯は食べた?もしまだなら……」その時、神崎夫人が夫に支えられて入ってきて、夫人が涙で顔を濡らしているのを見て、唯花は状況を理解した。神崎夫人はDNA鑑定の結果を手にしたのだ。神崎夫人のその顔を見れば、聞くまでもなく彼女と神崎夫人には血縁関係があるのだということがわかった。「唯花ちゃん――」神崎夫人は急ぎ足で、レジ台をぐるりを回って彼女のもとへとやって来て、唯花を懐に抱きしめ泣きながら言った。「伯母さんにもっと早く見つけさせてよ――」彼女はそれ以上他に言葉が出てこないらしく、ただ唯花を抱きしめて泣き続けた。唯花は彼女に慰める言葉をかけたかったが、自分もこの時何も言葉が出せなかった。「私の可哀想な妹――」神崎夫人は妹がすでに他界していることを思い、また大泣きした。唯花は彼女と一緒に涙を流した。明凛は陽を抱っこして清水と一緒に遠くからそれを見守っていた。陽は全くどういうことなのかわかっていない様子だった。姫華と理紗も目を真っ赤にさせていた。神崎航がやって来て、妻を唯花から離し、優しい声で慰めた。「泣かないで、姪っ子さんが見つかったんだ、良かったじゃないか。私たちは喜ぶべきだろう。そんなふうにずっと泣いてないで、ね」神崎夫人は夫に支えられて椅子に腰かけた。妹の不幸な境遇と、二人の
「内海のクソじじい、あんたはしっかり私から百二十万受け取っただろうが。現金であげただろう、あれは私がずっと貯めていたへそくりだったんだよ。あの金を受け取る時にあんたは唯花を説得してみせると豪語してたじゃないか。それがあんたは何もできずに、うちの息子はやっぱり唯月と離婚してしまったんだぞ。だからさっさと金を返すんだよ。じゃないと本気で警察に通報するわよ」佐々木母は内海じいさんがどうしても認めようとしないので、怒りで顔を真っ赤にさせていた。内海じいさんは冷たい顔で言った。「もし通報するってんなら、通報すりゃええだろ。俺がそんなことを怖がるとでも思ってんのか。俺はお前から金を受け取ってないし、もし受け取っていたとしてもそれが何だって言うんだ?それは唯月が結婚した時の結納金の補填だろう。うちの孫娘がお宅の息子と結婚する時に一円も出しゃあしなかったくせによ。結納金に代わって百万ちょいの補填だけで済んだんだぞ。お宅にも娘がいるだろ。その娘が結婚する時に一円も結納金を受け取らずにタダで娘を婿側に送ったのか?」佐々木母はそれを聞いて腹を立てて言った。「なにが結納金だ、お前は唯月を育ててきたのか?そうじゃないくせに結納金を受け取る資格があんたにあるとでも?彼らはもう離婚したってのに、馬鹿みたいにあんたらに結納金を今更補填してあげるわけないでしょうが。さっさと金を返すんだよ!」「金なんかねえ。命ならあるけどな。それでいいなら持って行くがいい」内海じいさんは、もはやこの世に何も恐れるものなど何もないといった様子で、佐々木母はあまりの怒りで彼に飛びかかって引き裂いてやりたいくらいだった。そこに英子が母親を引き留めた。「お母さん、あいつに触っちゃダメよ。あいつはあの年齢だし、床に寝転がりでもされちゃったら、私たちが責任を追及されちゃうわよ」「ああ、じいさんや、私はすごくきついよ。もう息もできないくらいさ。こいつらがここで大騒ぎしたせいで私まで気分が悪くなってきたみたいだ。死にそうだよ……」病床に寝ていたおばあさんが突然、気分が悪そうな様子で胸元を押さえて荒い呼吸をし始めた。内海じいさんはすぐにナースコールを押して、医者と看護師に来るように伝えた。そして、佐々木母たち三人に向って容赦なく言った。「もしうちのばあさんがお前らのせいで体調を悪化させた
唯花は笑って言った。「姫華が言ってたの、九条さんって情報一家らしいわ。彼と一緒にいたら、ありとあらゆる噂話が聞けるわよ。あなたって一番こういうのに興味があるでしょ。九条さんってまさにあなたのために生まれてきたみたいな人だわ、あなた達二人とってもお似合いだと思うけど」明凛「……」彼女が彼氏を探しているのは、結婚したいからなのか、それとも噂話を聞くためなのか。「そういえば、お姉さんの元旦那のあの一家がまた来たって?」明凛は急いで話題を変えた。親友に自分の噂話など提供したくないのだ。「お姉ちゃんと佐々木のクソ野郎が離婚して、お姉ちゃんがあの家から出て行ったでしょ。あいつらは待ってましたと言わんばかりに引っ越して来ようとしてたわけ。だけど、今は部屋を借りるかホテル暮らしするか、はたまた実家に帰るしかなくなったでしょ。あの一家は絶対市内で年越ししたいと思ってるはずよ。実家には帰らないでしょうね」佐々木一家は絶対に実家のご近所たちに、年越しは市内でするんだと言いふらしていたはずだ。だから、住む家がなくとも、彼ら一家は部屋を借りるまでしてでも、市内で正月を迎えようとするに決まっている。唯花は幽体離脱でもして佐々木家に向かい、彼らの様子を見てみたいくらいだった。「あの人たち、家の内装がなくなってめちゃくちゃになった部屋を見て、きっと大喜びして失神したことでしょうね」唯花はハハハと大笑いした。「そりゃそうね」唯花が今どんな状況なのか興味を持っている佐々木家はというと、この時、すでに内海じいさんがいる病院までやって来ていた。内海ばあさんは術後回復はなかなか順調で、もう少しすれば退院して家で休養できるのだった。佐々木母は娘とその婿を連れて病室に勢いよく入っていった。佐々木父は来たくなかったので、ホテルに残って三人の孫たちを見ていた。ただ佐々木父は恥をかきたくなかったのだ。「このクソじじい」佐々木母は病室に勢いよく入って来ると、大声でそう叫んだ。内海じいさんは彼女が娘とその婿を連れて入ってきたのを見て、不機嫌そうに眉をしかめた。彼の息子や孫たちはどこに行ったのだ?誰もこの狂ったクソババアを止めに入りやしないじゃないか。「これは親戚の佐々木さんじゃないですか、うちのばあさんはまだ病気なんで、静かにしてもら
「そうね、姫華にも彼女のプライドっていうものがあるんだもの。神崎家の娘は条件も整ってるから結婚に悩む必要もないし」神崎夫人は娘のことをやはりよく理解しているのだった。姫華が諦めると言えば、必ず諦めるのだから。その時、外から車の音が聞こえてきた。理紗が立ち上がり、外のほうへと歩いていき言った。「きっと姫華ちゃんが帰ってきたんです」彼女が外に出ると、やはり義妹が帰ってきたのだった。姫華は車を降りて義姉のほうへとやって来ると、キラキラと輝く笑顔を見せて言った。「お義姉さん、お母さんはまだ家にいる?」義妹が輝くような笑顔を送ってきたので、それを見た理紗は心がとても痛んだ。彼女は義妹がつらい気持ちを吐き出すために、このように無理して笑うより、泣いたほうが良いと考えていた。姫華がこんな笑顔を見せるたびに、彼女の心が傷ついているというのは明らかだからだ。ああ。自分を愛してくれない男を好きになってしまうのは、こんなにもつらいことなのだ。その相手が結婚したばかりだと知ったら、その苦しみはもっと深くなるだろう。「お義母さんは家にいるわよ。姫華ちゃん、あなた大丈夫?」「お義姉さんったら、そんなふうに見える?心配しないで、私は大丈夫だから。ただ過去と決別してきただけよ」姫華はもう吹っ切れたような言い方だったが、それでもあまり理仁のことについては話したくなかった。彼女は親しそうに義姉の手を引っ張って言った。「お義姉さん、さあ、中に入りましょうよ」姫華が帰って来ると、神崎夫人はさらに居ても立ってもいられなくなった。それで、神崎夫人は家族に付き添われて、鑑定機関へと赴いた。神崎夫人がとても緊張しているのと比べて、唯花のほうはとても落ち着いていた。彼女はレジの後ろでハンドメイドをしていた。陽と一緒に遊ぶおばあさんと清水をちらりと見て、明凛に言った。「うちの理仁さんは出張に行ったわ。ここ数日なにか面白いことがあって、私も参加できそうなら一声かけてよね」最近嫌なことが多すぎて、日々は張り詰めた空気に包まれていた。だから親友と一緒に遊んで、気分を上げる必要があるのだ。その時は姉と陽の二人も一緒に連れ出そう。明凛は笑って言った。「それなら、ショッピングか、美味しい物を食べるか、唯花が好きなことって他に何があるかしら?社交界のパ
それを聞いて姫華は笑った。笑ってはいたが、手で瞳に滲んだ涙を拭きとり顔をそむけて遠くの方を見つめていた。そして少ししてから、ようやくまた顔を理仁のほうへと向けて、落ち着いた表情になりまた笑って言った。「理仁、あなたからそんな言葉が聞けて、それだけでもよかったわ。何年もあなたに片思いしてた甲斐があったっていうものよ」彼女はおおらかにも理仁のほうへ手を差し出し、理仁も同じようにして彼女と握手を交わした。「理仁、奥さんと年を取るまで、いつまでも幸せでいてちょうだいね」「ありがとう、神崎さん」「あなた達が結婚式を挙げるなら、私も参加させてもらえたら嬉しいわ」理仁は手を引っ込め、優しく言った。「良い日取りを決めて、結婚式を挙げる時は、神崎社長と、君に招待状を送るよ」「じゃ、あなた達をお祝いできる日を楽しみにしているわね」姫華は笑って言った。「結城社長は忙しいでしょうから、貴重な時間の邪魔はもうしないわ。さようなら」彼女は理仁に手を振り、背中を向けて彼女のスポーツカーに乗り、すぐに結城グループの前から去っていった。さようなら、はじめて深く愛した人。今後は二度と彼女がここに現れることはない。彼女は傷を癒したら、また新たに自分の人生を歩んでいくのだ。理仁が車に戻ると、運転手は急いで車を出した。運転手はこの二人がまた揉めるのかと思っていたが、まさか神崎家の令嬢が祝福を送りに来るとは思わなかった。神崎お嬢様は正直に人を愛し、また憎み、そしてすぐに決断してスカッと自分の気持に区切りがつけられる性格の持ち主なのだ。運転手にしろ、ボディーガードたちにしろ、みんな神崎姫華への考えを改めた。少なくとも、彼女が引き続き彼に纏わりつくことはなくなったのだ。姫華は唯花のところに行こうと考えていたのだが、行く途中でまた考えを変えた。彼女は家に帰って母親と一緒にDNA鑑定機関に赴き、その結果を取りに行かなければならない。それで、姫華はUターンできるところで引き返し、家へとルート変更して車を走らせていった。家に到着した時には、すでに午前九時過ぎだった。神崎夫人は早く出かけて結果を知りたがっていたが、夫に「まだ早いだろう。そんなに焦らないで。結果が出るのは出るんだから、誰もそれを取って行ったりなんかしないって」と繰り返し諭して
電話を切った後、理仁は七瀬に指示を出した。「俺がいない間、しっかりと妻の警護にあたってくれ」「若旦那様、ご安心ください。私がしっかり若奥様をお守りしますので」若奥様はもともと強いお方だ。そんな彼女を警護する仕事なら楽勝だ。さらにさらに、ボーナスが倍に!七瀬はそれを考えただけで顔がほころんだ。これこそ若奥様とお近づきになる最大のメリットなのだ!「もし妻が何か困って助けが必要な時には、ばあちゃんに言えば解決方法を指示してくれるだろう。それか、辰巳に相談してくれてもいい」「若旦那様、ご安心を。若奥様が何かお困りになられたら、おばあ様がすぐにおわかりになることでしょう」おばあさんはもはや、神的存在だ。そんな彼女の孫たちは神の掌の上で泳ぐしかない。理仁は祖母の能力を考え、それ以上は何も言わなかった。それから、理仁にある意外な出来事が起こった。暫くの間、会社の前に現れなかった神崎姫華がこの日また現れたのだ。彼女は自分の赤いスポーツカーに寄りかかっていて、理仁の専用車の列がゆっくりと近づいてくるのを見ていた。それを見て運転手が言った。「若旦那様、神崎お嬢様がまたいらっしゃったようです」理仁は少し黙って、運転手に言いつけた。「神崎さんの前で車を止めてくれ」それを聞いた運転手と七瀬はとても意外だった。確かに神崎家の令嬢と若奥様は仲のいい友人同士である。しかし、今まで若旦那様は一度も神崎家の令嬢には優しくしたことはなかった。少しだけ彼が優しくしているのは牧野家のお嬢さんだ。彼女は若旦那様と交友関係にあるからだ。それに、牧野家のお嬢さんは若奥様と一緒に本屋を経営している。理仁にそう指示されて、運転手は言われた通りにした。姫華はその時どうしようか迷っていた。以前と同じように死ぬ気で彼の車を妨害しようかと思っていたところ、理仁が乗ったあのロールスロイスのほうから彼女の前に止まってくれた。車のドアが開き、理仁が車から降りてきた。暫くの間会っていなかったが、彼は彼女の瞳には依然として超絶な美形に映っていた。姫華は暫くじいっと彼に見惚れていたが、すぐに自分自身にそれを止めるよう言い聞かせた。彼はすでに他の女性の夫なのだから。「結城社長、あまり警戒しないで、今日私がここに来たのは、あなたに付き纏うためじゃないから
顔をあげて彼を暫く見つめ、唯花は仕方なく彼の首に手を回し、自分のほうへ引き寄せて甘いキスを彼に捧げた。理仁は妻のほうからキスをしてもらい、上機嫌になって、片手でスーツケースを引き、もう片方の手で唯花の手を繋いで一緒に家を出ていった。おばあさんは一階でこの二人を待っていた。その時、おばあさんと一緒にいて話をしていたのは七瀬だった。唯月の引っ越しを手伝った時、唯花は七瀬も手伝いに来てくれたことに気づき、彼はきちんと報酬がもらえれば、どんな仕事でも請け負うと言っていた。そして、また唯花に会った時、七瀬はもうわたわたと焦ることはなかった。正当な理由をようやく見つけて堂々とできるという感じだ。「結城さん、内海さん、おはようございます」七瀬のほうから挨拶をしてきた。唯花はそれに微笑んで、ついでに「お名前は?あの日、すっかり名刺をいただくのを忘れていました」と言った。七瀬はその時、素早く主人である理仁のほうをちらりと確認し、彼の表情が変わらないのを見て何も恐れることなく彼女に答えた。「私は七瀬と申します」そして、ポケットから一枚の紙を取り出して唯花に渡し、申し訳なさそうに言った。「家に帰って名刺がもう切れていることに気づいたんです。まだ印刷しに行っていないので、携帯番号を紙に書いておきました」唯花は彼の電話番号が書かれた紙を受け取り、自分の横にいる夫に言った。「七瀬さんがどんな仕事でも受けてくれるらしいわ。今後自分でできないことは七瀬さんにお願いしようと思って」こう言って理仁がまたヤキモチを焼き始めるのを阻止しようとしたのだ。理仁は低い声で言った。「七瀬さんはとても頼りになるからね。何か力仕事があれば、彼に頼むといい」七瀬は素直に笑った。「はい、その通りです。きちんとお金をいただければ、どんな仕事だっていたしますよ。ところで、結城さん、出張ですか?」理仁は「ええ」とひとこと言った。「では、私はこれで」七瀬は夫婦二人に挨拶をしてからおばあさんに手を振り、自然にその場を離れた。今回、若旦那様は出張に半分のボディーガードしか連れて行かない。その中に七瀬は含まれておらず、ここに残って若奥様の護衛をするのだった。自分の主人の出張について行けないことを七瀬は少しも残念には思っていなかった。なぜなら、女主人にゴマすりで