病院での生活は相変わらずだった。
私は今日も、窓の外をぼんやりと眺めるだけの時間を過ごしている。——入院して、もうすぐ1ヶ月。
日比野先生はそのあいだ、空いた時間を縫っては毎日のように病室に顔を出してくれていた。
たいてい、なにかしらのお菓子を手土産にして。楽しそうにやってきては、私にいろんなお話をしてくる。 「黒磯さん、今日はチーズケーキを持ってきたよ」 「……」 「ここのケーキ屋さん美味しいんだ。知ってる?」 「……」先生は箱を開け、紙皿にのせたチーズケーキを私に差し出す。
美味しそうな見た目に、思わず唾を飲み込んだ。
「食べさせてあげようか?」
「……」 「……そうしよっと」フォークですくったケーキを、先生が私の口元に差し出す。
どうしようか、大変悩んだ。でも——欲には逆らえない。今日もまた、食べたい気持ちが勝つ。
私はフォークごと、ケーキにかぶりついた。
「おぉ、食べた」
「……」濃厚なチーズの味が、口の中にしっとり広がる。
なのに、ふわっと溶けていく。不思議な触感だった。「……美味しい」
「……そう、良かった」きちんと「美味しい」と言えたことに、すこしだけ誇らしさを感じる。
当たり前のことが、今の私には特別だった。
「黒磯さん。また、買ってくるね」
先生はそう言って、やさしく私の頭を撫でてくれた。
◇
その日の午後。
窓の外で鳥を数えていると、病室の扉が開いた。看護師さんが入ってきて、続けて見覚えのある女性が姿を現す。
「黒磯さん……こんにちは」 「……」総務部の——加賀さん。
思わず軽く頭を下げるけれど、胸の奥に、じわじわと動悸が広がっていく。
会社の人と会うのは、入院してから初めてだった。
「黒磯さん、お元気でしょうか……って、それもおかしいですね。申し訳ありません」
加賀さんはベッド横の椅子に腰を下ろし、後ろに控えていた看護師はドアの傍に立った。
妙な空気に、押しつぶされそう。
心拍数が上がった気がして、落ち着かない。
「すみません。今日は書類をご記入いただきたくて……こちらにお名前だけでも……」
「……」〝書類〟という響きに、じわりと嫌気が差す。
彼女を見つめていると、あの日の記憶が蘇る。
働いて、壊れて、壊れて、それでも働いていた——あの頃。気づけば私は、加賀さんを睨んでいた。
「えっと……黒磯さん、大丈夫ですか?」
「……」大丈夫なはずがない。
けれどその言葉すら、口にできなかった。私は視線を窓の外へと逃がした。
飛んでいく鳥を見ていると、すこしだけ気持ちが和らぐ気がした。そのときだった。
——カチャリ、と二重扉の鍵が開く音がした。
扉が勢いよく開いて、日比野先生が入ってくる。
険しい顔、強い足音。部屋の空気が一気に張り詰めた。
「おい」
看護師がびくりと震える。加賀さんもまた、同じように身を縮めた。
「黒磯さんの病室に会社関係者を入れるなって、言ったよな? 鳥頭か、お前」
「す、すみません……!」
先生はそのまま大股で加賀さんのもとへ歩み寄り、彼女の持っていた書類を奪い取った。
その荒さにまた、加賀さんは体を震わす。
「お前もだ。何かあれば直接じゃなくて、産業医である僕を通せと言ったよね?」
「……」 「しかも、休職申請書? くだらない。そんなもん、どうでもいい」書類をその場のゴミ箱に叩き込んだ先生は、私の枕元に来てそっと頭に手を置いた。
その手は不思議なくらい、優しかった。
「会社関係者、立ち入り禁止だ。さっさと帰れ。そして二度と来るな」
先生の冷たい言葉に、加賀さんは顔をしかめながら立ち上がった。
鞄を手に取り、先生を強く睨みつけて、言葉を発する。
「ほんとうに日比野先生って最悪です。早く代わりの産業医が見つかればいいのに」
そう言い捨てて、加賀さんは足早に病室を出ていく。
そのあとを、看護師も追うように続いた。「……」
先生が〝冷酷な産業医〟だったころの顔。
久しぶりに、それを見た気がした。だけど、なぜだろう。
あのころとは比べ物にならないくらい、大変優しく見えた。
私の中には、季節感も曜日感覚もない。 今日が何月何日なのかさえ、正確にはわからなかった。もともと働いていた頃からそうだったし、入院生活でますます曖昧になった。 そんな私も、もうすぐ入院して4か月が経つらしい。最近は、体調がずいぶん良くなってきたという実感がある。『12月12日 火曜日 漢字の日』 日比野先生から渡された日めくりカレンダーを、私は毎朝めくる。 「起きたら1枚めくって読むこと」と言われていて、それが今の私の日課になっている。 これは、日付の感覚がない私への、先生からのプレゼントだった。 カレンダーの隣には、来年用の分まで用意されている。 すこし前、先生と交わした会話がきっかけだった。『もうすぐクリスマスだね』『……』 首を傾げると、先生も同じように首を傾げた。『今日の日付わかる? 一応、カレンダーもかかってるし、食事の品書きにも日付が書いてあると思うけど』『……』 私は小さく首を横に振った。 先生は「うーん」と唸り、しばらく考え込んでいたけれど、その翌日、何も言わずカレンダーを手渡してきたのだった。「……火曜日」 私は日付と曜日を小さく声に出す。 そして、今日は何の日かを読む。 これが毎朝のルーティンになった。「黒磯さん、おはよう」「……今日は、12月12日……」 扉が開いたことに気づかないほど集中していた私は、先生の声に驚いて、肩をすくめた。「ねぇ黒磯さん、今日は何の日か教えて」「……」「何の日って書いてある?」「……漢字の……日」「そうか、今日は漢字の日なのか」 先生は近づいてきて、私の頭をやさしく撫でた。 最近、この手の温かさに、私は妙な安心感を覚える。「声を出す練習、頑張ってるね」「…………」 あの日、自殺未遂をしてから、私は声を出すことが難しくなった。 入院してすぐ、先生は何度も「何か話して」「どうして黙ってるの?」と声をかけてきた。 美味しいものを食べたときなど、感情が強く動いたときには「美味しい」などの単語が口から漏れるのに、普通の会話ができない。 先生は診察の結果を伝えてくれた。 ——緘黙症。 精神的ショックや強いストレスから、言葉を失う病気だという。 あのときの衝動、焦燥、不安——それらすべての反動が、今の私を形づくっているらしい。 心には言葉がある。言い
病室に静寂が戻ると、日比野先生はゆっくりと私の隣に腰を下ろした。 その動作ひとつさえ、やけに丁寧で、やさしさが滲んでいた。 何も言わずに、ただ私の顔を見つめる。じっと、静かに、熱を持たないはずの視線が、なぜだか胸の奥をじんわりと焼くようだった。 その視線が、あたたかい。 でも、それがなぜだか、痛かった。 先生は白衣のポケットに手を入れ、ひとつの小さな袋を取り出して、そっと私の手のひらに乗せた。「……はい、クッキー」 見ると、それはどこかで見覚えのある可愛らしいパッケージだった。 動物の顔がプリントされた、小さなひとくちサイズのクッキー。子どもの頃、よく食べたあのシリーズだ。 懐かしさがふわりと胸をくすぐる。「お見舞いってほどではないけど。甘いもの、あったほうがいいでしょ」 私は袋を開けて、そっと一枚を口に運んだ。 バターの香りがふわっと鼻腔を満たし、歯を立てた瞬間、さくりと軽い音が口の中に広がる。 優しい甘さが、乾いた心の隙間に染みていくようだった。「……美味しい」 ぽつりと、思わず零れたその言葉に、先生は少し驚いたように目を細めて、それからふっと微笑んだ。「それは良かった」 その笑顔を見た瞬間、胸の奥がぐしゃっと音を立てて潰れるようだった。 喉の奥がきゅっと締まり、目の奥が熱くなる。 気づけば、ひと粒、またひと粒、頬を伝って涙が零れていた。 張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたのだ。 堰を切ったように、何かがこみ上げてきた。 先生は一瞬驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと私の手を取った。 私の手は震えていた。でも先生は、ためらわずその手を包み込み、やさしく握りしめてくれる。「黒磯さん……」「……わたし……」 嗚咽のように、小さな言葉がこぼれる。 ずっと言えなかった感情の残滓が、言葉になってようやく滲み出した。「……あの人が、嫌だった……」 口に出すことが、こんなにも難しいなんて。 でも言えた。確かに私は、加賀さんが怖かった。あの声も、目も、差し出された書類さえも。 思い出すだけで、息が詰まりそうだった。「会社の人が、嫌……仕事も……もう全部……」 声が震えた。言葉を重ねるたびに、心の奥に堆積していたものが音を立てて崩れていく。 先生は、そっと私を抱きしめた。 冷たいはずのワイシャツ越し
病院での生活は相変わらずだった。 私は今日も、窓の外をぼんやりと眺めるだけの時間を過ごしている。 ——入院して、もうすぐ1ヶ月。 日比野先生はそのあいだ、空いた時間を縫っては毎日のように病室に顔を出してくれていた。 たいてい、なにかしらのお菓子を手土産にして。楽しそうにやってきては、私にいろんなお話をしてくる。 「黒磯さん、今日はチーズケーキを持ってきたよ」 「……」 「ここのケーキ屋さん美味しいんだ。知ってる?」 「……」 先生は箱を開け、紙皿にのせたチーズケーキを私に差し出す。 美味しそうな見た目に、思わず唾を飲み込んだ。「食べさせてあげようか?」 「……」 「……そうしよっと」 フォークですくったケーキを、先生が私の口元に差し出す。 どうしようか、大変悩んだ。 でも——欲には逆らえない。今日もまた、食べたい気持ちが勝つ。 私はフォークごと、ケーキにかぶりついた。「おぉ、食べた」 「……」 濃厚なチーズの味が、口の中にしっとり広がる。 なのに、ふわっと溶けていく。不思議な触感だった。「……美味しい」 「……そう、良かった」 きちんと「美味しい」と言えたことに、すこしだけ誇らしさを感じる。 当たり前のことが、今の私には特別だった。「黒磯さん。また、買ってくるね」 先生はそう言って、やさしく私の頭を撫でてくれた。◇ その日の午後。 窓の外で鳥を数えていると、病室の扉が開いた。 看護師さんが入ってきて、続けて見覚えのある女性が姿を現す。 「黒磯さん……こんにちは」 「……」 総務部の——加賀さん。 思わず軽く頭を下げるけれど、胸の奥に、じわじわと動悸が広がっていく。 会社の人と会うのは、入院してから初めてだった。「黒磯さん、お元気でしょうか……って、それもおかしいですね。申し訳ありません」 加賀さんはベッド横の椅子に腰を下ろし、後ろに控えていた看護師はドアの傍に立った。 妙な空気に、押しつぶされそう。 心拍数が上がった気がして、落ち着かない。「すみません。今日は書類をご記入いただきたくて……こちらにお名前だけでも……」 「……」 〝書類〟という響きに、じわりと嫌気が差す。 彼女を見つめていると、あの日の記憶が蘇る。 働いて、壊れて、壊れて、それでも働いていた——あ
会社からほど近い総合病院。 精神科病棟の個室で、私はひとり、ベッドに潜り込んでいた。 窓はあるけれど、開かない。 扉も二重構造になっていて、看護師か医師の許可がなければ、外には出られないという。「……」 けれど、実際にここへ来てからというもの、私はすっかり落ち着いていた。 ベッドに横になる——それが、何年ぶりだったかすら思い出せない。 あんなに働きづめだった日々では、眠るというより意識を落とすだけだった。 ふかふかとは言えない布団なのに、思わず涙が滲む。 あの日、自殺未遂を起こした自分のことを思い返すと、背筋がぞっとする。 精神が壊れるって、ほんとうに怖い。 自分で自分をコントロールできなくなる。 何をしているのか、何を考えているのかすら、分からなくなる。 ——大好きだった、はずのプログラミングの仕事。 それを通して私は、自分を壊してしまっていた。◇ 入院してから、私は一日中ぼんやりと過ごしていた。 朝ごはんを食べて、なんとなく窓の外を眺めていると、二重扉の向こうから鍵の開く音がする。 現れたのは——日比野先生だった。「……黒磯さん、おはよう」「……」 その能天気な挨拶に、胸の奥にうっすら怒りが湧く。 やはり私は、この人のことが嫌いだ。「朝ごはん、食べた?」「……」「なにか言ってよ」「……」 もちろん、自殺未遂を起こしたのは私自身の責任だ。 でも、助長させたのは——この人の言葉だったとも思う。 あのとき先生が、たとえうわべだけでも「死んではダメだ」と言ってくれていたら。 たとえ嘘でも、止めてくれていたら。 ……そんなふうに思ってしまう私は、きっとまだ立ち直れていないのかもしれない。「……なんで睨むの」「……」「何も言わないなら、せっかく持ってきたこれ……渡すのやめようかな」 先生は袋の中から小さな箱を取り出し、それを私の前でひらひらと揺らしてみせた。 ——それは、チョコレートだった。「知ってる? これ、期間限定らしいよ」「……」 思わず手を伸ばす。でも先生はすばやく引いて、チョコレートを遠ざける。 その顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。「欲しい?」「……」 無言のまま、私はただ目で訴える。 すると先生は箱を開け、中の封を破って、ひと粒を指先でつまんだ。「はい、あーん」
面接室を飛び出した私は、そのまま廊下を突っ走った。 止まらなかった。 何も考えず、ただ走った。 何かを振り払うように――。「え、黒磯さん!? 待てよコラ!!」 後ろから叫ぶ日比野先生の声も、聞こえないふりをした。 私は社内を全力で走り抜け、玄関を目指す。 なんだか走りながら凄く清々しい気持ちになってきて、湧き上がる感情を言葉に出してみたくなった。「私ね、プログラミングが大好きだった!」「黒磯さん、待てっ!!」「プログラマーになれたこと、ほんとうに嬉しかったんだ!」「黒磯っ!!」「私が携わったパズルゲーム、評価4.6だったんだよ!」「ちょ、誰か!! その人を止めて!!」「思い出した。私、ユーザーの皆さんにゲームを楽しんでいただけるのが、やり甲斐だった……!!」「黒磯由香里っ!!!!」 廊下を歩くたくさんの人をスルーして、私は玄関のほうへと向かう。 そして、気づけば外の光の中にいた。 眩しさと同時に、目の前に現れたのは、片側三車線の大通り。 車がひっきりなしに行き交っている。その多さを見て、また気持ちが高揚した。 ——ここに、飛び込めば……。「——ここまで、楽しかった。だから私ね、来世でも、絶対プログラマーになる!!」 そう叫びながら、一瞬立ち止まったのが失敗だった。「黒磯ぉ!!!!」 ずっと私を追いかけて来ていた日比野先生は、私が立ち止まった隙に飛び込んできた。「っ!」 勢いのまま、アスファルトに倒れ込む。 その上に、先生が覆いかぶさるようにして、私の体をしっかりと抑え込んだ。「コラ、待てって言ってんだろ!! ったく、馬鹿なことしてんじゃねぇよ!!」 大きな声で怒鳴りながら、先生は私の両手を握った。 やがて周囲から、社員たちが駆け寄ってくる。 状況を理解した誰かが、先生と一緒に私の体を押さえつけた。「……だって、先生が死んでもいいって……」「〝いい〟とは一言も言ってねぇだろ!! お前がそう言ったから、尊重してやっただけだ!!」「……わかんない。先生、嫌い。大嫌い」「いいよ、嫌ってくれて構わねぇよ。だけどもう、こんなこと二度とすんな。絶対にだ。馬鹿!!」「……」 怒鳴る先生の手から、じんわりと体温が伝わってくる。 うるさくて、無神経で、冷たくて、乱暴で——それでも、確かに「人間の手」だった。
感情が蘇ってから、2か月が経った。 日比野先生との面接は変わらず続いていたし、プログラマーとしての仕事も、以前と大きくは変わっていない。 深夜残業の頻度はほんのすこしだけ減ったけれど、勤務時間はまだ長く、体は常に重たい。 それでも私は、感情のほとんどを取り戻していた。 笑ったり怒ったり泣いたり……それができるようになったことは、喜ばしいことだったはずなのに。 ——その代償として、感情の起伏がひどく激しくなった。 さっきまで楽しいと思っていたのに、ふとしたきっかけで急に悲しくなって涙が出る。 自分でもどうにもできない波に飲み込まれるたび、また別の悩みが生まれていく。 私は今、自分の感情に、振り回され続けていた。◇「日比野先生、もう嫌だ!! 辛いよ……死にたい!!」 いつものように14時に面接室に入った瞬間、私は自分の感情に押しつぶされた。 先生の顔を見た瞬間、堰を切ったように涙が溢れ、自分で制御もできずに叫び続ける。「もう嫌だ、生きたくない……つらい!!」「落ち着け、黒磯さん」 先生は私の様子を静かに見守りながら、タイミングを見計らっているような様子。 だが私の叫びは止められなかった。「もう、死にたいっ!!」 感情のままに叫び続けていると、日比野先生は一歩前に出て、真顔で私の肩を掴む。そして無理やり視線を合わせてきた。「何、もう死にたいの? そう、それは残念だね。でも、そう思うなら仕方ない」「……」 そっけなくて、ひどく冷たい言葉が耳に残る。 その一言で、私はぴたりと動きを止めた。 急激に高ぶっていた感情が、すこしずつ沈んでいく。 落ち着きを取り戻しながらも、胸の中に、今までにない別の感情が生まれていた。 悲しみではない。苦しみでもない。「……」 私は黙って、日比野先生を睨んだ。「え、なんで睨むの? 君が自分で言ったじゃない」「……先生は、止めないんですか?」「ん、別に止めないよ。僕には関係ないから」「……」 関係ない——その言葉が、胸に刺さる。 あまりにも冷たくて、逆に笑えてくるほどだった。「……前から思ってたけど、先生って最低ですよね」「お? なんだ、突然」 先生を睨んだまま、私の中にあった言葉が次々にこぼれ落ちていく。「死にたいって言ってる人の気持ちを、普通肯定しますか? ほんとうに死