会社からほど近い総合病院。
窓はあるけれど、開かない。
「……」
けれど、実際にここへ来てからというもの、私はすっかり落ち着いていた。
ベッドに横になる——それが、何年ぶりだったかすら思い出せない。
ふかふかとは言えない布団なのに、思わず涙が滲む。
あの日、自殺未遂を起こした自分のことを思い返すと、背筋がぞっとする。
精神が壊れるって、ほんとうに怖い。
——大好きだった、はずのプログラミングの仕事。
◇
入院してから、私は一日中ぼんやりと過ごしていた。
現れたのは——日比野先生だった。
「……黒磯さん、おはよう」
「……」
その能天気な挨拶に、胸の奥にうっすら怒りが湧く。
やはり私は、この人のことが嫌いだ。
「朝ごはん、食べた?」
「……」
「なにか言ってよ」
「……」
もちろん、自殺未遂を起こしたのは私自身の責任だ。
あのとき先生が、たとえうわべだけでも「死んではダメだ」と言ってくれていたら。
……そんなふうに思ってしまう私は、きっとまだ立ち直れていないのかもしれない。
「……なんで睨むの」
「……」
「何も言わないなら、せっかく持ってきたこれ……渡すのやめようかな」
先生は袋の中から小さな箱を取り出し、それを私の前でひらひらと揺らしてみせた。
——それは、チョコレートだった。
「知ってる? これ、期間限定らしいよ」
「……」
思わず手を伸ばす。でも先生はすばやく引いて、チョコレートを遠ざける。
その顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「欲しい?」
「……」
無言のまま、私はただ目で訴える。
すると先生は箱を開け、中の封を破って、ひと粒を指先でつまんだ。
「はい、あーん」
「……」
嫌いな人の手から差し出される、チョコレート。
なのに——それを、食べたいと思ってしまう自分がいた。
ぐちゃぐちゃな感情が、胸の中でぶつかり合う。
食べるか、食べないか。
——チョコレートの勝ちだった。
私は口を開けて、先生の指ごと、チョコレートをくわえる。
「うぉ」
「……」
口の中に広がる、甘さ。
その味はきちんと、〝美味しい〟と感じられた。
「……美味しい」
小さくそう呟くと、先生は静かに微笑んで、そっと私の頭を撫でてくれた。
会社からほど近い総合病院。 精神科病棟の個室で、私はひとり、ベッドに潜り込んでいた。 窓はあるけれど、開かない。 扉も二重構造になっていて、看護師か医師の許可がなければ、外には出られないという。「……」 けれど、実際にここへ来てからというもの、私はすっかり落ち着いていた。 ベッドに横になる——それが、何年ぶりだったかすら思い出せない。 あんなに働きづめだった日々では、眠るというより意識を落とすだけだった。 ふかふかとは言えない布団なのに、思わず涙が滲む。 あの日、自殺未遂を起こした自分のことを思い返すと、背筋がぞっとする。 精神が壊れるって、ほんとうに怖い。 自分で自分をコントロールできなくなる。 何をしているのか、何を考えているのかすら、分からなくなる。 ——大好きだった、はずのプログラミングの仕事。 それを通して私は、自分を壊してしまっていた。◇ 入院してから、私は一日中ぼんやりと過ごしていた。 朝ごはんを食べて、なんとなく窓の外を眺めていると、二重扉の向こうから鍵の開く音がする。 現れたのは——日比野先生だった。「……黒磯さん、おはよう」「……」 その能天気な挨拶に、胸の奥にうっすら怒りが湧く。 やはり私は、この人のことが嫌いだ。「朝ごはん、食べた?」「……」「なにか言ってよ」「……」 もちろん、自殺未遂を起こしたのは私自身の責任だ。 でも、助長させたのは——この人の言葉だったとも思う。 あのとき先生が、たとえうわべだけでも「死んではダメだ」と言ってくれていたら。 たとえ嘘でも、止めてくれていたら。 ……そんなふうに思ってしまう私は、きっとまだ立ち直れていないのかもしれない。「……なんで睨むの」「……」「何も言わないなら、せっかく持ってきたこれ……渡すのやめようかな」 先生は袋の中から小さな箱を取り出し、それを私の前でひらひらと揺らしてみせた。 ——それは、チョコレートだった。「知ってる? これ、期間限定らしいよ」「……」 思わず手を伸ばす。でも先生はすばやく引いて、チョコレートを遠ざける。 その顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。「欲しい?」「……」 無言のまま、私はただ目で訴える。 すると先生は箱を開け、中の封を破って、ひと粒を指先でつまんだ。「はい、あーん」
面接室を飛び出した私は、そのまま廊下を突っ走った。 止まらなかった。 何も考えず、ただ走った。 何かを振り払うように――。「え、黒磯さん!? 待てよコラ!!」 後ろから叫ぶ日比野先生の声も、聞こえないふりをした。 私は社内を全力で走り抜け、玄関を目指す。 なんだか走りながら凄く清々しい気持ちになってきて、湧き上がる感情を言葉に出してみたくなった。「私ね、プログラミングが大好きだった!」「黒磯さん、待てっ!!」「プログラマーになれたこと、ほんとうに嬉しかったんだ!」「黒磯っ!!」「私が携わったパズルゲーム、評価4.6だったんだよ!」「ちょ、誰か!! その人を止めて!!」「思い出した。私、ユーザーの皆さんにゲームを楽しんでいただけるのが、やり甲斐だった……!!」「黒磯由香里っ!!!!」 廊下を歩くたくさんの人をスルーして、私は玄関のほうへと向かう。 そして、気づけば外の光の中にいた。 眩しさと同時に、目の前に現れたのは、片側三車線の大通り。 車がひっきりなしに行き交っている。その多さを見て、また気持ちが高揚した。 ——ここに、飛び込めば……。「——ここまで、楽しかった。だから私ね、来世でも、絶対プログラマーになる!!」 そう叫びながら、一瞬立ち止まったのが失敗だった。「黒磯ぉ!!!!」 ずっと私を追いかけて来ていた日比野先生は、私が立ち止まった隙に飛び込んできた。「っ!」 勢いのまま、アスファルトに倒れ込む。 その上に、先生が覆いかぶさるようにして、私の体をしっかりと抑え込んだ。「コラ、待てって言ってんだろ!! ったく、馬鹿なことしてんじゃねぇよ!!」 大きな声で怒鳴りながら、先生は私の両手を握った。 やがて周囲から、社員たちが駆け寄ってくる。 状況を理解した誰かが、先生と一緒に私の体を押さえつけた。「……だって、先生が死んでもいいって……」「〝いい〟とは一言も言ってねぇだろ!! お前がそう言ったから、尊重してやっただけだ!!」「……わかんない。先生、嫌い。大嫌い」「いいよ、嫌ってくれて構わねぇよ。だけどもう、こんなこと二度とすんな。絶対にだ。馬鹿!!」「……」 怒鳴る先生の手から、じんわりと体温が伝わってくる。 うるさくて、無神経で、冷たくて、乱暴で——それでも、確かに「人間の手」だった。
感情が蘇ってから、2か月が経った。 日比野先生との面接は変わらず続いていたし、プログラマーとしての仕事も、以前と大きくは変わっていない。 深夜残業の頻度はほんのすこしだけ減ったけれど、勤務時間はまだ長く、体は常に重たい。 それでも私は、感情のほとんどを取り戻していた。 笑ったり怒ったり泣いたり……それができるようになったことは、喜ばしいことだったはずなのに。 ——その代償として、感情の起伏がひどく激しくなった。 さっきまで楽しいと思っていたのに、ふとしたきっかけで急に悲しくなって涙が出る。 自分でもどうにもできない波に飲み込まれるたび、また別の悩みが生まれていく。 私は今、自分の感情に、振り回され続けていた。◇「日比野先生、もう嫌だ!! 辛いよ……死にたい!!」 いつものように14時に面接室に入った瞬間、私は自分の感情に押しつぶされた。 先生の顔を見た瞬間、堰を切ったように涙が溢れ、自分で制御もできずに叫び続ける。「もう嫌だ、生きたくない……つらい!!」「落ち着け、黒磯さん」 先生は私の様子を静かに見守りながら、タイミングを見計らっているような様子。 だが私の叫びは止められなかった。「もう、死にたいっ!!」 感情のままに叫び続けていると、日比野先生は一歩前に出て、真顔で私の肩を掴む。そして無理やり視線を合わせてきた。「何、もう死にたいの? そう、それは残念だね。でも、そう思うなら仕方ない」「……」 そっけなくて、ひどく冷たい言葉が耳に残る。 その一言で、私はぴたりと動きを止めた。 急激に高ぶっていた感情が、すこしずつ沈んでいく。 落ち着きを取り戻しながらも、胸の中に、今までにない別の感情が生まれていた。 悲しみではない。苦しみでもない。「……」 私は黙って、日比野先生を睨んだ。「え、なんで睨むの? 君が自分で言ったじゃない」「……先生は、止めないんですか?」「ん、別に止めないよ。僕には関係ないから」「……」 関係ない——その言葉が、胸に刺さる。 あまりにも冷たくて、逆に笑えてくるほどだった。「……前から思ってたけど、先生って最低ですよね」「お? なんだ、突然」 先生を睨んだまま、私の中にあった言葉が次々にこぼれ落ちていく。「死にたいって言ってる人の気持ちを、普通肯定しますか? ほんとうに死
「どう、今日は楽しかった?」 「……」 「もうすこし生きてみようと思った?」 「……」 初回面接の日から、私は平日の14時に、欠かさずあの無機質な面接室を訪れていた。 相談とかヒアリングとか、そういったやり取りもするのかと思っていたが、すこし違う。 日々野先生とのやり取りは、当初想像していたような〝相談〟や〝ヒアリング〟ではなかった。 ただ、決まって同じ質問が繰り返されるだけ。「楽しかったか?」 「生きようと思ったか?」 「趣味は見つけたか?」 まるで、壊れたラジオかのように。 先生は、毎回それらの言葉を、同じトーンで、同じ順番で問いかけてくる。 私はいつも俯き、黙り込むだけだった。 返事をする気力も意味も、どこにも見いだせなかったから。 そして、私の沈黙に対して日比野先生は決まって――「ほんとうに人生が楽しくなさそう。僕は黒磯さんみたいな人生を送りたくないわ」 と、小声で暴言を吐く。 普通なら、傷ついたり、反発したりするだろう。 でも、やはり私は、何も感じなかった。 怒ることも、悲しむこともできない。 そもそも、感情というものをどうやって出すのか、それすらももう忘れてしまっていた。 ただ淡々と、言われて、黙って、終わって、また次の日。 それを繰り返していた。 たった〝それだけの面接〟を、延々と。 けれど、季節が変わりかけたころ。 日比野先生の面接が始まって、3か月が経過したある日。 ほんの小さな変化が、私の中に生まれた。「……おなかが、空いた?」 これ以上の言葉にならない、小さな違和感。 その違和感を確かめるように、自分の体に手を当ててみる。 ——あぁ、これはきっと、空腹というやつだ。 この感覚を、私はどのくらい忘れていたのだろう。 思い出せないくらい久しぶりで、すこしだけ戸惑った。◇「どう、今日は楽しかった?」 「……いいえ」 「お?」 小さく答えた瞬間、日比野先生は書類から顔を上げて私を見る。 目を見開いたその表情は、すこしだけ新鮮だった。 驚いたような顔をしたまま、先生はすぐに次の質問を投げる。「もうすこし、生きてみようと思った?」 「……いいえ」 「おっ」 先生は口角をほんのすこし上げながら、カルテに何かを書き込む。 さらっとした筆跡が紙を滑る音が、や
「——では、生き甲斐は?」「……」「趣味は?」「……」「異性に興味は?」「……」 どの質問にも、何も答えられなかった。 先生は軽くため息をつき、ペンを机に置く。 そのまま椅子の背にもたれかかり、憐れむような目で私を見つめた。「じゃあさ、生きるのを止めたら? なんか辛そうだし、楽しくなさそう。別に、貴女がいなくなっても誰も困らないでしょ」「……」 ——噂通りの言葉が飛び出した。 そう思う余裕がまだ自分に残っていることに、すこし驚く。 だけど、怒りも、悲しみも、何も湧いてこない。「……怒らないの?」「何も思いません」「泣かないの?」「何も思いません」「ふーん……本当に人生、楽しくなさそうだね」「……」 ——だから、私はここにいるのだ。 でも、それを言葉にする力すら、もう残っていなかった。 ふいに、ひとつの考えが頭をよぎる。 先生が「生きるのを止めたら」と言うのならば——。 本当に、そうしてみても、いいのかもしれない。「……わかりました。私、この後、遺書を書いてきます」「遺書? 別にいらないよ。誰も困らないから」「……困らない?」「そう。無駄な労力は掛けるものじゃないよ」「……そうですか」 誰も困らない。 その言葉が、静かに私の中に沈んでいく。 なんで生きているんだろう。 私なんか、誰の世界にも必要ないのかな。「……」 そんな絶望の真っ只中、面接室の扉が勢いよく開かれた。 加賀さんが、飛び込んできたのだ。「加賀さん、まだ面談中——」「ちょ、日比野先生!! 話、聞いてましたけど! なんですかそれ!!」「……勝手に聞くな。プライバシーの侵害だ」 彼女は私の腕を引っ張り、椅子から立たせると、そのまま背中から力強く抱きしめる。そして、目の前にいる先生のことを強く睨みつけた。「精神的に危ない状況の人に、『生きるのを止めたら』とか言わないでくださいよ! 貴方、それでも本当に医者なんですか!!」「……黒磯さん、明日も同じ時間に来てね」「話聞いてます!?」「——うるさいな、医者に口出しをするな。これが僕のやり方だから」「はぁ!? 本当にありえない!! 黒磯さん、戻りましょう!」 加賀さんは先生を無視して、私を連れて部屋を飛び出した。 怒りを抑えた表情で、私と並んで歩きながら、ぽつ
問診票を記入した日から、半月後。 ついに、産業医面接の日がやってきた。 その間、私はいつも通り働いていた。 いや、働いている『つもり』だった。 自分ではあまり実感がないけれど、ここ最近、私の状況はさらに悪化しているらしい。 総務部の人が不定期に様子を見に来ていたのも、今思えばそのせいだったのだろう。「黒磯さん、こちらが会場です」 昼休憩もそこそこに、総務部の加賀さんが私を呼びに来た。 本社の奥、ほとんど人の出入りがないエリアへと向かう。 長い廊下を抜けた先に、ひっそりとその部屋はあった。 『面接室』と書かれた銀色のプレートが視界に入る。 こんなところ、今まで一度も来たことがない。 加賀さんはドアの前で小さく深呼吸をしてから、静かにノックする。「日比野先生、失礼いたします」 「……はい」 中から返ってきた声は、驚くほど感情のない、淡々としたものだった。 先に加賀さんが入室し、それに続いて私も面接室へ足を踏み入れる。 部屋の中央、白衣を着た若い男性がひとり、無言で座っていた。 これが——あの〝冷酷な産業医〟、日比野先生だ。「本日の面接者、システム部の黒磯由香里さんです。よろしくお願いいたします」 そう告げた加賀さんが部屋を出ると、先生はすぐに眉間に皺を寄せ、私をじっと見つめた。「黒磯さん、生気がない。廃人か」 「……」 想像以上にストレートな第一声だった。 でも、反論する気力も、怒る気力も湧かない。 ただ無言で立ち尽くしていると、先生は手元の書類をめくりながら、事務的に声をかけてくる。「まぁいいや、座って」 「……はい」 促されるまま椅子に座る。 顔を上げた先生は、端正な顔立ちをしているのに、その目は驚くほど冷たい。「黒磯由香里、31歳ね」 ぼそりと呟き、重い溜息をひとつ零す。 手元の問診票に視線を落とし、それから私の顔へと目を移す。 その視線もまた、どこか他人事のように淡々としていた。「仕事内容は、プログラミング?」 「はい」 「毎月100時間超えの残業?」 「はい」 「なんでこの仕事、続けているの?」 「……」 プログラミングが大好きだったから。 だけど今は、そんな感情があったことすら思い出せない。 言葉にできず、黙り込む。 先生は問診票に何かを書き加えた。 「次。