Masuk(僕は、何をしているのだろう……?)
薄く光が射し始めた朝――東の空が白み始める頃、ハイデン・ヴァルメルシュタインは食卓の椅子にぼんやりと腰かけていた。
目の前に並んでいるのは、木の皿と湯気の立つスープ。軽く焼き色のついたパンに、素焼きのマグには香り高いハーブ茶。 どこまでも静かで、あたたかく――だが、ほんの少しぎこちない、そんな朝の風景。 奥の台所では、男が無言のまま鍋をかき回していた。 彼の所作はいつも通り、無駄がなく、簡潔だ。だが火加減や食材の様子にまで気を配るその手元には雑さなど微塵もない。男の名前を聞いた。
男の名は クリス・ラウゼと言うらしい。(あんなに色々と良くしてくれていた?のに名前も聞かないなんて、バカだろう僕……)
そんな事を考えながらハイデンはスプーンを手に取り、静かにスープをすくった。一口すすると口の中にやさしい旨味が広がる。
「……ちゃんと、火は通ってる」
ぽつりと、呟くように言った。
すると、背を向けていたクリスが、手を止めずに返す。「――文句は食ってから言え」
「も、文句を言っているわけではないです……ただ……いえ、なんでもありません」ぶっきらぼうだが、どこか淡々とした言葉で、思わず反撃したかったのだがハイデンはそれ以上言うのをやめる。同時に、クリスの言葉が何処か心地よいと感じてしまった自分がいる。
気を遣われたわけでも、従われたわけでもない。ただ、そこにいる【人間】として返ってきた当たり前のやり取りだった。「じゃあ、なおさら黙って食え」
クリスの言葉に、ハイデンは少しだけ唇を歪めた。笑ったわけではないが、確かにそれは【反応】でもあった。
ほんの一年前まで、こんな朝など考えたこともなかった。 血筋、魔力、家名、政略――それだけで存在価値を測られ、ただ破滅の【駒】として、生きながらえていた日々。スープの湯気も焼き立てのパンの香りも、そこにはなかった。 静かにマグを手に取り、ハーブ茶を口に含む。少しだけ目を伏せて胸の奥にある微かな感覚に耳を澄ませる。(……この時間が、壊れなければいいなぁ)
それは、誰にも聞かせたくないほど小さな願いだった。
食後、ハイデンは無言で外套を手に取り出かける準備を始める。
「出かけんのか?」
食器を拭いていたクリスが、横目でそう言った。
「ええ、その……読み終わってしまったので本屋と……少しだけ、買い出しも」
「顔、隠せよ。髪も目も派手すぎんだろ」 「わかってます……あなたに心配されるとは思いませんでした……」 「誰も心配してねぇよ。トラブルが面倒なだけだ」 「……はいはい」フードを深く被りながら、ハイデンは小さく息を吐く。こうして交わされる短い会話のひとつひとつが、何故かハイデンにとって、居心地がよかった。
▼ ▼ ▼王都の中心、石畳の広場では、朝市が開かれていた。
香辛料の匂い、果物の甘い香り、焼き立てのパンから立ち上る蒸気。誰 かが笑い、誰かが値切り、誰かが駆けていく。喧騒と匂いと温もり――その全てが、生きている人々の営みそのものだった。 だが、ハイデン・ヴァルメルシュタインにとって、それはただの【雑音】に近い。 フードを深くかぶり、視線を落としながら、人波の隙間を縫うようにして歩く。できる限り目立たずに誰にも触れず、存在を薄く保つように。(余計な目立ち方はしない。必要なものだけ取って、さっさと帰る)
それが、自分がこの世界で生きていくための【最低限のルール】だった。
向かうのは、小さな裏通りにある古書店。
古ぼけた木の看板と、色褪せた扉がある。けれどハイデンは、この静けさが好きだった。店主は無駄に話しかけてこないし、棚の整理も丁寧で、なにより――店内に満ちる紙とインクの香りが落ち着く。 扉を開けると、鈴の音が控えめに鳴った。奥から現れた店主は軽く頷くだけで何も言わず、カウンターの下から取り置きの包みを差し出す。「……ありがとう」
低く呟くように言って、ハイデンは受け取った本の包みに目を落とす。
今回の予約分は三冊。 そのうち一冊は、古代魔術に関する希少な翻訳書。あとの二冊は、王国の歴史書と詩集――やや意外な組み合わせに思えるかもしれない。(この詩集、たしか……【失われた街】を詠んだ一節があったはず)
ふと、手が勝手にページをめくりかけるが、すぐにやめる。人の視線がある場所で立ち読みをする気にはなれなかった。
(これは、家に帰ってから……)
中身は帰ってから。屋敷の静かな部屋で、一人きりでのんびりと読めばいい。
品定めもせず、再び包みを鞄に押し込み、軽く頭を下げて店を出る。――本当は、もっとゆっくり眺めていたかった。静かに棚をめくって偶然の出会いに心を躍らせるような時間を、もう一度過ごしてみたかった。
けれど、今の自分にそれは許されていない気がしていた。(こんな姿を、知っている誰かに見られたら)
(……いや、それ以前に、誰かに話しかけられるのが面倒だ)だからこそ、滞在時間も最短に。本だけを受け取ったら、すぐに帰る――そう決めていたはずだった。
「……っ」
足が止まる。
ふと、広場の奥に目をやった瞬間、貴族の馬車が並ぶあたりにひときわ目を引く少女の姿があった。 明るい金の髪、王家のエンブレムが輝く制服。まるで誰にも揺るがされないような眼差しで、こちらをまっすぐに見ている。(まさか……)
呼吸が詰まりかけた。
その笑顔を、知っている。 記憶の底に焼き付いていた――【あの】終盤で見た、勝者の顔。リリア・セントマリアーー《月下の誓い》の主人公であり、【悪役令息】であるハイデンを破滅へと導いた存在。
目が合ったその瞬間、彼女は唇を動かした。――やっぱり……いた。
小さく、けれど確かに、そう言った。
背中を冷たいものが這い上がってくる。頭では理解できなくとも、本能が叫んでいた。(【運命】が……また回り出した)
フードをさらに深く被り、足早に群衆の中へ紛れ込むように、一秒でも早くこの【|舞台《ゲーム》】から退きたかった。
帰路の途中、ハイデンは何度も背後を振り返った。誰もついてきていないはずだのだが、その確信が持てない。
そして、屋敷が見えた時、ようやく肩の力が抜けたはずなのに――胸の奥が、重く沈んでいく。「……始まった、んだな」
誰に向けるでもなく、そう呟く。それはただの独り言であり――否定しようのない、運命の音だ。
シナリオがスタートしたのだと、すぐに理解する事が出来た。(ここで終わるはずだったのに)
(どうして、まだ……物語が続いていくんだ)ハイデンの中に、【物語】が再び忍び寄ってくる。静かだった日々の背後に、冷たい影が差し始めていた。
空が暗くなり始めたころに家の主であるハイデンは帰ってきた。 出かける時と同じように、深くフードを被った姿をし、手には本と食材の入った袋。普通に帰ってきたと思ったクリスは玄関に立った彼の【沈黙】に、少し違和感を覚えた。「……遅かったな」 言葉をかけると、ハイデンは短く頷き、袋を台の上に置く。動作に乱れもないが、どこか落ち着きがない。 フードを脱がないまま、視線も合わさずに足元だけを見ている。(……何かあったな) ハイデンの姿を見ながらクリスはそう確信した。 物音を立てぬように足音を殺し、後ろからハイデンの横を通り過ぎる。だが、背後に立った瞬間――ほんの一瞬、彼の肩がぴくりと動いたのを見逃さなかった。「……誰かに、見られてたか?」 問いかけは単刀直入に言ってみたのだがハイデンはすぐには答えない。代わりに、ゆっくりとフードを外し、乾いた声で返した。「……気のせいかもしれない。だけど……」 途中で言葉を切り、彼は窓の外に視線を向けた。 その目の奥にあるのは、ただの不安ではなかった。もっと深く、もっと冷たい――何か【既視感】にも似た怯えのようなもの。(気のせい、じゃねぇな) クリスは、彼の持ち帰った袋を受け取ると、さりげなくカーテンを引く。外に視線を向けるが目立った影はない。 けれど、ハイデンの感じた何かは、確かに屋敷の中まで入り込んでいる。「……本か?」 問いかけると、ハイデンは一瞬、目を伏せた。 袋の中にあった詩集。彼があれほど大事そうにしていたのに今はまだ開いていない。「いいえ……街で、妙な目を感じたので……追ってきているような、そういうのじゃないはずです……けど……」 けど――確かに、始まった気がした。 その言葉を口にする代わりに、ハイデンはただ静かに息を吐き、そして、自分の部屋へと足を向けた。「……すみません、今日の食事用意してくれるのであればありがたいのですが、いらないので……クリスが食べてください」「わかった」「本当にすみません」「……無理はするなよ」「……」 ハイデンは何かを言おうとしていたのだが、口をそのまま塞ぎ、歩き出す。そんなハイデンの背を見送るクリスの視線は鋭さを増していた。 ハイデンの【何か】が変わり始めている。それはクリスにもわかる。(まるで、あいつの中にある過去が……今を蝕んでるみたい
(僕は、何をしているのだろう……?) 薄く光が射し始めた朝――東の空が白み始める頃、ハイデン・ヴァルメルシュタインは食卓の椅子にぼんやりと腰かけていた。 目の前に並んでいるのは、木の皿と湯気の立つスープ。軽く焼き色のついたパンに、素焼きのマグには香り高いハーブ茶。 どこまでも静かで、あたたかく――だが、ほんの少しぎこちない、そんな朝の風景。 奥の台所では、男が無言のまま鍋をかき回していた。 彼の所作はいつも通り、無駄がなく、簡潔だ。だが火加減や食材の様子にまで気を配るその手元には雑さなど微塵もない。 男の名前を聞いた。 男の名は クリス・ラウゼと言うらしい。(あんなに色々と良くしてくれていた?のに名前も聞かないなんて、バカだろう僕……) そんな事を考えながらハイデンはスプーンを手に取り、静かにスープをすくった。一口すすると口の中にやさしい旨味が広がる。「……ちゃんと、火は通ってる」 ぽつりと、呟くように言った。 すると、背を向けていたクリスが、手を止めずに返す。「――文句は食ってから言え」「も、文句を言っているわけではないです……ただ……いえ、なんでもありません」 ぶっきらぼうだが、どこか淡々とした言葉で、思わず反撃したかったのだがハイデンはそれ以上言うのをやめる。同時に、クリスの言葉が何処か心地よいと感じてしまった自分がいる。 気を遣われたわけでも、従われたわけでもない。ただ、そこにいる【人間】として返ってきた当たり前のやり取りだった。「じゃあ、なおさら黙って食え」 クリスの言葉に、ハイデンは少しだけ唇を歪めた。笑ったわけではないが、確かにそれは【反応】でもあった。 ほんの一年前まで、こんな朝など考えたこともなかった。 血筋、魔力、家名、政略――それだけで存在価値を測られ、ただ破滅の【駒】として、生きながらえていた日々。スープの湯気も焼き立てのパンの香りも、そこにはなかった。 静かにマグを手に取り、ハーブ茶を口に含む。少しだけ目を伏せて胸の奥にある微かな感覚に耳を澄ませる。(……この時間が、壊れなければいいなぁ) それは、誰にも聞かせたくないほど小さな願いだった。 食後、ハイデンは無言で外套を手に取り出かける準備を始める。「出かけんのか?」 食器を拭いていたクリスが、横目でそう言った。「ええ、その……読み終わ
白銀の塔がそびえる王都の中心に建てられたその城は、晴天の光さえもどこか冷たく反射させている。磨き抜かれた大理石の廊下を、衛兵たちが規則正しく整列し剣を構える姿にも一切の乱れはない。全てが無駄なく整えられた、王国という名の巨大な機構――その中枢である場所だった。 アゼル・ヴァルメルシュタインは、政務室へと向かっていた。 深紅と黒を基調とした正装を纏い、貴族として完璧な足取りを崩すことなく。その精悍な顔立ちと、どこまでも冷静な灰銀の瞳は歩くだけで空気を引き締める。「――入室を許可する」 扉の前に立つ兵士が告げた。 重厚な扉は、音ひとつ立てずに開く。 政務室には、三人の王族関係者が揃っていた。 中央に座るのは、第一王子・ライナルト殿下。即位こそしていないが、すでに実務のほとんどを担い事実上の【王】としての権限を持つ若き王族だ。 その右に宰相・ミランダ公爵。左には、軍部を統べる老将・バルデン将軍の姿もある。 アゼルはすっとその場に一礼し、静かに言葉を発した。「本日は、お招きいただき光栄に存じます。ヴァルメルシュタイン家当主として、また陛下の忠臣として参上仕りました」 その声音に、嘘ではない。 アゼルは、王家に忠誠を誓っている。ただし――その忠誠に、人間性は不要だ。「……アゼル、早速なのだが【魔術研究報告】の件について再度、君の所見を聞かせてほしい」 ライナルトが、静かに促す。無駄のない言葉と視線に対し、それに応えるようにアゼルは一歩前へ出る。「……魔術兵器としての研究は、ここ十年で大きく進展しました。現在は【生体魔術】に頼る必要はありません。既に過去の段階です」 そこまで述べると、視線がわずかに揺れる。「我が弟――【ハイデン・ヴァルメルシュタイン】。彼の魔力量は、確かに規格外であり過去に類を見ない天賦の才です」 だが、と言葉を区切る。「同時に、制御困難であり世論にとっても不安定な象徴となり得ます」 ミランダ公爵が眉を顰めた。「彼が、王国にとっての脅威になりかねないとそう申すか?」「いえ。あくまでも【可能性】としての提示です。王国の未来において予測されるいかなる局面においても、選択肢を備えておくべきかと」 言葉には、一切の揺らぎがない。計算され尽くした冷静さと、必要最低限の抑揚。アゼルの言葉に対し、バルデン将軍が胡坐をかいたま
朝の王都には、黄金の光が差し込んでおり、まるで輝いているようにも見える。澄んだ冷たい空気が、石畳の街路を滑るようにすり抜けてゆく。 その街の中央――聖セントマリア学園の正門前に、一人の少女が立っていた。 リリア・セントマリアーー新調された制服に身を包み、彼女はゆるやかな笑みを浮かべている。 白と金を基調とした制服には、繊細なレースと刺繍が施されており、それはブロンドがかった明るい髪色や、澄んだ青の瞳と相まって、まるで物語の中から抜け出たような美しさを際立たせていた。 通り過ぎる少女たちの視線が、彼女に吸い寄せられていく。「――あの子が、新入生?」「もしかして噂のお嬢様では?」 ひそやかなざわめきと好奇の視線。けれどそれすらも、リリアにとっては馴染み深い【舞台】にすぎなかった。(……やっと、始まるのね) 胸の内でそっと呟く。 その声は、【リリア】ではなく、【タチバナ カナコ】と言う、嘗ての名を持つ少女のモノだった。 高校二年の冬――それは、本当に何気ない日常の一日だった。 期末試験が終わって、放課後の帰り道にそれは起こった。 その日は風は冷たく、空はどこまでも青かった。制服のコートのポケットには小さく握りしめたチョコレート菓子。明日は、少しだけ好きだったクラスメイトに話しかけてみよう――そう思っていた。 でも、その【明日】は来なかった。 信号が変わったはずだった。ちゃんと左右も確認した。なのに、次の瞬間、世界は一瞬にしてひっくり返っていた。 眩しい光と、鋭い金属音。耳鳴りのような衝撃と、急速に遠のいていく喧騒。 そして、温かさ――皮肉にも最後に感じたのは、流れ出す血の温度だった。 誰かの悲鳴が聞こえた。 駆け寄る足音。呼びかける声。 けれど、すべてが遠かった。 まるで、自分だけがガラスの向こう側に取り残されたような――そんな不思議な静けさに包まれていた。(あ、私……死んだんだ) それはあまりにも呆気なくて、簡単に終わってしまった【世界】だった。 けれど――次に目を開けたとき、彼女はまったく違う景色の中にいた。 ふかふかの天蓋付きのベッドに薔薇を思わせる繊細な意匠のカーテン。暖炉の火がぱちぱちと燃え、どこからか花の香りが漂っている。 見知らぬ天井。けれど、まったく知らないわけではなかった。 自分が見ていた世界は間
今日の庭に風が吹いている――秋の終わりを告げるような冷たい風ではなく、まだ草の香りを含んだやわらかな風。 ハイデンは書斎の窓際に寄りかかり、ぼんやりとその風に揺れる庭木を眺めていた。 木の影が揺れる先、花壇の跡地にしゃがみ込む人影がある。視線を向けると粗末な布地のシャツを無造作に腕まくりし、地面に手を伸ばす。そして土を払って根を引き抜く。 抜いたのは雑草だ。 以前は放置されていた庭。誰も手入れなどしていなかったのだが、それをあの男が黙々と抜いている。 誰にも言われていないはずだ。命じられているわけでも、褒められるわけでもない。しかしkれは静かに、当たり前のようにやっている。(……意味なんて、ないだろうに) ハイデンはそう思った。いや、思いたかった。 あれが善意などであるはずがないと、決めつけていたかった。けれど――その姿にハイデンは目を離せない。 同じように、昨日は崩れたままだった塀の一部が朝にはきれいに積み直されていた。そして風に飛ばされた枝葉がそっと、何事もなかったかのように一か所にまとめられていた。 誰がやったかは、見ずとも分かる。 必要だから動くのではない。あの男は壊れたものを見て、放っておけないだけだ。「……厄介な性分だな」 口の中だけで呟く。 だが、そう言ってしまった時点で自分の意識が既に彼に向いていることを認めたような気がして、ハイデンは眉を寄せた。 最近では彼の手料理にも、少し慣れてきていた。 毎日、決まった時間に運ばれる食事。無言で皿が置かれ無言で片づけられる。その中で、ほんの数回ほどハイデンはスプーンを手に取った。 塩の加減も、出汁の取り方も、決して上手とは言えない。 けれど、とても暖かいと感じてしまった。 熱の残る器を手にした時、手の中に何かが伝わってきた気がした。 そして今朝――彼は、洗い終えたスプーンを皿の上に戻しながらふと口を開きそうになった。「……ありが……」 言いかけて、すぐに口を閉じた。言葉にしてしまえば、何かが変わる気がして、怖くなってしまった。 『ありがとう』なんて簡単な一言に、縋ってしまいそうになる自分がすごく嫌な人間になったかのように感じたからである。(……この前のお礼だって言えていなのに、おこがましい……) そのように思いながら、ハイデンは何も言えなくなってしまった。
あの男の行動はそれから数日続いた。 最近では昼も夜も変わらぬ、灰色の屋敷の廊下、静寂が染みついたその空間にぽつんと――一つの皿が置かれている。 ハイデンは、部屋の扉を開けてすぐにそれを見下ろした。 粗末な木皿に、スープが盛られている。微かに湯気が立ちのぼっており、豆と野菜が素朴な香りを立てていた。 傍らに、小さなパン。柔らかくはないが、焼きたての香ばしさがまだ残っている。「……また、置いていったのか」 声に出しても誰も答えることはない。ハイデンは辺りを見回しても廊下には人気がなかった。足音も、気配も、何もない。 皿が置かれていたのは、これで三度目だった。 最初の二回は、ただ廊下に放置されていた。冷めきったそれをハイデンは無言で棚の上に片付けていた。 そもそもハイデンに食べる気はない。 何もかも全てをあきらめるようになってから、食事は最低限しかとる事はなかった。だから、皿があったところで自分には関係のないことだと思っていた。 そのはずなのに――今日は、少しだけ香りが強かった。 皿から立ちのぼる湯気の中に、微かな塩とハーブの香りが混ざっており、腹が鳴ったわけではないのに、ただ喉の奥がひくりと動いた。 ハイデンは静かに扉を閉め、皿を両手で持ち上げてみる。重くもないのになぜか少し緊張する。 暗い部屋の中で、蝋燭を灯すこともせず、彼は窓際の椅子に腰を下ろす。 スプーンはなかったが、代わりにパンの端をちぎり、スープに浸して口元へ運ぶ。 一口目――熱はもう、ほどほどに冷めていた。それでもじんわりと温かい塩気が、舌の上をゆっくりと広がる。「……思ってたより、マシだな」 それは誰に向けた言葉でもなかった。独り言というより、寧ろ心の中に零れ落ちた呟きのようなものだ。 案外、素朴な味だった。 だが、丁寧に火を通された野菜と骨付き肉から出た自然な出汁。野暮ったいが、まっすぐな味だった。(……こんな食事、いつぶりだろ