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悠真が部屋を出ていった。紬は少しずつ、表情と冷静さを取り戻していった。目を伏せ、両手をぎゅっと握りしめる。思考を、もう一度整えるのだ。これはすべて悠真が口走ったことだ。証拠など何一つない。こんな形で連れ帰られるわけにはいかない。ましてや、訳も分からないまま慎を置いていくなど、あり得ない。扉の外から、鍵の閉まる音が響いた。足音が遠ざかったことを確かめてから、紬はポケットの奥深くに隠していた携帯をそっと取り出した。電源は入っていた。画面の乱れ以外は、今のところ故障はなさそうだ。窓際へと足音を殺して近づき、電波を拾おうとする。かろうじて一本――しかし、頼りなく点滅を繰り返している。焦りが胸に募った。ここで時間を浪費している余裕はない。あとはこの携帯に、すべてを賭けるしかなかった。……一方、悠真は階上へと上がっていた。胸の中には、うまく言葉にできない苛立ちが渦巻いている。グラスに酒を注いだが、口に運ぶ前に手が止まった。携帯が鳴ったのだ。画面に表示された番号を確認し――悠真は静かに電話に出た。「望月さん。クルフの連中が……失敗したようです」グラスを持つ指に、ぐっと力が入った。悠真の目に険しさが宿る。意外だった。あれほど完璧に追い詰めたのに、まだ生きているというのか。前後から挟み撃ちにしたはずだ。どうやって抜け出した。だが、部下はさらに続けた。「それともう一つ、望月さん。興味深いことが分かりました。ずっと長谷川慎の動向を追っていたんですが、海外への渡航が多い。立場上おかしくはないのですが……この数ヶ月で最も頻繁に足を運んでいた場所が、ニューヨークなんです」「どういうことだ」「長谷川慎はニューヨークに、ある施設を持っているようです。体外受精や胚移植を専門とするクリニックです」悠真の動きが、完全に止まった。その表情から、すっと温度が消えた。……深夜近く。理斗が部下を引き連れ、拠点へと戻ってきた。笑美はずっと眠れずにいた。機体の音を聞きつけると、毛布を羽織ったまま外へ飛び出した。駐機している機体を目にして、胸の奥でわずかに何かが緩む。危険な場所へ理斗を送り込んだのは、自分だ。それが正しかったのか、今でも正直分からない。理斗の命だって、同じよう
毅然と言い放ったものの――紬の胸の内は、恐怖で凍りついていた。ただでさえ危険な場所なのだ。そこにクルフの追手まで加わったとなれば、慎が生き延びている可能性は、いったいどれほど残されているというのか。恐怖が波のように押し寄せ、心臓が激しく早鐘を打つ。その一拍ごとに、鋭い痛みが走った。認めない。認めるわけにはいかない!悠真はゆっくりと身を起こし、立ち上がって冷然と紬を見下ろした。「縁がなかったなら、なかったということだ。なぜ無理に続けようとするのか。そろそろ現実を見なよ。男という生き物は、本質は変わらない。一度裏切れば二度裏切る。それがどんな人間であれ」紬がすぐには受け入れないことなど、悠真には分かっていた。だが、構わない。予想外の奇跡でも起きない限り、結果はもう決まっているのだ。紬はそれ以上、聞く気になれなかった。踵を返し、外の車の方へと歩き出す。自分で探しに行く。慎が無事でいることを、自分の目で確かめなければ……!その迷いのない後ろ姿を目にして、悠真の口元からようやく笑みが消えた。ポケットの中で指を軽く動かしてから、表情を消し、大股で追いつくと――紬の意向などお構いなしに、片腕でその腰を抱え上げた。紬の足が宙に浮く。必死にもがいて抵抗したが、悠真はわずかに眉をひそめるだけで意に介さなかった。そのまま紬を抱え込み、強引にヴィラへと連れ戻す。紬は怒りで我を忘れていた。両手で彼の襟を乱暴に引っ張りながら叫ぶ。「放して!私に触れないで!」今夜はあまりにも感情を乱されすぎた。悠真と冷静に渡り合う余裕など、今の紬にはもう欠片も残っていなかった。今すぐここから出たかった。悠真が何を企んでいるかなど、もはやどうでもよかった。悠真は紬を寝室まで運び、それ以上の真似はせずベッドの端に下ろすと、ただ静かに彼女を見下ろした。「そんな目で見なくてもいいでしょう。航路の申請はした。明後日には専用機で帰国できる。もしかしたら――」悠真は小首を傾げ、紬の目を見つめ返した。「長谷川家が訃報を出す前に、帰国が間に合うかもしれないね」どれほど軽い口調を装っても、その響きには残酷さが滲んでいた。信じてなどいなくても、その言葉は、確かに紬の胸を刺した。「いったい、何がしたいのっ!?」悠真はゆっくりと目
紬は、完全に不意を突かれた。その瞬間、目を大きく見開いた。信じたくない。信じるはずがない――それでも、その残酷な言葉が胸を貫いた瞬間、心臓をきつく締め上げられたように息が詰まった。「あなた……!それはどういう意味なの……っ!」普段は感情を表に出さない紬の悲痛な声が、鋭く空気を切り裂いた。目の前の男を見つめる彼女の瞳から、作り物の柔和さが完全に剥がれ落ちた。残ったのは、触れれば指が切れそうなほどに冷ややかな眼差しだけだった。その強烈な敵意に満ちた目で見られて、悠真はひどく滑稽だとさえ感じた。彼女は、それほどまでに自分を憎んでいるのか。たった一言言っただけで、これほどまでに。悠真はじりりと一歩踏み出し、夜の闇の中でその小さな表情の変化を見つめた。突きつけられた現実に対する苦しみまで見届けたいとでもいうように、一語一語、刻み込むように告げた。「驚く必要はない。これは紛れもない事実だから。そうでなければ――あえて君をここに匿っておく理由が、僕にあると思うか?」紬の固く握りしめた小さな拳が、小刻みに震えていた。それでも悠真を射抜く目だけは、凍りついたように冷酷なままだった。悠真はその視線を真っ向から受け止めながら、もう一度、紬の瞳の奥を覗き込んだ。「いいか? 彼は死んだんだ。もうこの世にはいないのさ。そして君は、前を向かなければならない」なぜだろうか。その言葉を口にするとき、悠真は笑っていた。かつて彼女が見たものと何一つ変わらない、眩しいほどの明るい笑顔で。なのに、その内に秘めた狂気は、何もかもが決定的に違っていた。紬はこのとき初めて、慎がかつて悠真をそう評した理由が腑に落ちた。年は若くとも、その精神の冷たさも、他人の弱点を見抜く鋭い眼力も、底なしの残酷さも、腹の底の底知れなさも。すべてが常人の想像をはるかに超えている。彼は、己の狂気を何一つ表には出さないのだと。紬はふっと薄く笑った。底知れぬ軽蔑と嘲りを込めて。「……それほどまでに、彼が怖かったのね。いなくなってほしかったの?」悠真には、それが己の痛いところを的確に突いてきた言葉だと分かった。だが、もう構わなかった。どうせあの状況で慎が生き延びている可能性など皆無に等しい。自分自身の因縁も、香凛の恨みも、これでようやく清算されるのだ。「……やっぱり、
紬は静かに振り返った。暗がりに立っていたのは、悠真だった。意味ありげな表情で少し離れたところに立ち、値踏みするように紬を見つめている。「慎からまだ何の連絡もないのに、眠れるわけないでしょう」正面から答えるのを避け、あくまで自然に装って当たり障りのない言葉を返した。悠真は片手をポケットに突っ込んだまま、形のいい目元に微かな笑みを滲ませているようでもあり、そうでないようにも見えた。「まさか、僕を信用できなくて逃げようとしてるんじゃないかと」明確な悪意はないはずなのに、その言葉が冷たい蛇のようにじわりと背筋を這い上がる。紬は悠真の目を真っすぐに見返した。「こんな夜更けに、異国の地で、どこへ行けというの?」「それもそうだね。今は少し外も混乱しているし」悠真は悪びれもせず、軽く肩をすくめた。その隙に紬は携帯をそっと上着のポケットへ滑り込ませ、何気ない素振りで歩き出した。「同僚たちは……今、無事なの?」「問題ないよ。明日には帰国の手配をするつもりだから」悠真はまるで天気の話でもするように、あっけらかんと答えた。しかし紬の中では、悠真への強烈な警戒心が限界まで高まっていた。かつてはあの屈託のない笑顔と自由奔放な人柄を、それなりに好ましいと思っていた時期もあった。しかし今は違う。これだけのことが続いて、紬が肌で感じるのは――望月悠真という人間の危うさが、想像をはるかに超えているかもしれないという真実だった。平然とした足取りで母屋へと歩みを進めながら、紬は決して内面の動揺を悟らせなかった。悠真もまた、自然な足取りで隣に並んで歩く。別に意識していたわけでもないのに、こうして静かに隣を歩いていると、悠真は、彼女の存在を悪くないと感じていた。玄関口まで来たところで、紬はようやく立ち止まり、振り返った。「いつまでここに留まるつもりなの?」「仕事次第だね」悠真は眉を上げ、どこか楽しげな響きで続けた。「ただ、今はあまり安全な状況とは言えないし。明日、一緒に帰国しないか?」紬の瞳が、すっと陰りを見せた。「分かっているはずよ。夫からまだ何の連絡もない今、私一人だけが帰るわけにはいかない」――夫。その単語が耳に入った瞬間、悠真の口元に浮かんでいた微笑が、ほんのわずかに温度を失った。以前は気にも留めていな
慎の表情は、どこか陰りを帯びていた。眼下に広がる混乱を見下ろしながら、紬がまだ見つかっていないという事実に、胸の奥が重く沈み込んでいた。己の命を狙う者が潜んでいることは、すでに明白だった。これからはより一層、慎重に動かなければならない。前方の操作台に向かう理斗へ、慎は静かに問いかけた。「清水さんが来るとは思わなかった」理斗は操作の手を止めずに答えた。「笑美に頼まれたんです。てっきり一緒にいると思っていました」その言葉が、鉛のように慎の胸に重く落ちた。つまり――紬の行方は、まだ分からない。「……まだ見つかっていない」慎は伏し目がちに、薬指の結婚指輪を見つめた。「西と南は探しました。温井さんの痕跡は今のところ何も。長谷川代表はどちらから?」このエリアは、広いともいえないが狭くもない。しかも今は混乱の最中にあり、身動きの取れない人々があちこちに散らばっている。人を探すには、あまりにも条件が悪すぎた。慎は眉根を寄せ、しばらく考え込んだ。「では、お互いに逆方向から探してきたことになるね」理斗は方位を確認しながら続けた。「温井さんと一緒にいたのは現地の関係者たちで、同僚ばかりです。チームで避難していたはずなんですが……一人なら難しくても、チームなら本部に連絡の一つくらい入れられるはず。それが全員、今も沈黙したままで」慎の目が、すっと細くなった。「チームで動いていれば、誰かしら報告を上げているはずだ。それが誰一人として何も言ってこないとなると、単純な話ではなくなる」紬一人だけなら、何かのトラブルに巻き込まれた可能性が高い。だが、これだけ大勢が同時に音信不通となれば、話はまったく別になってくる。これだけの人数だ。探せば必ずどこかに痕跡が残っているはずだ。それでも見つからないなら――慎の瞳に、静かな危険の色が宿った。まさか……「もしかして……彼女たちはもう、ここにはいないんじゃないか」理斗は黙って考えを巡らせた。三十分ほど前、彼のもとにも連絡が来ていた。政府がすでに捜索に入っているが、そちらからもまだ何も届いていない。そうなれば、慎の指摘する可能性も、十分にあり得る。慎はポケットから携帯を取り出し、紬へ発信を試みながら告げた。「手間をかけるが、先に安全な場所へ移動してくれ」新たな策が浮かび
上空の相手が自分の意図を完璧に汲み取ったとわかり、慎はバックミラーで後方の追手を確認しながら、運転席の護衛に短く指示した。「十時の方向へ、加速しろ」護衛は冷静に頷き、アクセルを床まで踏み込んだ。後方でクルフは、慎が無駄な足掻きを続けているのを見て、車のサンルーフから身を乗り出してスピーカーを手にした。「おいおい!どうやら俺の目的がわかっているようだな。大人しく止まって、話し合いといこうじゃないか!」クルフは、この絶望的な追跡を心から楽しんでいた。獲物を追い詰め、逃げ場をなくして絶望に歪む顔を見るのが。しかも相手は、あの名高い長谷川慎だ。その名は、この裏社会の地域でも広く知れ渡っていた。若い世代で世界的な影響力を持つ人間など、片手で足りるほどしかいない。慎に逃げ道はない——クルフはそう確信していた。身内に売られたのだ。そのことを知って、今頃絶望のどん底にいるだろう。だが、彼が本当に憤っているのはそこではない。まだ手に入れてもいない女が、自分の預かり知らぬところで再起不能なまでに嵌められ、泥沼に沈められたこと——その事実が、彼に耐え難い屈辱と苛立ちを与えていたのだ。スピーカーから流れるクルフの傲慢な声は、慎の耳にもはっきりと届いていた。だが慎は、バックミラーを冷ややかに一瞥するだけで、淡々と護衛への指示を続けた。クルフは嘲笑った。「まだ逃げる気か?この区域の外にも、俺の人間が山ほどいるんだぞ!おとなしく止まった方が身のためだ!」自信満々だった。しかし、その自信が二分と続くことはなかった。突然、爆音のようなローター音が響いた。慎が疾走していった方向のすぐ上空からだ。クルフの余裕の表情が、一瞬で崩れ去った。「まずい……急げ!あいつには、航空機がついているぞ!」しかし慎たちの車は、すでに約束の地点に到達していた。素早く護衛と共に車を降りる。理斗は、ぎりぎりの超低空飛行を完璧に維持していた。慎と屈強な護衛が全力で走り寄ってくるのを見て、後方を確認する。紬の姿がない。ヘルメットの下で、理斗の眉が険しく寄った。ローターの凄まじい風圧が吹き荒れる。慎は一瞬も止まらなかった。後方では、クルフの車もすぐに追いついてきた。頭上の機体を見た瞬間、クルフの表情が絶望と