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依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才
依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才
Author: 中岡 始

1.死んだ目の帰り道

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2026-02-20 15:03:34

終電の一つ手前だと気づいたのは、改札を抜けてホームの冷気に頬を撫でられたときだった。梅田の地下から吐き出される風は、昼間に吸い込んだ埃と油の匂いをまだ抱えている。史人の鼻の奥に、蛍光灯の白さがそのまま刺さるような錯覚が残っていた。光に焼かれた目は、焦点が合うまでに一拍遅れる。視界の端で人が動き、広告が揺れ、電光掲示板の数字が滑っていくのに、どれも手に取れない。

大原史人は立ち止まらなかった。立ち止まったら、足元から崩れる気がする。崩れても誰も拾ってくれないことを、仕事で十分に学んだ。だから歩く。体が命令に従うふりをしている間は、心は少しだけ後ろに逃げられる。

ポケットの中で、会社用スマホが震えた気がした。

史人は無意識に手を突っ込んでいた。画面は暗いまま、バイブも鳴っていない。指先だけが、震えた記憶の残響を拾っている。幻振動。そんな言葉を誰かが言っていたのを思い出す。笑い話みたいに語っていたのに、そのときの笑い声は軽すぎて、史人には遠い世界のことに思えた。

仕事が終わった。そう頭で言っても、身体が信じない。終わったあとに来るのが次の仕事だと知っているからだ。胸の奥が、通知音が鳴る前の一瞬をずっと待ち構えている。空気が吸い込まれる気配、皮膚が薄くなる感覚。あれが来ると、呼吸が浅くなる。息を吸っても肺に届かないような、妙な詰まり。

電車が滑り込んできて、扉が開いた。人が押し合い、流れ込む。史人はその波に紛れて乗り込んだ。座席に座りたいとは思わない。座ったら眠ってしまう。眠ったら降り過ごす。降り過ごしたら、またどこかで電話が鳴る。理屈ではない。怖いのは、眠りが仕事を途切れさせてくれるかもしれないことだ。途切れた瞬間に、今の自分がどれだけ空っぽかに気づいてしまう。

吊革に手を掛ける。指が白くなるほど力を入れてしまうのは、揺れに備えてではなく、体の輪郭を保つためだと史人は知っていた。車内の広告に映るモデルの笑顔が、現実の明るさとして目に入ってこない。ひとつひとつが、薄い紙のように平らで、手触りがない。

彼女と別れたのも、こんな夜だった。大学時代に付き合っていた彼女は、就職した途端に遠ざかった。遠ざかったのは彼女ではなく、史人の方だった。会う約束をして、遅れて、謝って、次はちゃんとすると言って、また遅れて、謝って、次は、と言うだけの人間になった。次の約束を繋ぐことだけが目的みたいになって、今この瞬間に誰かの隣にいる感覚がどんどん薄くなった。別れ話をされた夜、彼女は泣かなかった。泣くより先に呆れていた。

「もう無理だよ」

彼女はそう言って、静かに鍵を返した。

あのとき史人は、反論できなかった。無理だ、と自分でも思っていた。恋愛を続ける余裕がない、という言い方はきっと綺麗すぎる。余裕がないのではなく、余裕を作る能力が削れていた。仕事以外に気持ちを割くと、仕事が自分を潰しに来る。そう感じるほど、仕事が生活の中心に食い込んでいた。

電車が揺れた。窓に映った自分の顔が、一瞬だけはっきり見える。目の下の影が濃く、口角は落ちている。髪は整えているはずなのに、どこか疲れた形に見える。誰かに見られているわけでもないのに、史人は視線を逸らした。自分の顔から逃げるように、窓の外の闇を見る。

駅に着き、史人は流れに押されて降りた。地上へ上がる階段の途中で、雨上がりの匂いが混じってきた。アスファルトの湿り気、植え込みの土の匂い、車の排気の甘さ。大阪の夜は、意外と柔らかい。梅田の硬い光から離れるほど、空気が丸くなる。

それでも史人の胸は固いままだった。固くなったものを緩める場所が、いくつかしかないことを知っている。そのひとつが、家の手前にある。

宵だまり。

店の名前を心の中で唱えると、喉の奥が少しだけ開いた。宵だまりは、史人のアパートから徒歩四分。たった四分が、彼にとっては境界線だった。家に帰れば、静かすぎて心臓の音がうるさい。仕事の通知音の幻と、自分の鼓動だけが部屋に残る。宵だまりに寄れば、他人の声と、食器の音と、出汁の匂いが、鼓動の輪郭を溶かしてくれる。そこに救いがあるのかは分からない。それでも、溶けることはできる。

歩き出すと、街灯の暖色が地面の水たまりに滲んでいた。光が揺れ、歪み、細い道を金色に彩る。史人の靴底が水を踏み、浅い音を立てる。その音が妙に大きく感じるのは、周囲が静かだからではなく、史人の内側がうるさいからだ。

自販機が見えた。宵だまりへ行く道の途中にある、古い白い自販機。誰かが買ったばかりの缶が落ちる音が、がちゃんと響く。史人はその音に肩を跳ねさせた。心拍が一段上がる。通知音に似ている。似ているだけで、身体が勝手に反応する。

史人は立ち止まり、息を吸った。冷たい空気が肺に入るのに、どこかで詰まる。胸の奥が硬い板で塞がれているみたいだ。自販機の光が白く、目に刺さる。そこに並ぶ飲料の色がやけに鮮やかで、現実味が薄い。

会社用スマホが、また震えた気がした。

史人は、今度は手を出さなかった。出したら負けだと思った。何に対する勝ち負けか分からないくせに、負けると立ち上がれない気がする。ポケットの中で指が動く。スマホに触れないまま、布越しに位置だけを確かめる。そこにある。まだ鳴っていない。鳴っていないのに、鳴る。

「鳴るな」

史人は小さく呟いた。声は自分の耳にすら届かないほどか細い。それでも言った。言葉にしないと、身体がずっと待機したままになる。

歩き出す。宵だまりは近い。近いのに、遠い。宵だまりに辿り着くまでの四分は、史人がひとりでいる四分だ。ひとりでいると、仕事の声が戻ってくる。客先の「今すぐ」、上司の「頼むわ」、同僚の「すみません、これもお願いできませんか」。頼まれたら断れない。断ったら評価が下がる。評価が下がったら次の仕事が回らない。次の仕事が回らなければ首が飛ぶ。そんな脅しを誰も言わないのに、史人の中で脅しは完成している。

視界の端で、コンビニの明かりが滲む。ドアが開いて、若い客が笑いながら出てきた。その笑い声が、史人の胸にぶつかって跳ね返る。笑うという行為が、どれほど体力のいるものだったかを思い出す。笑いは余裕の証拠だ。余裕がない人間は、口角を上げる前に、まず息を整えなければならない。

史人は一度、唇を噛んだ。痛みは現実だ。痛みだけが確かだと感じる瞬間がある。感情は薄くなり、疲労だけが濃く残る。濃い疲労は、重力みたいに体を引っ張る。引っ張られながら歩く。

角を曲がると、宵だまりの灯りが見えた。遠くからでも分かるほど派手ではない。むしろ地味だ。白い暖簾が、風に少しだけ揺れている。引き戸の木はくすんでいて、看板も控えめだ。けれどその控えめさが、史人にとっては救いだった。目立たないから、過剰な期待がない。過剰な期待がない場所では、失敗しても傷が浅い。

暖簾の手前まで来て、史人は足を止めた。胸の奥で何かがぎし、と軋む。軋むのは恐怖に似ている。ここに入ると、仕事から一瞬だけ離れられる。その一瞬が終わったとき、現実が二倍の重さで戻ってくるのではないかという予感が、史人を躊躇させる。

でも戻る場所があるだけ、まだましだ。戻る場所がない夜を知っている。仕事と家の間に何もなく、どちらへ行っても窒息する夜。そういう夜のあと、史人はしばらく本気で笑えなかった。

引き戸に手を掛ける。木の感触が、湿っている。雨上がりの湿気が染み込んでいるのか、掌に少しだけ冷たい。史人はその冷たさを、現実の証拠として握りしめた。

そのとき、背後で小さな電子音が鳴った。

ぴろん、と短い音。

史人の心臓が跳ねた。瞬間的に息が止まり、掌に汗が滲む。音の方向を探るより先に、脳が「通知だ」と決める。身体が反射でポケットに手を突っ込む。会社用スマホを掴み、画面を点ける。

暗い。

通知はない。バイブも鳴っていない。耳の奥で、さっきの音がまだ響いている。

史人はゆっくり振り返った。道の向こうで、誰かがイヤホンを外してスマホを操作している。そちらの音だったらしい。たったそれだけで、史人の喉の奥が焼けるように熱くなる。息を吸うと、冷気が肺を刺す。浅い呼吸が勝手に続く。

恥ずかしい、と思った。誰も見ていないのに、体が勝手に反応していることが恥ずかしい。情けない、とも思った。社会人として、まともに見せなければいけないのに、通知音ひとつで崩れかける。崩れるな、と自分に言い聞かせても、身体は言うことを聞かない。

史人は、もう一度宵だまりの暖簾を見た。白い布の向こうに、暖色の光がある。その光の中には、出汁の匂いがある。氷の音がある。誰かの笑い声がある。自分の鼓動を、他人の音に紛らわせられる場所がある。

史人は引き戸を開けた。

中から、熱がこぼれた。外の冷気が一瞬で押し返される。出汁の匂いが鼻腔を満たし、油の香りが胃の奥を刺激する。食器が触れる音、低い笑い声、換気扇の唸り。生活の音が、史人の耳に一斉に流れ込む。

それだけで、胸の硬い板が少しだけ緩んだ気がした。

史人は靴を脱ぎ、足元の感覚を確かめる。畳ではない。けれど床の木が、冷たすぎない。ここにいる間だけでも、自分の足で立てる気がした。生きるというのは、たぶんこういう小さな手触りの積み重ねだ。

カウンターの端、いつもの席が空いている。史人はそこへ向かった。背中に、仕事の影がまだ張り付いているのを感じる。それでも、灯りの下に座れば影は薄くなる。薄くなるだけでも十分だ。

「いらっしゃい」

店主の声が聞こえた。まだこちらを見ていないのに、声は史人を認識している。常連の扱いだ。名前を呼ばれなくても、存在を知ってもらえている感覚が、史人の胸の奥に小さく灯る。

史人は椅子に腰を下ろし、息を吐いた。吐いた息が、やっと最後まで出た。肺の奥に溜まっていたものが、少しだけ抜けていく。

ここなら息ができるかもしれない。

そう思った瞬間、史人は初めて、自分がどれだけ息を我慢していたのかを知った。息をしているつもりで、ずっと浅いところでしか呼吸していなかった。深く吸うのは怖い。深く吸うと、胸の中の空洞が露わになる。空洞に気づくのが怖いから、呼吸を浅くしていた。

史人はカウンターの木目を見つめた。木の色は落ち着いていて、蛍光灯の白さと違う。目が痛くならない。目が痛くならないだけで、救われる夜がある。

ポケットの中で会社用スマホが重い。けれど今だけは、伏せて置ける気がした。まだ完全には無理だ。完全に離れられない。けれど、置こうと思えることが、小さな一歩だ。

史人はスマホを取り出し、画面を下にしてカウンターの端に置いた。黒い画面が、灯りを吸い込む。通知音が鳴らないことを祈りながら、史人はもう一度息を吐いた。

宵だまりの中で、夜がゆっくり溜まっていく。

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