Masuk
終電の一つ手前だと気づいたのは、改札を抜けてホームの冷気に頬を撫でられたときだった。梅田の地下から吐き出される風は、昼間に吸い込んだ埃と油の匂いをまだ抱えている。史人の鼻の奥に、蛍光灯の白さがそのまま刺さるような錯覚が残っていた。光に焼かれた目は、焦点が合うまでに一拍遅れる。視界の端で人が動き、広告が揺れ、電光掲示板の数字が滑っていくのに、どれも手に取れない。
大原史人は立ち止まらなかった。立ち止まったら、足元から崩れる気がする。崩れても誰も拾ってくれないことを、仕事で十分に学んだ。だから歩く。体が命令に従うふりをしている間は、心は少しだけ後ろに逃げられる。
ポケットの中で、会社用スマホが震えた気がした。
史人は無意識に手を突っ込んでいた。画面は暗いまま、バイブも鳴っていない。指先だけが、震えた記憶の残響を拾っている。幻振動。そんな言葉を誰かが言っていたのを思い出す。笑い話みたいに語っていたのに、そのときの笑い声は軽すぎて、史人には遠い世界のことに思えた。
仕事が終わった。そう頭で言っても、身体が信じない。終わったあとに来るのが次の仕事だと知っているからだ。胸の奥が、通知音が鳴る前の一瞬をずっと待ち構えている。空気が吸い込まれる気配、皮膚が薄くなる感覚。あれが来ると、呼吸が浅くなる。息を吸っても肺に届かないような、妙な詰まり。
電車が滑り込んできて、扉が開いた。人が押し合い、流れ込む。史人はその波に紛れて乗り込んだ。座席に座りたいとは思わない。座ったら眠ってしまう。眠ったら降り過ごす。降り過ごしたら、またどこかで電話が鳴る。理屈ではない。怖いのは、眠りが仕事を途切れさせてくれるかもしれないことだ。途切れた瞬間に、今の自分がどれだけ空っぽかに気づいてしまう。
吊革に手を掛ける。指が白くなるほど力を入れてしまうのは、揺れに備えてではなく、体の輪郭を保つためだと史人は知っていた。車内の広告に映るモデルの笑顔が、現実の明るさとして目に入ってこない。ひとつひとつが、薄い紙のように平らで、手触りがない。
彼女と別れたのも、こんな夜だった。大学時代に付き合っていた彼女は、就職した途端に遠ざかった。遠ざかったのは彼女ではなく、史人の方だった。会う約束をして、遅れて、謝って、次はちゃんとすると言って、また遅れて、謝って、次は、と言うだけの人間になった。次の約束を繋ぐことだけが目的みたいになって、今この瞬間に誰かの隣にいる感覚がどんどん薄くなった。別れ話をされた夜、彼女は泣かなかった。泣くより先に呆れていた。
「もう無理だよ」
彼女はそう言って、静かに鍵を返した。
あのとき史人は、反論できなかった。無理だ、と自分でも思っていた。恋愛を続ける余裕がない、という言い方はきっと綺麗すぎる。余裕がないのではなく、余裕を作る能力が削れていた。仕事以外に気持ちを割くと、仕事が自分を潰しに来る。そう感じるほど、仕事が生活の中心に食い込んでいた。
電車が揺れた。窓に映った自分の顔が、一瞬だけはっきり見える。目の下の影が濃く、口角は落ちている。髪は整えているはずなのに、どこか疲れた形に見える。誰かに見られているわけでもないのに、史人は視線を逸らした。自分の顔から逃げるように、窓の外の闇を見る。
駅に着き、史人は流れに押されて降りた。地上へ上がる階段の途中で、雨上がりの匂いが混じってきた。アスファルトの湿り気、植え込みの土の匂い、車の排気の甘さ。大阪の夜は、意外と柔らかい。梅田の硬い光から離れるほど、空気が丸くなる。
それでも史人の胸は固いままだった。固くなったものを緩める場所が、いくつかしかないことを知っている。そのひとつが、家の手前にある。
宵だまり。
店の名前を心の中で唱えると、喉の奥が少しだけ開いた。宵だまりは、史人のアパートから徒歩四分。たった四分が、彼にとっては境界線だった。家に帰れば、静かすぎて心臓の音がうるさい。仕事の通知音の幻と、自分の鼓動だけが部屋に残る。宵だまりに寄れば、他人の声と、食器の音と、出汁の匂いが、鼓動の輪郭を溶かしてくれる。そこに救いがあるのかは分からない。それでも、溶けることはできる。
歩き出すと、街灯の暖色が地面の水たまりに滲んでいた。光が揺れ、歪み、細い道を金色に彩る。史人の靴底が水を踏み、浅い音を立てる。その音が妙に大きく感じるのは、周囲が静かだからではなく、史人の内側がうるさいからだ。
自販機が見えた。宵だまりへ行く道の途中にある、古い白い自販機。誰かが買ったばかりの缶が落ちる音が、がちゃんと響く。史人はその音に肩を跳ねさせた。心拍が一段上がる。通知音に似ている。似ているだけで、身体が勝手に反応する。
史人は立ち止まり、息を吸った。冷たい空気が肺に入るのに、どこかで詰まる。胸の奥が硬い板で塞がれているみたいだ。自販機の光が白く、目に刺さる。そこに並ぶ飲料の色がやけに鮮やかで、現実味が薄い。
会社用スマホが、また震えた気がした。
史人は、今度は手を出さなかった。出したら負けだと思った。何に対する勝ち負けか分からないくせに、負けると立ち上がれない気がする。ポケットの中で指が動く。スマホに触れないまま、布越しに位置だけを確かめる。そこにある。まだ鳴っていない。鳴っていないのに、鳴る。
「鳴るな」
史人は小さく呟いた。声は自分の耳にすら届かないほどか細い。それでも言った。言葉にしないと、身体がずっと待機したままになる。
歩き出す。宵だまりは近い。近いのに、遠い。宵だまりに辿り着くまでの四分は、史人がひとりでいる四分だ。ひとりでいると、仕事の声が戻ってくる。客先の「今すぐ」、上司の「頼むわ」、同僚の「すみません、これもお願いできませんか」。頼まれたら断れない。断ったら評価が下がる。評価が下がったら次の仕事が回らない。次の仕事が回らなければ首が飛ぶ。そんな脅しを誰も言わないのに、史人の中で脅しは完成している。
視界の端で、コンビニの明かりが滲む。ドアが開いて、若い客が笑いながら出てきた。その笑い声が、史人の胸にぶつかって跳ね返る。笑うという行為が、どれほど体力のいるものだったかを思い出す。笑いは余裕の証拠だ。余裕がない人間は、口角を上げる前に、まず息を整えなければならない。
史人は一度、唇を噛んだ。痛みは現実だ。痛みだけが確かだと感じる瞬間がある。感情は薄くなり、疲労だけが濃く残る。濃い疲労は、重力みたいに体を引っ張る。引っ張られながら歩く。
角を曲がると、宵だまりの灯りが見えた。遠くからでも分かるほど派手ではない。むしろ地味だ。白い暖簾が、風に少しだけ揺れている。引き戸の木はくすんでいて、看板も控えめだ。けれどその控えめさが、史人にとっては救いだった。目立たないから、過剰な期待がない。過剰な期待がない場所では、失敗しても傷が浅い。
暖簾の手前まで来て、史人は足を止めた。胸の奥で何かがぎし、と軋む。軋むのは恐怖に似ている。ここに入ると、仕事から一瞬だけ離れられる。その一瞬が終わったとき、現実が二倍の重さで戻ってくるのではないかという予感が、史人を躊躇させる。
でも戻る場所があるだけ、まだましだ。戻る場所がない夜を知っている。仕事と家の間に何もなく、どちらへ行っても窒息する夜。そういう夜のあと、史人はしばらく本気で笑えなかった。
引き戸に手を掛ける。木の感触が、湿っている。雨上がりの湿気が染み込んでいるのか、掌に少しだけ冷たい。史人はその冷たさを、現実の証拠として握りしめた。
そのとき、背後で小さな電子音が鳴った。
ぴろん、と短い音。
史人の心臓が跳ねた。瞬間的に息が止まり、掌に汗が滲む。音の方向を探るより先に、脳が「通知だ」と決める。身体が反射でポケットに手を突っ込む。会社用スマホを掴み、画面を点ける。
暗い。
通知はない。バイブも鳴っていない。耳の奥で、さっきの音がまだ響いている。
史人はゆっくり振り返った。道の向こうで、誰かがイヤホンを外してスマホを操作している。そちらの音だったらしい。たったそれだけで、史人の喉の奥が焼けるように熱くなる。息を吸うと、冷気が肺を刺す。浅い呼吸が勝手に続く。
恥ずかしい、と思った。誰も見ていないのに、体が勝手に反応していることが恥ずかしい。情けない、とも思った。社会人として、まともに見せなければいけないのに、通知音ひとつで崩れかける。崩れるな、と自分に言い聞かせても、身体は言うことを聞かない。
史人は、もう一度宵だまりの暖簾を見た。白い布の向こうに、暖色の光がある。その光の中には、出汁の匂いがある。氷の音がある。誰かの笑い声がある。自分の鼓動を、他人の音に紛らわせられる場所がある。
史人は引き戸を開けた。
中から、熱がこぼれた。外の冷気が一瞬で押し返される。出汁の匂いが鼻腔を満たし、油の香りが胃の奥を刺激する。食器が触れる音、低い笑い声、換気扇の唸り。生活の音が、史人の耳に一斉に流れ込む。
それだけで、胸の硬い板が少しだけ緩んだ気がした。
史人は靴を脱ぎ、足元の感覚を確かめる。畳ではない。けれど床の木が、冷たすぎない。ここにいる間だけでも、自分の足で立てる気がした。生きるというのは、たぶんこういう小さな手触りの積み重ねだ。
カウンターの端、いつもの席が空いている。史人はそこへ向かった。背中に、仕事の影がまだ張り付いているのを感じる。それでも、灯りの下に座れば影は薄くなる。薄くなるだけでも十分だ。
「いらっしゃい」
店主の声が聞こえた。まだこちらを見ていないのに、声は史人を認識している。常連の扱いだ。名前を呼ばれなくても、存在を知ってもらえている感覚が、史人の胸の奥に小さく灯る。
史人は椅子に腰を下ろし、息を吐いた。吐いた息が、やっと最後まで出た。肺の奥に溜まっていたものが、少しだけ抜けていく。
ここなら息ができるかもしれない。
そう思った瞬間、史人は初めて、自分がどれだけ息を我慢していたのかを知った。息をしているつもりで、ずっと浅いところでしか呼吸していなかった。深く吸うのは怖い。深く吸うと、胸の中の空洞が露わになる。空洞に気づくのが怖いから、呼吸を浅くしていた。
史人はカウンターの木目を見つめた。木の色は落ち着いていて、蛍光灯の白さと違う。目が痛くならない。目が痛くならないだけで、救われる夜がある。
ポケットの中で会社用スマホが重い。けれど今だけは、伏せて置ける気がした。まだ完全には無理だ。完全に離れられない。けれど、置こうと思えることが、小さな一歩だ。
史人はスマホを取り出し、画面を下にしてカウンターの端に置いた。黒い画面が、灯りを吸い込む。通知音が鳴らないことを祈りながら、史人はもう一度息を吐いた。
宵だまりの中で、夜がゆっくり溜まっていく。
夜の部屋は、昼の部屋より狭い。狭いのに、隙間が多い。照明の下でだけ明るく、照明の外側は薄い影になって、そこに音が溜まる。冷蔵庫の低い唸り、換気扇の回転、隣室の水道の気配。遠い車の音が、窓ガラスで一度ひしゃげてから入ってくる。史人はテーブルの上に置いたスマホを、何度も見た。画面は暗い。通知はない。暗いままの画面が、かつては救いだった。今は違う。暗いままでも、胸の奥が勝手に騒ぐ。来るはずのない通知を待つ癖が、身体に残っている。それでも、いまは呼吸がある。逃げ場の呼吸じゃない。戻るための呼吸だ。律は台所に立ち、エプロンを胸元で結び直した。結び目を確かめる指が丁寧で、丁寧さが強がりではなくなっている。イタリアで身につけた動作だと史人は思った。向こうの市場の匂いを、ここへ連れてきたみたいに。「何作る?」律が振り返って言った。声は軽い。軽い声は膜ではなく、確かめの声になっていた。史人は冷蔵庫の中身を思い浮かべた。買い物は帰りに済ませている。袋から野菜を出して冷蔵庫に押し込み、冷える音と一緒に少しだけ安心した。生活は音があると分かりやすい。音があると、空白が薄まる。「鍋、でもええ?」史人が言うと、律は少し考えてから頷いた。「鍋はええな。あったかい」律の言葉に、史人の胸が少しだけ緩んだ。あったかい、は一番単純な答えで、一番強い合意でもある。鍋は誰かの体温を借りなくても、あったかくなる。逃避ではなく生活として、そこにある。史人はまな板を出し、包丁を手に取った。刃の重さが、手に馴染む。仕事のキーボードより、ずっと素直な道具だと思う。切れば切れる。切った分だけ形になる。進捗表の色みたいに、何をしても詰められることがない。切り口が揃わなくても、誰も責めない。律は野菜を洗い、手を拭いたタオルをきちんと掛け直した。掛け直す動作が、境界線の動作に見える。雑に扱わない。雑に扱うと、自分が雑に扱われる。律がその理屈を身体で知っているのが分かる。史人は白菜を切りながら、律の横顔を盗み見た。頬の線が少し柔らかい。けれど目の奥はまだ鋭い。鋭さは恐れの鋭さではなく、選ぶための鋭さだ。鍋に出汁を張る
昼の光は、夜より残酷だと史人は思うことがある。夜は暗さが隠してくれる。昼は輪郭が出る。輪郭が出ると、見ないふりをしていたものが、机の上に置かれてしまう。午前の作業を切り上げて、史人はノートパソコンの蓋を閉じた。独立してから、閉じるタイミングを自分で決められるようになった。それでも、手が反射で震える瞬間がある。蓋を閉じても通知が鳴る気がする。梅田の終電レースが、身体の裏側にまだ貼り付いている。史人はその感覚を、呼吸で押さえた。最近は呼吸が少しだけ役に立つ。律の呼吸を見て学んだのかもしれない。台所から味噌汁の匂いが漂ってきた。律が小鍋を火にかけ、湯気を見ながら味噌を溶いている。湯気は祖父母宅の台所の湯気と似ていて、生活の匂いは人を油断させる。その油断の隙間に、影は入り込む。律のスマホがテーブルの上で震えた。音は鳴らない設定になっている。震えだけで十分だ。律の肩が、ほんの少しだけ上がる。上がった肩がすぐに落ちる。律が呼吸を選んだのが分かる。それでも指先は冷たくなるらしく、律は鍋の取っ手を握り直した。史人は椅子から立ち上がりかけて、止まった。止まることが、今の二人の合図になっている。何かが起きたとき、勢いで触れない。勢いで聞かない。まず止まり、息を整える。律は鍋の火を弱めてから、スマホを手に取った。画面を見て、目が一瞬だけ固くなる。固くなったのに、息は止まらない。律は親指で画面を滑らせ、通知の内容を確認する。確認したあと、スマホを伏せた。伏せる動作がゆっくりで、生活の動作に戻そうとしているのが分かる。史人は声を出さず、コップに水を注いで律の横に置いた。律は頷いて水を飲んだ。喉が鳴る。喉が鳴ると、史人の胸の奥の緊張が少しだけ緩む。律は水のコップを置き、息を吸って吐いた。吐く息が長い。長い息は、戻るための息だ。史人は言葉を選んだ。大丈夫? は言わない。大丈夫と言わせる言葉になるからだ。代わりに、必要なことだけを確認する。「今、読む?」律は一瞬だけ史人を見た。目の奥に影がある。影は恐怖の影だ。恐怖はまだ消えていない。でもその影の中に、薄い光もある。光は、境界線を引けるようになった光だ。「読む」
史人の部屋の鍵は、いつもより重かった。金属の重さではなく、手の中で鳴らない重さだ。ポケットの底で触れたとき、冷たいはずの感触がぬるく感じる。身体が勝手に体温を乗せる。自分のものだったはずの鍵が、誰かの手に渡る前に、別の意味を帯び始めるのが怖い。玄関の前に立つと、廊下の蛍光灯が白くて、少しだけ梅田の白を思い出した。あの白は人を干上がらせる。ここは違うと分かっていても、白は白だ。史人は息を吸い、吐いて、鍵穴に差し込んだ。音が小さく、乾いている。回す指の腹が少し汗ばんでいるのが分かる。背後で足音が止まる。律が立っていた。空港から戻って数日、律は祖父母の家に荷物を置き、必要なものだけをリュックに詰めて来た。史人の部屋で一度、試す。そこまでを二人は言葉にした。試す、という言葉が便利なだけではないと、史人は知っている。試すと決めることは、いつでも止まれると決めることだ。止まる権利を最初に置く。それが今回の合意だった。ドアを開けると、部屋の匂いがした。洗濯洗剤と、パソコンの熱が残ったような乾いた匂いと、少しだけ煙草ではない紙の匂い。律の匂いはまだ混ざっていない。混ざっていないことが少し寂しく、同時に安心する。混ざったら戻れない気がして、どこかで怖い。「入って」史人はそう言った。言葉が短い。短くないと、余計なものが紛れ込む。「お邪魔します」律は靴を脱ぎ、揃えた。揃え方が丁寧すぎて、史人は笑いそうになり、笑わなかった。律は気を張っている。気を張っているのに、張り詰めていない。張り詰める一歩手前で、止まれる感じがする。それが留学の成果なのだろうと、史人は勝手に思った。リビング兼寝室の狭さは変わらない。ベッドと机と、本棚と、最近買った折り畳みの小さなテーブル。宵だまりで飲んだ帰りに、何度もこの部屋へ戻った。その導線に律が乗ると、過去の逃避が一瞬だけ顔を出す。史人は喉の奥がきゅっとなるのを感じた。律は視線を部屋の隅に滑らせ、軽く息を吐いた。息が止まっていない。史人はそれだけで少し落ち着く。「荷物、ここでええ?」律がリュックを持ち上げる。置き場所を聞くのが、律の条件提示の仕方だと史人は理解している。勝手に置かない
ホテルを出た瞬間、空気が変わった。夜の間に溜まった湿り気が、朝の光に薄く引き延ばされている。ロビーに漂うコーヒーの匂いはまだ強く、スーツケースの車輪が床を擦る乾いた音が、どこか遠い。窓の外には滑走路が見え、昨夜と同じ点滅が今は淡く、昼に飲み込まれかけていた。史人はカードキーを返却機に入れる前、指先に残るプラスチックの角の感触を一瞬だけ確かめた。握りしめれば、昨夜の熱まで握りしめられそうで怖い。握りしめないほうがいい。逃避に戻らないために、ここで眠ったのだと、自分で決めたのだと、忘れないために。律はフロントを横目に見ながら、ひとつ息を吸った。浅くない。胸の奥まで入って、肋骨の裏側に柔らかい重みが広がる。その重みが「生きてる」を支えるのだと、律は知っている顔をしていた。以前の、息を止める顔ではない。史人はそれに気づいた瞬間、言葉が喉に詰まった。上手く言えない。おかえりの次に何を置けばいいのか、まだ分からない。ただ、呼吸が止まっていない。それだけで、胸の中の硬い塊が少しだけ溶ける。連絡通路を渡ると、窓が大きくなり、海の色が見えた。空港の外側は、思っていたより明るい。明るさは現実を連れてくる。昨夜の余韻を抱えたまま現実に踏み出すと、いつか転ぶ気がする。史人はその恐怖を、足の裏の感触で誤魔化した。床が固い。歩ける。歩くしかない。電車の時間を確認しようと、律がスマホを取り出す。画面の白さが朝の光と重なり、史人は反射で身構えた。通知音が鳴っていないのに、身体が先に構える癖は、まだ完全には抜けていない。律の指先が画面を滑り、数秒、止まる。律は眉を少しだけ上げた。見つけたのは、情報だった。脅しでも、契約書でもない。ただの、駅周辺の案内の一行。けれど律は、その一行に目を留める顔になった。逃げ場を探す顔ではなく、自分で選ぶ顔。「なあ」声は小さく、滑走路の遠い音に溶けそうだった。それでも史人は聞き取る。「ちょっと寄り道したい」史人は足を止めた。すぐに理由を聞きそうになって、飲み込む。理由を聞けば、正しさで埋めてしまいそうな気がした。今は、正しさより、律が今ここで何を欲しがっているかを確かめたい。「寄り道?」
朝の光は、夜の約束を容赦なく薄める。ホテルのカーテンの隙間から差し込む白さは、昨夜のスタンドの円い灯りとは違って、輪郭をはっきりさせた。ベッドのシーツの皺も、床に落ちたタオルの端も、窓の外の滑走路の線も、現実の線として並び直される。史人は目を開けた瞬間に、自分が息をしていることを確かめた。胸の奥が浅くならない。終電の計算も、通知音の幻も、今はない。代わりに、隣の体温がある。体温があるのに、逃避の甘さだけではない。昨夜、言葉で合意した「止まれる」という感覚が、まだ身体の奥に残っている。律はまだ眠っていた。横顔の角が、梅田の夜より少しだけ丸く見える。寝ているのに眉間の皺が薄い。眠りが浅いときに出る肩の硬さも、今はない。史人はそれを見て、胸の奥が熱くなりそうになり、熱くなりすぎる前に息を吐いた。熱くなるのは悪いことではない。ただ、熱だけで動くと、また同じ場所に戻る。戻る場所が、宵だまりと1Kだけになってしまう。史人は静かにベッドを抜けた。床は冷たい。足裏が冷えると、頭が少し冴える。洗面台の前で顔を洗う。水が頬を叩き、夜の余韻を削る。鏡の中の自分は、寝不足の目をしているのに、目の奥が変に澄んでいた。澄んでいるせいで、怖い。澄んでいると、逃げ道がない。逃げ道がないのは、悪いことではない。選ぶしかないからだ。コーヒーメーカーのボタンを押すと、低い振動音が小さく響いた。豆の香りが、空調の乾いた匂いに混ざり、部屋に生活の気配を増やしていく。史人は紙コップに注ぎ、湯気を見つめた。湯気はすぐ消える。消える速度が、今の自分の生活と似ていると思った。整えても、放っておけばまた散らかる。散らかる前に手を入れるしかない。律が身じろぎをした。布団の擦れる音が微かに聞こえ、次に、息を吸う音が聞こえた。律は目を開け、天井を見て、状況を確かめるように瞬きをした。目が史人を見つけるまでに一拍ある。その一拍が、昨夜の「止まれる」拍に似ていた。律が掠れた声で言う。「……朝やな」史人は頷いて、コーヒーを差し出した。「飲む?」律は起き上がり、受け取った。指が史人の指に触れ、触れた瞬間に引っ込めない。触れたまま、律は紙コッ
未明のホテルの部屋は、昼の白さをすっかり失っていた。壁の灯りは落とされ、ベッドサイドのスタンドだけが、淡い円を床に作っている。空調の乾いた息が一定の間隔で吐かれ、肌の汗を薄く冷やした。窓の外には、滑走路の点滅が規則的に並び、黒い空を切り取るガラスに、細い光が浮かんでいる。機体灯が遠く動くたび、ここが「空港の夜」だと改めて突きつけられる。史人はベッドの端に座り、手のひらを膝の上で組んだ。指先に残る体温が、まだ熱い。熱いのに、落ち着いている。さっきまでの熱が、虚しさに沈んでいかない。それが不思議で、怖かった。怖いのは、これがただの一夜の慰めに戻れないからだと、史人は薄く理解していた。律は浴室から出てきたところだった。濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、部屋の薄い灯りの中で一瞬だけ立ち止まる。ホテルの部屋着は体の線を隠しきれず、肩から首筋にかけての白さが、灯りを柔らかく受けている。史人は視線を逸らすべきか迷い、迷ったまま見てしまった。見てしまっても、律は何も言わない。言わないまま、窓の方へ歩く。窓際に置かれた小さなテーブルの上には、さっき律が飲んだ水のボトルが半分残っている。律はそれを指で回し、キャップの感触を確かめるように握った。握った指が、ほんの少し震えた。震えは寒さのせいではない。史人は、それが「言葉」を出す前の揺れだと感じた。史人は息を吸い込み、吐いた。吐く息は長くする。長くすると胸の奥が少し広がる。広がった場所に、律の存在が入ってくる。入ってくるのに、押し潰されない。押し潰されない自分になったのだと、史人は思い込みたい。律は窓の外に目をやった。点滅する灯りを眺めながら、喉の奥で何かを飲み込む仕草をした。言葉を選ぶときの癖だ。梅田で、鍵盤に触れる前も、こんなふうに息を止めかけた。あの時は音が先で、言葉は後だった。いや、言葉は後に来なかった。来なかったことが、ずっと史人の胸の奥で残響になっていた。律が背中越しに言う。「なあ」史人はすぐに返せない。喉が固まる。返事をしない沈黙が、律を追い詰めるかもしれないと思い、史人は無理に声を出した。「うん」律は振り返らなかった。振り返らないまま、続ける。
律の指先が、白と黒の境界に触れた瞬間、梅田の雑踏が一度だけ息を止めたように見えた。実際には、誰かの笑い声も、遠いアナウンスも、通り過ぎる靴音も消えていない。それでも、史人の耳の中でだけ、音の層が入れ替わる。上に乗っていた日常のノイズが薄くなり、代わりに、鍵盤に触れる皮膚の擦れる気配が濃くなる。黒い艶の向こうに、律の背中が真っ直ぐに立っている。背中の細さは弱さではない。細いまま折れないための硬さだと、直感が告げる。律は一度、深く吸ったように見えた。見えただけかもしれない。さっきまで浅かった呼吸が、その一瞬だけ底へ落ちた気がする。落ちた呼吸のあとで、律の手が鍵
人だかりの中心に近づくにつれて、梅田の夜は別の顔を見せた。ネオンの白がただ眩しいだけじゃなく、輪郭を切り出す刃みたいに見える。人の肩、髪、スマホの光、笑い声の口元。全部がはっきりしすぎていて、息をする場所が薄い。律に袖を引かれたまま、史人は人の流れを避けるように歩いた。避けているつもりでも、肩がぶつかる。コートの布が擦れる音が耳に残る。どこかで缶の開く音がして、すぐに拍手のような乾いた音に紛れた。イベントの空気だと、身体が理解した。宵だまりの笑い声の膜とは違う。ここは、見るための場所だ。見られるための場所だ。人だかりの中心に、グランドピアノがあった。黒い艶
電車の窓に映る自分の顔は、夜のガラスに薄く貼りついて、すぐ剥がれそうだった。照明が揺れるたびに輪郭がぼやけ、目の下の影だけが濃く残る。史人はその影を見ないふりをして、背中を座席に預けた。預けたはずなのに、肩は上がったままだ。上がった肩のまま、胸の奥が硬い。硬い胸が、呼吸を浅くする。車内は空いていた。空いているのに静かではない。空いている分だけ、音がよく聞こえる。車輪の規則的な響き、ジョイントを跨ぐたびの小さな衝撃、吊り革が揺れて当たる金属音、遠くの咳、誰かのスマホのバイブ。音のひとつひとつが粒になって、史人の耳を叩く。叩かれるたびに神経がささくれ、指先が冷たくなる。
梅田の朝は、いつも白い。空の色ではない。ビルのガラスに反射した光でもない。史人の目に刺さるのは、入館ゲートの発光と、天井に並ぶ蛍光灯と、ディスプレイの白背景だった。白が多い場所は、人の影を薄くする。薄くなるほど、人間は機能になっていく。史人は、その機能として今日も歩いている気がした。ビルのエントランスは、無駄に広い。無駄に磨かれた床が、靴底の音を少しだけ反響させる。香りは薄い。清掃洗剤と、空調の乾きと、誰かの整髪料が混ざっているのに、どれも決定打にならない。決定打がない空気は、個性を奪う。奪われた空気の中で、史人は首から下げた入館カードを指で確かめた。