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2.だし巻きの湯気

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2026-02-21 15:03:52

宵だまりの中は、外より少しだけ時間が遅かった。暖色の照明が空気を柔らかくして、壁の短冊メニューの文字まで丸く見せる。換気扇の低い唸りが天井に張り付き、氷がグラスに当たる乾いた音が、ときどきその唸りを裂く。誰かの笑い声が跳ねて、すぐに油の匂いと出汁の匂いに吸い込まれる。その雑多さが、史人の胸に溜まった硬いものを少しずつほぐしていく。

史人はカウンターの端の席に腰を落ち着けた。椅子の木が少しだけ軋む。背もたれはない。背筋を預けられない椅子の方が、今の史人には合っていた。預けた瞬間に崩れてしまう気がして、崩れた自分を見られるのが怖い。

史人は会社用スマホを伏せたまま、指先で位置を確かめた。伏せても重さは消えない。黒い画面は、まるで虫の背中みたいに鈍く光を吸う。史人はその背中を見ないようにして、店内の音に意識を向けた。厨房で包丁がまな板を叩く音がして、油が弾ける。誰かが笑って、誰かが咳払いをする。空気が生きている。仕事場の空気とは違う。仕事場は、空気そのものが評価の匂いをしている。ここは評価ではなく、生活の匂いがする。

「兄ちゃん、今日も目ぇ死んでるな」

米谷正志の声が、隣から飛んできた。中年の男で、背が高いわけでもないのに声だけが大きい。肩で笑って、勝手に距離を詰めてくる。宵だまりの常連は、こういう雑な優しさでできている。

史人は反射で口角を上げかけて、すぐに戻した。笑うための筋肉が固まっている。意識すると余計にぎこちない。

「生きてます」

史人が言うと、米谷は鼻で笑った。

「それ、死んでるやつが言うやつや」

米谷はグラスを揺らし、氷を鳴らした。ハイボールの薄い香りがふわりと漂う。史人はその匂いを嗅いだだけで、喉の奥が乾いていることに気づいた。

カウンターの向こうで串田剛が手を止めた。店主は、派手な動きはしない。無駄な愛想も振りまかない。それでも視線だけで客の状態を拾う。拾ったものを口にせず、実務で返す。

串田は史人の前に水の入ったコップを置いた。氷は入っていない。冷たすぎない水。喉を刺激しない温度。史人がそれを口にしたときに、身体がびくっとしないように計算された温度だった。

「ありがとう」

史人は小さく言った。礼は言える。礼は評価ではない。礼を言うのに才能はいらない。

串田は頷くだけで、すぐに別の客の方へ向き直った。頷きの角度も短い。史人に礼を言わせるためではなく、史人が礼を言ってしまったことを恥にさせないための短さだった。

史人は水を一口飲んだ。喉がほどける。ほどけると同時に、自分がどれだけ乾いていたかが分かってしまう。乾きは、気づいた瞬間に痛みに変わる。史人は痛みを飲み込むようにして、もう一口飲んだ。

「ほらな。水飲ませてもらってる時点でアウトや」

米谷が勝手に決めつける。史人は言い返す元気もなく、ただ視線をカウンターの木目に落とした。木目には小さな傷がある。長い年月、たくさんの肘やグラスを受け止めてきた傷。その傷が、生活の歴史に見える。

「米谷さん、今日も元気やな」

史人はようやく言った。会話に乗るというより、受け流す。

「元気ちゃうで。仕事サボってきたから元気や」

米谷は胸を張った。自慢なのか、ただの冗談なのか分からない。分からないけれど、この店では分からないまま笑える。それが救いだった。仕事場では、言葉の裏を読まないと死ぬ。読み違えたら評価が落ちる。評価が落ちたら責任が増える。責任が増えたら眠れなくなる。眠れなくなったら、次はもっと読み違える。そういう循環の中で生きていると、冗談を冗談として受け取る機能が壊れる。

史人は、ゆっくり息を吐いた。吐いた息が肩を落とす。少しだけ。

串田が注文を取りに来た。史人が顔を上げる前に、串田が聞く。

「いつもの?」

いつもの、という言葉が、史人の胸を軽く叩いた。ここには史人の“いつも”がある。仕事のいつもではない、生活のいつも。仕事のいつもは、どんどん濃くなる。生活のいつもは、薄くて、だからこそ貴重だ。

史人は迷った。ビールの苦味が欲しい。喉に落ちる刺激が欲しい。刺激で自分を起こしたい。けれど刺激は、胃を荒らす。荒れた胃はまた眠りを奪う。

迷った時間は一瞬だった。

「ビール」

史人が言うと、串田は何も言わずに頷き、グラスを冷蔵庫から取り出した。冷えたガラスが曇り、白い息みたいな結露が浮かぶ。その曇りが、史人の視界を柔らかくした。

ビールが来るまでの数秒、史人は店内を見回した。客は多すぎない。満席ではないが、空気は埋まっている。埋まっている空気は落ち着く。空いている空気は怖い。空いていると、そこに自分の音が響く。自分の呼吸、自分の咳払い、自分の沈黙。沈黙は仕事の場でいつも責められてきた。何も言わないのは悪意と見なされる。反応が遅いのは無能と見なされる。沈黙は許されない。だから空いた空気が怖い。

宵だまりは、空気が埋まっている。誰かの生活が詰まっている。詰まっている生活は、史人にとって盾になる。

串田がビールを置いた。泡が細かい。グラスの縁に白い泡が張り付く。史人はそれを見て、やっと喉の奥が欲しがっていることに気づいた。

史人は一口飲んだ。苦味と冷たさが舌を刺し、すぐに喉を滑り落ちていく。胃の奥が熱を受け取って、身体の中心が少しだけ定まる。定まると、肩の力が抜ける。抜けた瞬間に、疲れが重力を増す。疲れが増すのに、ここではそれが怖くない。疲れていることを隠さなくていいからだ。隠さなくていいだけで、人は救われる。

「今日は何、また客先でやられたんか」

米谷が聞いてくる。酒の席でしか許されない無遠慮さだ。史人は答えたくなかった。答えたら現実が形になる。形になると逃げられない。逃げるためにここに来たのに、ここで現実を固めたくない。

史人は曖昧に笑って、グラスの水滴を指でなぞった。水滴が指に冷たく、肌を確かめる。

「いつも通りです」

「いつも通りが一番こわいんやで」

米谷が勝手に深いことを言って、自分で頷いた。深いのか浅いのか分からない。分からないまま、史人の胸にひっかかる。いつも通りは怖い。いつも通りは、変わらないということだ。変わらないということは、ずっとこのままということだ。ずっとこのまま、通知音に怯えて、終電に追われて、恋愛も生活も置き去りにして。

史人は、その思考をビールで流した。苦味を飲み込んで、頭の中の声を黙らせる。

串田が厨房で卵を割る音がした。ぱちん、と小さく乾いた音。続いて出汁の匂いが立ち上がる。昆布と鰹の匂いが油の匂いに混ざると、空気が一段柔らかくなる。史人はその匂いだけで、胃が動くのを感じた。

「兄ちゃん、だし巻き食べ」

串田がいつもより少しだけ大きい声で言った。注文を取るというより、提案というより、指示に近い。でも嫌な指示ではない。身体を守るための指示だ。

史人は頷いた。言葉で返すのが面倒ではなく、頷きで十分通じる関係がここにある。

「だし巻き、ください」

史人が言うと、米谷がすかさず手を挙げた。

「俺も。あと、唐揚げ」

「太るで」

串田が言い返す。言い返し方が雑で、それがこの店の温度だった。怒鳴らない、押し付けない、でも遠慮もしない。距離が近いのに、息苦しくない距離。

史人はそのやり取りを聞きながら、少しだけ笑った。笑ったというより、口元が緩んだ。緩むだけで、胸の奥が軽くなる。軽くなったことが、怖い。こんなに簡単に軽くなるなら、今までの苦しさは何だったのかと思ってしまう。苦しさに意味がなかったみたいで、怖い。

史人は自分の笑いを誤魔化すように、ビールをもう一口飲んだ。泡が唇に触れ、舌で拭う。味が残る。残る味が、生活の味に近い。

だし巻きが焼ける音が、厨房から聞こえる。じゅわ、と小さく油が鳴き、卵が巻かれるたびに柔らかい音がする。串田の手は早いが雑ではない。巻き終わっただし巻きをまな板に置く音がして、包丁が入る。刃が入る音が、柔らかい。硬いものを切る音ではない。柔らかいものを壊さないように分ける音だ。

史人はその音に、妙に安心した。仕事で扱うものはいつも硬い。硬い仕様、硬い期限、硬い責任。柔らかいものは守られない。柔らかいものは押し潰される。だから柔らかい音がするだけで、胸の奥が温かくなる。

串田が皿を置いた。湯気が立つ。卵の表面は薄く焼き色がつき、箸を入れなくても柔らかさが分かる。大根おろしが添えられていて、薄口醤油の香りがふわりと上がる。湯気の中に、出汁の匂いが濃い。

史人は箸を持った。箸先が少し震える。疲れなのか、緊張なのか分からない。震えをごまかすように、史人はだし巻きに箸を入れた。

じゅわ、と音がした気がした。出汁が滲む。湯気が顔に触れ、頬が温まる。史人はひと口を口に運んだ。舌に触れた瞬間、熱が広がる。出汁が先に来て、そのあと卵の甘みが追いかける。甘いというより、丸い。角がない。

史人の喉が勝手に動いた。飲み込むとき、胸の奥がきしむように痛くなる。痛いのは、温かいものが入ってきたからだ。ずっと冷たいものばかり入れてきた胃に、急に温かいものが落ちると、拒否する代わりに痛みで受け止める。

史人は目を伏せた。涙が出るほどではない。でも、泣きそうになる種類の温度だった。

米谷が横から箸を伸ばし、自分の皿が来る前に史人のだし巻きを狙った。史人は反射で皿を引く。

「人のやつ取るな」

「ケチ」

米谷が笑う。笑い声が大きくて、店の空気が揺れる。その揺れが、史人の胸の痛みを薄めた。痛みを笑いで誤魔化すのはずるい。でも、ずるくていい。ここではずるくても許される気がした。

串田が米谷の皿も置いた。米谷は自分のだし巻きを見て、満足そうに頷く。

「これ食うために生きてるねん」

米谷の言葉は大げさで、でも嘘ではない。史人はその大げささに救われた。生きる理由は、仕事だけじゃなくていい。だし巻きでもいい。そんなこと、当たり前のはずなのに、史人は忘れていた。

串田が唐揚げを揚げる音がし、油の匂いが濃くなる。別のテーブルから笑い声が上がり、誰かが「それはあかん」と大阪らしく突っ込む。突っ込みの音が心地いい。正しさではなく、笑いで修正される世界。

史人はだし巻きをもう一口食べた。今度は大根おろしを添えた。さっぱりした辛味が舌を刺し、出汁の甘さを引き締める。引き締まると、口の中が整う。整うと、呼吸も整う。

史人は気づいた。自分の呼吸が、いつの間にか深くなっている。胸の奥まで空気が入ってくる。入ってくる空気が怖くない。怖くないのは、周囲の音が盾になっているからだ。笑い声と氷の音と換気扇の唸りが、史人の鼓動を隠してくれる。

史人は伏せていた会社用スマホに視線を落とした。黒い画面は変わらない。震えていない。鳴っていない。それだけで、今夜は勝てた気がした。何に勝ったのか分からないのに、勝てたと思えることが、少しだけ嬉しい。

嬉しいという感情が、久しぶりすぎて、史人は戸惑った。嬉しいことがあると、次にそれを奪われる気がする。奪われる前に自分から手放してしまえば、傷が浅い。そんな癖が身についていた。

史人はその癖を自覚し、苦笑いをした。苦笑いは、笑いの形を借りた溜め息だ。それでも溜め息よりはましだ。溜め息は疲れを固定する。苦笑いは、疲れに少しだけ隙間を作る。

「兄ちゃん、ちょっとマシな顔なったやん」

米谷が言った。史人の顔を見ているようで、見ていない。見ていないふりをして、ちゃんと見ている。宵だまりの優しさは、こういう雑な観察でできている。

史人は返事に困って、ビールを一口飲んだ。泡が減り、苦味が濃くなる。胃が少し熱を持つ。

「まだ死んでます」

史人が言うと、米谷は大きく頷いた。

「それでええ。死んでる言えるうちは生きてる」

言葉は乱暴なのに、変に優しい。優しさに慣れていない史人の胸が、また少し痛んだ。

串田が黙って、史人の前の水のコップを少しだけ手前に寄せた。史人が飲みやすい位置。史人は礼を言わずに水を飲んだ。礼を言うと、礼を言える自分に責任を持たなければいけない気がした。責任はもう要らない。ここでは、ただ飲めばいい。

水が喉を冷やし、胃の熱を鎮める。その鎮まり方が、薬みたいに効く。薬みたいに効くのに、ただの水だ。生活の中にある水が、こんなに効くことを、史人は忘れていた。

店内の笑い声がまたひとつ弾け、グラスの氷が鳴った。だし巻きの皿は少しずつ空になり、湯気が薄くなる。湯気が薄くなると、夜が濃くなる。夜が濃くなるのに、史人の胸はさっきより少しだけ軽い。

史人は気づかないふりをしながら、もう一度笑った。今度は鈍い笑いだった。鋭さも華やかさもない。ただ、疲れた人間が息を吐くための笑い。

その笑いが、宵だまりの空気に溶けていく。溶けていくのを見て、史人は小さく思った。

ここにいる間だけは、人間に戻れるかもしれない。

その思いは、願いというより、確認だった。確認できる夜があるだけで、史人は明日を迎えられる。明日が地獄でも、宵だまりがあるなら、地獄の手前で息を吸える。そういう場所があることが、史人にとっては生存装置だった。

史人は伏せたスマホから目を離し、だし巻きの最後の一切れを口に運んだ。出汁の温度が舌に残り、その温度が胸の奥へ落ちていく。温度が落ちるたびに、何かが少しだけ緩む。緩んだ隙間から、鈍い笑いがまたひとつこぼれた。

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