LOGIN宵だまりの中は、外より少しだけ時間が遅かった。暖色の照明が空気を柔らかくして、壁の短冊メニューの文字まで丸く見せる。換気扇の低い唸りが天井に張り付き、氷がグラスに当たる乾いた音が、ときどきその唸りを裂く。誰かの笑い声が跳ねて、すぐに油の匂いと出汁の匂いに吸い込まれる。その雑多さが、史人の胸に溜まった硬いものを少しずつほぐしていく。
史人はカウンターの端の席に腰を落ち着けた。椅子の木が少しだけ軋む。背もたれはない。背筋を預けられない椅子の方が、今の史人には合っていた。預けた瞬間に崩れてしまう気がして、崩れた自分を見られるのが怖い。
史人は会社用スマホを伏せたまま、指先で位置を確かめた。伏せても重さは消えない。黒い画面は、まるで虫の背中みたいに鈍く光を吸う。史人はその背中を見ないようにして、店内の音に意識を向けた。厨房で包丁がまな板を叩く音がして、油が弾ける。誰かが笑って、誰かが咳払いをする。空気が生きている。仕事場の空気とは違う。仕事場は、空気そのものが評価の匂いをしている。ここは評価ではなく、生活の匂いがする。
「兄ちゃん、今日も目ぇ死んでるな」
米谷正志の声が、隣から飛んできた。中年の男で、背が高いわけでもないのに声だけが大きい。肩で笑って、勝手に距離を詰めてくる。宵だまりの常連は、こういう雑な優しさでできている。
史人は反射で口角を上げかけて、すぐに戻した。笑うための筋肉が固まっている。意識すると余計にぎこちない。
「生きてます」
史人が言うと、米谷は鼻で笑った。
「それ、死んでるやつが言うやつや」
米谷はグラスを揺らし、氷を鳴らした。ハイボールの薄い香りがふわりと漂う。史人はその匂いを嗅いだだけで、喉の奥が乾いていることに気づいた。
カウンターの向こうで串田剛が手を止めた。店主は、派手な動きはしない。無駄な愛想も振りまかない。それでも視線だけで客の状態を拾う。拾ったものを口にせず、実務で返す。
串田は史人の前に水の入ったコップを置いた。氷は入っていない。冷たすぎない水。喉を刺激しない温度。史人がそれを口にしたときに、身体がびくっとしないように計算された温度だった。
「ありがとう」
史人は小さく言った。礼は言える。礼は評価ではない。礼を言うのに才能はいらない。
串田は頷くだけで、すぐに別の客の方へ向き直った。頷きの角度も短い。史人に礼を言わせるためではなく、史人が礼を言ってしまったことを恥にさせないための短さだった。
史人は水を一口飲んだ。喉がほどける。ほどけると同時に、自分がどれだけ乾いていたかが分かってしまう。乾きは、気づいた瞬間に痛みに変わる。史人は痛みを飲み込むようにして、もう一口飲んだ。
「ほらな。水飲ませてもらってる時点でアウトや」
米谷が勝手に決めつける。史人は言い返す元気もなく、ただ視線をカウンターの木目に落とした。木目には小さな傷がある。長い年月、たくさんの肘やグラスを受け止めてきた傷。その傷が、生活の歴史に見える。
「米谷さん、今日も元気やな」
史人はようやく言った。会話に乗るというより、受け流す。
「元気ちゃうで。仕事サボってきたから元気や」
米谷は胸を張った。自慢なのか、ただの冗談なのか分からない。分からないけれど、この店では分からないまま笑える。それが救いだった。仕事場では、言葉の裏を読まないと死ぬ。読み違えたら評価が落ちる。評価が落ちたら責任が増える。責任が増えたら眠れなくなる。眠れなくなったら、次はもっと読み違える。そういう循環の中で生きていると、冗談を冗談として受け取る機能が壊れる。
史人は、ゆっくり息を吐いた。吐いた息が肩を落とす。少しだけ。
串田が注文を取りに来た。史人が顔を上げる前に、串田が聞く。
「いつもの?」
いつもの、という言葉が、史人の胸を軽く叩いた。ここには史人の“いつも”がある。仕事のいつもではない、生活のいつも。仕事のいつもは、どんどん濃くなる。生活のいつもは、薄くて、だからこそ貴重だ。
史人は迷った。ビールの苦味が欲しい。喉に落ちる刺激が欲しい。刺激で自分を起こしたい。けれど刺激は、胃を荒らす。荒れた胃はまた眠りを奪う。
迷った時間は一瞬だった。
「ビール」
史人が言うと、串田は何も言わずに頷き、グラスを冷蔵庫から取り出した。冷えたガラスが曇り、白い息みたいな結露が浮かぶ。その曇りが、史人の視界を柔らかくした。
ビールが来るまでの数秒、史人は店内を見回した。客は多すぎない。満席ではないが、空気は埋まっている。埋まっている空気は落ち着く。空いている空気は怖い。空いていると、そこに自分の音が響く。自分の呼吸、自分の咳払い、自分の沈黙。沈黙は仕事の場でいつも責められてきた。何も言わないのは悪意と見なされる。反応が遅いのは無能と見なされる。沈黙は許されない。だから空いた空気が怖い。
宵だまりは、空気が埋まっている。誰かの生活が詰まっている。詰まっている生活は、史人にとって盾になる。
串田がビールを置いた。泡が細かい。グラスの縁に白い泡が張り付く。史人はそれを見て、やっと喉の奥が欲しがっていることに気づいた。
史人は一口飲んだ。苦味と冷たさが舌を刺し、すぐに喉を滑り落ちていく。胃の奥が熱を受け取って、身体の中心が少しだけ定まる。定まると、肩の力が抜ける。抜けた瞬間に、疲れが重力を増す。疲れが増すのに、ここではそれが怖くない。疲れていることを隠さなくていいからだ。隠さなくていいだけで、人は救われる。
「今日は何、また客先でやられたんか」
米谷が聞いてくる。酒の席でしか許されない無遠慮さだ。史人は答えたくなかった。答えたら現実が形になる。形になると逃げられない。逃げるためにここに来たのに、ここで現実を固めたくない。
史人は曖昧に笑って、グラスの水滴を指でなぞった。水滴が指に冷たく、肌を確かめる。
「いつも通りです」
「いつも通りが一番こわいんやで」
米谷が勝手に深いことを言って、自分で頷いた。深いのか浅いのか分からない。分からないまま、史人の胸にひっかかる。いつも通りは怖い。いつも通りは、変わらないということだ。変わらないということは、ずっとこのままということだ。ずっとこのまま、通知音に怯えて、終電に追われて、恋愛も生活も置き去りにして。
史人は、その思考をビールで流した。苦味を飲み込んで、頭の中の声を黙らせる。
串田が厨房で卵を割る音がした。ぱちん、と小さく乾いた音。続いて出汁の匂いが立ち上がる。昆布と鰹の匂いが油の匂いに混ざると、空気が一段柔らかくなる。史人はその匂いだけで、胃が動くのを感じた。
「兄ちゃん、だし巻き食べ」
串田がいつもより少しだけ大きい声で言った。注文を取るというより、提案というより、指示に近い。でも嫌な指示ではない。身体を守るための指示だ。
史人は頷いた。言葉で返すのが面倒ではなく、頷きで十分通じる関係がここにある。
「だし巻き、ください」
史人が言うと、米谷がすかさず手を挙げた。
「俺も。あと、唐揚げ」
「太るで」
串田が言い返す。言い返し方が雑で、それがこの店の温度だった。怒鳴らない、押し付けない、でも遠慮もしない。距離が近いのに、息苦しくない距離。
史人はそのやり取りを聞きながら、少しだけ笑った。笑ったというより、口元が緩んだ。緩むだけで、胸の奥が軽くなる。軽くなったことが、怖い。こんなに簡単に軽くなるなら、今までの苦しさは何だったのかと思ってしまう。苦しさに意味がなかったみたいで、怖い。
史人は自分の笑いを誤魔化すように、ビールをもう一口飲んだ。泡が唇に触れ、舌で拭う。味が残る。残る味が、生活の味に近い。
だし巻きが焼ける音が、厨房から聞こえる。じゅわ、と小さく油が鳴き、卵が巻かれるたびに柔らかい音がする。串田の手は早いが雑ではない。巻き終わっただし巻きをまな板に置く音がして、包丁が入る。刃が入る音が、柔らかい。硬いものを切る音ではない。柔らかいものを壊さないように分ける音だ。
史人はその音に、妙に安心した。仕事で扱うものはいつも硬い。硬い仕様、硬い期限、硬い責任。柔らかいものは守られない。柔らかいものは押し潰される。だから柔らかい音がするだけで、胸の奥が温かくなる。
串田が皿を置いた。湯気が立つ。卵の表面は薄く焼き色がつき、箸を入れなくても柔らかさが分かる。大根おろしが添えられていて、薄口醤油の香りがふわりと上がる。湯気の中に、出汁の匂いが濃い。
史人は箸を持った。箸先が少し震える。疲れなのか、緊張なのか分からない。震えをごまかすように、史人はだし巻きに箸を入れた。
じゅわ、と音がした気がした。出汁が滲む。湯気が顔に触れ、頬が温まる。史人はひと口を口に運んだ。舌に触れた瞬間、熱が広がる。出汁が先に来て、そのあと卵の甘みが追いかける。甘いというより、丸い。角がない。
史人の喉が勝手に動いた。飲み込むとき、胸の奥がきしむように痛くなる。痛いのは、温かいものが入ってきたからだ。ずっと冷たいものばかり入れてきた胃に、急に温かいものが落ちると、拒否する代わりに痛みで受け止める。
史人は目を伏せた。涙が出るほどではない。でも、泣きそうになる種類の温度だった。
米谷が横から箸を伸ばし、自分の皿が来る前に史人のだし巻きを狙った。史人は反射で皿を引く。
「人のやつ取るな」
「ケチ」
米谷が笑う。笑い声が大きくて、店の空気が揺れる。その揺れが、史人の胸の痛みを薄めた。痛みを笑いで誤魔化すのはずるい。でも、ずるくていい。ここではずるくても許される気がした。
串田が米谷の皿も置いた。米谷は自分のだし巻きを見て、満足そうに頷く。
「これ食うために生きてるねん」
米谷の言葉は大げさで、でも嘘ではない。史人はその大げささに救われた。生きる理由は、仕事だけじゃなくていい。だし巻きでもいい。そんなこと、当たり前のはずなのに、史人は忘れていた。
串田が唐揚げを揚げる音がし、油の匂いが濃くなる。別のテーブルから笑い声が上がり、誰かが「それはあかん」と大阪らしく突っ込む。突っ込みの音が心地いい。正しさではなく、笑いで修正される世界。
史人はだし巻きをもう一口食べた。今度は大根おろしを添えた。さっぱりした辛味が舌を刺し、出汁の甘さを引き締める。引き締まると、口の中が整う。整うと、呼吸も整う。
史人は気づいた。自分の呼吸が、いつの間にか深くなっている。胸の奥まで空気が入ってくる。入ってくる空気が怖くない。怖くないのは、周囲の音が盾になっているからだ。笑い声と氷の音と換気扇の唸りが、史人の鼓動を隠してくれる。
史人は伏せていた会社用スマホに視線を落とした。黒い画面は変わらない。震えていない。鳴っていない。それだけで、今夜は勝てた気がした。何に勝ったのか分からないのに、勝てたと思えることが、少しだけ嬉しい。
嬉しいという感情が、久しぶりすぎて、史人は戸惑った。嬉しいことがあると、次にそれを奪われる気がする。奪われる前に自分から手放してしまえば、傷が浅い。そんな癖が身についていた。
史人はその癖を自覚し、苦笑いをした。苦笑いは、笑いの形を借りた溜め息だ。それでも溜め息よりはましだ。溜め息は疲れを固定する。苦笑いは、疲れに少しだけ隙間を作る。
「兄ちゃん、ちょっとマシな顔なったやん」
米谷が言った。史人の顔を見ているようで、見ていない。見ていないふりをして、ちゃんと見ている。宵だまりの優しさは、こういう雑な観察でできている。
史人は返事に困って、ビールを一口飲んだ。泡が減り、苦味が濃くなる。胃が少し熱を持つ。
「まだ死んでます」
史人が言うと、米谷は大きく頷いた。
「それでええ。死んでる言えるうちは生きてる」
言葉は乱暴なのに、変に優しい。優しさに慣れていない史人の胸が、また少し痛んだ。
串田が黙って、史人の前の水のコップを少しだけ手前に寄せた。史人が飲みやすい位置。史人は礼を言わずに水を飲んだ。礼を言うと、礼を言える自分に責任を持たなければいけない気がした。責任はもう要らない。ここでは、ただ飲めばいい。
水が喉を冷やし、胃の熱を鎮める。その鎮まり方が、薬みたいに効く。薬みたいに効くのに、ただの水だ。生活の中にある水が、こんなに効くことを、史人は忘れていた。
店内の笑い声がまたひとつ弾け、グラスの氷が鳴った。だし巻きの皿は少しずつ空になり、湯気が薄くなる。湯気が薄くなると、夜が濃くなる。夜が濃くなるのに、史人の胸はさっきより少しだけ軽い。
史人は気づかないふりをしながら、もう一度笑った。今度は鈍い笑いだった。鋭さも華やかさもない。ただ、疲れた人間が息を吐くための笑い。
その笑いが、宵だまりの空気に溶けていく。溶けていくのを見て、史人は小さく思った。
ここにいる間だけは、人間に戻れるかもしれない。
その思いは、願いというより、確認だった。確認できる夜があるだけで、史人は明日を迎えられる。明日が地獄でも、宵だまりがあるなら、地獄の手前で息を吸える。そういう場所があることが、史人にとっては生存装置だった。
史人は伏せたスマホから目を離し、だし巻きの最後の一切れを口に運んだ。出汁の温度が舌に残り、その温度が胸の奥へ落ちていく。温度が落ちるたびに、何かが少しだけ緩む。緩んだ隙間から、鈍い笑いがまたひとつこぼれた。
薄い眠りは、崩れるときの音がない。史人は目を開けた瞬間、自分がどこにいるのかを一拍遅れて思い出した。天井の白さ。カーテンの隙間から差す、夜明け前の青い光。エアコンの送風が止まったあとの静けさ。静けさの中に、もう一つの呼吸が混ざっている。隣で、律が眠っていた。平気な顔で、という言葉がそのまま当てはまる寝顔だった。眉間に力は入っていない。口元も緩みすぎていない。眠りに落ちるときの言葉は短かったのに、眠りそのものは深いらしい。胸がゆっくり上下して、吐く息が規則正しく布団を揺らす。史人は視線を逸らした。寝顔を見続けると、昨夜が現実になってしまう気がした。現実になったら、責任が生まれる。責任が生まれたら、今この瞬間の静けさが壊れる。壊れるのが怖くて、史人は布団の中で指先を動かし、自分の体のどこが熱く、どこが冷えているかを確かめた。身体は妙に軽かった。軽いのに、胸の奥だけが重い。重さの形がいつもと違う。仕事の重さではない。仕事の重さは肩に乗る。首を絞める。眠りを奪う。今の重さは、腹の奥に沈む。息を吸うたびに揺れる。揺れて、名前をつけろと迫ってくる。史人は息を止めた。止めたまま、布団から抜け出した。フローリングが足裏に冷たい。冷たい床が、現実を引き戻す。現実に引き戻されるたびに、昨夜が遠くなる。遠くなってほしい。遠くなったら楽になる。でも遠くなりすぎたら、あの熱が嘘になる気がして怖い。史人は洗面所へ向かった。狭い廊下を数歩で抜ける。壁にぶつかりそうな距離感が、ひとり暮らしの生活を思い出させる。誰にも合わせなくていい距離。誰にも触れられない距離。安全な距離。洗面所のスイッチを入れると、白い光が弾けた。蛍光灯の光は容赦がない。宵だまりの暖色と違って、肌も疲れも全部さらけ出す。史人は一瞬目を細め、鏡を見る勇気が出ないまま蛇口をひねった。水の音がする。透明な音。昨日の夜のどんな音とも違う。どんな匂いとも違う。水は現実だ。水は嘘をつかない。史人は両手で水をすくい、顔を洗った。冷たさが皮膚に刺さり、頭の奥が少しだけ冴える。冴えたぶん、胸の重さがはっきりする。史人は顔を上げた。鏡の中に、自分がいた。大原史人、二十七歳。社会人という年齢が、やけに現
ドアが閉まった瞬間、外の夜が薄い膜になって切り離された。玄関の鍵が噛み合う小さな音が、部屋の狭さに反響して、史人の胸の奥まで届く。宵だまりの暖色はもう背中にない。代わりに、天井灯の白さが生活の輪郭をさらけ出している。洗剤の匂いと、乾いた埃の匂い。小さな流し台の金属の冷たさ。脱ぎっぱなしのスリッパ。畳む気力を失ったまま椅子に掛けられたジャケット。ひとり暮らしの匂いは、律に言われた通りだった。狭いのに、妙に広く感じる。広く感じるのは、隠せる場所がないからだ。何もない部屋は、言い訳を置けない。言い訳を置けない場所に、今、律がいる。それだけで史人は落ち着かない。落ち着かないことを悟られたくなくて、史人は靴を揃えるふりをして、視線を床に落とした。律は玄関に立ったまま、部屋の奥を見た。観察というより、空気を吸い込むみたいに見ている。宵だまりでは空気に溶けていた男が、ここでは溶けない。溶けない分だけ、存在が濃くなる。史人は喉が乾いていることに気づいた。宵だまりで飲んだ水では足りない。足りないのは水だけではない気がして、史人はそれを否定するように唇を噛んだ。痛みが現実を引き戻す。仕事の現実ではなく、今夜の現実に。史人は部屋の奥へ歩き、靴下のままフローリングを踏んだ。冷たい。冷たい床が足裏に貼りつき、身体の中の熱を際立たせる。背後で律の足音がついてくる。ついてくる足音は静かで、静かなのに逃げ道がない。史人はテーブルの上に置いたままだった私用スマホを反射で見てしまい、すぐに視線を逸らした。会社用スマホは鞄の中だ。宵だまりのカウンターに伏せた時と同じように、ここでも伏せたい。伏せれば、少しだけ自分の鼓動が静かになる気がする。律が背中越しに囁く。「史人さん」名前を呼ばれると、背筋が薄く粟立つ。宵だまりで呼ばれたときよりずっと近い距離で、声が耳の後ろに触れる。触れた声が、史人の中の乾いた部分を濡らすみたいに広がる。濡れると、余計に怖い。濡れたら、もう乾いたふりができない。史人は振り返らずに言った。「狭いけど」それは言い訳だった。狭いから仕方ない。距離が近いのは部屋のせい。そう言いたかった。言い訳の薄さに、自分で苦
宵だまりの灯りは、人の輪郭を少しだけ柔らかくする。暖色の照明に照らされると、疲れた顔も眠そうな目も、どこか冗談みたいに見える。だから史人はこの店でだけ、社畜の鎧の継ぎ目を緩められる。それが救いで、同時に怖かった。緩めた継ぎ目から、自分の本音が漏れそうになるからだ。閉店の時間は決まっていないようで決まっている。串田が「そろそろ」と言わずとも、空気がそうなる。笑い声が一段落して、グラスを置く音が増える。換気扇の唸りだけが変わらず、店の終わりを知らせる鐘みたいに鳴っている。米谷が最後のハイボールを煽って、派手にため息をついた。ため息はいつもより大きく、演技が混じっている。「明日も早いのに、なんで飲んでまうんやろな」米谷が言うと、隣の常連が笑った。「それ言うたら飲まれへんやろ」律も笑った。笑い声は軽い。軽いのに、頬の赤みがほんの少し濃い。さっき水を飲ませた後の落ち着きは戻っているが、アルコールの熱が肌の下でじわじわと育っているのが分かる。ハイボールのグラスの中で氷が少し溶け、音が鈍くなっている。鈍い音が、夜更けの粘度を増やしていた。史人は会計を済ませようと財布を出した。いつも通りの動きだ。店で無駄に格好をつける気はない。けれど今夜は、隣に律がいる。それだけで、財布の開け方が妙にぎこちなくなる気がして、史人は手元を見ないようにした。串田がレジに立ち、史人の方を一瞥する。視線は短いが、必要な情報を含んでいる。史人が飲んだ量、食べたもの、疲れ具合、そして隣にいる律の酔い具合。串田はそれを全部、言葉にしないまま把握する。把握して、必要なことだけをする。串田は史人に会計額を告げ、史人が出した紙幣を受け取った。釣り銭を返す指先が早い。指先が早いのに丁寧だ。宵だまりの生活は、こういう手の記憶でできている。米谷が立ち上がり、よろけるふりをした。「律くん、気をつけや。兄ちゃん、送ったってな」米谷がわざとらしく言う。わざとらしさが、この店の優しさの形だ。真面目に言ったら、踏み込みになってしまう。踏み込むと、息苦しくなる。だから茶化す。茶化して、必要な線だけ引く。史人は即座に否定したか
宵だまりの夜は、遅くなるほど柔らかくなる。客の声は少しずつ丸くなり、笑い声は角が取れて、氷の音に溶ける。油の匂いは揚げ物の甘さを含み、出汁の匂いは湯気と一緒に天井へ逃げる。換気扇の唸りだけが変わらず低く、店の骨格を支えていた。史人はカウンターの端で、空いたグラスを指先でなぞっていた。グラスの外側に残った結露の跡が、指の腹に冷たい線を引く。冷たさがあると、自分の輪郭がまだここにあると確かめられる。仕事の場では輪郭が薄くなる。名前も顔も、結局は「対応する人間」として一括りにされる。宵だまりでは、輪郭が少しだけ戻る。戻ると同時に、余計なものも見えてしまう。律は二つ隣で、ハイボールを二杯目にしていた。最初に入ってきたときの余裕は変わらないように見える。笑い方も声の高さも変わらない。けれど、飲む速度が上がっている。グラスが空になるまでが短い。短いのに、雑に飲まない。氷が歯に当たるような飲み方をしない。舌の上で味を確かめるように喉へ落とす。丁寧さが、逆に不安を呼ぶ。丁寧なまま急ぐ人間は、何かから逃げている。「律くん、いけるんかそれ」米谷が笑いながら言った。米谷の声はいつも大きいが、今は酔いでさらに大きい。テーブル席の方でも笑い声が上がり、宵だまりの狭い空間に声が重なる。声の層が厚くなるほど、史人は少しだけ楽になる。自分の鼓動が、他人の音に隠れるからだ。律は肩をすくめて、さらりと言った。「いけるいける」言葉は軽い。軽いのに、目が笑っていない瞬間がある。笑っていない目が、すぐに笑う目に戻る。戻り方が速すぎる。速いものは、いつか破れる。史人は仕事で、速すぎる笑顔が壊れる瞬間を何度も見てきた。串田がカウンターの向こうで、さりげなく律のグラスの位置を見た。視線は短い。すぐに手元へ戻る。気づいていても詮索しない。それが宵だまりのやり方だ。史人はそのやり方に救われてきた。救われてきたのに、今夜はそのやり方だけでは足りない気がした。律が笑って、米谷の話に適当に相槌を打つ。適当なのに場が崩れない。崩れないのに、律の指先だけが落ち着かない。グラスの底を親指で撫で、箸を置き直し、膝の上で指を開いて閉じる。癖だと片付けるには、動きが細かすぎる。落ち着かな
宵だまりの空気が少しだけ温まってきたころだった。だし巻きの皿が空に近づき、ビールの泡が薄くなると、店内の雑音がひとつの膜みたいに重なる。笑い声は遠くならず、近すぎもしない。誰かの会話の断片が耳に触れては溶け、氷の音がそのたびに輪郭を整える。史人はその膜の中で、ようやく肩の位置を思い出していた。上がりっぱなしの肩を少し下ろしても、誰にも責められない場所だと身体が理解し始めていた。カウンターの端で、史人はビールをひと口飲んだ。苦味が舌に残る。その苦味を飲み込むと、胃の奥が温かくなる。温かくなるだけで、心の奥に張り付いていた緊張が数ミリ剥がれる。剥がれると同時に、剥がれた下にある空白が見えそうになって、史人は視線を木目へ落とした。空白を見ると、今夜の救いが嘘みたいに思えてしまう。「兄ちゃん、ほんまに人間戻ってきたな」米谷が隣から囁くように言って、すぐにいつもの大きさで笑った。笑い声が店の壁に当たって返り、また吸い込まれる。史人は返事の代わりに、グラスを軽く持ち上げた。乾杯の形を作ると、米谷も勝手にグラスを寄せてくる。カチンと氷が触れ合い、澄んだ音がした。音がするだけで、胸の中のざわつきが少し整う。串田がカウンターの向こうで皿を拭いていた。濡れ布巾が陶器を擦る音は、仕事のキーボードよりずっと優しい。指先に伝わる摩擦が想像できる音だ。想像できることが、生活の感覚だった。引き戸が開いたのは、そのときだ。外の冷気が一瞬、店内の温度を押し分けた。暖簾が揺れ、湿った夜の匂いが入ってくる。雨上がりの土とアスファルトの匂い。そこに、かすかな香水の気配が混ざった。強くはない。けれど、宵だまりの出汁と油の匂いに混ざると、やけに目立つ。史人は反射で入口を見た。男が立っていた。背は高い。派手な服ではないのに、妙に整って見える。髪は無造作に見えるのに、乱れている感じがしない。顔立ちは、ぱっと見はそこまで主張しない。しかし目が、印象を決めてしまう種類の目だった。軽く笑っているのに、奥の方が冷えている。冷えているというより、冷やしている。自分で温度を調整しているみたいな目。男は店内を見渡し、すぐに空気を掴んだ。掴み方が速い。初めての場所の
宵だまりの中は、外より少しだけ時間が遅かった。暖色の照明が空気を柔らかくして、壁の短冊メニューの文字まで丸く見せる。換気扇の低い唸りが天井に張り付き、氷がグラスに当たる乾いた音が、ときどきその唸りを裂く。誰かの笑い声が跳ねて、すぐに油の匂いと出汁の匂いに吸い込まれる。その雑多さが、史人の胸に溜まった硬いものを少しずつほぐしていく。史人はカウンターの端の席に腰を落ち着けた。椅子の木が少しだけ軋む。背もたれはない。背筋を預けられない椅子の方が、今の史人には合っていた。預けた瞬間に崩れてしまう気がして、崩れた自分を見られるのが怖い。史人は会社用スマホを伏せたまま、指先で位置を確かめた。伏せても重さは消えない。黒い画面は、まるで虫の背中みたいに鈍く光を吸う。史人はその背中を見ないようにして、店内の音に意識を向けた。厨房で包丁がまな板を叩く音がして、油が弾ける。誰かが笑って、誰かが咳払いをする。空気が生きている。仕事場の空気とは違う。仕事場は、空気そのものが評価の匂いをしている。ここは評価ではなく、生活の匂いがする。「兄ちゃん、今日も目ぇ死んでるな」米谷正志の声が、隣から飛んできた。中年の男で、背が高いわけでもないのに声だけが大きい。肩で笑って、勝手に距離を詰めてくる。宵だまりの常連は、こういう雑な優しさでできている。史人は反射で口角を上げかけて、すぐに戻した。笑うための筋肉が固まっている。意識すると余計にぎこちない。「生きてます」史人が言うと、米谷は鼻で笑った。「それ、死んでるやつが言うやつや」米谷はグラスを揺らし、氷を鳴らした。ハイボールの薄い香りがふわりと漂う。史人はその匂いを嗅いだだけで、喉の奥が乾いていることに気づいた。カウンターの向こうで串田剛が手を止めた。店主は、派手な動きはしない。無駄な愛想も振りまかない。それでも視線だけで客の状態を拾う。拾ったものを口にせず、実務で返す。串田は史人の前に水の入ったコップを置いた。氷は入っていない。冷たすぎない水。喉を刺激しない温度。史人がそれを口にしたときに、身体がびくっとしないように計算された温度だった。「ありがとう」