ログイン宵だまりの空気が少しだけ温まってきたころだった。だし巻きの皿が空に近づき、ビールの泡が薄くなると、店内の雑音がひとつの膜みたいに重なる。笑い声は遠くならず、近すぎもしない。誰かの会話の断片が耳に触れては溶け、氷の音がそのたびに輪郭を整える。史人はその膜の中で、ようやく肩の位置を思い出していた。上がりっぱなしの肩を少し下ろしても、誰にも責められない場所だと身体が理解し始めていた。
カウンターの端で、史人はビールをひと口飲んだ。苦味が舌に残る。その苦味を飲み込むと、胃の奥が温かくなる。温かくなるだけで、心の奥に張り付いていた緊張が数ミリ剥がれる。剥がれると同時に、剥がれた下にある空白が見えそうになって、史人は視線を木目へ落とした。空白を見ると、今夜の救いが嘘みたいに思えてしまう。
「兄ちゃん、ほんまに人間戻ってきたな」
米谷が隣から囁くように言って、すぐにいつもの大きさで笑った。笑い声が店の壁に当たって返り、また吸い込まれる。
史人は返事の代わりに、グラスを軽く持ち上げた。乾杯の形を作ると、米谷も勝手にグラスを寄せてくる。カチンと氷が触れ合い、澄んだ音がした。音がするだけで、胸の中のざわつきが少し整う。
串田がカウンターの向こうで皿を拭いていた。濡れ布巾が陶器を擦る音は、仕事のキーボードよりずっと優しい。指先に伝わる摩擦が想像できる音だ。想像できることが、生活の感覚だった。
引き戸が開いたのは、そのときだ。
外の冷気が一瞬、店内の温度を押し分けた。暖簾が揺れ、湿った夜の匂いが入ってくる。雨上がりの土とアスファルトの匂い。そこに、かすかな香水の気配が混ざった。強くはない。けれど、宵だまりの出汁と油の匂いに混ざると、やけに目立つ。
史人は反射で入口を見た。
男が立っていた。背は高い。派手な服ではないのに、妙に整って見える。髪は無造作に見えるのに、乱れている感じがしない。顔立ちは、ぱっと見はそこまで主張しない。しかし目が、印象を決めてしまう種類の目だった。軽く笑っているのに、奥の方が冷えている。冷えているというより、冷やしている。自分で温度を調整しているみたいな目。
男は店内を見渡し、すぐに空気を掴んだ。掴み方が速い。初めての場所のはずなのに、探る動作がない。迷いがない。そこが、史人には不思議だった。
「一人、いけますか」
男が言った。声は柔らかい。大阪の夜に溶けるような軽さがある。けれど軽すぎない。相手の反応を待つ余裕が含まれている。
串田が顔を上げ、短く頷いた。
「カウンター空いてる」
男は「助かる」と笑い、靴を揃えて上がった。その動作がやけに綺麗で、史人の指先がむず痒くなった。整った動作を見ると、仕事で鍛えた粗さが自分にあることを思い知らされる。思い知らされるのが嫌なのに、目が追ってしまう。
男はカウンターへ近づいてきた。史人の二つ隣に腰を下ろす。椅子に座るとき、背中が伸びて、肩が落ちる。座り方が、癖になるほど自然だった。腰の位置が安定している。まるで長時間、同じ姿勢で何かをしてきた人みたいだと史人は思う。
何か、という言葉の先を、史人はすぐに切った。疲れている夜に、他人の背景を想像すると、自分の空白が際立つ。だから想像しない。
「お、新顔やん」
米谷がすぐに絡みにいった。宵だまりの常連は距離の詰め方が雑だ。雑だが悪意はない。悪意がない雑さは、時々、人を救う。
男は驚くより先に笑った。
「新顔です」
語尾が素直だ。素直なのに、馴れ馴れしくない。絶妙な塩梅で、米谷の雑さを受け止めている。
「どこから来たん」
米谷がさらに詰める。普通なら嫌がる距離だ。男は嫌がらなかった。嫌がらないというより、先に舵を取った。
「このへんです。店、ええ匂いしますね」
男はそう言って串田を見た。目線の渡し方が自然だ。常連相手には柔らかく、店主には丁寧に寄せる。空気の読み方が上手い。
串田が眉を少しだけ動かした。感心したのか警戒したのか、史人には分からない。ただ串田はいつも通りの温度で返す。
「おすすめはだし巻き」
男の目が一瞬、明るくなった。ほんの一瞬だけ、目の奥の冷やしている部分が薄くなる。
「それ、ください。あと、ハイボール」
串田が頷き、グラスを用意する。氷が落ちる音がして、香りの薄いウイスキーが注がれる。男はその手元を見ながら、軽く息を吐いた。吐いた息が、心地よさのため息に見える。けれど史人は、その息にどこか引っかかった。吐き方が、休んでいる人の吐き方ではない。息を整えるための吐き方に近い。
史人は自分のビールを見た。泡はもうほとんどない。泡がないと、ビールはただの苦い水みたいに見える。それでも史人は飲む。飲むことが、今夜の自分の輪郭を保つ支えだ。
男が横を向いた。史人の視線と一瞬だけぶつかる。ぶつかった瞬間、男は笑った。笑い方が上手い。相手を試さない笑い方だ。試さないふりをしながら、自分が安全な位置にいる笑い方。
「そっちの兄ちゃん、静かやな」
男が言った。声が軽いせいで、責められている感じがしない。だから史人は答えてしまう。
「仕事で疲れてるだけです」
史人の声は自分でも平坦に聞こえた。平坦な声しか出せない夜がある。感情を乗せる余裕がない。
男は目を細めた。
「社畜やん」
米谷が横から噴き出す。
「社畜仲間やな、兄ちゃん」
史人は否定できない。否定したら嘘になる。嘘をつくのは仕事だけで十分だ。
「仲間増えたで」
米谷が勝手に喜ぶ。男は笑い、ハイボールをひと口飲んだ。氷が揺れ、グラスの縁が唇に触れる。その所作が、妙に丁寧で、史人の目が吸い寄せられた。
男の手が綺麗だった。手の甲の筋が浮かび、指が長い。爪は短く切られていて清潔だ。指先に余計なささくれがない。PCを触る指の荒れとは違う。史人の指先は、いつも乾いている。乾いた指先は、何かを掴んでもすり抜ける。男の指先は、掴んだものを離さない感じがした。
史人は自分の観察に驚き、視線を逸らした。観察する余裕があること自体が不思議だった。宵だまりの空気が、史人を少しだけ人間に戻している。その戻り方が、別の面倒を連れてくる。
「兄ちゃん、名前なんて言うん」
米谷が男に聞いた。相変わらず雑だ。男は笑って肩をすくめる。
「律」
短い。余計な説明がない。名前だけで成立させる言い方だ。
「りつ」
米谷が復唱し、すぐに笑う。
「男前の名前やな」
律は「そうなん」と軽く返し、またハイボールを飲んだ。初めて来た店で、こんなに自然に飲めるのかと史人は思う。自然に見えるだけかもしれない。自然に見せるのが上手いのかもしれない。そういう人間を、史人は仕事で何人も見てきた。笑顔の下で爪を立てる人間。明るい声で責任を押し付ける人間。律の笑い方には、それとは違う種類の爪がある気がした。自分のために爪を立てている爪だ。
串田がだし巻きを運んできた。湯気が立つ。出汁の匂いが一段濃くなる。皿の上の卵は、表面がしっとりしていて、焼き色は薄い。大根おろしと薄口醤油が添えられている。
律は目を丸くした。
「うわ、これ…」
声が、子どもみたいだった。驚きが素直に出ている。さっきまでの余裕が一瞬ほどける。そのほどけ方が可笑しくて、史人の胸の奥が少し温まった。温まったのが悔しくて、史人はビールを飲んだ。
律は箸を持ち、だし巻きにそっと入れた。箸を入れる角度が、料理を壊さない角度だ。卵がふわりと割れ、出汁がじゅわっと滲む。
「やば」
律は小さく言って、それを口に運んだ。噛んだ瞬間、目を閉じる。長く閉じない。けれど閉じた一瞬に、身体が正直に喜んでいるのが分かる。
「ほどける」
律は呟いた。その言い方が、妙に綺麗だった。誰かに聞かせるための言葉ではなく、自分の中で確かめる言葉だった。
米谷が自分の皿を覗き込みながら笑う。
「兄ちゃん、だし巻きに惚れたんか」
律は即座に軽口に戻った。
「惚れた。だし巻き、優しい。これ、今日のMVP」
MVPという単語が宵だまりに似合わなくて、米谷がまた笑った。串田が鼻で笑い、返す。
「だし巻きに評価つけるな」
その言葉は冗談のはずなのに、史人の胸に小さく刺さった。評価。仕事の世界の単語。宵だまりには似合わない単語だ。似合わないのに、律が持ち込んだ。無意識に。
律は肩をすくめた。
「評価ちゃう。感想」
軽く言う。軽く言いながら、律の目が一瞬だけ泳いだ。泳いだのは、串田の言葉を受けたからかもしれない。史人はそれを見て、胸の奥がざわついた。今のが何だったのか、言語化できないざわつき。言語化できないまま、視線だけが律に吸い寄せられる。
律はだし巻きをもう一口食べ、ハイボールを飲んだ。飲む速度が少しずつ上がる。上がっているのに、酔っている雰囲気を出さない。笑い声の高さも変えない。変えないまま、指先だけが忙しい。箸を置く位置を何度も直し、グラスの底を指でなぞる。癖なのか、落ち着かなさなのか分からない。
史人は自分のビールを見た。自分も同じだ。落ち着かない。けれど史人の落ち着かなさは、通知音の幻から来る。律の落ち着かなさは、別の種類に見えた。言葉が追いつかない。史人は、追いつかないことに苛立った。疲れている夜に、他人の温度を測る余裕なんていらないはずなのに。
「律くん、何歳」
米谷が聞く。宵だまりの会話はこうして勝手に転がる。律は一瞬だけ間を置き、笑った。
「二十二」
「若っ。兄ちゃん、若いの来たで」
米谷は史人に肘を当てた。史人は反射で肩を引く。肘が当たっただけで、身体が過敏に反応する。仕事でいつも誰かに触れられている気がするからだ。肩越しの圧。声の圧。期限の圧。触れられることに慣れすぎて、触れられるのが嫌になっている。
「関係ないです」
史人が言うと、律が笑った。
「関係ないんや」
軽口に見える。軽口なのに、律の視線は史人をしっかり捉えている。史人はその視線に、なぜか逃げたくなった。逃げたくなって、逃げないようにビールを飲んだ。冷たい液体が喉を滑り落ちる。喉が鳴る音が、自分の耳には妙に大きい。
律の笑い声が店内の笑い声に混ざる。混ざり方が上手い。最初からここにいたみたいに混ざる。混ざれる人間は強い。史人はそう思う。強いから混ざれる。混ざれるから強く見える。どちらでもいい。ただ、史人は混ざれなくなって久しい。仕事場では混ざっているふりはできる。でもここでは、ふりをする元気がない。それでも宵だまりが史人を置いていかないのは、串田と米谷が雑だからだ。雑さが、史人の不器用さを許す。
律は常連の会話に自然に乗り、串田に「これ何」と短冊メニューを指差し、米谷の自慢話に適当に相槌を打つ。適当なのに失礼じゃない。失礼じゃない適当さは、才能だ。史人は仕事で、適当さが許されない世界を見ている。適当だと責任を取らされる。責任はいつも一番弱いところに落ちる。落ちると、潰れる。潰れた人間は静かに消える。誰も気づかない。
ふと、律の手が止まった。
だし巻きに箸を入れたまま、固まる。たった一拍。二拍。たったそれだけの静止が、宵だまりの賑わいの中で妙に目立った。
史人は見てしまった。見てしまうと、目を逸らせない。律の喉が小さく動く。呼吸が浅い。肩が僅かに上がる。視線が遠くを見ているのに焦点が合っていない。笑っていた口角が、ほんの少しだけ落ちる。
薄い影が差した。
史人は胸の奥が冷たくなるのを感じた。自分の中の警報が鳴りかける。仕事の障害対応のときと同じだ。何かがおかしい、と身体が先に察知する。察知した瞬間に頭が動き、動くより先に胃が縮む。
律はその影をすぐに消した。消し方が速い。消して、笑う。
「だし巻き、うまいな。ほんまに」
笑いは戻る。戻るのに、さっきの一拍が、史人の胸に残る。残るのが嫌で、史人はビールを飲んだ。飲んでも消えない。消えないから、また見る。見るほど、違和感が輪郭を持つ。
米谷は気づいていない。気づかないふりかもしれない。串田は気づいているかもしれないが、顔に出さない。宵だまりの大人のやり方だ。大人は、詮索せずに必要なことだけをする。史人はまだ、そのやり方がうまくできない。
律がグラスを持ち上げる指が、ほんの少し震えている。震えは氷のせいにできる程度だ。氷が触れ合い、微かな音がする。その音が、史人の鼓動と混ざる。混ざって、史人は自分が落ち着かないことに気づく。
落ち着かないのは、仕事のせいではない。仕事のせいだけではない。隣にいるこの男の温度が、史人の中の何かを揺らしている。
史人は、恋愛をする余裕なんてない。そんなことは分かっている。分かっているのに、律の一拍の影が気になってしまう。気になることが、余裕だ。余裕があることが怖い。余裕があると気づいた瞬間に、また奪われる気がする。
律はまた軽口を叩く。
「兄ちゃん、名前なんて言うん」
今度は律が史人に聞いた。声はさっきまでのまま軽い。軽いのに、目だけが逃がさない。史人は一瞬、喉が詰まった。名前を言うという行為が、ここで急に重くなる。仕事の場で名乗る名前はただの札だ。でもこの店で名乗る名前は、生活の名前になってしまう気がした。
史人はゆっくり息を吐き、答えた。
「史人」
律は眉を上げ、口元を緩めた。
「ふみと。ええ名前やな」
その一言で、史人の胸の奥が少し熱くなった。熱くなるのが早すぎて、史人は焦る。焦りをごまかすように、史人はビールのグラスを持ち上げ、残りを飲み干した。喉が鳴る。飲み干した後の空っぽのグラスが、妙に軽い。
律はその様子を見て笑った。
「飲むの早いな」
史人は言い返そうとして、言い返す言葉が見つからない。早いのは、逃げるためだ。飲むことで空白を埋めるためだ。そんなことを言うわけにはいかない。
「疲れてるだけです」
史人が繰り返すと、律はまた笑った。
「社畜って便利な言い訳やな」
米谷が「ほんまや」と笑い、串田がカウンターの向こうで小さく鼻を鳴らす。宵だまりの空気が揺れて、また落ち着く。笑い声の膜が、史人の胸の熱を隠してくれる。
律はだし巻きを最後まで食べ、グラスの氷を揺らした。氷が鳴る音が、どこか不安定だ。史人はその不安定さに目を向けないようにした。向けたら、何かをしなければならなくなる。何かをする余裕はない。余裕はないのに、視線だけが律に吸い寄せられる。
律の横顔は、照明の下で少しだけ陰影が濃くなる。鼻筋がすっと通り、唇は薄い。顎の線が綺麗で、首筋が長い。何より、指先が長い。グラスを持つだけで絵になる。そんな言葉を自分が思うことに、史人は戸惑った。戸惑いは、興味の形をしている。
史人は自分の興味に名前をつけない。名前をつけた瞬間、興味が欲望になる。欲望になったら責任が生まれる。責任は仕事だけで十分だ。
それでも、史人は確かに感じていた。無関心だったはずの心の表面が、律の登場でわずかに揺れている。揺れは小さい。けれど小さい揺れほど、止めるのが難しい。
宵だまりの暖色の中で、律はまるで最初からここにいたみたいに笑っている。その笑いの奥に、一瞬だけ差した影が消えずに残っていることを、史人だけが見てしまった気がした。見てしまったことが、今夜の空気を少しだけ変えてしまう。
史人は伏せた会社用スマホに視線を落とし、また律へ戻した。仕事の影がまだ自分に張り付いている。なのに、今はそれ以外のものが視界に入る。入ってしまう。
それが、怖い。怖いのに、目を逸らせない。
史人は静かに息を吐いた。出汁の匂いと油の匂いが、肺の奥に残る。その匂いの中に、かすかな香水の気配が混ざっている。混ざっていることが、妙に現実的だった。
この夜はまだ、ただの宵だまりの夜のはずだった。常連がいて、だし巻きがあって、笑い声があって、史人が少しだけ人間に戻れる夜。そのはずなのに、初来店の男が空気に溶けた瞬間から、史人の中の何かが、ほんの少しだけ違う方向へ傾き始めていた。
夜の部屋は、昼の部屋より狭い。狭いのに、隙間が多い。照明の下でだけ明るく、照明の外側は薄い影になって、そこに音が溜まる。冷蔵庫の低い唸り、換気扇の回転、隣室の水道の気配。遠い車の音が、窓ガラスで一度ひしゃげてから入ってくる。史人はテーブルの上に置いたスマホを、何度も見た。画面は暗い。通知はない。暗いままの画面が、かつては救いだった。今は違う。暗いままでも、胸の奥が勝手に騒ぐ。来るはずのない通知を待つ癖が、身体に残っている。それでも、いまは呼吸がある。逃げ場の呼吸じゃない。戻るための呼吸だ。律は台所に立ち、エプロンを胸元で結び直した。結び目を確かめる指が丁寧で、丁寧さが強がりではなくなっている。イタリアで身につけた動作だと史人は思った。向こうの市場の匂いを、ここへ連れてきたみたいに。「何作る?」律が振り返って言った。声は軽い。軽い声は膜ではなく、確かめの声になっていた。史人は冷蔵庫の中身を思い浮かべた。買い物は帰りに済ませている。袋から野菜を出して冷蔵庫に押し込み、冷える音と一緒に少しだけ安心した。生活は音があると分かりやすい。音があると、空白が薄まる。「鍋、でもええ?」史人が言うと、律は少し考えてから頷いた。「鍋はええな。あったかい」律の言葉に、史人の胸が少しだけ緩んだ。あったかい、は一番単純な答えで、一番強い合意でもある。鍋は誰かの体温を借りなくても、あったかくなる。逃避ではなく生活として、そこにある。史人はまな板を出し、包丁を手に取った。刃の重さが、手に馴染む。仕事のキーボードより、ずっと素直な道具だと思う。切れば切れる。切った分だけ形になる。進捗表の色みたいに、何をしても詰められることがない。切り口が揃わなくても、誰も責めない。律は野菜を洗い、手を拭いたタオルをきちんと掛け直した。掛け直す動作が、境界線の動作に見える。雑に扱わない。雑に扱うと、自分が雑に扱われる。律がその理屈を身体で知っているのが分かる。史人は白菜を切りながら、律の横顔を盗み見た。頬の線が少し柔らかい。けれど目の奥はまだ鋭い。鋭さは恐れの鋭さではなく、選ぶための鋭さだ。鍋に出汁を張る
昼の光は、夜より残酷だと史人は思うことがある。夜は暗さが隠してくれる。昼は輪郭が出る。輪郭が出ると、見ないふりをしていたものが、机の上に置かれてしまう。午前の作業を切り上げて、史人はノートパソコンの蓋を閉じた。独立してから、閉じるタイミングを自分で決められるようになった。それでも、手が反射で震える瞬間がある。蓋を閉じても通知が鳴る気がする。梅田の終電レースが、身体の裏側にまだ貼り付いている。史人はその感覚を、呼吸で押さえた。最近は呼吸が少しだけ役に立つ。律の呼吸を見て学んだのかもしれない。台所から味噌汁の匂いが漂ってきた。律が小鍋を火にかけ、湯気を見ながら味噌を溶いている。湯気は祖父母宅の台所の湯気と似ていて、生活の匂いは人を油断させる。その油断の隙間に、影は入り込む。律のスマホがテーブルの上で震えた。音は鳴らない設定になっている。震えだけで十分だ。律の肩が、ほんの少しだけ上がる。上がった肩がすぐに落ちる。律が呼吸を選んだのが分かる。それでも指先は冷たくなるらしく、律は鍋の取っ手を握り直した。史人は椅子から立ち上がりかけて、止まった。止まることが、今の二人の合図になっている。何かが起きたとき、勢いで触れない。勢いで聞かない。まず止まり、息を整える。律は鍋の火を弱めてから、スマホを手に取った。画面を見て、目が一瞬だけ固くなる。固くなったのに、息は止まらない。律は親指で画面を滑らせ、通知の内容を確認する。確認したあと、スマホを伏せた。伏せる動作がゆっくりで、生活の動作に戻そうとしているのが分かる。史人は声を出さず、コップに水を注いで律の横に置いた。律は頷いて水を飲んだ。喉が鳴る。喉が鳴ると、史人の胸の奥の緊張が少しだけ緩む。律は水のコップを置き、息を吸って吐いた。吐く息が長い。長い息は、戻るための息だ。史人は言葉を選んだ。大丈夫? は言わない。大丈夫と言わせる言葉になるからだ。代わりに、必要なことだけを確認する。「今、読む?」律は一瞬だけ史人を見た。目の奥に影がある。影は恐怖の影だ。恐怖はまだ消えていない。でもその影の中に、薄い光もある。光は、境界線を引けるようになった光だ。「読む」
史人の部屋の鍵は、いつもより重かった。金属の重さではなく、手の中で鳴らない重さだ。ポケットの底で触れたとき、冷たいはずの感触がぬるく感じる。身体が勝手に体温を乗せる。自分のものだったはずの鍵が、誰かの手に渡る前に、別の意味を帯び始めるのが怖い。玄関の前に立つと、廊下の蛍光灯が白くて、少しだけ梅田の白を思い出した。あの白は人を干上がらせる。ここは違うと分かっていても、白は白だ。史人は息を吸い、吐いて、鍵穴に差し込んだ。音が小さく、乾いている。回す指の腹が少し汗ばんでいるのが分かる。背後で足音が止まる。律が立っていた。空港から戻って数日、律は祖父母の家に荷物を置き、必要なものだけをリュックに詰めて来た。史人の部屋で一度、試す。そこまでを二人は言葉にした。試す、という言葉が便利なだけではないと、史人は知っている。試すと決めることは、いつでも止まれると決めることだ。止まる権利を最初に置く。それが今回の合意だった。ドアを開けると、部屋の匂いがした。洗濯洗剤と、パソコンの熱が残ったような乾いた匂いと、少しだけ煙草ではない紙の匂い。律の匂いはまだ混ざっていない。混ざっていないことが少し寂しく、同時に安心する。混ざったら戻れない気がして、どこかで怖い。「入って」史人はそう言った。言葉が短い。短くないと、余計なものが紛れ込む。「お邪魔します」律は靴を脱ぎ、揃えた。揃え方が丁寧すぎて、史人は笑いそうになり、笑わなかった。律は気を張っている。気を張っているのに、張り詰めていない。張り詰める一歩手前で、止まれる感じがする。それが留学の成果なのだろうと、史人は勝手に思った。リビング兼寝室の狭さは変わらない。ベッドと机と、本棚と、最近買った折り畳みの小さなテーブル。宵だまりで飲んだ帰りに、何度もこの部屋へ戻った。その導線に律が乗ると、過去の逃避が一瞬だけ顔を出す。史人は喉の奥がきゅっとなるのを感じた。律は視線を部屋の隅に滑らせ、軽く息を吐いた。息が止まっていない。史人はそれだけで少し落ち着く。「荷物、ここでええ?」律がリュックを持ち上げる。置き場所を聞くのが、律の条件提示の仕方だと史人は理解している。勝手に置かない
ホテルを出た瞬間、空気が変わった。夜の間に溜まった湿り気が、朝の光に薄く引き延ばされている。ロビーに漂うコーヒーの匂いはまだ強く、スーツケースの車輪が床を擦る乾いた音が、どこか遠い。窓の外には滑走路が見え、昨夜と同じ点滅が今は淡く、昼に飲み込まれかけていた。史人はカードキーを返却機に入れる前、指先に残るプラスチックの角の感触を一瞬だけ確かめた。握りしめれば、昨夜の熱まで握りしめられそうで怖い。握りしめないほうがいい。逃避に戻らないために、ここで眠ったのだと、自分で決めたのだと、忘れないために。律はフロントを横目に見ながら、ひとつ息を吸った。浅くない。胸の奥まで入って、肋骨の裏側に柔らかい重みが広がる。その重みが「生きてる」を支えるのだと、律は知っている顔をしていた。以前の、息を止める顔ではない。史人はそれに気づいた瞬間、言葉が喉に詰まった。上手く言えない。おかえりの次に何を置けばいいのか、まだ分からない。ただ、呼吸が止まっていない。それだけで、胸の中の硬い塊が少しだけ溶ける。連絡通路を渡ると、窓が大きくなり、海の色が見えた。空港の外側は、思っていたより明るい。明るさは現実を連れてくる。昨夜の余韻を抱えたまま現実に踏み出すと、いつか転ぶ気がする。史人はその恐怖を、足の裏の感触で誤魔化した。床が固い。歩ける。歩くしかない。電車の時間を確認しようと、律がスマホを取り出す。画面の白さが朝の光と重なり、史人は反射で身構えた。通知音が鳴っていないのに、身体が先に構える癖は、まだ完全には抜けていない。律の指先が画面を滑り、数秒、止まる。律は眉を少しだけ上げた。見つけたのは、情報だった。脅しでも、契約書でもない。ただの、駅周辺の案内の一行。けれど律は、その一行に目を留める顔になった。逃げ場を探す顔ではなく、自分で選ぶ顔。「なあ」声は小さく、滑走路の遠い音に溶けそうだった。それでも史人は聞き取る。「ちょっと寄り道したい」史人は足を止めた。すぐに理由を聞きそうになって、飲み込む。理由を聞けば、正しさで埋めてしまいそうな気がした。今は、正しさより、律が今ここで何を欲しがっているかを確かめたい。「寄り道?」
朝の光は、夜の約束を容赦なく薄める。ホテルのカーテンの隙間から差し込む白さは、昨夜のスタンドの円い灯りとは違って、輪郭をはっきりさせた。ベッドのシーツの皺も、床に落ちたタオルの端も、窓の外の滑走路の線も、現実の線として並び直される。史人は目を開けた瞬間に、自分が息をしていることを確かめた。胸の奥が浅くならない。終電の計算も、通知音の幻も、今はない。代わりに、隣の体温がある。体温があるのに、逃避の甘さだけではない。昨夜、言葉で合意した「止まれる」という感覚が、まだ身体の奥に残っている。律はまだ眠っていた。横顔の角が、梅田の夜より少しだけ丸く見える。寝ているのに眉間の皺が薄い。眠りが浅いときに出る肩の硬さも、今はない。史人はそれを見て、胸の奥が熱くなりそうになり、熱くなりすぎる前に息を吐いた。熱くなるのは悪いことではない。ただ、熱だけで動くと、また同じ場所に戻る。戻る場所が、宵だまりと1Kだけになってしまう。史人は静かにベッドを抜けた。床は冷たい。足裏が冷えると、頭が少し冴える。洗面台の前で顔を洗う。水が頬を叩き、夜の余韻を削る。鏡の中の自分は、寝不足の目をしているのに、目の奥が変に澄んでいた。澄んでいるせいで、怖い。澄んでいると、逃げ道がない。逃げ道がないのは、悪いことではない。選ぶしかないからだ。コーヒーメーカーのボタンを押すと、低い振動音が小さく響いた。豆の香りが、空調の乾いた匂いに混ざり、部屋に生活の気配を増やしていく。史人は紙コップに注ぎ、湯気を見つめた。湯気はすぐ消える。消える速度が、今の自分の生活と似ていると思った。整えても、放っておけばまた散らかる。散らかる前に手を入れるしかない。律が身じろぎをした。布団の擦れる音が微かに聞こえ、次に、息を吸う音が聞こえた。律は目を開け、天井を見て、状況を確かめるように瞬きをした。目が史人を見つけるまでに一拍ある。その一拍が、昨夜の「止まれる」拍に似ていた。律が掠れた声で言う。「……朝やな」史人は頷いて、コーヒーを差し出した。「飲む?」律は起き上がり、受け取った。指が史人の指に触れ、触れた瞬間に引っ込めない。触れたまま、律は紙コッ
未明のホテルの部屋は、昼の白さをすっかり失っていた。壁の灯りは落とされ、ベッドサイドのスタンドだけが、淡い円を床に作っている。空調の乾いた息が一定の間隔で吐かれ、肌の汗を薄く冷やした。窓の外には、滑走路の点滅が規則的に並び、黒い空を切り取るガラスに、細い光が浮かんでいる。機体灯が遠く動くたび、ここが「空港の夜」だと改めて突きつけられる。史人はベッドの端に座り、手のひらを膝の上で組んだ。指先に残る体温が、まだ熱い。熱いのに、落ち着いている。さっきまでの熱が、虚しさに沈んでいかない。それが不思議で、怖かった。怖いのは、これがただの一夜の慰めに戻れないからだと、史人は薄く理解していた。律は浴室から出てきたところだった。濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、部屋の薄い灯りの中で一瞬だけ立ち止まる。ホテルの部屋着は体の線を隠しきれず、肩から首筋にかけての白さが、灯りを柔らかく受けている。史人は視線を逸らすべきか迷い、迷ったまま見てしまった。見てしまっても、律は何も言わない。言わないまま、窓の方へ歩く。窓際に置かれた小さなテーブルの上には、さっき律が飲んだ水のボトルが半分残っている。律はそれを指で回し、キャップの感触を確かめるように握った。握った指が、ほんの少し震えた。震えは寒さのせいではない。史人は、それが「言葉」を出す前の揺れだと感じた。史人は息を吸い込み、吐いた。吐く息は長くする。長くすると胸の奥が少し広がる。広がった場所に、律の存在が入ってくる。入ってくるのに、押し潰されない。押し潰されない自分になったのだと、史人は思い込みたい。律は窓の外に目をやった。点滅する灯りを眺めながら、喉の奥で何かを飲み込む仕草をした。言葉を選ぶときの癖だ。梅田で、鍵盤に触れる前も、こんなふうに息を止めかけた。あの時は音が先で、言葉は後だった。いや、言葉は後に来なかった。来なかったことが、ずっと史人の胸の奥で残響になっていた。律が背中越しに言う。「なあ」史人はすぐに返せない。喉が固まる。返事をしない沈黙が、律を追い詰めるかもしれないと思い、史人は無理に声を出した。「うん」律は振り返らなかった。振り返らないまま、続ける。
祖父母の家を出ると、外の空気は思ったより乾いていた。夕方の前、陽が傾く直前の大阪は、湿気が残っているのにどこか軽い。住宅街の道は狭く、車の音も遠い。律の胸の奥だけが、さっきまでの台所の湯気をまだ抱えていて、息を吐くたびに味噌の甘い匂いが幻みたいに戻ってくる。その幻が消えないうちに、律は歩き出した。帰る場所があるという安心は、同時に、帰る場所に押し込められる怖さも連れてくる。祖父の低い声の硬さが耳の奥に残っている。良一。美智子。東京。守る。正しい。そういう言葉は、紙の角みたいに薄く鋭い。律はポケットの中でスマホの位置を確かめた。取り出さない。取り出したら見る
祖父母の家の台所は、火の気があるだけで空気が柔らかくなる。古い換気扇が低く唸り、まな板に包丁が当たる乾いた音が、一定のリズムで続いていた。祖母が味噌を溶くと、湯気が立ち上り、出汁の匂いが天井の方へゆっくり逃げていく。窓の外には住宅街の午後があるはずなのに、律の意識は湯気の輪の内側から出られなかった。玄関を入った瞬間、身体が勝手に弛むのが分かった。肩の力が抜ける。指先の冷えが少しだけ引く。祖母がすぐに言った。「おかえり」律は靴を揃えながら、笑って返した。「ただいま」史人の部屋を出た朝の白い刃は、ここにはない。畳
朝の光は、いつもなら部屋を薄く漂うだけで終わる。史人の一Kの窓から差し込む白は、カーテンの繊維を透かし、壁の汚れをぼんやり浮かび上がらせる程度のものだ。律にとっては、昨日の梅田の白に比べれば優しいはずだった。けれど今朝の白は、優しいふりをして、刃の薄さで喉を撫でてくる。律は目を開けた瞬間に、それが分かった。空気が軽い。軽いのに、胸の奥に重いものが沈んでいる。重いものは音だった。昨夜の鍵盤の打撃、息を詰めて放った自分の熱、拍手の熱のなかで固まった史人の眼差し。全部がまだ、皮膚の内側に貼り付いている。隣では史人がまだ眠っていた。寝返りを打つ気配
梅田の白い光から離れるほど、音の残像だけが濃くなる気がした。律の横を歩きながら、史人はさっきまで耳の奥を占拠していた旋律が、街の雑踏に溶けていくのを感じていた。溶けていくのに、消えない。消えないのは、音そのものではなく、音が開けた穴だった。胸の奥に穴が開いて、そこから冷たい風が出入りしている。冷たい風が痛いのに、息がしやすい。痛みと回復が同居するのが、気持ち悪いほど心地いい。二人はいつもみたいに並んで歩いている。肩が触れそうな距離も、歩幅を合わせる癖も、何も変わっていないはずだった。けれど、会話だけがない。宵だまりから史人の部屋へ向かう夜も、こんなふうに無