LOGIN宵だまりの空気が少しだけ温まってきたころだった。だし巻きの皿が空に近づき、ビールの泡が薄くなると、店内の雑音がひとつの膜みたいに重なる。笑い声は遠くならず、近すぎもしない。誰かの会話の断片が耳に触れては溶け、氷の音がそのたびに輪郭を整える。史人はその膜の中で、ようやく肩の位置を思い出していた。上がりっぱなしの肩を少し下ろしても、誰にも責められない場所だと身体が理解し始めていた。
カウンターの端で、史人はビールをひと口飲んだ。苦味が舌に残る。その苦味を飲み込むと、胃の奥が温かくなる。温かくなるだけで、心の奥に張り付いていた緊張が数ミリ剥がれる。剥がれると同時に、剥がれた下にある空白が見えそうになって、史人は視線を木目へ落とした。空白を見ると、今夜の救いが嘘みたいに思えてしまう。
「兄ちゃん、ほんまに人間戻ってきたな」
米谷が隣から囁くように言って、すぐにいつもの大きさで笑った。笑い声が店の壁に当たって返り、また吸い込まれる。
史人は返事の代わりに、グラスを軽く持ち上げた。乾杯の形を作ると、米谷も勝手にグラスを寄せてくる。カチンと氷が触れ合い、澄んだ音がした。音がするだけで、胸の中のざわつきが少し整う。
串田がカウンターの向こうで皿を拭いていた。濡れ布巾が陶器を擦る音は、仕事のキーボードよりずっと優しい。指先に伝わる摩擦が想像できる音だ。想像できることが、生活の感覚だった。
引き戸が開いたのは、そのときだ。
外の冷気が一瞬、店内の温度を押し分けた。暖簾が揺れ、湿った夜の匂いが入ってくる。雨上がりの土とアスファルトの匂い。そこに、かすかな香水の気配が混ざった。強くはない。けれど、宵だまりの出汁と油の匂いに混ざると、やけに目立つ。
史人は反射で入口を見た。
男が立っていた。背は高い。派手な服ではないのに、妙に整って見える。髪は無造作に見えるのに、乱れている感じがしない。顔立ちは、ぱっと見はそこまで主張しない。しかし目が、印象を決めてしまう種類の目だった。軽く笑っているのに、奥の方が冷えている。冷えているというより、冷やしている。自分で温度を調整しているみたいな目。
男は店内を見渡し、すぐに空気を掴んだ。掴み方が速い。初めての場所のはずなのに、探る動作がない。迷いがない。そこが、史人には不思議だった。
「一人、いけますか」
男が言った。声は柔らかい。大阪の夜に溶けるような軽さがある。けれど軽すぎない。相手の反応を待つ余裕が含まれている。
串田が顔を上げ、短く頷いた。
「カウンター空いてる」
男は「助かる」と笑い、靴を揃えて上がった。その動作がやけに綺麗で、史人の指先がむず痒くなった。整った動作を見ると、仕事で鍛えた粗さが自分にあることを思い知らされる。思い知らされるのが嫌なのに、目が追ってしまう。
男はカウンターへ近づいてきた。史人の二つ隣に腰を下ろす。椅子に座るとき、背中が伸びて、肩が落ちる。座り方が、癖になるほど自然だった。腰の位置が安定している。まるで長時間、同じ姿勢で何かをしてきた人みたいだと史人は思う。
何か、という言葉の先を、史人はすぐに切った。疲れている夜に、他人の背景を想像すると、自分の空白が際立つ。だから想像しない。
「お、新顔やん」
米谷がすぐに絡みにいった。宵だまりの常連は距離の詰め方が雑だ。雑だが悪意はない。悪意がない雑さは、時々、人を救う。
男は驚くより先に笑った。
「新顔です」
語尾が素直だ。素直なのに、馴れ馴れしくない。絶妙な塩梅で、米谷の雑さを受け止めている。
「どこから来たん」
米谷がさらに詰める。普通なら嫌がる距離だ。男は嫌がらなかった。嫌がらないというより、先に舵を取った。
「このへんです。店、ええ匂いしますね」
男はそう言って串田を見た。目線の渡し方が自然だ。常連相手には柔らかく、店主には丁寧に寄せる。空気の読み方が上手い。
串田が眉を少しだけ動かした。感心したのか警戒したのか、史人には分からない。ただ串田はいつも通りの温度で返す。
「おすすめはだし巻き」
男の目が一瞬、明るくなった。ほんの一瞬だけ、目の奥の冷やしている部分が薄くなる。
「それ、ください。あと、ハイボール」
串田が頷き、グラスを用意する。氷が落ちる音がして、香りの薄いウイスキーが注がれる。男はその手元を見ながら、軽く息を吐いた。吐いた息が、心地よさのため息に見える。けれど史人は、その息にどこか引っかかった。吐き方が、休んでいる人の吐き方ではない。息を整えるための吐き方に近い。
史人は自分のビールを見た。泡はもうほとんどない。泡がないと、ビールはただの苦い水みたいに見える。それでも史人は飲む。飲むことが、今夜の自分の輪郭を保つ支えだ。
男が横を向いた。史人の視線と一瞬だけぶつかる。ぶつかった瞬間、男は笑った。笑い方が上手い。相手を試さない笑い方だ。試さないふりをしながら、自分が安全な位置にいる笑い方。
「そっちの兄ちゃん、静かやな」
男が言った。声が軽いせいで、責められている感じがしない。だから史人は答えてしまう。
「仕事で疲れてるだけです」
史人の声は自分でも平坦に聞こえた。平坦な声しか出せない夜がある。感情を乗せる余裕がない。
男は目を細めた。
「社畜やん」
米谷が横から噴き出す。
「社畜仲間やな、兄ちゃん」
史人は否定できない。否定したら嘘になる。嘘をつくのは仕事だけで十分だ。
「仲間増えたで」
米谷が勝手に喜ぶ。男は笑い、ハイボールをひと口飲んだ。氷が揺れ、グラスの縁が唇に触れる。その所作が、妙に丁寧で、史人の目が吸い寄せられた。
男の手が綺麗だった。手の甲の筋が浮かび、指が長い。爪は短く切られていて清潔だ。指先に余計なささくれがない。PCを触る指の荒れとは違う。史人の指先は、いつも乾いている。乾いた指先は、何かを掴んでもすり抜ける。男の指先は、掴んだものを離さない感じがした。
史人は自分の観察に驚き、視線を逸らした。観察する余裕があること自体が不思議だった。宵だまりの空気が、史人を少しだけ人間に戻している。その戻り方が、別の面倒を連れてくる。
「兄ちゃん、名前なんて言うん」
米谷が男に聞いた。相変わらず雑だ。男は笑って肩をすくめる。
「律」
短い。余計な説明がない。名前だけで成立させる言い方だ。
「りつ」
米谷が復唱し、すぐに笑う。
「男前の名前やな」
律は「そうなん」と軽く返し、またハイボールを飲んだ。初めて来た店で、こんなに自然に飲めるのかと史人は思う。自然に見えるだけかもしれない。自然に見せるのが上手いのかもしれない。そういう人間を、史人は仕事で何人も見てきた。笑顔の下で爪を立てる人間。明るい声で責任を押し付ける人間。律の笑い方には、それとは違う種類の爪がある気がした。自分のために爪を立てている爪だ。
串田がだし巻きを運んできた。湯気が立つ。出汁の匂いが一段濃くなる。皿の上の卵は、表面がしっとりしていて、焼き色は薄い。大根おろしと薄口醤油が添えられている。
律は目を丸くした。
「うわ、これ…」
声が、子どもみたいだった。驚きが素直に出ている。さっきまでの余裕が一瞬ほどける。そのほどけ方が可笑しくて、史人の胸の奥が少し温まった。温まったのが悔しくて、史人はビールを飲んだ。
律は箸を持ち、だし巻きにそっと入れた。箸を入れる角度が、料理を壊さない角度だ。卵がふわりと割れ、出汁がじゅわっと滲む。
「やば」
律は小さく言って、それを口に運んだ。噛んだ瞬間、目を閉じる。長く閉じない。けれど閉じた一瞬に、身体が正直に喜んでいるのが分かる。
「ほどける」
律は呟いた。その言い方が、妙に綺麗だった。誰かに聞かせるための言葉ではなく、自分の中で確かめる言葉だった。
米谷が自分の皿を覗き込みながら笑う。
「兄ちゃん、だし巻きに惚れたんか」
律は即座に軽口に戻った。
「惚れた。だし巻き、優しい。これ、今日のMVP」
MVPという単語が宵だまりに似合わなくて、米谷がまた笑った。串田が鼻で笑い、返す。
「だし巻きに評価つけるな」
その言葉は冗談のはずなのに、史人の胸に小さく刺さった。評価。仕事の世界の単語。宵だまりには似合わない単語だ。似合わないのに、律が持ち込んだ。無意識に。
律は肩をすくめた。
「評価ちゃう。感想」
軽く言う。軽く言いながら、律の目が一瞬だけ泳いだ。泳いだのは、串田の言葉を受けたからかもしれない。史人はそれを見て、胸の奥がざわついた。今のが何だったのか、言語化できないざわつき。言語化できないまま、視線だけが律に吸い寄せられる。
律はだし巻きをもう一口食べ、ハイボールを飲んだ。飲む速度が少しずつ上がる。上がっているのに、酔っている雰囲気を出さない。笑い声の高さも変えない。変えないまま、指先だけが忙しい。箸を置く位置を何度も直し、グラスの底を指でなぞる。癖なのか、落ち着かなさなのか分からない。
史人は自分のビールを見た。自分も同じだ。落ち着かない。けれど史人の落ち着かなさは、通知音の幻から来る。律の落ち着かなさは、別の種類に見えた。言葉が追いつかない。史人は、追いつかないことに苛立った。疲れている夜に、他人の温度を測る余裕なんていらないはずなのに。
「律くん、何歳」
米谷が聞く。宵だまりの会話はこうして勝手に転がる。律は一瞬だけ間を置き、笑った。
「二十二」
「若っ。兄ちゃん、若いの来たで」
米谷は史人に肘を当てた。史人は反射で肩を引く。肘が当たっただけで、身体が過敏に反応する。仕事でいつも誰かに触れられている気がするからだ。肩越しの圧。声の圧。期限の圧。触れられることに慣れすぎて、触れられるのが嫌になっている。
「関係ないです」
史人が言うと、律が笑った。
「関係ないんや」
軽口に見える。軽口なのに、律の視線は史人をしっかり捉えている。史人はその視線に、なぜか逃げたくなった。逃げたくなって、逃げないようにビールを飲んだ。冷たい液体が喉を滑り落ちる。喉が鳴る音が、自分の耳には妙に大きい。
律の笑い声が店内の笑い声に混ざる。混ざり方が上手い。最初からここにいたみたいに混ざる。混ざれる人間は強い。史人はそう思う。強いから混ざれる。混ざれるから強く見える。どちらでもいい。ただ、史人は混ざれなくなって久しい。仕事場では混ざっているふりはできる。でもここでは、ふりをする元気がない。それでも宵だまりが史人を置いていかないのは、串田と米谷が雑だからだ。雑さが、史人の不器用さを許す。
律は常連の会話に自然に乗り、串田に「これ何」と短冊メニューを指差し、米谷の自慢話に適当に相槌を打つ。適当なのに失礼じゃない。失礼じゃない適当さは、才能だ。史人は仕事で、適当さが許されない世界を見ている。適当だと責任を取らされる。責任はいつも一番弱いところに落ちる。落ちると、潰れる。潰れた人間は静かに消える。誰も気づかない。
ふと、律の手が止まった。
だし巻きに箸を入れたまま、固まる。たった一拍。二拍。たったそれだけの静止が、宵だまりの賑わいの中で妙に目立った。
史人は見てしまった。見てしまうと、目を逸らせない。律の喉が小さく動く。呼吸が浅い。肩が僅かに上がる。視線が遠くを見ているのに焦点が合っていない。笑っていた口角が、ほんの少しだけ落ちる。
薄い影が差した。
史人は胸の奥が冷たくなるのを感じた。自分の中の警報が鳴りかける。仕事の障害対応のときと同じだ。何かがおかしい、と身体が先に察知する。察知した瞬間に頭が動き、動くより先に胃が縮む。
律はその影をすぐに消した。消し方が速い。消して、笑う。
「だし巻き、うまいな。ほんまに」
笑いは戻る。戻るのに、さっきの一拍が、史人の胸に残る。残るのが嫌で、史人はビールを飲んだ。飲んでも消えない。消えないから、また見る。見るほど、違和感が輪郭を持つ。
米谷は気づいていない。気づかないふりかもしれない。串田は気づいているかもしれないが、顔に出さない。宵だまりの大人のやり方だ。大人は、詮索せずに必要なことだけをする。史人はまだ、そのやり方がうまくできない。
律がグラスを持ち上げる指が、ほんの少し震えている。震えは氷のせいにできる程度だ。氷が触れ合い、微かな音がする。その音が、史人の鼓動と混ざる。混ざって、史人は自分が落ち着かないことに気づく。
落ち着かないのは、仕事のせいではない。仕事のせいだけではない。隣にいるこの男の温度が、史人の中の何かを揺らしている。
史人は、恋愛をする余裕なんてない。そんなことは分かっている。分かっているのに、律の一拍の影が気になってしまう。気になることが、余裕だ。余裕があることが怖い。余裕があると気づいた瞬間に、また奪われる気がする。
律はまた軽口を叩く。
「兄ちゃん、名前なんて言うん」
今度は律が史人に聞いた。声はさっきまでのまま軽い。軽いのに、目だけが逃がさない。史人は一瞬、喉が詰まった。名前を言うという行為が、ここで急に重くなる。仕事の場で名乗る名前はただの札だ。でもこの店で名乗る名前は、生活の名前になってしまう気がした。
史人はゆっくり息を吐き、答えた。
「史人」
律は眉を上げ、口元を緩めた。
「ふみと。ええ名前やな」
その一言で、史人の胸の奥が少し熱くなった。熱くなるのが早すぎて、史人は焦る。焦りをごまかすように、史人はビールのグラスを持ち上げ、残りを飲み干した。喉が鳴る。飲み干した後の空っぽのグラスが、妙に軽い。
律はその様子を見て笑った。
「飲むの早いな」
史人は言い返そうとして、言い返す言葉が見つからない。早いのは、逃げるためだ。飲むことで空白を埋めるためだ。そんなことを言うわけにはいかない。
「疲れてるだけです」
史人が繰り返すと、律はまた笑った。
「社畜って便利な言い訳やな」
米谷が「ほんまや」と笑い、串田がカウンターの向こうで小さく鼻を鳴らす。宵だまりの空気が揺れて、また落ち着く。笑い声の膜が、史人の胸の熱を隠してくれる。
律はだし巻きを最後まで食べ、グラスの氷を揺らした。氷が鳴る音が、どこか不安定だ。史人はその不安定さに目を向けないようにした。向けたら、何かをしなければならなくなる。何かをする余裕はない。余裕はないのに、視線だけが律に吸い寄せられる。
律の横顔は、照明の下で少しだけ陰影が濃くなる。鼻筋がすっと通り、唇は薄い。顎の線が綺麗で、首筋が長い。何より、指先が長い。グラスを持つだけで絵になる。そんな言葉を自分が思うことに、史人は戸惑った。戸惑いは、興味の形をしている。
史人は自分の興味に名前をつけない。名前をつけた瞬間、興味が欲望になる。欲望になったら責任が生まれる。責任は仕事だけで十分だ。
それでも、史人は確かに感じていた。無関心だったはずの心の表面が、律の登場でわずかに揺れている。揺れは小さい。けれど小さい揺れほど、止めるのが難しい。
宵だまりの暖色の中で、律はまるで最初からここにいたみたいに笑っている。その笑いの奥に、一瞬だけ差した影が消えずに残っていることを、史人だけが見てしまった気がした。見てしまったことが、今夜の空気を少しだけ変えてしまう。
史人は伏せた会社用スマホに視線を落とし、また律へ戻した。仕事の影がまだ自分に張り付いている。なのに、今はそれ以外のものが視界に入る。入ってしまう。
それが、怖い。怖いのに、目を逸らせない。
史人は静かに息を吐いた。出汁の匂いと油の匂いが、肺の奥に残る。その匂いの中に、かすかな香水の気配が混ざっている。混ざっていることが、妙に現実的だった。
この夜はまだ、ただの宵だまりの夜のはずだった。常連がいて、だし巻きがあって、笑い声があって、史人が少しだけ人間に戻れる夜。そのはずなのに、初来店の男が空気に溶けた瞬間から、史人の中の何かが、ほんの少しだけ違う方向へ傾き始めていた。
薄い眠りは、崩れるときの音がない。史人は目を開けた瞬間、自分がどこにいるのかを一拍遅れて思い出した。天井の白さ。カーテンの隙間から差す、夜明け前の青い光。エアコンの送風が止まったあとの静けさ。静けさの中に、もう一つの呼吸が混ざっている。隣で、律が眠っていた。平気な顔で、という言葉がそのまま当てはまる寝顔だった。眉間に力は入っていない。口元も緩みすぎていない。眠りに落ちるときの言葉は短かったのに、眠りそのものは深いらしい。胸がゆっくり上下して、吐く息が規則正しく布団を揺らす。史人は視線を逸らした。寝顔を見続けると、昨夜が現実になってしまう気がした。現実になったら、責任が生まれる。責任が生まれたら、今この瞬間の静けさが壊れる。壊れるのが怖くて、史人は布団の中で指先を動かし、自分の体のどこが熱く、どこが冷えているかを確かめた。身体は妙に軽かった。軽いのに、胸の奥だけが重い。重さの形がいつもと違う。仕事の重さではない。仕事の重さは肩に乗る。首を絞める。眠りを奪う。今の重さは、腹の奥に沈む。息を吸うたびに揺れる。揺れて、名前をつけろと迫ってくる。史人は息を止めた。止めたまま、布団から抜け出した。フローリングが足裏に冷たい。冷たい床が、現実を引き戻す。現実に引き戻されるたびに、昨夜が遠くなる。遠くなってほしい。遠くなったら楽になる。でも遠くなりすぎたら、あの熱が嘘になる気がして怖い。史人は洗面所へ向かった。狭い廊下を数歩で抜ける。壁にぶつかりそうな距離感が、ひとり暮らしの生活を思い出させる。誰にも合わせなくていい距離。誰にも触れられない距離。安全な距離。洗面所のスイッチを入れると、白い光が弾けた。蛍光灯の光は容赦がない。宵だまりの暖色と違って、肌も疲れも全部さらけ出す。史人は一瞬目を細め、鏡を見る勇気が出ないまま蛇口をひねった。水の音がする。透明な音。昨日の夜のどんな音とも違う。どんな匂いとも違う。水は現実だ。水は嘘をつかない。史人は両手で水をすくい、顔を洗った。冷たさが皮膚に刺さり、頭の奥が少しだけ冴える。冴えたぶん、胸の重さがはっきりする。史人は顔を上げた。鏡の中に、自分がいた。大原史人、二十七歳。社会人という年齢が、やけに現
ドアが閉まった瞬間、外の夜が薄い膜になって切り離された。玄関の鍵が噛み合う小さな音が、部屋の狭さに反響して、史人の胸の奥まで届く。宵だまりの暖色はもう背中にない。代わりに、天井灯の白さが生活の輪郭をさらけ出している。洗剤の匂いと、乾いた埃の匂い。小さな流し台の金属の冷たさ。脱ぎっぱなしのスリッパ。畳む気力を失ったまま椅子に掛けられたジャケット。ひとり暮らしの匂いは、律に言われた通りだった。狭いのに、妙に広く感じる。広く感じるのは、隠せる場所がないからだ。何もない部屋は、言い訳を置けない。言い訳を置けない場所に、今、律がいる。それだけで史人は落ち着かない。落ち着かないことを悟られたくなくて、史人は靴を揃えるふりをして、視線を床に落とした。律は玄関に立ったまま、部屋の奥を見た。観察というより、空気を吸い込むみたいに見ている。宵だまりでは空気に溶けていた男が、ここでは溶けない。溶けない分だけ、存在が濃くなる。史人は喉が乾いていることに気づいた。宵だまりで飲んだ水では足りない。足りないのは水だけではない気がして、史人はそれを否定するように唇を噛んだ。痛みが現実を引き戻す。仕事の現実ではなく、今夜の現実に。史人は部屋の奥へ歩き、靴下のままフローリングを踏んだ。冷たい。冷たい床が足裏に貼りつき、身体の中の熱を際立たせる。背後で律の足音がついてくる。ついてくる足音は静かで、静かなのに逃げ道がない。史人はテーブルの上に置いたままだった私用スマホを反射で見てしまい、すぐに視線を逸らした。会社用スマホは鞄の中だ。宵だまりのカウンターに伏せた時と同じように、ここでも伏せたい。伏せれば、少しだけ自分の鼓動が静かになる気がする。律が背中越しに囁く。「史人さん」名前を呼ばれると、背筋が薄く粟立つ。宵だまりで呼ばれたときよりずっと近い距離で、声が耳の後ろに触れる。触れた声が、史人の中の乾いた部分を濡らすみたいに広がる。濡れると、余計に怖い。濡れたら、もう乾いたふりができない。史人は振り返らずに言った。「狭いけど」それは言い訳だった。狭いから仕方ない。距離が近いのは部屋のせい。そう言いたかった。言い訳の薄さに、自分で苦
宵だまりの灯りは、人の輪郭を少しだけ柔らかくする。暖色の照明に照らされると、疲れた顔も眠そうな目も、どこか冗談みたいに見える。だから史人はこの店でだけ、社畜の鎧の継ぎ目を緩められる。それが救いで、同時に怖かった。緩めた継ぎ目から、自分の本音が漏れそうになるからだ。閉店の時間は決まっていないようで決まっている。串田が「そろそろ」と言わずとも、空気がそうなる。笑い声が一段落して、グラスを置く音が増える。換気扇の唸りだけが変わらず、店の終わりを知らせる鐘みたいに鳴っている。米谷が最後のハイボールを煽って、派手にため息をついた。ため息はいつもより大きく、演技が混じっている。「明日も早いのに、なんで飲んでまうんやろな」米谷が言うと、隣の常連が笑った。「それ言うたら飲まれへんやろ」律も笑った。笑い声は軽い。軽いのに、頬の赤みがほんの少し濃い。さっき水を飲ませた後の落ち着きは戻っているが、アルコールの熱が肌の下でじわじわと育っているのが分かる。ハイボールのグラスの中で氷が少し溶け、音が鈍くなっている。鈍い音が、夜更けの粘度を増やしていた。史人は会計を済ませようと財布を出した。いつも通りの動きだ。店で無駄に格好をつける気はない。けれど今夜は、隣に律がいる。それだけで、財布の開け方が妙にぎこちなくなる気がして、史人は手元を見ないようにした。串田がレジに立ち、史人の方を一瞥する。視線は短いが、必要な情報を含んでいる。史人が飲んだ量、食べたもの、疲れ具合、そして隣にいる律の酔い具合。串田はそれを全部、言葉にしないまま把握する。把握して、必要なことだけをする。串田は史人に会計額を告げ、史人が出した紙幣を受け取った。釣り銭を返す指先が早い。指先が早いのに丁寧だ。宵だまりの生活は、こういう手の記憶でできている。米谷が立ち上がり、よろけるふりをした。「律くん、気をつけや。兄ちゃん、送ったってな」米谷がわざとらしく言う。わざとらしさが、この店の優しさの形だ。真面目に言ったら、踏み込みになってしまう。踏み込むと、息苦しくなる。だから茶化す。茶化して、必要な線だけ引く。史人は即座に否定したか
宵だまりの夜は、遅くなるほど柔らかくなる。客の声は少しずつ丸くなり、笑い声は角が取れて、氷の音に溶ける。油の匂いは揚げ物の甘さを含み、出汁の匂いは湯気と一緒に天井へ逃げる。換気扇の唸りだけが変わらず低く、店の骨格を支えていた。史人はカウンターの端で、空いたグラスを指先でなぞっていた。グラスの外側に残った結露の跡が、指の腹に冷たい線を引く。冷たさがあると、自分の輪郭がまだここにあると確かめられる。仕事の場では輪郭が薄くなる。名前も顔も、結局は「対応する人間」として一括りにされる。宵だまりでは、輪郭が少しだけ戻る。戻ると同時に、余計なものも見えてしまう。律は二つ隣で、ハイボールを二杯目にしていた。最初に入ってきたときの余裕は変わらないように見える。笑い方も声の高さも変わらない。けれど、飲む速度が上がっている。グラスが空になるまでが短い。短いのに、雑に飲まない。氷が歯に当たるような飲み方をしない。舌の上で味を確かめるように喉へ落とす。丁寧さが、逆に不安を呼ぶ。丁寧なまま急ぐ人間は、何かから逃げている。「律くん、いけるんかそれ」米谷が笑いながら言った。米谷の声はいつも大きいが、今は酔いでさらに大きい。テーブル席の方でも笑い声が上がり、宵だまりの狭い空間に声が重なる。声の層が厚くなるほど、史人は少しだけ楽になる。自分の鼓動が、他人の音に隠れるからだ。律は肩をすくめて、さらりと言った。「いけるいける」言葉は軽い。軽いのに、目が笑っていない瞬間がある。笑っていない目が、すぐに笑う目に戻る。戻り方が速すぎる。速いものは、いつか破れる。史人は仕事で、速すぎる笑顔が壊れる瞬間を何度も見てきた。串田がカウンターの向こうで、さりげなく律のグラスの位置を見た。視線は短い。すぐに手元へ戻る。気づいていても詮索しない。それが宵だまりのやり方だ。史人はそのやり方に救われてきた。救われてきたのに、今夜はそのやり方だけでは足りない気がした。律が笑って、米谷の話に適当に相槌を打つ。適当なのに場が崩れない。崩れないのに、律の指先だけが落ち着かない。グラスの底を親指で撫で、箸を置き直し、膝の上で指を開いて閉じる。癖だと片付けるには、動きが細かすぎる。落ち着かな
宵だまりの空気が少しだけ温まってきたころだった。だし巻きの皿が空に近づき、ビールの泡が薄くなると、店内の雑音がひとつの膜みたいに重なる。笑い声は遠くならず、近すぎもしない。誰かの会話の断片が耳に触れては溶け、氷の音がそのたびに輪郭を整える。史人はその膜の中で、ようやく肩の位置を思い出していた。上がりっぱなしの肩を少し下ろしても、誰にも責められない場所だと身体が理解し始めていた。カウンターの端で、史人はビールをひと口飲んだ。苦味が舌に残る。その苦味を飲み込むと、胃の奥が温かくなる。温かくなるだけで、心の奥に張り付いていた緊張が数ミリ剥がれる。剥がれると同時に、剥がれた下にある空白が見えそうになって、史人は視線を木目へ落とした。空白を見ると、今夜の救いが嘘みたいに思えてしまう。「兄ちゃん、ほんまに人間戻ってきたな」米谷が隣から囁くように言って、すぐにいつもの大きさで笑った。笑い声が店の壁に当たって返り、また吸い込まれる。史人は返事の代わりに、グラスを軽く持ち上げた。乾杯の形を作ると、米谷も勝手にグラスを寄せてくる。カチンと氷が触れ合い、澄んだ音がした。音がするだけで、胸の中のざわつきが少し整う。串田がカウンターの向こうで皿を拭いていた。濡れ布巾が陶器を擦る音は、仕事のキーボードよりずっと優しい。指先に伝わる摩擦が想像できる音だ。想像できることが、生活の感覚だった。引き戸が開いたのは、そのときだ。外の冷気が一瞬、店内の温度を押し分けた。暖簾が揺れ、湿った夜の匂いが入ってくる。雨上がりの土とアスファルトの匂い。そこに、かすかな香水の気配が混ざった。強くはない。けれど、宵だまりの出汁と油の匂いに混ざると、やけに目立つ。史人は反射で入口を見た。男が立っていた。背は高い。派手な服ではないのに、妙に整って見える。髪は無造作に見えるのに、乱れている感じがしない。顔立ちは、ぱっと見はそこまで主張しない。しかし目が、印象を決めてしまう種類の目だった。軽く笑っているのに、奥の方が冷えている。冷えているというより、冷やしている。自分で温度を調整しているみたいな目。男は店内を見渡し、すぐに空気を掴んだ。掴み方が速い。初めての場所の
宵だまりの中は、外より少しだけ時間が遅かった。暖色の照明が空気を柔らかくして、壁の短冊メニューの文字まで丸く見せる。換気扇の低い唸りが天井に張り付き、氷がグラスに当たる乾いた音が、ときどきその唸りを裂く。誰かの笑い声が跳ねて、すぐに油の匂いと出汁の匂いに吸い込まれる。その雑多さが、史人の胸に溜まった硬いものを少しずつほぐしていく。史人はカウンターの端の席に腰を落ち着けた。椅子の木が少しだけ軋む。背もたれはない。背筋を預けられない椅子の方が、今の史人には合っていた。預けた瞬間に崩れてしまう気がして、崩れた自分を見られるのが怖い。史人は会社用スマホを伏せたまま、指先で位置を確かめた。伏せても重さは消えない。黒い画面は、まるで虫の背中みたいに鈍く光を吸う。史人はその背中を見ないようにして、店内の音に意識を向けた。厨房で包丁がまな板を叩く音がして、油が弾ける。誰かが笑って、誰かが咳払いをする。空気が生きている。仕事場の空気とは違う。仕事場は、空気そのものが評価の匂いをしている。ここは評価ではなく、生活の匂いがする。「兄ちゃん、今日も目ぇ死んでるな」米谷正志の声が、隣から飛んできた。中年の男で、背が高いわけでもないのに声だけが大きい。肩で笑って、勝手に距離を詰めてくる。宵だまりの常連は、こういう雑な優しさでできている。史人は反射で口角を上げかけて、すぐに戻した。笑うための筋肉が固まっている。意識すると余計にぎこちない。「生きてます」史人が言うと、米谷は鼻で笑った。「それ、死んでるやつが言うやつや」米谷はグラスを揺らし、氷を鳴らした。ハイボールの薄い香りがふわりと漂う。史人はその匂いを嗅いだだけで、喉の奥が乾いていることに気づいた。カウンターの向こうで串田剛が手を止めた。店主は、派手な動きはしない。無駄な愛想も振りまかない。それでも視線だけで客の状態を拾う。拾ったものを口にせず、実務で返す。串田は史人の前に水の入ったコップを置いた。氷は入っていない。冷たすぎない水。喉を刺激しない温度。史人がそれを口にしたときに、身体がびくっとしないように計算された温度だった。「ありがとう」