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幼馴染を選んだ夫の結末

幼馴染を選んだ夫の結末

作家:  匿名完了
言語: Japanese
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概要

切ない恋

逆転

ドロドロ展開

愛人

ひいき/自己中

妻を取り戻す修羅場

千利と口をきかない状態になってから一か月。 彼は音楽フェスティバルのVIPリストバンドを二本差し出し、結婚記念日に一緒にフェスを見に行こうと私を誘った。 あの日、私は念入りに身支度を整えた。 けれど、入場ゲートでチケットを確認する段になっても、彼は現れなかった。 仕方なく一人で入ろうとリストバンドを取り出そうとしたとき、バッグの中からそれが消えていることに気づいた。 ちょうどそのとき、千利の幼なじみである凪希がSNSを更新した。 写真には、真面目な顔でピンクの綿あめを掲げる千利の姿が写っている。 いつもの冷徹なエリート然とした雰囲気とはまるで別人だった。 添えられた文は―― 「ついにドミ・ドラ様に会えました~!いつでもお願いを聞いてくれるあの人に感謝」 バッグの空っぽの仕切りを見つめながら、私はすべてを悟った。 もし以前の私だったら、千利と激しく言い争い、理由を問い詰めていたはずだ。 けれど今は、ただ肩の力が抜けるような感覚しかなかった。 5年。 積み重なった失望があまりにも多すぎて、もう疲れてしまった。

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第1話

第1話

矢田部千利(やたべ せんり)に18回電話をかけたが、彼は一度も出なかった。

VIP入口の外では人々が熱狂し、歓声が次々と湧き上がっているのに、私の耳に届くのは冷たい機械音声だけだった。

本当は、もう薄々わかっていた。

千利は、また私を裏切ったのだ。

それでも、どうしても答えが欲しくて、私は何度も何度も電話をかけ続けた。

聞き慣れた呼び出し音が繰り返されるたび、心が少しずつ沈んでいく。

フェスはちょうど最高潮を迎えているらしく、会場内からは耳をつんざくような歓声が響いてきた。

重低音がフェンス越しにも伝わり、地面が震えているのがわかる。

その熱気はチケットを持たない外の観客たちにも伝染し、皆がペンライトを振りながら叫んでいた。

その中で、私だけがスマホを握りしめたまま、場違いに立ち尽くしていた。

画面に表示された27件の不在着信を見て、ふと、彼が来るかどうかなんて、もうどうでもいい気がしてきた。

一か月の冷戦が終わるかもしれないという、あのわずかな期待は、この27回の電話で完全にすり減ってしまった。

たとえ今千利が駆けつけてきたとしても、もうやり直そうという気持ちは残っていない。

深く息を吸い、気持ちを整えると、私は一人で入場しようとバッグを開いた。

千利に気分を台無しにされたとはいえ、この音楽フェスティバルは、私が十年以上も好きで追い続けてきたバンドのトリのステージだ。

子どもの頃からずっと来たいと思っていた場所。

せっかく手に入れたVIPリストバンドだ、一人でも絶対に入る。

そう思って仕切りを開いた瞬間、頭の中で何かが弾けた。

――何もない。

数日前、大事にしまっておいたはずの二本のリストバンドが、消えていた。

どこかに入れ替えたのかと必死に記憶を辿っていると、スマホが通知音を鳴らした。

開いてみると、小熊凪希(おぐま なぎ)がSNSを更新した。

そこには、ピンクの綿あめを手に、どこかぎこちない表情で立つ千利の姿。

普段の冷静沈着で全てを掌握するエリート像とは、まるで噛み合っていない。

添えられた文は――

【ついにドミ・ドラ様に会えました~!いつでもお願いを聞いてくれるあの人に感謝】

どうしても繋がらなかった電話と、消えたリストバンド。

そのすべてが、一瞬で繋がった。

千利の昔なじみのグループチャットでは、共通の友人がそのスクリーンショットを共有していた。

【え、千利本当にフェス行ってるのか?】と朋輝。

【完全に凪希に惚れ惚れだな】と知里が続く。

【今週末は奥さんと予定あるって言ってなかったっけ......?】と別の誰か。

彼らは口々に、千利にとって凪希がどれだけ特別か、二人がどれだけ仲がいいかを語っていた。

――誰一人として、私のことには触れない。

結婚して5年になる、本当の妻であるこの私のことを。

朋輝が「パーティーに誘ったのに忙しいっていう理由で断られたよ」と書いているのを見て、私は一瞬ぼんやりした。

数日前、千利がバルコニーで電話していたとき、「行けない」「週末は用事がある」といった言葉がリビングにかすかに聞こえてきたのを思い出す。

あのときの私は、少し浮かれていた。

今日の約束を、彼はちゃんと大事にしてくれているのだと。

これまで音楽フェスティバルなんて興味がないと言っていた彼が、わざわざ友人の誘いを断ってまで、私に付き合ってくれるのだと。

だから私は、この日の夜のレストランも早々に予約していた。

フェスのあと、こちらから少し折れて、この一か月のケンカに終止符を打とうと思っていた。

――確かに、千利はこの約束を大事にしていた。

ただし、相手は私ではなく、凪希だった。

しかも彼女を中に入れるために、私に渡したはずのリストバンドまで、こっそり持ち去っていたのだ。

思わず、自分がひどく滑稽に思えた。

VIP入口の外で、彼を待ちながら焦っていたあの時間。

その頃にはもう、彼は凪希と一緒に中へ入っていたのだ。

私に残されたのは、空っぽのバッグと、決して繋がらない電話だけ。

もしかして最初から、私と一緒に見るつもりなんてなかったのではないか。

ただ形だけ取り繕って、適当にあしらっていただけではないか。

――そんな考えが、頭をよぎる。

彼が珍しく歩み寄ってきたのだと、私は勝手に期待していたのに。

考えているうちに、頬がかすかにむずがゆくなった。

手で拭うと、手のひらがしっとりと濡れていた。

そのとき、隣でフェス配信を見ていた二人の女の子が、突然歓声を上げた。

「やば、甘すぎるでしょ。やっぱり理想の彼氏ってよその旦那だよね」

「真顔で綿あめ持って彼女の推し活に付き合うとか、そのギャップ最高すぎ!」

思わずそちらを見ると、画面の中で凪希が恥じらうように千利の胸に顔を埋めていた。

千利は彼女の腰をしっかりと抱き寄せ、二人はまるで恋人同士のように密着している。

その瞬間、胸の奥で何かがはっきりと砕ける音がした。

破片が心臓を内側から切り裂いていく。

――5年間の間違いも、もう終わりにすべきだ。

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第1話
矢田部千利(やたべ せんり)に18回電話をかけたが、彼は一度も出なかった。VIP入口の外では人々が熱狂し、歓声が次々と湧き上がっているのに、私の耳に届くのは冷たい機械音声だけだった。本当は、もう薄々わかっていた。千利は、また私を裏切ったのだ。それでも、どうしても答えが欲しくて、私は何度も何度も電話をかけ続けた。聞き慣れた呼び出し音が繰り返されるたび、心が少しずつ沈んでいく。フェスはちょうど最高潮を迎えているらしく、会場内からは耳をつんざくような歓声が響いてきた。重低音がフェンス越しにも伝わり、地面が震えているのがわかる。その熱気はチケットを持たない外の観客たちにも伝染し、皆がペンライトを振りながら叫んでいた。その中で、私だけがスマホを握りしめたまま、場違いに立ち尽くしていた。画面に表示された27件の不在着信を見て、ふと、彼が来るかどうかなんて、もうどうでもいい気がしてきた。一か月の冷戦が終わるかもしれないという、あのわずかな期待は、この27回の電話で完全にすり減ってしまった。たとえ今千利が駆けつけてきたとしても、もうやり直そうという気持ちは残っていない。深く息を吸い、気持ちを整えると、私は一人で入場しようとバッグを開いた。千利に気分を台無しにされたとはいえ、この音楽フェスティバルは、私が十年以上も好きで追い続けてきたバンドのトリのステージだ。子どもの頃からずっと来たいと思っていた場所。せっかく手に入れたVIPリストバンドだ、一人でも絶対に入る。そう思って仕切りを開いた瞬間、頭の中で何かが弾けた。――何もない。数日前、大事にしまっておいたはずの二本のリストバンドが、消えていた。どこかに入れ替えたのかと必死に記憶を辿っていると、スマホが通知音を鳴らした。開いてみると、小熊凪希(おぐま なぎ)がSNSを更新した。そこには、ピンクの綿あめを手に、どこかぎこちない表情で立つ千利の姿。普段の冷静沈着で全てを掌握するエリート像とは、まるで噛み合っていない。添えられた文は――【ついにドミ・ドラ様に会えました~!いつでもお願いを聞いてくれるあの人に感謝】どうしても繋がらなかった電話と、消えたリストバンド。そのすべてが、一瞬で繋がった。千利の昔なじみのグループチャットでは、共
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第2話
千利が帰宅したのは、すでに深夜だった。私はとっくに身支度を整えて、ベッドに横になっていた。以前の私は、彼に「家の温もり」を感じてほしくて、帰りが遅い日はいつも灯りを一つ残し、狭いソファに体を丸めて彼の帰りを待っていた。たとえ彼に冷たく言われても、やめようとは思わなかった。あれはただの照れ隠しで、本当は優しい人なんだと、勝手に思い込んでいた。――でも、今思えば、あれは本音だったのかもしれない。そして今夜、風呂上がりに広いベッドでゆったりと横になってみると、千利の言っていたことは間違っていないと、妙に納得してしまった。2メートルもあるベッドを使わずに、わざわざソファに縮こまるなんて、確かに自分から苦労を背負い込んでいただけだ。――もう二度と、あんな馬鹿なことはしない。背後から温かい体がぴたりと寄り添ってくる。同時に、甘ったるい香水の匂いが鼻先をかすめた。その香りには覚えがある。凪希がいつも使っている香水だ。かつては千利の腕に包まれるのが好きだった。嵐の中でようやく港に辿り着いた船のように、心から安心できた。なのに今、頭に浮かぶのは――凪希が彼の胸に顔を埋めていたあの姿。込み上げてくるのは、安らぎではなく、嫌悪感だった。私は思わず彼の手を振り払い、枕を抱えてゲストルームへ向かう。こんな反応は予想していなかったのだろう。以前なら、彼が横になるだけで、私はすぐにその腕の中へ潜り込んでいたのだから。「楓花(ふうか)、お前、どこへ行くんだよ。俺、一日中働いてやっと帰ってきたのに」――一日中働いて、ね。その空虚な言い訳に、思わず笑いがこみ上げる。凪希と一晩中遊んで、さぞお疲れなのだろう。私は静かに彼を見つめた。「今日が何の日か、覚えてる?」千利は眉をひそめ、露骨に苛立った顔をする。「何の日だよ。付き合って何日記念とか、何回目のデート記念とか?お前ら女って、そういうどうでもいい日をやたら大事にするよな。本当に理解できないよ」もうこの5年の関係に終止符を打つと決めている。それでも、その言葉は胸の奥を鋭く刺した。結婚一周年のときのことを思い出す。私は家でキャンドルディナーを用意し、彼の好きなレストランの料理を一生懸命作って、テーブルや花まで自分で飾りつけた。ドア
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第3話
証拠が目の前に突きつけられ、千利はもう言い逃れできなかった。嘘が暴かれたことで後ろめたさを覚えたのか、態度は少しだけ和らいだ。「ごめんって。本当はお前と行くつもりだった。でもあの日、凪希もフェスに行きたいって言い出して、リストバンドが取れなかったって。知ってるだろ、凪希と俺は幼馴染なんだ。だから断れなかった。次はちゃんとお前と行くから、それでいいだろ?」そう言いながら、彼は私の手を取って、軽く撫でる。――これでも、彼なりにはかなり譲歩しているつもりなのだろう。けれど、私にはただただ不快でしかなかった。私はその手を振り払い、そのままゲストルームへ向かう。背後から、苛立った声が飛んできた。「楓花!いい加減にしろよ、その性格じゃ誰もついていけないぞ!」カチッ、と音を立てて、彼は主寝室のドアに鍵をかけた。以前の私なら、その音を一番恐れていた。どんなに腹が立っていても、結局はドアの前で頭を下げ、入れてくれるよう頼んでいたはずだ。でも今夜は違う。私はただ静かにゲストルームのベッドに横になり、弁護士の友人・宮下紫音(みやした しおん)から送られてきた離婚協議書を眺めながら、そのまま朝まで眠りについた。翌朝、けたたましいドアの閉まる音で目が覚めた。ゆっくりとゲストルームから出ると、千利はすでに出勤した後だった。もう彼のために朝食を用意する必要もない私は、自分のために香ばしいアボカドトーストを作り、大きなオートミルクラテを淹れた。千利は朝はコーヒーに卵だけ。アボカドトーストなんて「おしゃれぶった食べ物だ」と言って嫌っていた。彼に合わせて、私はずっとそれを我慢してきた。久しぶりに食べるそれは、思っていた以上に美味しくて、胸の奥がじんわり満たされた。食事を終えると、書斎で離婚協議書を印刷し、バッグに入れて、千利の会社へ向かった。会社に着くと、受付に「アポイントがないとお通しできません」と止められる。結婚して5年、私は一度も会社で彼との関係を公にされたことがない。彼もまた、私を会社に来させようとはしなかった。たまに家に書類を忘れたときも、取りに来るのは彼のアシスタントである小林だけだった。――だから、社内で私を知っている人は誰もいない。仕方なく、私は千利に電話をかけた。繋がっ
続きを読む
第4話
凪希の目に一瞬、得意げな光がよぎった。手にしたクラフトカクテルを揺らしながら、にこやかに私の方へ歩み寄ってくる。「すみません......フェスのリストバンド、本当は楓花さんのだったって千利から聞いたの。『チケット取れなかった』って、何気なく彼に言っただけなのに、あなたに渡すはずだったのをそのまま私にくれて......ご迷惑をかけて、本当にごめんなさい」口では謝っているけれど、その言葉の端々からは、千利がどれだけ自分を大事にしているかを誇示する意図が透けて見える。――こんな駆け引きに付き合う気はない。私はただ、千利にサインをさせたいだけだ。「悪いけど、他人の家庭を壊そうとする人と話す気はないわ」その一言で、凪希の目がみるみる赤くなった。「え......どうしてそんなことを言うの?」私が入ってきてからずっと不機嫌そうだった千利が、すぐに立ち上がり、凪希を背後に庇う。「楓花、いい加減にしろよ。凪希は謝ってるのに、なんだその態度は」千利の後ろで、凪希は彼の袖をつかみ、いかにも傷ついたような表情を浮かべる。「千利......楓花さん、私たちのこと誤解してるんじゃない?」千利は「やっぱりな」とでも言いたげな顔で私を見た。「なんだ、まだ嫉妬してるのか?お前、ほんと一日中そういうことばっか気にしてるよな。その酒、凪希の分も含めて飲めよ。そうしたら昨日と今日のことは水に流してやる」二人の掛け合いを見ていると、思わず笑いがこみ上げてくる。たった一言で、ここまで都合よく話を膨らませられるなんて。脚本家にでもなればいいのに。私は冷たく千利を見据えた。「断る」その瞬間、彼の表情が険しくなる。グラスをつかみ、そのままこちらへ歩み寄ってきた。「お前......何もったいぶってんだよ」そう言いながら、無理やり私の口に押し付けようとする。私は顔を逸らしてそれを避け、そのままグラスを奪い取ると、床に叩きつけた。「触らないで!」ガシャン、と鋭い音が響き、グラスは粉々に砕け散る。飛び散った破片が千利の手の甲をかすめ、細い傷を作った。一瞬で、部屋が静まり返る。千利は自分の手の傷を見下ろし、呆れたように笑った。「最近、俺がお前に甘すぎたみたいだな。いいか、今日中に凪希と俺に謝らなかっ
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第5話
最初に反応したのは知里だった。場を取りなすように一歩前に出る。「もういいだろ、千利。今日は飲みに来たんだから、これ以上ややこしくするなよ」凪希も近づいて千利の袖を引いたが、その目の奥には、はっきりとした得意げな光が宿っていた。「千利、やっぱり喧嘩はよくないよ」千利はテーブルの封筒に目をやり、冷笑を浮かべる。「どう見ても楓花のせいだろ。大した度胸だな、離婚で俺を脅すなんて」彼は離婚協議書を手に取り、ぱらぱらとめくると、バン、と音を立ててテーブルに投げ戻し、冷ややかな視線を私に向けた。「もうサインまでしてあるのか。俺が折れるまで、そうやって追い詰めるつもりか?」私は静かに彼を見返した。「私は本気よ」千利の口元に、皮肉な笑みが浮かぶ。「本気で俺と離婚できると思ってるのか?最初にしつこくまとわりついてきたのは、お前の方だろ」――千利と出会ったのは大学だった。彼は学内でも有名な存在だった。名門大学を出て、さらに海外でMBAを取得し、家は百年続く資産運用会社を営んでいる。一方の私は、普通の中流家庭の出身。父は高校の歴史教師、母は小学校の音楽教師。奨学金を頼りに公立大学へ進学した。あるときの学内コンペで、偶然にも彼と同じチームになった。リーダーは当然のように千利。私はただ、その横で黙々と作業する目立たない存在だった。けれど、彼が課題を分析し、計画を立てていく姿を何度も見ているうちに、気づけば心を奪われていた。それから私は、彼を追いかけ始めた。キャンパスで偶然を装って何度も顔を合わせ、少しでも印象に残ろうとした。どれだけ冷たくあしらわれても、やめようとは思わなかった。大学四年間、彼に想いを寄せる女子は少なくなかった。けれど、あの人を寄せつけない態度に、皆途中で諦めていった。――最後まで残ったのは、私だけだった。友達の松本望(まつもと のぞみ)は、よく冗談めかして言っていた。「その根気があれば何だってできるのに、どうして一人の男にそこまで執着するの?」あの頃の私は、無邪気に思っていた。何でもできるなら、千利だってきっと振り向かせられる、と。たぶん、運が良かったのだと思う。卒業前、いつものように「偶然」を装って彼と出会った。もう期待はしていなかった
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第6話
私は振り返らずに歩き出した。家にはまっすぐ帰らず、友達の望を誘ってアフタヌーンティーに行く。離婚すると聞いた彼女は、少し驚いた様子だった。「昔は完全に彼一筋だったじゃない。てっきり一生あの人に縛られるんだと思ってたよ」――22歳の楓花は、きっと想像もしなかっただろう。29歳の自分が、自分からあの人と離婚しようとするなんて。ほんの数日前まで、私自身も離婚なんて考えたことはなかった。けれど実際には、「離婚」という二文字は、ずっと頭の上にぶら下がる剣のようなものだった。いつ落ちてくるか分からない不安を、ずっと抱えていた。口にしてしまえば、千利はきっと迷いなく頷く。そう思うと怖くて、どれだけ激しく言い争っても、どれだけ長く冷たくされても、私は一度もその言葉を口にしなかった。――でも、いざ言ってみると......心に残ったのは、不思議なほどの軽さだった。もう千利の顔色をうかがう必要もない。夜中に一人で泣くこともない。何度も何度も、胸が締めつけられるような痛みを味わうこともない。私たちの結婚は、ほんのわずかな「甘さ」で、どうにか保たれていただけだった。私はずっと、自分に言い聞かせていた。千利も、ちゃんと私のことを愛しているのだと。でなければ、どうして恋人にしたのか。どうして結婚までしたのか。それに、一緒にいる間、確かに幸せだと感じた瞬間もあった。けれど今になって思えば......あの「幸せ」は、千利の機嫌がいいときに、気まぐれに与えられたものに過ぎなかったのかもしれない。もう、とっくに壊れていた幻想だった。望とは午後いっぱい一緒に過ごし、そのまま夜はバーで思いきり遊んだ。気づけば、帰宅は深夜になっていた。ドアを開けると、千利がソファに座っていた。思わず足が止まる。――彼が私の帰りを待っているなんて、これまで一度もなかった。私の体に残る強い酒の匂いに気づいたのか、千利は眉をひそめ、冷たく言い放つ。「こんな時間まで外で飲み歩いてたのか。いいご身分だな」思わず呆れてしまう。もう離婚するのに、何をそんなに口出ししてくるのか。「離婚のこと以外で話しかけないで」そう言って寝室へ向かおうとすると、千利が私の手首を強く掴んだ。「拗ねるのもいい加減にしろ。今
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第7話
千利は私の手首を掴んだまま、無意識に力を込めた。痛みに顔をしかめ、私はその手を振り払う。「用はこれだけ?もう寝るから。その書類、早くサインして」そう言って背を向けた瞬間、背後からいきなり抱きしめられた。耳元で、かすれた声が落ちる。「俺は......離婚したくない」その声が、かすかに震えているのが分かった。「凪希の面倒を見てるのは、昔からの付き合いだからだ。それ以外の理由はない」――何を言っているのか、よく分からなかった。これまで、彼が私にそこまで執着しているようには見えなかった。むしろ、彼の中での優先順位は、どう見ても凪希の方が上だった。なのに今さら、離婚は嫌だと言う。――でも、私はもう決めている。力を込めて、彼の腕から逃れようとする。「そんなことはどうでもいい。離して」けれど千利の腕は、ますます強くなるばかりだった。体を押し付けるように密着し、顔を私の首元に埋める。呼吸は荒く、熱い。仕立てのいいスーツは皺だらけになり、整えられていた髪も乱れている。いつも完璧で隙のないその男が、まるで溺れかけている人間みたいに、みっともなく見えた。「楓花......本当にごめん、俺が悪かった......」くぐもった声が肩口に落ちる。これまで一度も聞いたことのない、脆さを帯びた声音だった。「もう一度だけ、チャンスをくれないか」彼の目が、うっすらと赤くなっている。7年間一緒にいて、彼がこんな顔をするのを見たのは、初めてだった。――もし昔の私だったら、きっとこのまま、何もかも忘れて彼の胸に飛び込んでいた。けれど今は、ただ皮肉にしか感じられない。「そうだ......子どもを作ろう」唇が耳元に触れ、ほとんど懇願するような声が落ちてくる。「子どもがいれば、楓花も変なことを考えなくなる。俺たち、やり直そう、な?」思わず、笑いそうになった。――この人、本気でそう思ってる?子どもさえいれば、すべて解決すると思っているのか。もし本当に子どもができたら、その子にも、私と同じ思いをさせるつもりなのか。父親の帰りを、毎日待ち続けるような生活を。――そんな家庭に、私は絶対に子どもを生ませたくない。「だから離してって!」手を上げて彼を叩こうとしたそのとき、テーブ
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第8話
引っ越しの日の夜、私は望と仲のいい友達を何人か招いて、新居のお披露目パーティーを開いた。新しい生活のスタートを祝う意味も込めて。みんな気を遣って、離婚のことには触れなかった。代わりに若い頃の思い出話で盛り上がり、部屋の中は終始、笑い声に包まれていた。その合間に、メッセージアプリを開くと、千利から十数件の連絡が来ていた。【どこにいる?まだ帰ってこないのか?】【家のもの、なんでこんなに減ってるんだ?結婚写真もなくなってる】【服もバッグも全部ない......引っ越したのか?】【本気で離婚するつもりか?】【凪希とは本当に何もないって。昨日は危険だったから行くしかなかった。どうして分かってくれないんだ】【返事しろよ、無視するな】......一つひとつスクロールしながら、私は思わず笑ってしまった。凪希が帰国したあの日、千利はあの仲間たちと歓迎パーティーを開き、一晩中帰ってこなかった。私は何通もメッセージを送ったのに、彼は一つも返信しなかった。ソファに体を丸めて、そのまま一晩中、彼を待っていた。翌朝になってようやく、酒の匂いをまとって帰ってきた彼に問い詰めると、返ってきたのはたった一言――「気づかなかった」。だから今度は、彼の番だ。立て続けに送られてくるメッセージを見ながら、あのときの彼の苛立ちが、少しだけ分かる気がした。私は離婚の件に関するメッセージにだけ返信した。【そんなことより早めにサインして】送信した瞬間、すぐに千利から電話がかかってきた。けれど私は出なかった。スマホをサイレントにして放り出し、そのまま友達との会話に戻る。その後の数日間も、私は彼を急かすことはしなかった。――自分で考えさせればいい。その合間に、久しぶりに実家へ帰り、離婚のことを両親に伝えた。父は何も言わず、ただ小さくため息をついた。母は私をそっと抱きしめてくれた。「お父さんも私も、最初から千利は冷たい子だって思ってたの。あなたが結婚したら、きっと辛い思いをするって。だから離婚して正解よ。楓花が幸せなら、それでいいの」その言葉を聞いた瞬間、胸が詰まり、涙が溢れた。母の腕の中で、私は思いきり泣いた。これまで積み重なってきた悔しさも、失望も、全部吐き出すように。――これから先、千利
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第9話
引っ越して一週間後、千利が訪ねてきた。玄関先に立つ彼の姿を見ても、私はまったく驚かなかった。この部屋を買ったとき、嬉しくて彼を連れて見に来たことがあったから。千利はひどくやつれた様子だった。目は充血し、顎には青い無精ひげが伸びている。仕立てのいいシャツも皺だらけで、襟元のボタンは二つ外れたまま。何日もまともに寝ていないように見えた。「楓花......俺と一緒に、帰ろう?」かすれた声は、これまで聞いたことのないものだった。私は眉をひそめる。「離婚するって言ったでしょ。言葉の意味がわからないの?」千利は感情的になり、一歩踏み出して私の手を掴もうとする。「どうしてそこまで離婚にこだわる?フェスのことか?次はちゃんと一緒に行くって言ってるだろ、それじゃダメなのか?」私はドアに手をかけ、彼の手を避ける。「何を言っても無駄よ」それでも彼は諦めず、言い募る。「凪希は何年も海外にいたんだ。いきなりは慣れないだろうと思って、少し気にかけていただけだ。誓ってもいいぞ。俺と凪希は本当に何もない。もし楓花が気に入らないなら、これからは距離を置く。だから......」「無理」私は遮り、静かに彼を見つめた。――結局、彼は最初から分かっていたのだ。自分と凪希の距離が近すぎることを。ただ、それを気にしたことは一度もなかった。私が自分から離れないと、そう思い込んでいたから。騒ぎもしないし、ましてや離婚なんて言い出すはずがない、と。だからこそ、私が本気だと気づいて、今になって変わろうとしている。――でも、もう遅い。「二人のことは、もう私には関係ない。知りたいとも思わない。今の私が興味あるのは――いつその協議書にサインをするか、それだけ」そう言って、私は勢いよくドアを閉めた。彼の必死な声を、その向こうに遮る。防音の悪いドア越しに、彼がしばらくそこに立ち尽くしていたのが分かった。やがて、足音が遠ざかっていく。それから数日が経っても、千利はサインをしなかった。さすがに痺れを切らし、こちらから催促しようかと思っていたところで、先に動いたのは凪希だった。何を言うつもりなのか気になって、私は会うことにした。待ち合わせのカフェに行くと、凪希はすでに席についていた。二人きりに
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第10話
私はそのまま車を走らせ、千利の会社へ向かった。今回は止められても構わず、受付もアシスタントの小林も無視して、そのまま彼のオフィスに踏み込む。私の姿を見た千利は、少し驚いたあと、すぐに期待をにじませた。「楓花......?どうしてここに?許してくれたのか?」彼は小林に目配せして退室させ、オフィスには私たち二人だけが残った。その顔を見た瞬間、吐き気すら覚えた。昔はただ冷酷な人だと思っていた。でも今は違う――この人は、内側から腐っている。私は何も言わず、スクリーンショットを彼の前に差し出した。その反応を静かに見つめる。写真を見た瞬間、千利の顔から血の気が引いた。それでも無理やり口元に笑みを作る。「......誰からこんなものを?これは捏造だ!誰かが俺をハメようとしてるんだ!」私は冷笑し、続けて診療所の予約メールのスクリーンショットも突きつける。「陥れる?じゃあ凪希のお腹の子も嘘ってこと?」その一枚で、千利は完全に取り乱した。「......あの夜は、事故みたいなものだったんだ。本当はゲストルームで寝てたのに......大丈夫だ。凪希には子どもを産ませない。楓花こそが俺の妻なんだから!」――その言葉に、ぞっとした。私の中で、千利への気持ちは完全に砕け散った。今の彼は、まるでドブみたいで、ただ離れたいとしか思えない。「そんなのどうでもいい。協議書にサインしないなら、紫音に頼んで訴訟を起こす。証拠はもう全部揃ってるからね」千利の顔色は、みるみる青ざめていった。苦い笑みを浮かべながら、私を見る。「......ここまでしても、やり直す気はないのか?」私はバッグから離婚協議書を取り出し、彼のデスクに置いて押しやった。そのまま目を逸らさず、彼を見つめる。「サイン」ここまで来て、ようやく千利も理解したのだろう。私が本気で、この結婚を終わらせようとしていることを。そして訴訟になれば、自分の家の会社にまで影響が出ることも。彼はペンを取り、わずかに震える手で、自分の名前を書いた。私は書類を受け取り、踵を返す。背後から、かすかな声が落ちた。「......楓花、ごめん」振り返ることなく、そのまま部屋を出た。その日の午後、私たちは市役所で離婚手続きを済ませた。
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