ログイン千利と口をきかない状態になってから一か月。 彼は音楽フェスティバルのVIPリストバンドを二本差し出し、結婚記念日に一緒にフェスを見に行こうと私を誘った。 あの日、私は念入りに身支度を整えた。 けれど、入場ゲートでチケットを確認する段になっても、彼は現れなかった。 仕方なく一人で入ろうとリストバンドを取り出そうとしたとき、バッグの中からそれが消えていることに気づいた。 ちょうどそのとき、千利の幼なじみである凪希がSNSを更新した。 写真には、真面目な顔でピンクの綿あめを掲げる千利の姿が写っている。 いつもの冷徹なエリート然とした雰囲気とはまるで別人だった。 添えられた文は―― 「ついにドミ・ドラ様に会えました~!いつでもお願いを聞いてくれるあの人に感謝」 バッグの空っぽの仕切りを見つめながら、私はすべてを悟った。 もし以前の私だったら、千利と激しく言い争い、理由を問い詰めていたはずだ。 けれど今は、ただ肩の力が抜けるような感覚しかなかった。 5年。 積み重なった失望があまりにも多すぎて、もう疲れてしまった。
もっと見る私はそのまま車を走らせ、千利の会社へ向かった。今回は止められても構わず、受付もアシスタントの小林も無視して、そのまま彼のオフィスに踏み込む。私の姿を見た千利は、少し驚いたあと、すぐに期待をにじませた。「楓花......?どうしてここに?許してくれたのか?」彼は小林に目配せして退室させ、オフィスには私たち二人だけが残った。その顔を見た瞬間、吐き気すら覚えた。昔はただ冷酷な人だと思っていた。でも今は違う――この人は、内側から腐っている。私は何も言わず、スクリーンショットを彼の前に差し出した。その反応を静かに見つめる。写真を見た瞬間、千利の顔から血の気が引いた。それでも無理やり口元に笑みを作る。「......誰からこんなものを?これは捏造だ!誰かが俺をハメようとしてるんだ!」私は冷笑し、続けて診療所の予約メールのスクリーンショットも突きつける。「陥れる?じゃあ凪希のお腹の子も嘘ってこと?」その一枚で、千利は完全に取り乱した。「......あの夜は、事故みたいなものだったんだ。本当はゲストルームで寝てたのに......大丈夫だ。凪希には子どもを産ませない。楓花こそが俺の妻なんだから!」――その言葉に、ぞっとした。私の中で、千利への気持ちは完全に砕け散った。今の彼は、まるでドブみたいで、ただ離れたいとしか思えない。「そんなのどうでもいい。協議書にサインしないなら、紫音に頼んで訴訟を起こす。証拠はもう全部揃ってるからね」千利の顔色は、みるみる青ざめていった。苦い笑みを浮かべながら、私を見る。「......ここまでしても、やり直す気はないのか?」私はバッグから離婚協議書を取り出し、彼のデスクに置いて押しやった。そのまま目を逸らさず、彼を見つめる。「サイン」ここまで来て、ようやく千利も理解したのだろう。私が本気で、この結婚を終わらせようとしていることを。そして訴訟になれば、自分の家の会社にまで影響が出ることも。彼はペンを取り、わずかに震える手で、自分の名前を書いた。私は書類を受け取り、踵を返す。背後から、かすかな声が落ちた。「......楓花、ごめん」振り返ることなく、そのまま部屋を出た。その日の午後、私たちは市役所で離婚手続きを済ませた。
引っ越して一週間後、千利が訪ねてきた。玄関先に立つ彼の姿を見ても、私はまったく驚かなかった。この部屋を買ったとき、嬉しくて彼を連れて見に来たことがあったから。千利はひどくやつれた様子だった。目は充血し、顎には青い無精ひげが伸びている。仕立てのいいシャツも皺だらけで、襟元のボタンは二つ外れたまま。何日もまともに寝ていないように見えた。「楓花......俺と一緒に、帰ろう?」かすれた声は、これまで聞いたことのないものだった。私は眉をひそめる。「離婚するって言ったでしょ。言葉の意味がわからないの?」千利は感情的になり、一歩踏み出して私の手を掴もうとする。「どうしてそこまで離婚にこだわる?フェスのことか?次はちゃんと一緒に行くって言ってるだろ、それじゃダメなのか?」私はドアに手をかけ、彼の手を避ける。「何を言っても無駄よ」それでも彼は諦めず、言い募る。「凪希は何年も海外にいたんだ。いきなりは慣れないだろうと思って、少し気にかけていただけだ。誓ってもいいぞ。俺と凪希は本当に何もない。もし楓花が気に入らないなら、これからは距離を置く。だから......」「無理」私は遮り、静かに彼を見つめた。――結局、彼は最初から分かっていたのだ。自分と凪希の距離が近すぎることを。ただ、それを気にしたことは一度もなかった。私が自分から離れないと、そう思い込んでいたから。騒ぎもしないし、ましてや離婚なんて言い出すはずがない、と。だからこそ、私が本気だと気づいて、今になって変わろうとしている。――でも、もう遅い。「二人のことは、もう私には関係ない。知りたいとも思わない。今の私が興味あるのは――いつその協議書にサインをするか、それだけ」そう言って、私は勢いよくドアを閉めた。彼の必死な声を、その向こうに遮る。防音の悪いドア越しに、彼がしばらくそこに立ち尽くしていたのが分かった。やがて、足音が遠ざかっていく。それから数日が経っても、千利はサインをしなかった。さすがに痺れを切らし、こちらから催促しようかと思っていたところで、先に動いたのは凪希だった。何を言うつもりなのか気になって、私は会うことにした。待ち合わせのカフェに行くと、凪希はすでに席についていた。二人きりに
引っ越しの日の夜、私は望と仲のいい友達を何人か招いて、新居のお披露目パーティーを開いた。新しい生活のスタートを祝う意味も込めて。みんな気を遣って、離婚のことには触れなかった。代わりに若い頃の思い出話で盛り上がり、部屋の中は終始、笑い声に包まれていた。その合間に、メッセージアプリを開くと、千利から十数件の連絡が来ていた。【どこにいる?まだ帰ってこないのか?】【家のもの、なんでこんなに減ってるんだ?結婚写真もなくなってる】【服もバッグも全部ない......引っ越したのか?】【本気で離婚するつもりか?】【凪希とは本当に何もないって。昨日は危険だったから行くしかなかった。どうして分かってくれないんだ】【返事しろよ、無視するな】......一つひとつスクロールしながら、私は思わず笑ってしまった。凪希が帰国したあの日、千利はあの仲間たちと歓迎パーティーを開き、一晩中帰ってこなかった。私は何通もメッセージを送ったのに、彼は一つも返信しなかった。ソファに体を丸めて、そのまま一晩中、彼を待っていた。翌朝になってようやく、酒の匂いをまとって帰ってきた彼に問い詰めると、返ってきたのはたった一言――「気づかなかった」。だから今度は、彼の番だ。立て続けに送られてくるメッセージを見ながら、あのときの彼の苛立ちが、少しだけ分かる気がした。私は離婚の件に関するメッセージにだけ返信した。【そんなことより早めにサインして】送信した瞬間、すぐに千利から電話がかかってきた。けれど私は出なかった。スマホをサイレントにして放り出し、そのまま友達との会話に戻る。その後の数日間も、私は彼を急かすことはしなかった。――自分で考えさせればいい。その合間に、久しぶりに実家へ帰り、離婚のことを両親に伝えた。父は何も言わず、ただ小さくため息をついた。母は私をそっと抱きしめてくれた。「お父さんも私も、最初から千利は冷たい子だって思ってたの。あなたが結婚したら、きっと辛い思いをするって。だから離婚して正解よ。楓花が幸せなら、それでいいの」その言葉を聞いた瞬間、胸が詰まり、涙が溢れた。母の腕の中で、私は思いきり泣いた。これまで積み重なってきた悔しさも、失望も、全部吐き出すように。――これから先、千利
千利は私の手首を掴んだまま、無意識に力を込めた。痛みに顔をしかめ、私はその手を振り払う。「用はこれだけ?もう寝るから。その書類、早くサインして」そう言って背を向けた瞬間、背後からいきなり抱きしめられた。耳元で、かすれた声が落ちる。「俺は......離婚したくない」その声が、かすかに震えているのが分かった。「凪希の面倒を見てるのは、昔からの付き合いだからだ。それ以外の理由はない」――何を言っているのか、よく分からなかった。これまで、彼が私にそこまで執着しているようには見えなかった。むしろ、彼の中での優先順位は、どう見ても凪希の方が上だった。なのに今さら、離婚は嫌だと言う。――でも、私はもう決めている。力を込めて、彼の腕から逃れようとする。「そんなことはどうでもいい。離して」けれど千利の腕は、ますます強くなるばかりだった。体を押し付けるように密着し、顔を私の首元に埋める。呼吸は荒く、熱い。仕立てのいいスーツは皺だらけになり、整えられていた髪も乱れている。いつも完璧で隙のないその男が、まるで溺れかけている人間みたいに、みっともなく見えた。「楓花......本当にごめん、俺が悪かった......」くぐもった声が肩口に落ちる。これまで一度も聞いたことのない、脆さを帯びた声音だった。「もう一度だけ、チャンスをくれないか」彼の目が、うっすらと赤くなっている。7年間一緒にいて、彼がこんな顔をするのを見たのは、初めてだった。――もし昔の私だったら、きっとこのまま、何もかも忘れて彼の胸に飛び込んでいた。けれど今は、ただ皮肉にしか感じられない。「そうだ......子どもを作ろう」唇が耳元に触れ、ほとんど懇願するような声が落ちてくる。「子どもがいれば、楓花も変なことを考えなくなる。俺たち、やり直そう、な?」思わず、笑いそうになった。――この人、本気でそう思ってる?子どもさえいれば、すべて解決すると思っているのか。もし本当に子どもができたら、その子にも、私と同じ思いをさせるつもりなのか。父親の帰りを、毎日待ち続けるような生活を。――そんな家庭に、私は絶対に子どもを生ませたくない。「だから離してって!」手を上げて彼を叩こうとしたそのとき、テーブ