LOGIN「……ゼイク、なるべく息をするな」
「言われるまでもない。これはサキュバス特有の気のせいではない。
ベルタの潜伏する豪奢な部屋全体が、退廃的で粘り気のある桃色の霞に深く沈み込んでいた。 極上の果実酒の樽に、頭の先まで漬け込まれたようなねっとりとした酩酊感。 呼吸をするたびに視界が揺らぎ、思考の輪郭が曖昧にぼやけそうになる。 俺はパープル・ミラージュの効果により、精神干渉を弾く呪具の恩恵で辛うじて正気を繋ぎ止めている状態だ。「ぐふっ……アヒヒッ……気持ちいいなぁ」
だが、腕利きの冒険者たちは違った。
彼らは全員が瞳の焦点を完全に失い、だらしなく口を開けて恍惚の表情を浮かべている。 歴戦の証であるはずの分厚い筋肉は弛緩し、手にした大剣や槍の切っ先は力なく床へと垂れ下がっていた。 己の野心も、生への執着も、全てを甘い毒に溶俺たちが武器を構えて歩みを止めると、ベルタは余裕に満ちた妖艶な微笑みを浮かべ薄い唇を開いた。「ボス戦には相応しい場所でしょ?」 ボスセン? 漆黒の翼を広げたベルタの口から出た妙な言葉の意味は分からなかったが、その表情はどこか余裕に満ちており自信ありげだった。 背後で燃え盛る屋敷から吹き付ける熱風が、彼女の金色の髪を妖しく揺らしている。「このときを待ちかねていたぞ」 俺の隣でゼイクが深緑の片刃剣をゆっくりと構えた。 ギリ、と柄を握りしめる音が静まり返った夜の庭園に異様に響く。 刀身から溢れ出す淡い緑色の魔力オーラが、彼の抑えきれない怒りに呼応するように明滅していた。「あら、貴方はあのときに集めた冒険者の一人よね? 私の誘惑の甘息が効かなかったのかしら。何か『高耐性』のアイテムでも装備しているのか……それとも……」 ベルタはゼイクの装備を値踏みするように眺めながら、憮然とした顔で言う。 まるで目の前の命のやり取りすら、盤上のゲームか何かのように捉えているような人工的で不気味な響きがあった。「黙れ……! 我が息子ダミアンの仇、ここで取らせてもらうぞ!」「ダミアン……?」 その名を聞いた瞬間、ベルタはピクリと眉をひそめた。 だが、ほんの一瞬見せた動揺の影をすぐに振り払い冷酷な妖魔の笑みを浮かべた。「ふふっ、そんなお人好しのバカな人間もいたわね。私を救うなんて『イベント』でもないのに」「貴様……ッ! ダミアンを侮辱する気かッ!」 全身を怒りに震わせ、首筋に青筋を立てて激昂するゼイク。 対してベルタは意に介す様子もなく、ピンヒールで庭園の石畳をコツ、と鳴らして淡々と続ける。「ええ、彼はいい男だったわ。私の見せる『夢』に溺れて……楽しい人だった。そんなお人好しだからこそ『ルール』を破って早死にしたわね。勇者
燃え盛るベルタの私室から、俺はラナンを抱え上げて窓を蹴破った。 鼓膜を打つ爆音と砕け散るガラスの雨を抜け、夜の庭園へと飛び降りる。 着地の衝撃を曲げた膝で殺して地面に降り立ち、背後を振り返った。 ゴルベガスの夜闇の中、豪奢なバルザットの屋敷は地下から噴き上がった業火に包まれ、赤々と燃え上がっていた。 熱風が頬を焼き、焦げた木材の匂いが鼻を突く。 火元がどこからかは分からない。 しかし、そんなことは俺にはどうでもよかった。今は逃げたベルタを追うのが先だ。「……いつまで抱き抱えてるのよ。さっさと離して」 腕の中にいるラナンが、俺の胸板を押しのけながら抗議してきた。 見れば、不機嫌そうに顔を背けるその白い頬が僅かに桜色に染まっている。燃え盛る火の熱で火照ったのだろうか。「すまんな。怪我はないか?」「気安く触らないでよね。人間ごときに心配される筋合いはないわ」 俺が腕を解くと、ラナンはそっぽを向いてローブの埃を払いながら急いで距離を取った。 怒ったような口調なのは、やはり俺が不用意に触れたからだろうか。「痴話喧嘩はそこまでにしておけ。ベルタを追うぞ」 不意にため息混じりの声が聞こえ、視線を向けると少し離れた場所にゼイクが立っていた。 燃え盛る炎を背にしながらも、彼の態度はベテランらしくひどく落ち着いている。 腰に手を当て、ヤレヤレといった表情を浮かべていた。「ベルタはどこへ逃げた? 飛んで逃げられたら、暗闇じゃ追いきれないぞ」「簡単なこと推理を展開しよう。あそこに足跡を追えばヤツに会える」 ゼイクが顎でしゃくった先。 手入れの行き届いた庭の芝生に、ベルタが履いていたヒールの足跡がはっきりと残されていた。 その足跡は屋敷の奥に広がる大庭園へと真っ直ぐに続いている。 空を飛べるはずのサキュバスが残した、わざとらしいまでの痕跡。 これは罠か、それとも誘い込んでいるのか――。「ところでゼイク。追う前に一つ聞いておきた
ベルタの私室を目指し、薄暗い屋敷の中を急ぐ俺たち。 屋敷内の使用人に擬態した魔物や操られた警備兵との戦闘を覚悟し、最大限に警戒していたが――。「おかしい。屋敷内にまるで人がいないぞ」「……ええ。私が『薄暮の催眠』で眠らせた衛兵以外、人の気配がすっかり消え失せているわ。地下の騒ぎに気づいて逃げ出したのかしらね」「――薄暮の催眠。催眠呪文か」「色々と魔法は覚えてるからね」 ラナンが油断なく周囲を見渡しながら、冷静に状況を分析する。 俺たちは微かな違和感を抱きつつも、目的の部屋の重厚な扉を勢いよく蹴り開けた。 そこには、グラスに注がれた赤いワインを静かに揺らすベルタの姿があった。「いらっしゃい、殿方たち。随分と騒がしい夜ね」 ベルタは特に慌てる様子も見せず、妖艶な微笑を浮かべている。 そして、先頭に立つゼイクを見据えて言った。「あなた……私の『誘惑の甘息』に掛かっていなかったの?」「ああ。これのお陰でね」 ゼイクは胸元から引きずり出した銀のチェーン――『蒼月鉱の首飾り』を見せつけた。「それは……ッ!」 洗練された双翼の銀細工を見た瞬間、ベルタの顔から余裕が消し飛んだ。 これまで冷徹だった妖魔が、明確な動揺を露わにする。「これは俺の息子、ダミアンの遺品だ……お前が甘い言葉で弄び、破滅させて殺した男の片割れだ」「……息子ですって?」 ゼイクの息子。そして、ベルタによる過去の凶行。 思いもよらない因縁に、俺とラナンは息を呑んだ。 ――ガチャ……ガチャ……ッ! 突如、重々しい金属音が部屋に響いた。 壁際に飾られていた黄金の甲冑が、自らの意志を持ったように動き出したのだ。「鎧が動いたぞ!」「……ふふっ。おしゃべりはここまでよ。こいつらを肉塊に変えなさい!」「グルオオオォォ!!」 黄金の兜の奥から覗いたのは、斑点模様の毛皮を持つ獣の顔――ジャガーマンだ。 ベルタが洗脳した眷属の魔物らしい。 鎧兵が立ちはだかる隙に、ベルタは素早く部屋の大きな窓を開け放った。「あなた、逃げる気?」 ラナンが鋭い声を飛ばす。「逃げるが勝ちって言うでしょ? ごきげんよう!」 ベルタは嘲笑を残し、暗い夜の窓の外へと身を躍らせた。「あっ……逃げたわよ!」「貴様らの相手はこの俺
屋敷の最奥にある、ひどく露悪的で豪勢な部屋。 足元には北方の雪山でしか狩れないという希少なスノータイガーの毛皮が敷き詰められ、壁際には悪趣味な黄金の甲冑がずらりと並んでいる。 天井から下がるシャンデリアは魔光石を惜しげもなく使い、夜の闇を真昼のように白々と照らし出していた。 この過剰なまでの贅沢はバルザットが、私の歓心を買うために貢いだものだ。「本当に……人間はバカよね」 ため息混じりに唇から漏れた声は、広すぎる部屋に虚しく吸い込まれていく。 黒檀の分厚い机には、山のような宝石や装飾品が無造作に積まれている。 ジェダイトの首飾り、アメジストのブローチ、大粒のダイヤモンドをあしらったティアラ。 ……どれもこれも……。 彼が領民から搾取し、地下の闇カジノで敗者たちの血と肉をすり潰して得た、汚い欲望の結晶。「こんな血生臭い石ころで、私の心が縛れるとでも思っていたのかしら」 血のように赤いシングルソファに腰を下ろした私は足を組み、頬杖をつきながら、それら宝石をひどく退屈な気分で眺めていた。 バルザットは本当に愚かな男だった。 私のような妖魔が『誘惑の甘息』を本格的にかけるまでもなかった。 少し上目遣いで微笑みかけ、潤んだ瞳で見つめるだけで勝手に理性を手放し、破滅への階段を喜んで転げ落ちていった。 彼が私に捧げた愛の言葉も、狂気じみた執着も、すべては滑稽で吐き気がする。 だが、その滑稽な人間を裏で操り、闘技場で魔物の餌食にして|嬲《なぶ》り殺しにさせていた私自身もまた……等しく滑稽な操り人形に過ぎない。「……ふぅ……」 私は吐き出した紫煙を見つめる。 そう、この世界に『配置された』存在にすぎない。 この世界は絶対的な造物主が、自らの慰みとして作った巨大な箱庭。 私はその盤上に置かれた、ただの駒。 勇
闘技場の中央、オレとドビーダスの視線が激突する。 そこに、かつて同じ山を駆け回った親友としての情は微塵もなかった。「越えてはならない一線だと?」 「そうだ。お前は力を高めるために同胞を殺した」 オレは今、ドビーダスを明確な『敵』として見据えている。 新生魔王軍に反乱を目論む妖魔ベルタの駒となり、同族を屠って経験値を得る。 オレたち魔物には魔物なりの、過酷な世界を生き抜くための矜持とルールがあるはずだ。「ケッ! 人間の魔王なんぞに仕えてるテメェに言われたくないなッ!」 「……人間の軍門に下ったのは生きるためだ。だが、お前のように魂までは売っちゃいねェ」 ジリジリと間合いを詰めながら、オレはハンバルと背後で暴れ回る魔物たちに向けて短く告げた。「お前ら、手を出すなよ」 「誰が手を出すものか。存分にやれ」 ハンバルは腕を組み、静かに闘技場の壁際へと退いた。 ドビーダスは奪い取った剣に、毒々しい魔力を込める。刃が紅蓮の炎を纏う『魔法剣』の構えだ。 本来、オレたちワーウルフやハイエナ人といった獣人種には、あんな強力な火属性の魔法など持ち合わせていねェ。「驚いたか、フサーム。俺はただ力をつけただけじゃねェんだよ! 見ろよ! この赤い毛並みをッ!」 「それがどうした」 「これは大聖師様の手によって上位種へと至りッ! 俺が『レッドジャッカル』という新たな獣人の魔物に進化した証明なのさッ!」 「……火属性の魔法剣を扱うなんて、随分とモダンなこった。それと、その無駄のない重心……誰に教わり、どこで学んだ」 魔法剣が赤熱するのを見たオレは、バッドエイプから奪った粗末な剣を平正眼に構えた。「オレの愛刀『ムーンリーパー』はサッドの野郎に預けてきちまったが……魂までハリボテになっちまった今のテメェを斬るのに、わざわざ名刀を使うまでもねェ。この拾ったナマクラで十分だ」 本来、獣人種がどれほど高みへと至ったとしても、生来の適性として使用できるのは野生の脚力のみだ。 レッドジャッカルだか何だか知らねェが、外法に手を染めたってことになる。「大聖師様に与えられた力だ。あとは力をつけまくれば俺は天下無双……いずれ魔王もベルタもブチ殺して、俺がこの世界の頂点に立つ!」 「そりゃ無理だ。その程度の付け焼き刃の力を持った奴なら、腐るほど見
「情けねェぞ……ドビー。誇り高きワーウルフ族が人間に飼い慣らされるなんてよ」 俺はその声に耳を疑った。 魔物の群れを割って現れたのはフサームだった。 そして、その後ろには見覚えのある巨体。トロルのハンバルも静かに控えていた。「……フサーム、それにハンバルまで。お前たち、いつの間に潜り込んでいたんだ」 俺の問いかけに、フサームは視線をドビーダスから外すことなく淡々とした口調で応えた。「ガルア、お前は地下牢に戻れ。そして、そのまま階段を上がり屋敷へ行け」「何を言っている! ここはどうするんだ。それに、この魔物の群れは一体……」「地下の牢獄に捕らわれていた連中だ。ハンバルが檻をこじ開けて解放してやったのさ」「ハンバルが解放しただと? だが、こいつらは怒りと憎しみで我を忘れているぞ」「お前たち二人だけで、この暴走した群れとドビーダスを相手にするつもりか!」「いいから行けと言っている。領主ゾルハン・バルザットの屋敷とこの賭博場は繋がっている」 フサームの声には、どこか深い悲しみと冷徹な決意が混ざり合っていた。「バルザットは魔王討伐隊という名目で冒険者を集め、ここでドビーのような『獣兵』に殺させて経験値として処理させていた。すべてはベルタという女妖魔の掌の上……行きな。お前には自分の仕事があるだろ」「しかし……」「あいつとカタをつけるのは俺の役目だ。人間には殺させはしない」 中央の貴賓席ではバルザットが椅子から転げ落ち、十本の指の指輪を虚しく煌めかせながら叫び続けている。「ドビーダス! 何をしている、さっさとその裏切り者どもを焼き殺せッ!!」 俺は魔剣アレイクを一振りしただけで訪れる、魂を削られるような猛烈な倦怠感。 それに喘ぎながらも、フサームとハンバルを見つめた。「……そうか。そういうことだったんだな」 ラナ







