スクリーンの中の“彼”

雨音が窓を打っていた。乾いたガラスに触れる水の粒が、静かに、けれど絶え間なく音を立てていた。澪の部屋は、医師としての生活を反映するように整然としていた。余計な装飾も、無駄な家具もない。白を基調とした壁に、書棚と、デスクと、ベッド。最低限の機能性と清潔さだけが支配する空間。

湿った空気のなか、シャワーを終えた澪はグラスに冷たい水を注ぎ、ソファに腰を下ろした。室内の灯りは控えめで、手元だけを照らすスタンドライトが、小さな円を描いている。薄手のグレイのＴシャツ一枚の肩に、冷気が静かにまとわりつく。

彼はテレビを点けるつもりも、映画を観るつもりもなかった。ただ、いつものようにニュースを確認し、早めにベッドに入るはずだった。だが、無意識のうちに手がスマートフォンに伸びていた。

検索窓に打ち込まれていたのは、「葛城陽真」の名前だった。自分でも、その理由ははっきりしなかった。職業的な興味、そう片づけることもできた。だが、画面を見つめる指は、その言い訳に対してどこか鈍く、動きに迷いがあった。

検索結果に並んだ数々のドラマや映画のタイトル。彼が主演、または主要キャストとして出演してきた作品は多い。澪はその中から、数年前に話題になったという一本を選んだ。静かなヒューマンドラマ。演技派として評価を高めた作品らしい。

再生ボタンを押すと、冒頭から淡いピアノの旋律が流れた。映像は落ち着いたトーンで、街並みと人々の営みを映していた。やがて、陽真が登場する。役どころは、重い家庭環境を背負った教師。冷静な語り口と、内に抱えた情熱とのあいだを行き来する人物だった。

画面の中で陽真は、完璧だった。目の動き、指先のふるえ、口角の緩め方まで、まるで計算し尽くされたように自然だった。セリフを話していないときでさえ、表情は常に意味を持っていた。だが、澪はその完璧さのなかに、奇妙な“過剰さ”を感じ取っていた。

例えば、生徒を諭す場面。優しさをたたえた微笑みの奥に、わずかな硬さがある。それは演技に必要な緊張ではなく、まるで表情そのものが壊れるのを抑えているかのような、不自然な張り詰めだった。

そして、ふとした場面で彼が見せる哀しみの演技には、脚本に書かれていないような痛みが滲んでいた。それは悲しいというより、悲しみを知っている者が、それをなぞっているような感触だった。まるで、何かを模倣している。それも、ずっと昔から身体に染みついてしまったような、古い痛みの記憶を。

澪はグラスをテーブルに置いた。映像は続いているが、意識はすでに陽真の表情ばかりを追っていた。俳優としての技巧に感心しながらも、別の何かが心の底を撫でていた。

この男は、演じている。だが、その演技の一部は、明らかに本物だ。誰かを想う視線も、怒りを抑え込む肩の揺れも、愛情を口にする一瞬の沈黙も。そのすべてに、葛城陽真という人物の“現実”が紛れ込んでいる。

澪は画面から目を逸らし、瞼を閉じた。まばたきがわずかに遅れ、その瞳の奥に、揺れが生まれる。かつて、感情に触れることを拒んだ自分の内側が、今、奇妙にざわついている。

何かが違う。そう感じた。これまで多くの患者と接してきたなかで、澪は人の内面にある不協和音に敏感だった。言葉の端に、視線の揺れに、呼吸の乱れに、微細な変化を読み取ることに慣れていた。

陽真の演技には、その“不協和音”があった。ただし、それは技術的な未熟さではない。むしろ逆だった。演じることに長けすぎているがゆえに、内面の何かが抜け落ちているようだった。

まるで、他人の感情を真似ることでしか、自分の心を表現できない男。演技の奥に潜む“空洞”が、確かにそこにあった。

その空洞が、なぜか澪の胸をわずかに締めつけた。冷たくも、やわらかくもない感覚。ただ、ぽつんと浮かんだ孤独のようなものが、画面のなかで笑う陽真の顔から透けて見えた。

ふと、スマートフォンの画面が切り替わり、エンディングクレジットが流れ始めた。澪はそれを見届けず、電源を落とした。

雨音が、まだ窓の外で続いていた。しんと静まった部屋のなかで、その音だけがやけに明瞭に響いている。澪はソファに背を預け、天井を見上げた。

自分はこの男に、少しずつ引き寄せられている。認めたくはなかったが、それは否応なく意識の底に浮かび上がっていた。あの夜、触れかけた指先。拒絶したはずの感触が、なぜか今になっても残っている。

そして今、スクリーンのなかの陽真の“空洞”を見たことで、何かがつながってしまった気がした。

あの人は、何を演じ続けているのか。

その問いが、澪の中にゆっくりと沈んでいった。雨音が、答えのない夜を、淡々と満たしていた。