入り江の別荘では、鈴が半日かけて逸之の「傑作」をようやく片付け終えた。トイレから出てくると、香水をたっぷりと身に纏った。きれいに掃除したはずなのに、どこか肌に鳥肌が立つような不快感がまとわりついて離れない。このやんちゃ坊主の継母になることを思うと、嫁いだ暁にはきっちりと「しつけ」してやる、家の主導権は誰にあるか、思い知らせてやるつもりだった。でも今は、なによりここに居残ることが最優先!「お兄さん、掃除終わりました。まだご飯食べてませんよね?私、料理します」トイレ掃除に追われ、啓司にアピールする時間もなかった鈴は、ここぞとばかりに距離を詰めようとした。彼に近づくために、料理の腕も人知れず磨いてきたのだ。だが、啓司が何か言う前に、逸之が先に口を開いた。「鈴さん、うんち掃除したばっかりなのに、ご飯作るの?」「えっ......?」鈴の表情が凍りついた。「ちゃんと手、洗ったわよ?」「でも、まだ臭うよ?」純真無垢な瞳でじっと見上げながら、逸之はさらりと言う。「それより僕のパンツ、乾いた?まだ着替えてないんだ」今の逸之は、自分の体よりも大きなバスタオルにくるまれていて、動きづらそうにしていた。「逸ちゃんのパンツは乾燥機に入れてあるから、すぐ乾くわよ」鈴は無理やり笑顔を浮かべると、「まずはご飯を作りましょう。クッキー、好き?おばさん、美味しいクッキーたくさん作れるのよ」その厚かましさにあきれたのか、逸之は鼻をつまむような仕草をした。「いらない。鈴さん、くさいもん」一瞬にして、鈴の顔色が曇った。どこが臭いっていうの?このガキがトイレをめちゃくちゃにしておいて、死に物狂いで掃除したこっちがくさいなんて、冗談じゃない!「逸ちゃん......」何か言い返そうとしたところで、啓司の声が鈴の言葉を遮った。「料理は結構だ。後で食事が届く」その表情はあくまで冷静だったが、鈴にははっきりと拒絶の気配が感じ取れた。せっかく腕を振るうチャンスだったのに、あの小生意気な子供のせいで台無しだ。だから子供なんて大嫌い!「では、お茶をお淹れしましょうか?」鈴は茶道も習っていた。だが、啓司は逸之の「うんち掃除」発言以来、彼女の触れるものすべてを遠ざけるようにしていた。「いらない」「じゃあ、お水でも――」「それも結構」
トイレの中は、黄ばんだ汚れと白い汚物でまみれており、その惨状は四方にまで飛び散っていた。鈴は吐き気をこらえながらも、啓司と結婚し、そばにいるために――ただそれだけの理由で、シャワーのノズルを手に取り、まず床や壁を流し始めた。そして周囲がある程度きれいになったところで、逸之のズボンに取りかかった。逸之はトイレの入り口に立ち、鈴が堪えきれない表情を浮かべながらも文句ひとつ言わずに動いているのを見て、内心では痛快に思っていた。「鈴さん、イヤだったら出ていいよ。パパが洗ってくれるから」その声が遠くで響いた瞬間、座っていた啓司の眉がピクリと動いた。この歳になって、まだ自分で尻を拭けないとは......手を出さずに我慢しているだけでも褒めてほしいくらいなのに、洗ってやるだと?冗談もたいがいにしろ。紗枝はこの子をいったいどうやって育ててきたんだ?「逸ちゃん、こっちに来なさい」啓司の低く鋭い声に、逸之は長いバスタオルを引きずりながら小さな足で駆け寄った。「パパ、さみしかった?」笑顔を浮かべながら近づこうとした瞬間――「触んな!!」啓司の潔癖ぶりは景之にそっくりだった。逸之の尻がまだきれいになっていないと思っただけで、顔をしかめ、あからさまに拒絶の色を見せた。「この歳になって、まだ尻の拭き方も知らないのか?」逸之は言葉に詰まった。鈴を困らせるためにやっただけなのに、敵を倒すどころか、自分まで巻き添えを食らってしまった。啓司に、嫌われた気がした。「その......」うまく説明できずにもごもごしていると、啓司はそれを肯定と受け取った。「今日からしっかり覚えろ。これから誰かに尻を拭かせたら、そのままトイレに放り込むぞ」「......はい」逸之は唇を尖らせたまま、まだ啓司の態度を試そうとしていた。「バカパパ......僕のこと、嫌いになった?」そう言って手を伸ばし、触れようとした瞬間、その手首を啓司にがっしりと掴まれた。「手は洗ったのか?」逸之:「......」ああ、本当に嫌われたんだ。「えぇぇ、パパ......ほんとに僕のこと、嫌いになっちゃったの?」啓司は苛立ちを露わにした。「お前、いくつだ?泣き虫もたいがいにしろ」逸之はまたしても言葉を失った。今のパパには、こういう手
逸之の脳裏に浮かんだのは、まるで豪邸を舞台にしたドラマのワンシーン。名家の後継者争いが繰り広げられる、あの手の物語だ。ハッと現実に戻ると、彼はすぐさま鈴のもとへ駆け寄り、真剣な表情で口を開いた。「鈴さん、早く立って。僕のパパ、お金持ちだからね。牛でも馬でも、欲しいだけ買えるよ」その言葉に、鈴の表情が一瞬で固まった。慌てて説明を加えた。「『牛や馬のように働く』っていうのはね、本当の牛とか馬の話じゃないのよ」逸之は納得しかけたような、まだ腑に落ちていないような顔で首を傾げた。「じゃあ......牛でも馬でもないなら、何なの?」言葉に詰まった鈴は、一瞬目を伏せた。目の前の子どもにどう説明すべきか迷っていたが、啓司が自分を引き止める様子のないことに気づき、この子こそ突破口かもしれないと思い直した。彼女は声のトーンを変えて話し始めた。「これはね、たとえ話なのよ......逸ちゃん、私にここにいてほしい?毎日、美味しいご飯を作ってあげるし、学校にも送っていける。週末には一緒にゲームだってできるよ」息子を巧みに手懐けようとするその姿を目にして、啓司の胸の奥には、じくじくと苛立ちが募っていく。もしこれが斎藤のお爺さんとの縁による遠慮がなければ、とっくに怒りを露わにしていたかもしれない。「じゃあさ、鈴さん......お尻、拭いてくれる?」逸之が突然そう尋ねた。鈴の顔色がみるみる変わった。なぜ斎藤家の令嬢である自分が、このガキのお尻を拭かなければならないのか?それでも口では平然を装った。「もちろん。いいわよ」「じゃあ今すぐ。さっき急いで出てきたから、拭くの忘れちゃって」そう言いながら逸之はお尻を鈴の方に突き出した。「ティッシュじゃなくて手でね。ママが言ってたんだ。ティッシュだと僕のお尻、柔らかすぎて傷ついちゃうって」鈴は目を見開き、耳を疑った。手で拭けと?驚きはしたが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。そう簡単に負けを認めたくない。「逸ちゃん、拭かないでトイレから出てきちゃったの?それなら、まずはトイレに行こう。新しい服とズボンも取ってくるから、汚れないようにしなきゃ」そう言いながら、鈴は啓司の方へと目をやった。「お兄さん、見てたでしょう?家に女性がいないと、こういう時ほんとに困るのよ。まだ子供なん
鈴はどこか気まずそうな面持ちだった。まさか啓司が自分のことを覚えていないとは、夢にも思っていなかったのだ。戸惑いを隠せぬまま、彼女は急いで口を開いた。「お兄さん、私、鈴だよ。子どもの頃、よく一緒に遊んでたでしょ?お兄さんが結婚したとき、綾子おばさんが私を連れて会いに行ったこともあるの」逸之は鈴の傍らに立ち、彼女の言葉に耳を傾けながらも、何か引っかかるものを感じていた。だが、いくら頭をひねっても、彼女が誰なのかまるで思い出せない。お兄ちゃんがいてくれたらな。そう思った瞬間、彼は突然股間を押さえながら大声を上げた。「パパ、おしっこ行きたい!」逸之の言葉に、啓司はわずかに眉をひそめた。「自分で行け」「うん」逸之は返事をすると同時に、駆け足でトイレへと向かった。中に入ると、まずは流水音を最大にしてから、ポケットからスマホを取り出し、景之に電話をかけた。時刻はまだ深夜。景之はぐっすりと眠っていたが、弟の着信で起こされた。「......逸ちゃん、今何時だと思ってんだよ?」寝起きで不機嫌な景之の声は、ひどく低かった。「そんなに怒んないでよ、兄ちゃん。ねえ、斎藤鈴って誰?」ろくでもない女だ。そんな気がしてならなかった。弟の直感を聞き、景之の意識は一気に覚醒した。その名前に聞き覚えがある。思い返すうち、ようやく記憶の糸をたどり着いた。「黒木お爺さんが若い頃、斎藤家の当主を助けたことがあってな。鈴はその当主の孫娘なんだ。それが縁で、黒木家と斎藤家は義兄弟の契りを交わした。昔は両家の付き合いも盛んだったんだけど、今は黒木家が台頭して、斎藤家は没落、ほとんど縁もなくなったよ」景之は、自分が啓司の息子だと知って以来、黒木家について徹底的に調べ尽くしていた。逸之はその説明を聞いて、小さな拳をぎゅっと握りしめた。「つまり、血のつながったいとこじゃないってことだよね。なんか、変だと思ったんだ」「いとこどころか、血縁関係は一切ないよ」景之が即座に訂正した。「わかった。もう大丈夫。兄ちゃんは寝てていいよ。僕、ちょっと用があるから」逸之はそう言い残し、電話を切った。その顔は険しく、「偽いとこ」が何らかの目的を持ってここに来たのは間違いないと確信していた。案の定、トイレから出ると、鈴は啓司にお茶を淹れ、せっせと
逸之はその声に振り向くと、そこにいたのは見覚えのない、清楚な雰囲気の女性だった。スポーツウェアに身を包み、髪はポニーテール、どこか柔らかな眼差しをしている。逸之は思わず玄関の表札を見直した。間違いない。まさか、この女がバカパパの囲った「どろぼう猫」だったりして?「おばさん、ここの住人ですか?」探るように尋ねると、彼女は穏やかに首を横に振った。「いいえ、ここは従兄の家なの。彼に用事があって来たのよ」そう言って、じっと逸之を見つめてくる。「もしかして、あなた......啓司お兄さんの息子さんじゃない?」遠縁の親戚か。そう思うと、逸之はほっとしてうなずいた。「そうですよ」「わあ、すごい偶然ね。場所を間違えたかと思ってたわ。私は斎藤鈴(さいとう・すず)。鈴さんって呼んでくれていいよ」斎藤鈴?どこかで聞いたような名前だな......ふと、彼女の香水の匂いが鼻をつき、逸之はほんの少し不快に感じた。「鈴さん、降ろしてもらえませんか」逸之がそう頼んでも、鈴は腕の力を緩めなかった。「もう少しだけ抱っこさせてよ」逸之の目にははっきりとした嫌悪が浮かんだ。身をよじって逃れようとすると、鈴は渋々彼を降ろし、代わりにインターホンのボタンを押した。「どちら様ですか?」「啓司お兄さん、私よ、鈴。わざわざ会いに来たの」ドアが開かないのを恐れて、慌てて付け加えた。「逸ちゃんも玄関にいるよ」「......なんで僕の名前を知ってるの?」不審そうに問う逸之に、鈴は笑顔を浮かべた。「あなたたち兄弟のこと、おじいちゃんが家族のグループチャットで報告してたのよ。この前のお盆休みに私も帰省してて、ちらっと見かけたの」なるほど。確かにどこかで見たことがある。でも、兄ほど記憶力がいいわけじゃないし、すぐには気づかなかっただけか。二人が玄関先で言葉を交わしているあいだ、ドアは一向に開く気配を見せなかった。ようやく警備員の声が返ってくる。「申し訳ありません。ご主人は面会をお断りとのことです」鈴は呆然とした。啓司の居場所を突き止めるのに、どれだけ苦労したか。逸之もまた驚きを隠せなかった。あのバカパパが......僕に会いたくないって?「啓司さんに伝えていただけませんか?私、帝都からわざわざ来たんで
「誰に頼まれたわけじゃないよ。ママには内緒で、こっそり電話したの。絶対に誰にも言わないでね」逸之の声は、まるで風の隙間に紛れ込むような小ささだった。スマホの向こうに女性の声が混ざっていないか、彼は耳を澄ませて聞き取ろうとした。幸いなことに、啓司の周囲には女性の気配は感じられなかった。啓司は、この電話が紗枝の差し金ではないと悟った途端、ほんのわずかに肩の力が抜けたような落胆を覚えた。以前なら、彼がどれだけ紗枝を無視しても、彼女の我慢はせいぜい三日が限界だった。しかし今では、その三日さえも過ぎようとしている。「それで、何の用だ?」啓司の声は、まるで子どもではなく部下にでも話すかのような冷淡さだった。そこに情の色はまるでなかった。「ただ会いたかっただけだよ。明日、パパに会いに行ってもいい?」逸之は、どうしても啓司の住んでいる場所を自分の目で確かめたかった。「どろぼ猫」などという存在が啓司のそばにいないか、直接見て確認したかったのだ。「ダメだ」啓司の返事は冷たく、そして迷いのない拒絶だった。逸之は一瞬、言葉を失いながらも、すがるような口調で甘えた。「パパ、僕のこと、もう好きじゃないの?前はあんなに大好きだったのに......」その言葉がすべて言い終わる前に、耳に届いたのは通話終了の音だった。逸之はその場で固まった。今の啓司は、本当に冷たい。いや、それだけじゃない。啓司が何かを隠しているのではないかという疑いが、心の中でさらに膨らんだ。だから逸之は決めた。明日の金曜日、一人でこっそり啓司のもとへ行こうと。啓司の住所は知らなかったが、牧野に聞けばいい。翌朝早く、逸之は「トイレにこもってる」と嘘をついて、牧野にこっそり電話をかけた。そして、啓司の今の住所を尋ねた。牧野は本来まじめな性格だが、逸之のような子どもには弱いタイプだった。逸之が甘えた声を出すだけで、あっさりと啓司の住所を教えてしまった。一方そのころ、紗枝は逸之がそんな計画を立てているとはつゆ知らず、彼の「先生が授業を遅らせたから、2時間遅れて帰るね」という言葉をそのまま信じていた。「分かったわ。それなら雷おじさんに、ちょっと遅めに迎えに行ってもらうよう頼んでおくね」「はーい」逸之は素直にうなずいた。2時間あれば、啓司に会って戻るには充分すぎるほど