LOGIN私、橋本真緒(はしもと まお)の幼なじみの高城郁人(たかぎ いくと)が、ついさっき私に想いを告げてくれたばかりなのに、その元恋人の森田栞里(もりた しおり)が交通事故に遭った。 病院の廊下で、郁人の声だけがやけにはっきりと響いた。 「栞里は今、刺激しないほうがいいんだ。悪いけど、しばらく我慢してくれ。俺たちのことは彼女に言わないでほしい」 真剣な眼差しを向ける彼を見て、私はそっと頷いた。 けれど、その「我慢」が、まさか三年にも及ぶなんて思ってもみなかった。 彼は彼女のために栄養食を作り、リハビリに付き添い、ありったけの優しさを彼女に注いだ。 そのくせ、私がたまに不満をこぼすと、だんだん苛立ちを隠さなくなっていった。 「真緒、変なこと考えるな。今はただ、栞里が俺を頼りにしてるだけだ。元気になれば、ちゃんと元に戻る。 栞里に友達として責任を果たしてるだけだ。 だから、もうこれ以上困らせるな……」 一度や二度じゃなかった。そのたびに彼は、まるで本心からだと言わんばかりに言い切った。 けれど、温かい手料理の入った保温ポットを手に病室の扉を開けた瞬間、キスを交わしている二人の姿が目に飛び込んできて、そのとき初めて思い知った。 最初から最後まで、自分がどれほど愚かだったのかを。 その場で立ち尽くす私に気づくと、栞里はやわらかな笑みを浮かべた。 「真緒、いい報せがあるの。私たち、よりを戻したのよ。あなたも早く彼氏を見つけなきゃね。真緒が幸せになるところを見たいわ」 固くつながれた二人の手を見つめながら、私は目の奥がじんと熱くなるのを感じた。 「実は私にも彼氏はいたの。でも、さっき……別れたの」
View Moreそれから、私は鍵をかけた。その扉を、もう二度と開けることはなかった。戻ってからの私は、また仕事と日々の暮らしに身を投じた。悠真はそっと私を抱きしめて言った。「大丈夫。ゆっくりでいい。僕が一緒に忘れていくから」私は分かっていた。彼は本当に、少しずつ私を癒してくれていたのだと。一年後、郁人は亡くなった。弁護士が、あの書類の入った封筒を私の会社に送ってきた。中に入っていたのは、彼の遺言書と、一冊の日記だった。私は日記を開いた。そこには、私たちが付き合い始めた頃から、私がいなくなり、やがて彼が病に倒れるまでの胸の内が、途切れることなく綴られていた。ページのどこを開いても、私への後悔と、募る想いで埋め尽くされていた。【今日、真緒がいなくなった。俺は世界のすべてを失った気がする】……【栞里の嘘が暴かれた。自分が憎くてたまらない。それなのに、ますます真緒に会いたい】……【胃がんだと診断された。死ぬことは怖くない。ただ、もう二度と真緒に会えないことだけが怖い】……【真緒、もしお前がこの日記を読んでいるなら、どうか俺を許してほしい。俺は本当に愛していた】最後のページには、力を振り絞って書いたのだと分かる、乱れた、それでも強い文字が残されていた。【真緒、幸せになれ】私はその文字を見つめながら、とうとう涙をこらえきれなかった。日記も遺言書も、私はしまったままにしておいた。彼の財産には、一切手をつけなかった。それからの私と悠真の暮らしは、相変わらず穏やかで幸せだった。やがて私たちには、可愛らしい娘が生まれた。名前は佐藤薫(さとう かおる)にした。娘が三歳になった年、私たちは薫を連れて一度だけ帰国した。私は娘を連れて、郁人のお墓参りにも行った。墓前に立つと、若い頃の彼の笑顔がふいに脳裏によみがえった。陽だまりのような、あのやわらかな笑顔だった。私はしゃがみ込み、そっと娘の頭を撫でながら言った。「薫、この人はね、ママが昔、好きだった人なの。だからね、どんなことがあっても、自分をちゃんと大切にして、そばにいる人のことも大切にしなきゃだめよ」娘はまだよく分からないながらも、こくんと頷いた。それから小さな手で墓石に触れて、あどけなく言った。「おじさん、しあわせになってね
「真緒、すまなかった」私は首を横に振った。「郁人、もういいの」「お前にひどいことをしたのは分かってる」彼は私の手を強く握った。彼の手はひどく冷たく、痩せて骨ばかりが目立っていた。「あんなふうに傷つけるべきじゃなかった。あんなふうに、手放したくなんてなかった」「知ってるか?」彼の声はどんどん小さくなっていった。胸の奥底に押し込めていた秘密を、ようやく吐き出しているみたいだった。「お前がいなくなってから、ずっと探してた。俺たちが一緒に行った場所は全部回ったし、お前を知ってる人にも片っ端から聞いた。でもお前は、まるでこの世から消えたみたいに、どこにもいなかった」「毎日、お前からの知らせを待ってた」と、彼は力なく笑った。「でも後になって、ようやく分かったんだ。お前は電話番号を変えて、俺の世界から完全にいなくなってしまったんだって」彼の目は赤く充血し、涙が頬を伝って落ちていった。「後悔してる……本当に、後悔してる。もしあの時、栞里の願いを聞かなければ。もっと早くあいつの本性に気づいていたら。お前をちゃんと大事にできていたら……」「郁人」私は彼の言葉を遮った。「もう終わったことよ。今さら後悔しても、何も変わらない」彼は黙って私を見た。「真緒、何も望まない。ただ、どうか俺を許してほしい」私は彼を見つめた。心には、もう何の波も立たなかった。あの傷はとっくに骨の髄まで刻みついていて、たった一言の謝罪で消せるようなものではなかった。「許さないよ」私は静かに言った。「でも、もう憎みもしない。私たちは、これで終わりにしましょう」その言葉を聞いた途端、彼はすべてを失ったような顔で、力なくうなだれた。「……やっぱり、もう許してはもらえないんだな」幼なじみとして長い年月を過ごしてきたけれど、郁人のあんな無力な顔を見たのは初めてだった。会うだけは会った。でも、それ以上に何を言えばいいのか、もう私には分からなかった。私は背を向け、そのまま出て行こうとした。「真緒!」突然、郁人が私を呼び止めた。彼は枕の下から書類の入った封筒を取り出し、私の手に押しつけた。「ここには俺の財産に関する書類を全部入れてある。家も、車も、会社の株も、全部お前に残す。せめて……お前への償いだと思ってくれ」
私も仕事では努力を重ね続け、やがて支社の社長となり、チームを率いてさらに多くの成果を生み出していった。それから半年後、本国の弁護士から電話がかかってきた。弁護士は私に告げた。郁人が病気だと。胃がんの末期だと。その一言は、重く容赦なく私の胸にのしかかった。喜びでもなければ、哀れみでもない。ただ、あまりに唐突で、現実感のない眩暈のようなものだった。十年の青春を丸ごと捧げるほど好きだったあの人が、まさかこんな最期を迎えようとしているなんて思いもしなかった。「突然こんなお話をしてしまって、申し訳ありません」私の沈黙に気づいたのか、弁護士は慌てて言葉を継いだ。「ですが高城さんの状態はかなり悪く、医者も、もしかすると……と。高城さんは、最後に一度だけ、どうしてもあなたに会いたいと繰り返しておられます。それ以外に望みはないと」私は長いこと黙っていた。「分かりました」結局、口にしたのはその一言だけだった。電話を切ったあとも、私は机の前に座ったまま、しばらく動けなかった。窓の外を流れる車の列も、人の波も、まるで薄い幻のように見えた。頭の中に、映画のワンシーンのように、十七歳のあの日、私の手を引いて一緒に授業を抜け出した少年の姿がよぎった。会議を終えた悠真が戻ってきた時、目にしたのは、椅子に座ったまま静かな顔をしている私だった。彼は足早に歩み寄り、気遣わしげな声で尋ねた。「どうしたの?さっきの弁護士から、何て?」私は顔を上げて彼を見た。その眼差しはいつだって優しくて、春の日差しみたいに、私の心をやわらかくほぐしてくれる。その瞬間、胸の中が少しだけ軽くなった。「郁人が病気なの。胃がんの末期で……最後に一度、私に会いたいんだって」「行くつもり?」「分からない」私は首を横に振り、椅子の背にもたれながら目を閉じた。すると、どうしてもあの頃のことが頭をよぎった。認めないわけにはいかない。私の青春には、どこを切り取っても彼の影があった。でも同時に、そのすべての期待を、郁人は自分の手で握り潰したのだ。「行きたくないなら、無理しなくていい」耳元で響いた悠真の声は、穏やかで、それでいて揺るがなかった。「何より大事なのは、君の気持ちだよ」私は目を開け、彼のやわらかな目元を見つ
私たちはそのまま話し込んだ。業界の先行きから文化の違いへ、日々のちょっとした出来事から、それぞれが思い描く未来へ。話してみると、私たちには共通点が驚くほど多かった。どちらも写真を撮るのが好きで、海辺へ行くのが好きで、読む本の好みまでよく似ていた。悠真と一緒にいる時間は、とても心地よかった。郁人のように、どこか当然のような優位さを漂わせることもなければ、わざとらしく機嫌を取ることもない。ただ、ごく自然に気にかけてくれるのだ。私が好きなコーヒーをちゃんと覚えていて、次に会う時にはさりげなく買ってきてくれた。私が暗がりを苦手にしていることも知っていて、夜に家まで送ってくれる時には、私が建物の中へ入り、廊下の灯りがつくまで見届けてくれた。仕事で壁にぶつかった時も、根気よく一緒に状況を整理して、的確な助言をくれた。ある時、私は担当していた案件で問題が起き、深夜まで残業していた。帰ろうとした時には、外はもう土砂降りになっていた。私はSNSにひとこと投稿して、雨脚が弱まるのを待ってから帰ろうと思った。投稿して間もなく、オフィスのドアが開いた。悠真が傘を差して入口に立ち、笑いながら言った。「橋本部長、家まで送ろうか?」私は少し驚いて、それから頷いた。彼の車に乗ると、ワイパーが絶えず左右に動き、フロントガラスの雨を払っていた。車内には穏やかな音楽が静かに流れていた。悠真は何も言わず、ただ黙って運転していた。私はそんな彼の横顔を見つめた。灯りの下で、その輪郭はやわらかく、それでいてはっきりとしていた。「佐藤社長、ありがとうございます」「佐藤社長はやめて。悠真って呼んでくれればいいよ」彼は私をちらりと見て、穏やかに微笑んだ。「僕たちはもう友達なんだから、そんなにかしこまらなくていい」それからというもの、私たちはますます頻繁に連絡を取るようになった。一緒に映画を観に行き、一緒に山へ登り、一緒に街のあちこちを歩いて回った。彼は現地のおいしい店に連れていってくれたし、アジア圏ならではの祝日のにぎわいも教えてくれた。あるよく晴れた午後、私たちは付き合い始めた。彼といると、私は初めて、本当の恋愛がもたらす幸せを知った。彼の目を見れば、そこに愛情があることを、私はちゃんと確かめることができた。
今度こそ、私はようやくその機会をつかんだ。支社に赴任したばかりの頃は、何もかもが一からのスタートだった。言葉の壁。文化の違い。仕事のテンポ。そのどれもが、私に大きな重圧を与えた。それでも私は引かなかった。毎日いちばん早く出社して、いちばん遅くまで残った。深夜まで残業するのも珍しくなかった。私は持てる力のすべてを仕事に注ぎ込んだ。まるで疲れを感じないかのように。だって分かっていたからだ。私にはもう、後戻りする道なんてないのだと。もう二度と、郁人だけを中心に回る真緒には戻れない。私はもっといい自分にならなければならなかった。私は市場分析が得意だった。消費者のニーズを的確
「実は……栞里は、とっくに立てるようになっていたの」私の声はひどく静かだった。けれど、それでも受話口の向こうを一瞬で凍りつかせるには十分だった。それを言い終えると、私は彼の返事を待たずに電話を切った。指先で電源を落とすと、暗くなった画面に、ようやく肩の力が抜けた自分の顔が映った。それを知ったのは、ついさっきじゃない。あれは半年前、栞里のために作ったお弁当を持って、見舞いに行ったときのことだった。病室のドアのガラス越しに、私は栞里が壁に手をつきながら、ゆっくり立ち上がるのを見た。彼女の両足はしっかりと床を踏みしめていて、少しもふらついていなかった。私はとっさに廊下
その時から、彼の世界はもう私とは無関係のものになった。翌朝早く、私はリビングの物音で目を覚ました。郁人はリビングに立っていた。目は赤く充血していて、一晩中まったく眠っていないのがひと目で分かった。以前の私なら、きっとすぐに駆け寄って、体調を気遣う言葉をかけていたはずだ。でも今は、彼が疲れていようが、眠れていなかろうが、もう私には関係なかった。私はそのまま彼の横を通り過ぎようとした。けれど不意に手首をつかまれた。彼の声はかすれていて、隠しようのない疲労が滲んでいた。「真緒、どうして俺のメッセージに返事しなかったんだ?」「スマホをマナーモードにしてたから。気づかなか
そのあと、彼は棚から救急箱を取り出し、しゃがみ込んで私の傷の手当てをしてくれた。私は拒まなかった。ただ、彼が救急箱を開け、消毒液を手に取って、私の足首に丁寧に塗っていくのを黙って見ていた。その手つきはひどく慎重で、力加減も絶妙だった。「タクシーで帰れって言っただろ。どうしてこんなになるまで無理したんだ?」私は答えなかった。真夜中で、人けのない場所だった。タクシーがつかまらないのは言うまでもなく、たとえ拾えたとしても、女一人で安心して乗れるはずがなかった。栞里のこととなると張りつめていた彼も、その緊張が抜けた途端、ほとんど一瞬でそこまで思い至ったようだった。手の動きが
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