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元カノを優先する彼との三年に終止符を

元カノを優先する彼との三年に終止符を

By:  栖崎夕Kumpleto
Language: Japanese
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私、橋本真緒(はしもと まお)の幼なじみの高城郁人(たかぎ いくと)が、ついさっき私に想いを告げてくれたばかりなのに、その元恋人の森田栞里(もりた しおり)が交通事故に遭った。 病院の廊下で、郁人の声だけがやけにはっきりと響いた。 「栞里は今、刺激しないほうがいいんだ。悪いけど、しばらく我慢してくれ。俺たちのことは彼女に言わないでほしい」 真剣な眼差しを向ける彼を見て、私はそっと頷いた。 けれど、その「我慢」が、まさか三年にも及ぶなんて思ってもみなかった。 彼は彼女のために栄養食を作り、リハビリに付き添い、ありったけの優しさを彼女に注いだ。 そのくせ、私がたまに不満をこぼすと、だんだん苛立ちを隠さなくなっていった。 「真緒、変なこと考えるな。今はただ、栞里が俺を頼りにしてるだけだ。元気になれば、ちゃんと元に戻る。 栞里に友達として責任を果たしてるだけだ。 だから、もうこれ以上困らせるな……」 一度や二度じゃなかった。そのたびに彼は、まるで本心からだと言わんばかりに言い切った。 けれど、温かい手料理の入った保温ポットを手に病室の扉を開けた瞬間、キスを交わしている二人の姿が目に飛び込んできて、そのとき初めて思い知った。 最初から最後まで、自分がどれほど愚かだったのかを。 その場で立ち尽くす私に気づくと、栞里はやわらかな笑みを浮かべた。 「真緒、いい報せがあるの。私たち、よりを戻したのよ。あなたも早く彼氏を見つけなきゃね。真緒が幸せになるところを見たいわ」 固くつながれた二人の手を見つめながら、私は目の奥がじんと熱くなるのを感じた。 「実は私にも彼氏はいたの。でも、さっき……別れたの」

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Kabanata 1

第1話

私、橋本真緒(はしもと まお)の幼なじみの高城郁人(たかぎ いくと)が、ついさっき私に想いを告げてくれたばかりなのに、その元恋人の森田栞里(もりた しおり)が交通事故に遭った。

病院の廊下で、郁人の声だけがやけにはっきりと響いた。

「栞里は今、刺激しないほうがいいんだ。悪いけど、しばらく我慢してくれ。俺たちのことは彼女に言わないでほしい」

真剣な眼差しを向ける彼を見て、私はそっと頷いた。

けれど、その「我慢」が、まさか三年にも及ぶなんて思ってもみなかった。

彼は彼女のために栄養食を作り、リハビリに付き添い、ありったけの優しさを彼女に注いだ。

そのくせ、私がたまに不満をこぼすと、だんだん苛立ちを隠さなくなっていった。

「真緒、変なこと考えるな。今はただ、栞里が俺を頼りにしてるだけだ。元気になれば、ちゃんと元に戻る。

栞里に友達として責任を果たしてるだけだ。

だから、もうこれ以上困らせるな……」

一度や二度じゃなかった。そのたびに彼は、まるで本心からだと言わんばかりに言い切った。

けれど、温かい手料理の入った保温ポットを手に病室の扉を開けた瞬間、キスを交わしている二人の姿が目に飛び込んできて、そのとき初めて思い知った。

最初から最後まで、自分がどれほど愚かだったのかを。

その場で立ち尽くす私に気づくと、栞里はやわらかな笑みを浮かべた。

「真緒、いい報せがあるの。私たち、よりを戻したのよ。あなたも早く彼氏を見つけなきゃね。真緒が幸せになるところを見たいわ」

固くつながれた二人の手を見つめながら、私は目の奥がじんと熱くなるのを感じた。

「実は私にも彼氏はいたの。でも、さっき……別れたの」

その言葉が落ちた途端、郁人の身体がはっきりと一瞬こわばった。

栞里は申し訳なさそうな声を出した。

「真緒、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」

私は口元をわずかに引きつらせた。

「大丈夫」

「でも、どうして別れちゃったの?」

どうして、なのだろう。

たぶん私は、誰にも言えない関係を三年ものあいだ守り続けてきたからだ。

そして今、もう守るのをやめたくなった。

彼女は車椅子を寄せながら近づいてくると、物わかりのいいお姉さんみたいに私の手をぽんと叩いた。

「人と人がこうして出会えたのも縁なんだから、少しのことで別れてしまうなんてもったいないわよ。

ほら、私と郁人だって、あの頃は若気の至りで離れただけだったの」

栞里はそう言って彼のほうを振り向き、目元に甘い笑みをにじませた。

「でもよかった。こうして、また一緒になれたんだから」

しばらくのあいだ、部屋には私たち三人の、重なり合わない呼吸の音だけが静かに漂っていた。

私は気づかれないようにそっと手を引き戻し、かすかな笑みを作った。

「ちょっとしたことでもなかったし、若気の至りでもなかった。

彼の心の中には、まだ別の人がいたから」

栞里は唇をきゅっと結び、気まずそうに曖昧な笑みを浮かべた。

私は顔を上げ、彼女越しにまっすぐ郁人の目を見た。

彼は眉をきつく寄せ、表情を強張らせたまま私を見つめていた。何を考えているのかは分からなかった。

しばらくして、彼は前に出ると、ごく自然な仕草で私の手から保温ポットを受け取った。指先が不意に私の手の甲をかすめ、ほんのわずかに触れた。

慰めだったのか、それとも牽制だったのか。

私には分からなかった。

私はその場に立ち尽くしたまま、二人を見つめた。あまりにもお似合いで、まるで最初から結ばれる運命だった恋人同士みたいだった。

それも当然だった。もともと二人は付き合っていたのだから。

彼女は、郁人が大学時代に付き合っていた恋人だった。頭がよくて、きれいで、眩しいほどに人目を引く人だった。

その関係は、一時は結婚の話まで出るほど真剣なものだった。

まさか卒業の年に、彼女が金持ちの御曹司のために、あんなにもきっぱりと郁人に別れを告げるなんて、誰も思っていなかった。

郁人は丸一か月、自分の部屋に閉じこもった。

酒に溺れ、眠れなくなり、見る影もないほど痩せ細っていった。

私は冷たい床に座り込んで、ぼんやりする彼のそばにずっといた。一日中そうしていても、言葉を交わすことはほとんどなかった。

彼の荒れ果てた姿を家族に知られないよう、私は必死に隠し通した。

私はずっと見てきた。失恋のどん底から這い上がり、起業して、必死に働きながら、少しずつ会社を軌道に乗せていく彼の姿を。

そしてある日、何の前触れもなく彼が私にこう言った。

「真緒、俺たち、付き合おう」

やっと、ずっと願っていた幸せが自分のものになるのだと思った。

けれど、それはただ、運命に弄ばれていただけだった。

付き合い始めてまだ数日しか経っていない頃、栞里は交通事故に遭った。
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第1話
私、橋本真緒(はしもと まお)の幼なじみの高城郁人(たかぎ いくと)が、ついさっき私に想いを告げてくれたばかりなのに、その元恋人の森田栞里(もりた しおり)が交通事故に遭った。病院の廊下で、郁人の声だけがやけにはっきりと響いた。「栞里は今、刺激しないほうがいいんだ。悪いけど、しばらく我慢してくれ。俺たちのことは彼女に言わないでほしい」真剣な眼差しを向ける彼を見て、私はそっと頷いた。けれど、その「我慢」が、まさか三年にも及ぶなんて思ってもみなかった。彼は彼女のために栄養食を作り、リハビリに付き添い、ありったけの優しさを彼女に注いだ。そのくせ、私がたまに不満をこぼすと、だんだん苛立ちを隠さなくなっていった。「真緒、変なこと考えるな。今はただ、栞里が俺を頼りにしてるだけだ。元気になれば、ちゃんと元に戻る。栞里に友達として責任を果たしてるだけだ。だから、もうこれ以上困らせるな……」一度や二度じゃなかった。そのたびに彼は、まるで本心からだと言わんばかりに言い切った。けれど、温かい手料理の入った保温ポットを手に病室の扉を開けた瞬間、キスを交わしている二人の姿が目に飛び込んできて、そのとき初めて思い知った。最初から最後まで、自分がどれほど愚かだったのかを。その場で立ち尽くす私に気づくと、栞里はやわらかな笑みを浮かべた。「真緒、いい報せがあるの。私たち、よりを戻したのよ。あなたも早く彼氏を見つけなきゃね。真緒が幸せになるところを見たいわ」固くつながれた二人の手を見つめながら、私は目の奥がじんと熱くなるのを感じた。「実は私にも彼氏はいたの。でも、さっき……別れたの」その言葉が落ちた途端、郁人の身体がはっきりと一瞬こわばった。栞里は申し訳なさそうな声を出した。「真緒、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」私は口元をわずかに引きつらせた。「大丈夫」「でも、どうして別れちゃったの?」どうして、なのだろう。たぶん私は、誰にも言えない関係を三年ものあいだ守り続けてきたからだ。そして今、もう守るのをやめたくなった。彼女は車椅子を寄せながら近づいてくると、物わかりのいいお姉さんみたいに私の手をぽんと叩いた。「人と人がこうして出会えたのも縁なんだから、少しのことで別れてしまうなんてもったい
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第2話
彼は言った。栞里は足に障害が残り、ひどく心を病んでいて、少しでも刺激を与えれば、心が折れてしまいそうなほど脆いのだと。彼は言った。今の彼女にはもう自分しかいないから、しばらくは私たちの関係を隠してほしいと。彼は言った。栞里に対して、もう恋愛感情なんて欠片もなくて、ただ友人として世話をしているだけだと。私はそれを信じた。でも、私は忘れていた。長年あれほど深く絡み合ってきた二人が、ただの友達でいられるはずがないのだ。帰り道、車内の空気は息が詰まるほど重かった。先に沈黙を破ったのは郁人だった。「さっきは、栞里を刺激したくなかったから、話を合わせただけだ。変に考えるなよ」私は窓の外を流れていく景色を見つめたまま、感情のない声で言った。「説明しなくていい」彼はしばらく黙ったあと、車を路肩に停めて、こちらを振り向いた。「怒ってるのか?」彼はいつものように、なだめるような仕草で私に身を寄せてきた。「医者も、栞里の状態はだいぶ良くなってきてるって言ってた。もう少し落ち着いたら、ちゃんとしたタイミングを見て、彼女にきちんと話すから」また、その言葉だった。この三年で、もう何度聞かされたのかも覚えていない。そして、それがただ私をその場しのぎで宥めるための口実にすぎないことも、もうとっくに分かっていた。ただ目の前の波風を立てないためだけの言い訳なのだと。私は淡々と相槌を打った。「うん」彼は眉をひそめて、さらに問い詰めるように言った。「今日、いったいどうしたんだ?」分かっていた。彼がそう尋ねる時、本当に私を気にかけているわけではない。ただ、慣れていないだけなのだ。私が目を赤くして傷ついた顔を見せないことにも、頭を撫でられるのを待つペットみたいにおとなしくしないことにも、彼は戸惑っていた。もう私は、聞き分けのいいペットをあやすようなやり方で宥められる女ではなかった。私は顔を上げ、静かに彼を見つめて、一語一語はっきりと口にした。「郁人」「ん?」「あなたは、本当に私と結婚してくれるの?」その瞬間、私は彼の目を見ていた。そこにあったのは、ためらいと逃げの気配だけだった。愛情だけはひとかけらもなかった。心が、少しずつ底へ沈んでいった。その時、突然彼のスマホがけたたましく鳴り出した
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第3話
そのあと、彼は棚から救急箱を取り出し、しゃがみ込んで私の傷の手当てをしてくれた。私は拒まなかった。ただ、彼が救急箱を開け、消毒液を手に取って、私の足首に丁寧に塗っていくのを黙って見ていた。その手つきはひどく慎重で、力加減も絶妙だった。「タクシーで帰れって言っただろ。どうしてこんなになるまで無理したんだ?」私は答えなかった。真夜中で、人けのない場所だった。タクシーがつかまらないのは言うまでもなく、たとえ拾えたとしても、女一人で安心して乗れるはずがなかった。栞里のこととなると張りつめていた彼も、その緊張が抜けた途端、ほとんど一瞬でそこまで思い至ったようだった。手の動きがわずかに止まり、声の調子まで少しやわらいだ。「しばらくあまり歩くな。明日、病院で診てもらったほうが安心だ……」私はそっと彼の言葉を遮った。「郁人、別れよう」静寂。息が詰まるような静寂だった。しばらくして、彼は眉をひそめたまま立ち上がり、苛立たしげに息を吐いた。「真緒、いい加減にしろよ」私はうつむいて、かすかな苦笑を漏らした。ようやく覚悟を決めて別れを切り出したのに、彼の目にはただ私が駄々をこねているようにしか映らない。私が十年も彼を好きだったからこそ、彼はきっと思い込んでいるのだ。本気で自分のもとを離れることなんてできない、この関係を本当に手放せるはずがない、と。私は静かに彼を見つめ、真剣に言った。「郁人、もう待ちたくないの」私の恋も、私の人生も、どうして別の女の人に振り回されなきゃいけないの?そんなふうになるくらいなら、いっそいらない。郁人は口を開き、何か言おうとした。けれど、言葉になる前に、またスマホが鳴った。また栞里だった。郁人は電話に出ると、数秒後にはコートを手にして玄関へ向かった。玄関先まで行ってから、ようやく振り返り、さっき別れを告げたばかりの私を見た。「変なこと考えるな。待ってろ、そしたら――」そこまで言いかけて、彼は言葉を切った。さっき私が口にした言葉を思い出したのだろう。少し迷ったあと、言い直すように言った。「俺は絶対に、お前と結婚する」ドアが静かに閉まり、かちりと小さな音を立てた。彼は、車の中で私がした問いに答えたのだった。「あなたは、本当に私と結婚してく
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第4話
その時から、彼の世界はもう私とは無関係のものになった。翌朝早く、私はリビングの物音で目を覚ました。郁人はリビングに立っていた。目は赤く充血していて、一晩中まったく眠っていないのがひと目で分かった。以前の私なら、きっとすぐに駆け寄って、体調を気遣う言葉をかけていたはずだ。でも今は、彼が疲れていようが、眠れていなかろうが、もう私には関係なかった。私はそのまま彼の横を通り過ぎようとした。けれど不意に手首をつかまれた。彼の声はかすれていて、隠しようのない疲労が滲んでいた。「真緒、どうして俺のメッセージに返事しなかったんだ?」「スマホをマナーモードにしてたから。気づかなかったの」「どれだけ心配したと思ってるんだ?何かあったんじゃないかって思って、慌てて戻ってきたんだぞ」私は少し黙ってから、顔を上げて彼を見た。今度こそ、彼の目の中にいくらか本物の感情が見えた。でも、もう遅かった。私はもう、信じない。私は少し力を込めて、その手を振りほどいた。「私は大丈夫よ」郁人は、私が栞里のあの投稿のことで腹を立てているのだと思ったらしい。彼は目を伏せ、声をやわらげて取り繕うように言った。「ただ、栞里を動揺させたくなくて、その場しのぎで話を合わせただけで……」「分かってる」私は静かに彼の言葉を遮った。「あなたは栞里に対して、友達としての責任を感じてるだけ。それ以上の気持ちなんてない」彼が言おうとしていたことを、私はもう慣れきったように先回りして口にした。声は自分でも驚くほど静かで、何の揺らぎもなく、かえって可笑しささえ込み上げるほどだった。彼は複雑な目で私を見つめた。私の顔から、拗ねている証拠でも探そうとしているみたいだった。けれど、何も見つけられなかった。郁人は口を開き、まだ何か言おうとした。だが、その時スマホが鳴った。わざわざ確かめなくても分かった。また栞里だ。ただ今回は、郁人はいつものようにすぐ電話を取らなかった。彼の視線は私と画面のあいだを揺れ、なかなか通話ボタンを押せずにいた。私はどこか他人行儀な笑みを浮かべた。「出てあげて。待たせたらかわいそうでしょ」郁人は少しためらった末、結局ベランダへ出て電話を取った。通話を終えて戻ってきた時、私はゆっくり朝食を口にしていた
Magbasa pa
第5話
「実は……栞里は、とっくに立てるようになっていたの」私の声はひどく静かだった。けれど、それでも受話口の向こうを一瞬で凍りつかせるには十分だった。それを言い終えると、私は彼の返事を待たずに電話を切った。指先で電源を落とすと、暗くなった画面に、ようやく肩の力が抜けた自分の顔が映った。それを知ったのは、ついさっきじゃない。あれは半年前、栞里のために作ったお弁当を持って、見舞いに行ったときのことだった。病室のドアのガラス越しに、私は栞里が壁に手をつきながら、ゆっくり立ち上がるのを見た。彼女の両足はしっかりと床を踏みしめていて、少しもふらついていなかった。私はとっさに廊下の曲がり角に身を隠し、彼女がまた慎重な動きで車椅子に座り直し、姿勢を整えるのを見ていた。その瞬間、私はすべてを悟った。全部、栞里が周到に仕組んだ芝居だったのだ。彼女が車椅子に戻ったあとの姿を、私は十分近くじっと見つめていた。やがて郁人が戻ってくると、彼女はすぐさま、あの気弱で頼りない顔に戻った。私は背を向けてその場を離れた。足取りは重く、引きずるようにして歩いた。手の中の弁当箱はまだあたたかかったのに、私の心だけは、その時すっかり冷えきってしまっていた。私は暴かなかった。弱かったからじゃない。ただ、見たかったのだ。郁人が栞里のために、いったいどこまで尽くせるのかを。あの周到に仕組まれた芝居に、彼が最後まで絡め取られてしまうのかを。知りたかった。私があれほど長い年月かけて寄り添ってきたことが、彼の中でいったいどれほどの意味を持っていたのか。三年前のあの朝を思い出した。病院の廊下で、郁人が私を見つめた時の、あの真剣な目を。「栞里は今、刺激しないほうがいいんだ。悪いけど、しばらく我慢してくれ。俺たちのことは彼女に言わないでほしい」私は彼の目を見て、静かに頷いた。彼は栞里のために食事を作った。最初は手際も悪く、慣れない様子だったのに、いつの間にかすっかり板について、どの味付けも彼女の好みにぴたりと合うようになっていた。彼は栞里のリハビリにも付き添った。彼女がわざと手を抜いても、ただ笑って、その髪をくしゃっと撫でるだけだった。私は見ていた。彼がその優しさも、根気も、寄り添う時間も、何もかも栞里に捧げていくのを。そして私は
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第6話
今度こそ、私はようやくその機会をつかんだ。支社に赴任したばかりの頃は、何もかもが一からのスタートだった。言葉の壁。文化の違い。仕事のテンポ。そのどれもが、私に大きな重圧を与えた。それでも私は引かなかった。毎日いちばん早く出社して、いちばん遅くまで残った。深夜まで残業するのも珍しくなかった。私は持てる力のすべてを仕事に注ぎ込んだ。まるで疲れを感じないかのように。だって分かっていたからだ。私にはもう、後戻りする道なんてないのだと。もう二度と、郁人だけを中心に回る真緒には戻れない。私はもっといい自分にならなければならなかった。私は市場分析が得意だった。消費者のニーズを的確に捉え、打ち出したマーケティング施策は何度も成果を上げた。半年も経たないうちに、私はチームを率いて重要なプロジェクトを成功させ、支社に大きな利益をもたらした。少しずつ、支社の中で私の名前が知られるようになっていった。私は生活を楽しむことも覚え始めた。週末には海辺を散歩した。波が砂浜を打つ音を聞き、カモメの鳴き声に耳を澄ませた。現地の文化イベントにも参加して、異なる風土や人々の暮らしに触れた。ジムにも通い、体を鍛え、自分にもっと自信を持てるようになっていった。私は少しずつ、過去の影から抜け出していった。郁人にまつわる記憶も、あの苦しかった瞬間も、新しい生活の中で少しずつ薄れていき、ぼやけた過去になっていった。その後、郁人がどうなったのか、私は知らない。あの人たちのことをもう気にかけることもなかったし、誰かと連絡を取り合うこともなかった。過去をきれいに断ち切って、やり直したかったからだ。そんなふうに思っていた矢先、一年後になって、国内にいる友人からメッセージが届いた。その友人は大学時代のルームメイトだった。彼女が言うには、郁人はずっと私を捜していたらしい。私がいなくなってから、郁人はまるで正気を失ったみたいだった、と彼女は言った。彼は必死に何度も電話をかけ、メッセージを送り続けた。けれど私は、最後まで何ひとつ返さなかった。彼は栞里とも激しく口論になり、どうして自分を騙したのかと彼女を問い詰めた。栞里は泣きながら謝り、自分はただ彼を愛しすぎて、失うのが怖かっただけだと言ったらしい。けれど、もう郁人の耳には届かなかった。
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第7話
私たちはそのまま話し込んだ。業界の先行きから文化の違いへ、日々のちょっとした出来事から、それぞれが思い描く未来へ。話してみると、私たちには共通点が驚くほど多かった。どちらも写真を撮るのが好きで、海辺へ行くのが好きで、読む本の好みまでよく似ていた。悠真と一緒にいる時間は、とても心地よかった。郁人のように、どこか当然のような優位さを漂わせることもなければ、わざとらしく機嫌を取ることもない。ただ、ごく自然に気にかけてくれるのだ。私が好きなコーヒーをちゃんと覚えていて、次に会う時にはさりげなく買ってきてくれた。私が暗がりを苦手にしていることも知っていて、夜に家まで送ってくれる時には、私が建物の中へ入り、廊下の灯りがつくまで見届けてくれた。仕事で壁にぶつかった時も、根気よく一緒に状況を整理して、的確な助言をくれた。ある時、私は担当していた案件で問題が起き、深夜まで残業していた。帰ろうとした時には、外はもう土砂降りになっていた。私はSNSにひとこと投稿して、雨脚が弱まるのを待ってから帰ろうと思った。投稿して間もなく、オフィスのドアが開いた。悠真が傘を差して入口に立ち、笑いながら言った。「橋本部長、家まで送ろうか?」私は少し驚いて、それから頷いた。彼の車に乗ると、ワイパーが絶えず左右に動き、フロントガラスの雨を払っていた。車内には穏やかな音楽が静かに流れていた。悠真は何も言わず、ただ黙って運転していた。私はそんな彼の横顔を見つめた。灯りの下で、その輪郭はやわらかく、それでいてはっきりとしていた。「佐藤社長、ありがとうございます」「佐藤社長はやめて。悠真って呼んでくれればいいよ」彼は私をちらりと見て、穏やかに微笑んだ。「僕たちはもう友達なんだから、そんなにかしこまらなくていい」それからというもの、私たちはますます頻繁に連絡を取るようになった。一緒に映画を観に行き、一緒に山へ登り、一緒に街のあちこちを歩いて回った。彼は現地のおいしい店に連れていってくれたし、アジア圏ならではの祝日のにぎわいも教えてくれた。あるよく晴れた午後、私たちは付き合い始めた。彼といると、私は初めて、本当の恋愛がもたらす幸せを知った。彼の目を見れば、そこに愛情があることを、私はちゃんと確かめることができた。
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第8話
私も仕事では努力を重ね続け、やがて支社の社長となり、チームを率いてさらに多くの成果を生み出していった。それから半年後、本国の弁護士から電話がかかってきた。弁護士は私に告げた。郁人が病気だと。胃がんの末期だと。その一言は、重く容赦なく私の胸にのしかかった。喜びでもなければ、哀れみでもない。ただ、あまりに唐突で、現実感のない眩暈のようなものだった。十年の青春を丸ごと捧げるほど好きだったあの人が、まさかこんな最期を迎えようとしているなんて思いもしなかった。「突然こんなお話をしてしまって、申し訳ありません」私の沈黙に気づいたのか、弁護士は慌てて言葉を継いだ。「ですが高城さんの状態はかなり悪く、医者も、もしかすると……と。高城さんは、最後に一度だけ、どうしてもあなたに会いたいと繰り返しておられます。それ以外に望みはないと」私は長いこと黙っていた。「分かりました」結局、口にしたのはその一言だけだった。電話を切ったあとも、私は机の前に座ったまま、しばらく動けなかった。窓の外を流れる車の列も、人の波も、まるで薄い幻のように見えた。頭の中に、映画のワンシーンのように、十七歳のあの日、私の手を引いて一緒に授業を抜け出した少年の姿がよぎった。会議を終えた悠真が戻ってきた時、目にしたのは、椅子に座ったまま静かな顔をしている私だった。彼は足早に歩み寄り、気遣わしげな声で尋ねた。「どうしたの?さっきの弁護士から、何て?」私は顔を上げて彼を見た。その眼差しはいつだって優しくて、春の日差しみたいに、私の心をやわらかくほぐしてくれる。その瞬間、胸の中が少しだけ軽くなった。「郁人が病気なの。胃がんの末期で……最後に一度、私に会いたいんだって」「行くつもり?」「分からない」私は首を横に振り、椅子の背にもたれながら目を閉じた。すると、どうしてもあの頃のことが頭をよぎった。認めないわけにはいかない。私の青春には、どこを切り取っても彼の影があった。でも同時に、そのすべての期待を、郁人は自分の手で握り潰したのだ。「行きたくないなら、無理しなくていい」耳元で響いた悠真の声は、穏やかで、それでいて揺るがなかった。「何より大事なのは、君の気持ちだよ」私は目を開け、彼のやわらかな目元を見つ
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第9話
「真緒、すまなかった」私は首を横に振った。「郁人、もういいの」「お前にひどいことをしたのは分かってる」彼は私の手を強く握った。彼の手はひどく冷たく、痩せて骨ばかりが目立っていた。「あんなふうに傷つけるべきじゃなかった。あんなふうに、手放したくなんてなかった」「知ってるか?」彼の声はどんどん小さくなっていった。胸の奥底に押し込めていた秘密を、ようやく吐き出しているみたいだった。「お前がいなくなってから、ずっと探してた。俺たちが一緒に行った場所は全部回ったし、お前を知ってる人にも片っ端から聞いた。でもお前は、まるでこの世から消えたみたいに、どこにもいなかった」「毎日、お前からの知らせを待ってた」と、彼は力なく笑った。「でも後になって、ようやく分かったんだ。お前は電話番号を変えて、俺の世界から完全にいなくなってしまったんだって」彼の目は赤く充血し、涙が頬を伝って落ちていった。「後悔してる……本当に、後悔してる。もしあの時、栞里の願いを聞かなければ。もっと早くあいつの本性に気づいていたら。お前をちゃんと大事にできていたら……」「郁人」私は彼の言葉を遮った。「もう終わったことよ。今さら後悔しても、何も変わらない」彼は黙って私を見た。「真緒、何も望まない。ただ、どうか俺を許してほしい」私は彼を見つめた。心には、もう何の波も立たなかった。あの傷はとっくに骨の髄まで刻みついていて、たった一言の謝罪で消せるようなものではなかった。「許さないよ」私は静かに言った。「でも、もう憎みもしない。私たちは、これで終わりにしましょう」その言葉を聞いた途端、彼はすべてを失ったような顔で、力なくうなだれた。「……やっぱり、もう許してはもらえないんだな」幼なじみとして長い年月を過ごしてきたけれど、郁人のあんな無力な顔を見たのは初めてだった。会うだけは会った。でも、それ以上に何を言えばいいのか、もう私には分からなかった。私は背を向け、そのまま出て行こうとした。「真緒!」突然、郁人が私を呼び止めた。彼は枕の下から書類の入った封筒を取り出し、私の手に押しつけた。「ここには俺の財産に関する書類を全部入れてある。家も、車も、会社の株も、全部お前に残す。せめて……お前への償いだと思ってくれ」
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第10話
それから、私は鍵をかけた。その扉を、もう二度と開けることはなかった。戻ってからの私は、また仕事と日々の暮らしに身を投じた。悠真はそっと私を抱きしめて言った。「大丈夫。ゆっくりでいい。僕が一緒に忘れていくから」私は分かっていた。彼は本当に、少しずつ私を癒してくれていたのだと。一年後、郁人は亡くなった。弁護士が、あの書類の入った封筒を私の会社に送ってきた。中に入っていたのは、彼の遺言書と、一冊の日記だった。私は日記を開いた。そこには、私たちが付き合い始めた頃から、私がいなくなり、やがて彼が病に倒れるまでの胸の内が、途切れることなく綴られていた。ページのどこを開いても、私への後悔と、募る想いで埋め尽くされていた。【今日、真緒がいなくなった。俺は世界のすべてを失った気がする】……【栞里の嘘が暴かれた。自分が憎くてたまらない。それなのに、ますます真緒に会いたい】……【胃がんだと診断された。死ぬことは怖くない。ただ、もう二度と真緒に会えないことだけが怖い】……【真緒、もしお前がこの日記を読んでいるなら、どうか俺を許してほしい。俺は本当に愛していた】最後のページには、力を振り絞って書いたのだと分かる、乱れた、それでも強い文字が残されていた。【真緒、幸せになれ】私はその文字を見つめながら、とうとう涙をこらえきれなかった。日記も遺言書も、私はしまったままにしておいた。彼の財産には、一切手をつけなかった。それからの私と悠真の暮らしは、相変わらず穏やかで幸せだった。やがて私たちには、可愛らしい娘が生まれた。名前は佐藤薫(さとう かおる)にした。娘が三歳になった年、私たちは薫を連れて一度だけ帰国した。私は娘を連れて、郁人のお墓参りにも行った。墓前に立つと、若い頃の彼の笑顔がふいに脳裏によみがえった。陽だまりのような、あのやわらかな笑顔だった。私はしゃがみ込み、そっと娘の頭を撫でながら言った。「薫、この人はね、ママが昔、好きだった人なの。だからね、どんなことがあっても、自分をちゃんと大切にして、そばにいる人のことも大切にしなきゃだめよ」娘はまだよく分からないながらも、こくんと頷いた。それから小さな手で墓石に触れて、あどけなく言った。「おじさん、しあわせになってね
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