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妊娠五ヶ月の私は彼の初恋に償った件

妊娠五ヶ月の私は彼の初恋に償った件

By:  石垣好Completed
Language: Japanese
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会社で大規模なリストラが始まった。妊娠五ヶ月の私・斎藤汐(さいとう しお)は、いつリストラされてもおかしくない。 私の夫・西屋健吾(にしや けんご)は人事部長で、「俺が何とかするから」と保証した。 私は感動して、お礼に彼の好きなスープを煮込んだ。 ところが、リストラ候補者発表の日、私の社員番号はしっかりと載っていた。 【昔の同僚に感謝!やっと憧れの会社に入れました!】 健吾の元カノが投稿したSNSの写真には、私たちの会社の社員証が写っていた。 偶然かもしれない。そう思っていた。 だからその夜、夫が寝ている隙に、彼のデスクにあったリストラ承認書類を開いた。 私の名前の欄に、手書きのメモが添えられていた。 【差し替え候補者、水原青美(みずはら あおみ)】 彼の元カノの名前だった。

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Chapter 1

第1話

会社で大規模なリストラが始まった。妊娠五ヶ月の私・斎藤汐(さいとう しお)は、いつリストラされてもおかしくない。

私の夫・西屋健吾(にしや けんご)は人事部長で、「俺が何とかするから」と保証した。

私は感動して、お礼に彼の好きなスープを煮込んだ。

ところが、リストラ候補者発表の日、私の社員番号はしっかりと載っていた。

【昔の同僚に感謝!やっと憧れの会社に入れました!】

健吾の元カノが投稿したSNSの写真には、私たちの会社の社員証が写っていた。

偶然かもしれない。そう思っていた。

だからその夜、夫が寝ている隙に、彼のデスクにあったリストラ承認書類を開いた。

私の名前の欄に、手書きのメモが添えられていた。

【差し替え候補者、水原青美(みずはら あおみ)】

彼の元カノの名前だった。

夜が明けた。隣では健吾がぐっすり眠っている。私は一晩中、天井を見つめていた。

あの承認書類は、そっと戻しておいた。

昨夜、私はわざわざ遠回りして、彼の大好きな唐揚げを買いに行った。もうすぐ親になる喜びを、一緒に祝いたかったから。

なのに、デスクであの書類を見つけてしまった。

七時の目覚まし時計が鳴り、健吾は目を覚ました。

枕元に座り、目の下に隈を作っている私を見て、彼はすぐに近づき抱きしめた。

「汐、どうしてこんなに早く起きてるんだ?

また赤ちゃんが蹴ったのか?」

彼の手のひらが、私の膨らんだお腹に触れ、優しく撫でる。

前なら幸せだと思えたのに、今はただ気持ち悪い。

私は彼の手を振りほどき、ベッドを降りて靴を履いた。

「眠れなかったの。なんだか落ち着かなくて」

健吾が後ろからついてくる。

「まだリストラのことを気にしてるのか?

人事部長の旦那がいるって言っただろ。

俺がいる限り、汐は大丈夫だ」

彼は後ろから私の腰を抱き、顎を肩に乗せた。

「安心しろ。リストラ候補は全部チェック済みだ。汐の名前は入ってない」

昨夜あの書類をこの目で見ていなければ、私は絶対に信じていただろう。

それどころか、彼が私をかばってくれていることに、罪悪感すら覚えていたかもしれない。

「そう……よかった」

私はぎこちない笑顔を作り、俯いたまま歯を磨き続けた。

健吾は鼻歌を歌いながら着替え始めた。

今日は特別に選んだオーダースーツに、念入りに整えた髪型だ。

「今日、会社で大事なゲストでもあるの?」

歯を磨きながら尋ねると、ネクタイを整えていた彼の手が一瞬止まった。

「いや、その……決意表明ってやつだ。リストラ週間だからな、貫禄を見せないと」

彼は鏡の前でカフスボタンを調整している。サファイアのカフスボタンだ。

それは青美が昔、別れ際に彼に贈ったものだった。

結婚して三年、一度も身につけたことのなかったものを、今日、彼はつけている。

私は気づかないふりをして、台所へ朝食を用意しに行った。

「汐、昨夜の唐揚げは本当に美味かった。やっぱり大事にしてくれるな」

健吾はパンを手に取った。

私が買ってきた飯を食いながら、私の居場所を奪おうとしている。

彼は車のキーを掴み、私の額に軽くキスをした。

「汐、今日は自分でタクシーで行ってくれる?

俺は早めに行かないと。特別扱いって思われたくないからな」

特別扱い。

閉まったドアを見つめ、私はテーブルに残された彼の食べかけのパンをゴミ箱に捨てた。

パンがゴミ箱に落ち、鈍い音を立てた。

私は着替え、薄化粧をした。

演じたいのなら、最後まで付き合ってあげる。

会社に着くと、空気は張りつめていた。

誰もがパソコンの画面を見つめ、次に会議室に呼ばれるのが自分ではないかと怯えている。

私は自分の席に座り、パソコンを立ち上げた。

全社宛のメールがポップアップした。

【新規運営顧問 入社のお知らせ】

名前ははっきりと書かれていた――水原青美。

役職はシニア顧問、しかも私の部署だ。

周りの同僚がひそひそと話し始める。

「こんな時に新入社員?よっぽどコネがあるんだろうな」

「西屋部長が直接引き抜いたって聞いたよ」

「ってことは、この二人…」

私が顔を上げた瞬間、ヒソヒソ声は止んだ。

皆、私が健吾の妻だと知っているからだ。

十分後、健吾は青美を連れてオフィスエリアに現れた。

青美は白いスーツを着て、化粧をし、顔には笑みを浮かべている。

その瞬間、お腹がキリリと痛んだ。

健吾は彼女の隣に立ち、皆に紹介している。

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第1話
会社で大規模なリストラが始まった。妊娠五ヶ月の私・斎藤汐(さいとう しお)は、いつリストラされてもおかしくない。私の夫・西屋健吾(にしや けんご)は人事部長で、「俺が何とかするから」と保証した。私は感動して、お礼に彼の好きなスープを煮込んだ。ところが、リストラ候補者発表の日、私の社員番号はしっかりと載っていた。【昔の同僚に感謝!やっと憧れの会社に入れました!】健吾の元カノが投稿したSNSの写真には、私たちの会社の社員証が写っていた。偶然かもしれない。そう思っていた。だからその夜、夫が寝ている隙に、彼のデスクにあったリストラ承認書類を開いた。私の名前の欄に、手書きのメモが添えられていた。【差し替え候補者、水原青美(みずはら あおみ)】彼の元カノの名前だった。夜が明けた。隣では健吾がぐっすり眠っている。私は一晩中、天井を見つめていた。あの承認書類は、そっと戻しておいた。昨夜、私はわざわざ遠回りして、彼の大好きな唐揚げを買いに行った。もうすぐ親になる喜びを、一緒に祝いたかったから。なのに、デスクであの書類を見つけてしまった。七時の目覚まし時計が鳴り、健吾は目を覚ました。枕元に座り、目の下に隈を作っている私を見て、彼はすぐに近づき抱きしめた。「汐、どうしてこんなに早く起きてるんだ?また赤ちゃんが蹴ったのか?」彼の手のひらが、私の膨らんだお腹に触れ、優しく撫でる。前なら幸せだと思えたのに、今はただ気持ち悪い。私は彼の手を振りほどき、ベッドを降りて靴を履いた。「眠れなかったの。なんだか落ち着かなくて」健吾が後ろからついてくる。「まだリストラのことを気にしてるのか?人事部長の旦那がいるって言っただろ。俺がいる限り、汐は大丈夫だ」彼は後ろから私の腰を抱き、顎を肩に乗せた。「安心しろ。リストラ候補は全部チェック済みだ。汐の名前は入ってない」昨夜あの書類をこの目で見ていなければ、私は絶対に信じていただろう。それどころか、彼が私をかばってくれていることに、罪悪感すら覚えていたかもしれない。「そう……よかった」私はぎこちない笑顔を作り、俯いたまま歯を磨き続けた。健吾は鼻歌を歌いながら着替え始めた。今日は特別に選んだオーダースーツに、念入りに整えた髪型だ。
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第2話
「ちょっと皆さん、仕事一旦止めて。こちら、会社が特別にお招きした水原顧問です。今後のプロジェクトの最適化を担当していただきます」彼の視線が場内を見渡すが、なぜか私だけを飛ばした。青美はさわやかに挨拶をし、その目が最後に私に止まった。彼女はまっすぐに歩いてきて、私の机の前で立ち止まった。「お久しぶりです、斎藤さん」私は爪を掌に食い込ませ、腰を支えながら立ち上がった。「お久しぶり」健吾が歩いてきて、私の椅子を指さした。「汐、お前のその腰当てクッション、青美に貸してくれないか?」私は言葉を失った。その腰当てクッションは、恥骨痛で座っていられない私のために特注で作った妊婦専用のものだ。「青美は、昔腰を痛めててさ、硬い椅子はつらいんだよ」健吾は、まるで古紙を一枚せがむような気軽さで言った。周りの同僚たちの視線が一気に私に集まった。私は健吾を見つめ、その目に一片の後ろめたさでも見つけ出そうとした。しかし、そこにはなかった。彼の目にあるのは、苛立ちと催促だけだった。「汐、新しいのを買えばいいだろ。青美が来たばかりなんだ。つらい思いさせたくない」私は深く息を吸い込み、クッションを取り出して差し出した。「どうぞ」青美はそれを受け取り、抱きしめた。「ありがとうございます、斎藤さん。やっぱり健吾さんは覚えてくれているんですね。私、腰が痛いって彼に言ったこと、すっかり忘れてたのに」彼女は健吾の方を向いた。「仕事に戻ろう」健吾は彼女の肩を軽く叩いた。二人は並んで部長室へと歩いていく。私はゆっくりと椅子に腰を下ろした。恥骨の痛みがすぐに襲ってきて、冷や汗がこめかみを伝った。その夜、家に帰ると健吾が箱を一つ持って帰ってきた。中には高級な最新型の足用マッサージ器が入っていた。彼は床にしゃがみ込み、私の足を機械の中に入れ、自ら調節をしてくれた。「汐、今日は我慢させて悪かった」彼は顔を上げた。「あの青美だが……本社から無理やり押し付けられたんだ。どうやらコネがあるらしく、今の俺は逆らえないんだ」彼は私の手を握り、優しくマッサージした。「あのクッションの件も仕方なかった。芝居を完璧にしないと。もう少し我慢してくれる?この騒ぎが落ち着いたら、すぐに
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第3話
その数行の文字を見つめながら、顔がかっと熱くなった。これが昨夜、彼の言っていた「本社から無理やり押し付けられた」ってこと?これが「コネがある」ってこと?つまり、そのコネとは、健吾自身のことだった。いわゆる腰の怪我も、元カノに金をやるためのでっち上げだった。「労働トラブルの解決支援……」青美は、引き抜かれてきた優秀な人材なんかじゃなかった。前の会社にクビされ、裁判まで起こした厄介者だった。そして私の夫は、会社の金で、私の我慢を踏みにじって、ヒーロー気取りで元カノのトラブル処理をしていたんだ。この金は間違いなく、会社の口座から流用している。経理の私には、痛いほどわかっていた。会社に、過去の貢献に関する説明なんて制度は今まで一度もない。これは完全に、健吾が彼女のために特別にでっち上げた特権だ。その紙を握りしめると、胸が締め付けられて痛んだ。私はそれを折りたたみ、ポケットにしまった。デスクに戻ると、スマホが震えた。健吾からのメッセージだ。【汐、今夜お前の作る煮込みが食いたい。取っておいて】そのメッセージを見て、思わず笑い声が漏れた。彼は元カノに六百万もの手当てを申請するくせに、こっちは妊娠してるのに、煮込みを作れだと?返信は一つだけ送った。【わかった】スマホを置き、会社の内部システムにアクセスした。私は経理部だから、人事の具体的なことは見えなくても、予算の承認は確認できる。ちょうど昨日、人事部が多額の賠償金を申請していた。備考にはある。【特殊人材導入に伴う補償金】受取人は水原青美。金額は六百万。そしてその一方で、私の名前は退職手続き待ちのリストに載っていた。勤続年数分の退職金はもらえるが、妊娠中の違法解雇に対する賠償ですらない。彼は私を追い出すだけでなく、私の給料まで元カノを養うつもりなんだ。怒りで、涙さえも乾いた。私はページを閉じ、机の上の書類を整理し始めた。自分の私物を、一つずつ段ボール箱に詰めていく。隣の席の同僚が小声で尋ねた。「汐さん、何してるんですか?」私は微笑んだ。「別に、ただの片付けよ」……午後四時、人事部が社員との個別面談を始めた。名前を呼ばれた人は、入る時は真っ青な顔で、出てくる時は目を赤くしていた。
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第4話
「退職条件は明細に書いてある通りです。ここにサインしていただければ、明日からは来なくて結構です」見覚えのある、勢いのある文字だ。昔はかっこいいと思っていたこの文字が、今はただ醜く見える。「私は妊婦よ。妊娠中の解雇は法律で禁じられているはず」私は青美の目を見据えた。青美は大声で笑った。「斎藤さん、甘いですよ。健吾さんがやったからには、ちゃんと方法はあるんです」彼女は身を乗り出し、声を潜めた。「彼が言うには、最近あなたの仕事のミスが多くて、会社に大きな損害を与えているそうです。証拠はちゃんと揃えてあります、ファイルの中にね。それに……」彼女は私のお腹を指さした。「この子はタイミングが悪いんですって。彼のキャリアの邪魔になるから。家でおとなしくしている方が、彼のためでもあるんでしょう」血の気が一気に引いていくのを感じた。仕事のミスだと?私は足手まといにならないよう、妊娠中も深夜まで働き、一度もミスをしたことなんてない。あの時、彼が私に触らせなかった仕事は、全部私をはめるためのものだったのか。「健吾に会わせて」「彼はあなたに会いたがっていません」青美は立ち上がり、私のそばに歩み寄った。「実は私も止めたんですよ、あなたが妊婦していますから……でも彼が私を大切に思ってくれて、私に辛い思いをさせるくらいなら、あなたに我慢してもらう方がいいって」彼女は私の耳元に顔を寄せ、二人だけに聞こえる声で囁いた。「今夜の集まりはね、実は私の昇進祝いなんです。私の復帰と……ある方の退職を祝うことにね」その時、ドアが開き、健吾が入ってきた。彼は私たちが立っているのを見て、一瞬目をそらした。「話は終わったか?」健吾が青美に尋ねた。私の方に向き直ると、表情が硬くなった。「サインしたか?したなら早く帰れ、ごちゃごちゃ言うな」この三年間、連れ添ってきた男を見つめる。「私を解雇するの?」「会社の決定だ」彼は私の視線を避けた。「お前は妊娠してる、確かに仕事の能率が落ちてる。家で休んでる方がいいだろ?俺が養ってやる」「何で養うの?あなたが彼女にあげた六百万で?」健吾の表情が一変した。「会社の機密を盗み見たのか?」「秘密にしていることでも、いつかは必ず明る
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第5話
私はオフィスエリアの中央に歩いて行った。壇上では、健吾がマイクを手に、青美の腰を抱いていた。「今日、我々は青美を迎え入れただけじゃなく、同時に、会社が過去の足手まといと決別することを意味している。身軽になって、新たなスタートを切ろう!」そう言いながら、彼の視線は会議室の入り口に立つ私を一瞥した。同僚たちがどっと沸いた。誰もがその足手まといが誰を指すのか分かっていた。私は泣きも騒ぎもしなかった。代わりにスマホを取り出し、録画モードにして、レンズを壇上の二人に向けた。画面の中では、健吾と青美が寄り添っている。録画を終えると、スマホをしまい、トレイからグラスワインを取って、大股で前に進み出た。健吾は私が近づいてくるのを見て眉をひそめ、何か言おうと口を開きかけた。その瞬間、手首を返し、ワインを彼と青美の顔面に浴びせた。ワインが二人の顔を伝って滴り落ちる。会場は水を打ったように静まり返った。健吾は顔を拭い、叫んだ。「汐、正気か!」彼は手を振り上げ、私を叩こうとした。私はまだ録画中のスマホを掲げ、軽く笑った。「健吾、さっきの足手まといとの決別って素晴らしいスピーチ、会社のマタニティケアグループに流したら、みんな、なんて言うかしら?」「やってみろ!後悔するぞ!」健吾の手は宙に浮いたまま、ついには振り下ろせなかった。彼は私のスマホを睨みつけ、目を血走らせていた。真っ赤な顔で、声も出ない様子だ。ワインが彼の高そうなスーツの襟元から滴り落ちる。真っ白なカーペットに染みが広がり、まるで赤い花が咲いたようだ。青美は悲鳴をあげ、顔を覆って健吾の後ろに隠れた。「目が!ワインが目に入ったんです!健吾さん、すごく痛いです!」彼女は泣き声混じりに、風に揺れる木の葉のように震えていた。健吾は一瞬で慌て、ハンカチを取り出して彼女の顔を拭いた。その動作は優しく、まるで大事な宝物を扱うかのようだ。私に向き直ると、その目つきは一瞬で毒を塗った刃のように鋭くなった。「汐、いい加減にしろ!」彼は歯を食いしばり、首筋に青筋を立てていた。「みんなの前で、よくも俺にワインをかけてくれたな!会社での俺の立場も考えろ!」周りの同僚たちがひそひそと話し、スマホのレンズがこちらに向けられている
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第6話
「医者の話では、重度の被害妄想だそうだ。いつも誰かに狙われているって思い込んでいるらしい。水原顧問はただの友だ。普通の人事異動なのに、彼女はそれを勝手に不倫関係だと妄想している」彼は自分の頭を指さし、困ったようにため息をついた。「妊娠中は、ホルモンバランスが崩れる……まあ、皆さん、これで解散してください。見世物じゃないんで」被害妄想、ホルモンバランス。たった数言で、私はあっさりと気違い扱いされた。青美もタイミングよく、目を赤く潤ませ、痛々しげな表情で顔を上げた。「斎藤さん、妊娠中で大変なのは分かっています。私、責めたりしません。でも、嫉妬して、健吾さんと私の間に何かあったんじゃないかって疑うのは、違うと思います。私たちは本当に、何の不当関係もありません。神様に誓いますから」そう言いながら、彼女は自分の体を健吾にぴたりと寄せた。ダイヤの指輪をつけた手が、彼の胸元をそっと撫でる。周りの空気が、一瞬で変わった。「ああ、産前うつってやつ?だからあんなに興奮してたのか」「西屋部長も大変だな。妻がおかしくなっても、なだめなきゃいけないなんて」「水原顧問も災難だよね。入社したばかりなのに、酒を浴びせられるなんて」虫の羽音のように、噂話が私の耳にまとわりつく。私は、この見事な演技をする二人を見つめて、胃の中が激しく波打った。ようやく警備員が駆け込んできた。健吾はすぐに背筋を伸ばし、部長としての威厳を取り戻した。「彼女を外へ連れ出してくれ。社内で騒がせるな。彼女のためでもある。腹の子に何かあってはいけないからな」二人の警備員が左右から私の腕を掴んだ。力は強く、私が妊婦であることなど少しも気にしていない。「離して!自分で歩くから!」もがくと、腹の奥に痛みが走った。健吾は壇上から、見下ろすように私を見ていた。その目には、勝者の蔑みと、かすかな愉悦の光が宿っている。まるで、「ほらな、お前の負けだ」と言っているようだった。青美は彼に寄り添い、口元に皮肉な笑みを浮かべた。声に出さずに、私に向かって言った。「ブス女」警備員に引きずられて、私はよろめきながら会社を出た。重いドアが閉まったその瞬間、中から再び陽気な音楽が聞こえてきた。そして、健吾のあの甘く響く声が続
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第7話
家には帰らず、私はすぐに近くのネットカフェへ向かった。家のパソコンは、間違いなく健吾に何かされているはずだ。リスクが高い。煙草の匂いが染みついた個室で、長らく使っていなかったメールアカウントを開いた。かつて本社で監査をしていた頃に使っていた、プライベート用のアドレスだ。そこには、当時の健吾の入社時バックグラウンドチェックの報告書が保存してある。そして、青美が前職で経理不正を働き解雇されたという通告のスクリーンショットも保存してある。これらは元々、健吾を妨げる者を取り除いてやろうと、私が残しておいたものだ。あの時、青美が問題を起こし、健吾に揉み消しを頼み込んだ。健吾は私に頭を下げ、コネを使って何とかもみ消してほしいと頼んできた。心が揺れ、私は承諾した。まさか、それが今、私に残された唯一の武器になるとは思わなかった。それらのファイルを全てダウンロードし、ひとつの圧縮フォルダにまとめた。今日撮った動画、そしてあの特別人材採用のプリントの紙の写真も、全て保存した。送信先の欄に、懐かしくもあり、どこか疎遠に感じる名前を入力した。池田慎也(いけだ しんや)。彼はグループ本社の代表執行役社長であり、有名な鬼監査役として知られている。かつては私を高く評価してくれていた。だが私は健吾のために、本社への昇進のチャンスを蹴った。そして、この支社でただの目立たない経理として生きる道を選んだのだ。送信ボタンを押した瞬間、手が震えた。このメールを送ってしまえば、健吾のキャリアは完全に終わる。そして、かつて深く愛したこの夫を、完全に失うことになる。ピッ。メール送信完了した。画面上のプログレスバーが終点に達した。背もたれに寄りかかり、そっと目を閉じた。終わりだ。そして、始まりでもある。家に着いたのは深夜だった。部屋の中は真っ暗で、健吾はまだ帰っていなかった。寝室に入り、クローゼットを開けて荷造りを始めた。この家には、もう一秒だって居たくなかった。何着かスーツケースに詰めた。その時、玄関の方から、指紋認証ロックが解除される音が聞こえた。ピッ。扉が開いた。酒の匂いが、どっと流れ込んでくる。健吾が青美を抱きかかえるようにして、よろめきながら入ってきた。二
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第8話
彼女は私のスリッパを履いていた。「斎藤さん、健吾さんを責めないでくださいよ」彼女は腕を組み、勝ち誇った顔で言う。「男はみんな、上を目指すものですよ。私は今、グループの特別顧問に迎えられ、年収は千万ですから。あなたはどうです?もうすぐ仕事を失う妊婦じゃないですか。足手まといにしかなりませんよ。賢くやるなら、さっさと離婚協議書にサインして、この家を出て行ったほうがいいですよ」彼女はバッグから書類を取り出すと、床に投げつけた。【離婚協議書】私はそれを一瞥した。財産分与の欄にはこう書かれていた。【不動産の所有権は男方に、貯金は男方のものとする。女方は財産を一切取得しないものとする】理由は、女方の妊娠期における不貞行為、重大な過失、とある。「不貞行為だって?」私は怒りで笑ってしまった。「私、妊娠してるんだよ。毎日十時まで残業して、誰と不貞行為って言うの?空気とでも?」健吾が煙草に火をつけ、ソファにふんぞり返って足を組んだ。「言いがかりなら、いくつでもつけてやれるんだよ。俺がそうだと言えば、そうなんだよ。俺は人事部長だ。お前の評判を落とす方法なんて、いくつでもある」煙を吐き出し、目を細める。「汐、お前には俺に勝てない。おとなしくサインして、実家に帰れ。さもないと、お前の腹ん中のクソガキが無事に生まれてくるとは限らないからな」クソガキ。その言葉が、針のように鼓膜を刺した。これは、彼の子だ。それなのに、彼はこの子をクソガキと呼んだ。私はナイフを握る手を震わせた。怖かったからじゃない。ただただ、怒りで震えていたのだ。「健吾、あなたはきっと罰が当たるよ」歯を食いしばり、一言一言を噛みしめるように言った。「罰が当たるだと?」まるでとんでもない冗談を聞いたかのように、健吾は高笑いした。「俺こそが全てを支配するものだ。この会社で、誰が俺に手を出せる?あの六百万の手当てだって、帳簿はもう完璧に仕上げてある。あの一千万の振り込みは、お前からの自発的な贈与だ。俺をどうにかできるものなら、やってみろ」立ち上がると、私の前に歩み寄り、指で額を突いてきた。「お前はただの役立たずだ。昔も、今も、これからもな」私は避けなかった。じっと彼の目を見据え、
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第9話
会社に入った瞬間から異様な空気を感じた。受付の女の子は、私と目を合わせようとしない。すれ違う社員たちは、まるで厄病神にでも会ったかのように、さっと身を引いた。私のデスクは、きれいに片付けられていた。パソコンも、書類も、何もない。机が残されているだけだ。そこに、コーヒーを手にしている青美が座っていた。私に気づくと、大げさに声をあげた。「あら、斎藤さん、まだ来てたんですか?もう家で休んでって言ったじゃないですか。あなたの席、もうありませんよ」彼女は隣のゴミ箱を指さした。「あなたの荷物、ちゃんとまとめておきましたよ。あの中に全部入ってますから」私はそのゴミ箱を一瞥した。私のノートとマグカップ、そして、赤ちゃんのエコー写真までもが、そこに詰め込まれている。その上には、コーヒーかすが山のように捨ててあった。怒りが胸の奥で燃え上がる。だが、私はこらえた。ゴミ箱に歩み寄り、エコー写真を拾い上げる。ティッシュで丁寧に汚れを拭き取った。「青美、あなたのやったこと、全部代償を払ってもらうからね」青美は馬鹿にしたように鼻で笑った。「なに、脅すつもりですか?警備員!警備員!この頭のおかしい女を追い出して!」彼女は甲高い声で叫んだ。すると、健吾が部長室から出てきた。今日はいかにも仕事ができそうな装いで、髪もきっちりと整えている。私を見るなり、眉をひそめ、嫌悪感をあらわにした。「汐、まだ騒ぐつもりか?退職証明書はもう送ったはずだ。さっさと出て行け。さもないと、不法侵入で通報するぞ」不法侵入?いつからこの会社が、彼の家になったというのか。私はエコー写真をポケットにしまい、背筋を伸ばした。「会議に来たのよ」「会議?」健吾はせせら笑う。「お前はもうクビだ。何の会議に来るっていうんだ?」周りの社員たちが、調子よく笑い出した。「そうだよ、鏡でも見てみろよな」「しつこく居座って、恥ずかしくないのかよ」その時、エレベーターのドアが開いた。黒いスーツに身を包んだ人たちが現れる。先頭の男は長身で、厳しい表情を浮かべていた。グループの代表執行役社長、池田慎也だ。後ろには、本社の法務部、監査部、コンプライアンス部の責任者たちが続いている。ざっと十数人で、その異様なまでの存在
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第10話
慎也は振り返り、鋭い目つきでその場を見渡した。そして、彼の視線は、最後に健吾と青美で止まった。「つい最近クビにしたのか?誰が、会社の功労者をクビにする権限を、お前に与えたんだ?」健吾は呆然とした。「こ、功労者……?こいつはただの経理ですよ。普段の仕事だって非効率で……」バンッ!一つの書類が、健吾の顔面に叩きつけられた。用紙の鋭い端が彼の顔を切り、一筋の血が滲んだ。それは慎也が持ってきた監査報告書だった。「その目でよく見ろ。これは汐さんがこの三年間、会社のために取り戻した税務上の損失だ。合計で二億四千万円。こっちは彼女が残業を重ねて作り上げた財務最適化案だ。会社のコストを一億六千万円削減した。これを、非効率だと?」健吾は顔を押さえ、震える手で落ちた書類を拾い上げた。見れば見るほど、顔色が青ざめていく。これらの手柄は、かつて全て彼が横取りしていたものだった。健吾は私が知らないと思っている。私が争わないと思っている。だが実際は、私は一件ごとに証拠を残していたのだ。青美はまずいと思ったのか、こっそり抜け出そうとした。「水原さん、どちらへ?」法務部の責任者が彼女の行く手を遮った。「あなたが学歴詐称、職歴詐称、さらには他人と共謀して会社の財産を騙し取った件について、じっくりお話を伺いたい」青美は足の力が抜け、その場に座り込んだ。「ち、違います……私じゃありません……健吾のせいです!彼が私にやらせたんです!彼が言ったんです、私が協力すれば、金は半分ずつだって!」彼女は健吾を指差し、金切り声をあげて責任をなすりつけた。ついさっきまであんなに愛し合っていた二人は、一転して仇同士になった。健吾は慌てて、飛びかかって彼女の口を塞ごうとした。「何を言い出すんだ、クソ女!警備員!この女を連れて行け!」だが、今回は警備員は彼の言うことを聞かなかった。二人のボディーガードが前に出て、直接健吾を机に押さえつけた。彼の顔は机に貼りつけられ、歪んでいた。「離せ!俺は人事部長だぞ!こんな真似をしていいと思っているのか!」健吾はまだもがき、叫び続けた。慎也は彼の前に歩み寄り、見下ろすように見つめた。「人事部長だと?今から、お前はクビだ。それに、グループはお前を告訴する。
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