Masuk弁護士は天志がすべての書類に署名を終えると、そのまま帰っていった。リビングには、たちまち彼らだけが残された。瞳はソファの上で体を小さく丸めていた。声を上げることもなく涙を流し続け、今もなお深い悲しみから抜け出せずにいた。咲夜は瞳の向かい側にいた。深い悲しみと絶望に打ちひしがれている彼女を見ていると、咲夜も胸が締めつけられるようだった。けれど、よりによって今は、近づいて慰めることさえできない。今の二人は、まるで敵同士のようになっていた。そんな状況が、咲夜にはたまらなく辛かった。瞳も咲夜の視線に気づいたのだろう。手を上げて頬の涙を拭うと、凍りつくような冷たい目で咲夜を見返した。まるで仇でも見るかのように、その目には憎しみが満ちていた。千暁はわずかに前へ出ると、自分の体で瞳の視線を遮った。千暁がそこまで咲夜を庇う姿を見て、瞳はただ冷たく笑い、嫌悪も露わに目を逸らした。瞳は今でも、絢子が死んだ原因は咲夜にあると思っている。彼女は頑なに信じていた。咲夜が長兄の株式を売ろうとしなければ、それを止めるために絢子が動くこともなく、あの事故に巻き込まれることもなかった。事故に遭わなければ、絢子は死なずに済んだのだと。一度そうだと思い込んだ瞳が、その考えを変えるのは難しい。だから今も、瞳の中には咲夜への憎しみが消えずに残っていた。千暁はそんな妹を冷ややかに一瞥しただけで、すぐに天志へ視線を向けた。「父さん、母さんの遺言書は、本当にこれなのか?」ここに来てようやく、千暁は胸の内に抱いていた疑問を口にした。実際のところ、誰が見ても、この遺言書が不自然であることくらい分かる。絢子と天志の夫婦関係が実際にはどのようなものだったのか、子供である彼らは日頃から嫌というほど目にしてきた。仮に絢子が本当に遺言書を作っていたとしても、すべての財産を天志に残すなど、到底考えられない。絢子名義の資産自体はそれほど多くないものの、すべて合わせれば相当な額になる。それほどの財産を、関係が決して良好とは言えなかった夫にすべて残し、子供たちには何一つ残さないなど、どう考えても不自然だった。明らかに何か裏がある。先ほど弁護士の前でこの疑問を口にしなかったのは、千暁自身、問い詰めたところで何の意味もないと分かっていた
門の前まで来たところで、咲夜は庭で何かが燃やされていることに気づいた。怒り狂った瞳の罵声が耳に飛び込んできた。「言ったでしょ!誰にもお母さんのものには触らせないって!もう何も燃やさせない!……みんな離れて!あっち行って、早く!誰も近づかないで!あっち行って!行ってよ……!」咲夜は声のするほうへ目を向けた。瞳は使用人たちに取り囲まれ、それ以上前へ進むこともできずにいた。その目の前では、大きなドラム缶の中で炎が激しく燃え上がっていた。何人もの使用人に押さえつけられながらも、瞳は必死に手を伸ばし、炎の中から何かを取り出そうとしていた。彼女の言葉から察するに、どうやら家の者たちが絢子の遺品を焼いているらしい。瞳はひどく取り乱していた。母親の遺品が次々と火の中へ投げ込まれ、炎に呑み込まれていくのを目の当たりにして、悲鳴を上げながら狂ったように怒鳴り続けていた。咲夜は無意識に背後の男を振り返った。千暁は冷淡な表情を浮かべ、目の前の光景を冷ややかに見つめていた。しかし、車椅子のグリップを握る彼の手には、くっきりと青筋が浮かび上がっていた。咲夜の視線に気づいた千暁は彼女を見ると、そのまま車椅子を押して屋敷の中へ向かった。背後からは、瞳の悲痛な怒鳴り声がいつまでも響いていた。咲夜の胸も重く沈んだ。リビングに入ると、咲夜はようやく天志と遥斗の姿を目にした。遥斗は顔色を青白くし、ソファに座ったまま時折苦しそうに眉をひそめている。咲夜が見ると、彼はゆったりとした部屋着を着ており、額には冷や汗まで浮かんでいた。どう見ても、世間で噂されているような「それほど大した怪我ではない」という状態には見えなかった。一方、天志からは悲しんでいる様子など微塵も感じられない。千暁と咲夜が入ってきたときも、二人を一瞥しただけだった。リビングには天志と遥斗のほかにも、スーツ姿の男たちが数人座っていた。そのうちの一人、中年の男はブリーフケースを手にしていた。咲夜はその男に見覚えがあった。荻野グループが顧問契約を結んでいる弁護士だった。天志は室内を一瞥すると、遥斗に言った。「瞳を呼んでこい」遥斗は立ち上がったものの、歩く速度はかなり遅かった。十五分ほど経ってから、ようやく目を真っ赤に腫らし、小さくすすり泣く瞳を連れ
翌朝。咲夜は千暁が選んでくれたワンピースに着替えた。サイズもぴったりで、デザインもシンプルながら上品だった。真澄が咲夜を迎えに来たとき、彼女の顔色があまりよくないことに気づき、心配そうに尋ねた。「奥様、どこか具合でも悪いんですか?」咲夜は首を横に振った。「ううん、大丈夫」そう言われると、真澄もそれ以上は尋ねなかった。葬儀は荻野家の本家で執り行われた。咲夜が到着した頃には、すでに大勢の人が集まっていた。祭壇は本家の一角にある建物の中に設けられていた。真澄は車椅子を押して、咲夜を千暁のもとまで連れていった。千暁は真澄から車椅子を引き取った。瞳が怒りのこもった目で睨みつける中、咲夜は焼香を済ませた。その後、千暁は彼女の車椅子を押し、葬儀会場の脇にある部屋へ連れていった。きれいに整えられた客間だった。千暁は腰をかがめ、咲夜に言った。「このあと忙しくなったら、君のことまで気にかけていられないかもしれない。智哉と良太が部屋の外にいるから、何かあったら二人に言ってくれ。用事が済んだら、すぐに戻ってくる」千暁の声は、昨日よりさらに掠れていた。咲夜は目の前の男を見つめ、何か言いたげに唇を動かしたものの、最後には小さく頷くだけだった。「うん。私のことは心配しないで。ここで待ってるから」今日のような慌ただしい状況では、千暁が自分のことまで細かく気にかけている余裕などないと咲夜も分かっていた。だからこそ、自分のことは気にせず、やるべきことに集中してほしかった。千暁は腰をかがめ、咲夜を強く抱きしめた。それからようやく体を起こし、部屋を出ていった。咲夜は窓越しに外へ目を向けた。葬儀は滞りなく進んでいた。咲夜は先ほど到着したときの光景を思い返した。祭壇の前に控えていたのは、千暁と瞳だけだった。そこには天志も遥斗もいなかった。遥斗はあの交通事故でそれほど重い怪我を負ったわけではなかったが、それでもずっと入院していた。だが、今日は絢子の葬儀の日だ。息子である遥斗が姿を見せないというのは、どう考えてもおかしかった。そして天志は夫でありながら今日の葬儀にすら出席しないとは、もはや体裁を取り繕う気すらないのだろうか。咲夜は、あの日のことを思い出さずにはいられなかった。天志は絢子の命を盾にして、千暁にあの
普通に考えれば、天志はすでに目的を果たしているのだから、息子である千暁を徹底的に潰そうとまではしないだろう。確かに彼には次男の遥斗もいて、老後の面倒を見てもらうことはできる。だが、どう考えても遥斗は、長男の千暁には及ばないはずだ。天志に、ほかの思惑があるのなら話は別だが。千雪は咲夜に隠すことなく、知っていることをすべて話した。「瞳さんは毎日のように荻野天志と揉めてますし、荻野啓介のほうも大変なことになってるんです。例の無条件譲渡契約のことで。荻野啓介は、手元にある資産を全部財団に寄付してでも、あれだけの財産を荻野天志には渡さないって言い切ったらしくて、かなり激しく揉めてるみたいです」この件は、千雪もたまたま真澄と千暁の会話を耳にして知っただけだった。事の重大さが分かっていたため、これまで誰にも話さずにいたのだが、ようやく咲夜に打ち明けることができ、千雪はやっと肩の荷が下りたような気がした。啓介と天志は真っ向から対立し、どちらも一歩も譲ろうとしていない。そのうえ、今度は瞳までこの争いに加わってきた。彼女は、祖父が独断で決めることには断固反対だと強く主張しているという。瞳に言わせれば、荻野家の子孫は千暁だけではなく、自分だって同じなのだ。だから祖父が財産の行き先を決めるというのなら、自分の分もきちんと確保するよう求めたという。そのとき啓介は激怒し、危うく杖を振り上げて瞳を叩こうとしたほどだったらしい。瞳の名前を聞いた瞬間、咲夜の表情がわずかに曇った。瞳はもう隠すつもりもなく、堂々と荻野家の財産争いに加わるつもりなのだ。啓介が持っている株式も、瞳にとっては荻野家の財産の一部という認識なのだろう。千雪は咲夜の様子を窺いながら、さらに続けた。「葬儀が終わったら、荻野絢子の遺言の内容も開示されるんですよね?そうなったら、きっと葬儀のとき以上に複雑で大変なことになりますよ」これで千雪が心配せずにいられるはずもなかった。咲夜は思わず千雪に目をやった。「灰原さんもなかなかやるね。そんな機密事項まで小林さんに教えてるんだ?」千雪がはっきり言わなくても、咲夜には分かっていた。こうした内部の最新情報を彼女に教えているのは、間違いなく真澄だ。真澄の話になっても、千雪は特に表情を変えなかった。ただ軽く咳払いをし
【明日の朝八時に灰原を迎えに行かせる。】千暁は、咲夜を絢子の葬儀に連れていくつもりなのだろう。咲夜はぼんやりとメモを見つめながら、どうしても不安を拭えなかった。――明日、自分が葬儀へ行ったら、瞳のほうは大丈夫なのだろうか。千雪がドアを開けて入ってくると、目に入ったのは考え込んでいる咲夜の姿だった。ここ数日、千暁が病院にいなかったため、千雪と咲夜の両親が交代で付き添い、咲夜の世話をしていた。雅紀は昨日から風邪を引いて熱まで出してしまったため、今日は自宅で休んでおり、真奈美がその看病をしている。入口から聞こえた物音に、咲夜は我に返った。すでに目の前までやってきた千雪を見て、咲夜は言った。「小林さん、家から私の黒いワンピースを取ってきてくれない?明日着たいの」葬儀に参列するのなら、きちんとした格好をしないと。その言葉を聞いた途端、千雪は咲夜が何をしようとしているのかすぐに察した。彼女は手に提げていた袋を見せながら言った。「さっき灰原さんから渡されたんです。千暁さんが用意したもので、明日はこれに着替えてほしいって」袋の中に入っていたのは、ちょうど黒いワンピースだった。千暁がわざわざ咲夜のために用意しておいたものだ。咲夜の足の傷はすでに抜糸も済んでいたものの、まだその足に体重をかけることはできなかった。パンツを穿くとなると、どうしても着替えが大変になるだろう。その点、ワンピースならずっと楽だ。咲夜は驚きながら袋を受け取り、中に入っている黒いワンピースを見た。サイズも間違いなく自分に合うものだった。まさか千暁が何もかも用意してくれていたとは思わなかった。ワンピースを眺めながら、咲夜は思わず笑みをこぼした。その傍らで、千雪が尋ねた。「明日は葬儀に行くつもりなんですか?荻野家のほうは大丈夫でしょうか?」絢子が亡くなったことで、今の荻野家はかなり混乱していた。千暁が荻野グループを退き、しかも足が不自由になったわけではなかったという事実は、たちまち一族全体に知れ渡った。千暁が絢子の葬儀に追われている隙を狙い、動き出す者が次々と現れ、どうやら彼を困らせようとしているらしい。正直なところ、部外者の千雪でさえ、さすがにやりすぎだと思うほどだった。真澄は千暁が責任を取って辞任すると申し出た際、それに続いて荻
咲夜は少し横にずれてスペースを空けると、隣を軽く叩き、千暁に横になるよう促した。千暁は、咲夜が空けてくれたベッドの半分に横になった。彼が横になるのとほぼ同時に、咲夜も体を寄せ、片腕を千暁の頭の下に差し入れ、もう片方の腕を彼の腰に回した。まるで千暁を半分抱きしめるような格好だった。咲夜は彼の背中を優しく撫でながら、小さな声で言った。「寝て。私がついてるから。ずっとそばにいるよ」千暁はただ目を上げ、じっと彼女を見つめていた。その視線に気づいた咲夜は顔を伏せ、千暁の薄い唇にそっと口づけた。ほんの一瞬触れるだけのキスをして、すぐに唇を離す。咲夜は千暁に優しく微笑みかけ、その手は変わらず穏やかに彼の背中を撫で続けていた。千暁はここ数日、ろくに休む暇もなく動き続けていた。そんな彼が今、咲夜の腕の中に抱かれ、ようやく安心して眠ろうとしていた。本当なら、もう少しだけ咲夜の顔を眺めていたかった。けれど、彼女の手に優しく背中を撫でられているうちに、次第に眠気が押し寄せ、千暁はほどなく目を閉じた。意識がぼんやりと霞む中、耳元には咲夜の優しい声だけがかすかに届いていた。千暁はよほど疲れていたのだろう。目を閉じると、ほどなく深い眠りに落ちていった。咲夜は腕の中で眠る彼を、ただじっと見つめていた。眠りについたその顔から、どうしても目を離す気にはなれなかった。ようやく二人きりで過ごせる時間ができたのだ。一分一秒だって無駄にしたくなかった。咲夜はそうして千暁をじっと見つめていたが、やがて愛しさを抑えきれなくなったように手を伸ばし、彼の顔の輪郭を指先でなぞり始めた。額から鼻筋へ、そして薄い唇へ。咲夜は千暁の唇をぼんやりと見つめた。どこか冷たく見えそうな薄い唇とは裏腹に、千暁は誰よりも一途だった。彼はいつだって自分に優しく、ずっと変わらず自分を愛し続けてくれている。こんなにも素晴らしい男に愛してもらえるなんて、自分にはもったいないくらいだと、この瞬間、咲夜は心からそう思った。見つめているうちに、胸にあふれる愛しさを抑えきれなくなり、咲夜はもう一度、千暁の唇に自分の唇を重ねた。一度、そしてもう一度。額を千暁の額に寄せながら、咲夜はその唇に何度もそっと口づけた。その仕草はどこまでも慎重で、少しでも彼の安眠を邪魔してしま
咲夜が病院を後にして間もなく、真奈美から電話がかかってきた。鳴り続けるスマートフォンを、咲夜は手に取ろうともせず放置したまま、自動的に通話が切れるのを待つ。だが、着信は執拗に繰り返された。出ない限り、母が決して諦めないことなど分かりきっている。結局、咲夜は小さく息をつき、妥協するように通話ボタンを押した。「咲夜、森崎家が資金を引き揚げるって!両家の提携も全部白紙よ。これで満足なの?」電話の向こうから、激情に駆られた真奈美の罵声が飛んできた。これまでどれほど理不尽を押しつけられても耐え続けてきた咲夜が、なぜ今になって意地を張るのか、真奈美には理解できなかったのだ。
晴南も、外の騒がしさにはすでに気づいていた。つい先ほどまで浮かべていた穏やかな笑みは、咲夜の姿を認めた瞬間に凍りつき、その冷ややかな瞳には露骨な不快感と詰問の色が宿る。咲夜はその視線を真正面から受け止めながら、感情を削ぎ落とした無表情のまま、真奈美の背後に静かに立っていた。「晴南さん、うちの咲夜が分からず屋で本当にごめんなさい。ちゃんとお詫びさせようと思って、連れてきたの」真奈美は卑屈な笑みを顔に貼りつけ、機嫌を窺うような声音で言った。そう言いながら、咲夜の背中を突き飛ばすようにして、彼女を晴南の目の前へ押し出す。晴南はただ冷ややかにその様子を眺めるだけで、自分から口を
実家へ向かう帰路の途中、咲夜のスマートフォンに晴南から着信が入った。受話器越しに響いてきたのは、怒りに我を失った彼の声だった。「咲夜、今すぐ病院に来い。這いつくばってでも洸に謝るんだ」背後では、洸のすすり泣く声がかすかに混じっている。想像するまでもない。晴南は洸を不憫に思うあまり、怒りの矛先をすべて自分へ向けようとしているのだ。咲夜は深く考えることもなく、電話口から浴びせられる怒号を無視し、そのまま通話を切った。しかし晴南は執拗だった。すぐさま何度もかけ直してくる。病院へ来て謝罪するまで決して許さない――そんな執念すら感じさせる勢いだった。苛立ちが限界に達した咲夜は
洸は、咲夜が手にしていたコーヒーを奪い取ると、そのまま自分の顔へとぶちまけた。続けざまに、自らの頬を思いきりひっぱたく。華奢な身体は、計算し尽くされた絶妙なタイミングで床へと倒れ込んだ。額がテーブルの角にぶつかり、生温かい液体が視界を滲ませる。「ごめんなさい……私が悪かったわ。晴南さんに付きまとったりして、本当にごめんなさい。私を打って気が済むのなら、いくらでも打って。抵抗なんてしないから」床に座り込んだ洸は、首を振りながら、しゃくり上げるような声で泣き叫んだ。晴南は、かなり離れた場所にいながらも、ダイニングルームの騒ぎを聞きつけていた。慌てて階段を駆け下りた彼の目







