そして静真はすぐに気づいた。隼人は前回手加減していたのだ。革ベルトが筋肉に食い込み、片腕が痺れかけていた。静真は全身の痛みで体が硬直した。その一瞬の隙を隼人は見逃さず、容赦なく同じ場所に再びベルトを振り下ろした。もはや腕は痺れているどころか、折れてしまいそうだった。静真は苦痛に悶え声を上げた。隼人は静真に思い知らせる覚悟だった。鋼鉄のような力で静真の腕を掴み、背後で拘束すると、膝で背中を押さえつけた。ソファに倒れ込んだ静真の手首を縛り上げ、もう片方の腕も掴んで、しっかりと巻き付けた。その間、静真は必死に抵抗し、寝返りを打ってテーブルにぶつかり、大きな音を立てた。部屋に隠れていた高橋は、これ以上見ていられず、心配そうに飛び出してきた。静真と月子が喧嘩を始めたと思ったのだ。ところが、そこにいたのは見知らぬ男だった。高橋は元より静真の迫力に押されていたが、この男はそれ以上の威圧感を放っていた。高橋は完全に立ちすくんでしまった。身動き一つできなかった。隼人は静真に逃げる隙を与えまいと、近くのカップを掴んで彼の頭に叩きつけた。静真は意識が遠のいた。隼人は静真に反撃のチャンスを与えず、ベルトを締め上げて逃げられないようにすると、後頭部を掴んでソファに投げ飛ばした。静真は息を切らして言った。「隼……」名前を呼び終える前に、隼人は静真の顔を平手打ちした。強烈な一撃に、静真の頭は大きく横に振られ、耳鳴りが止まらない。目の前は星が舞い、カップで殴られた頭はさらに朦朧としてきた。静真は必死に瞬きをして、意識を失わないようにした。そして、彼は怒りに震えながらも、笑った。こんな屈辱的な思いをしたのは生まれて初めてだ。しかも月子の前で隼人にボコボコにされるなんて。この屈辱は一生忘れられない。その瞬間、静真は隼人に殺意を覚えた。彼は冷たく振り返り、隼人を鋭く睨みつけた。「隼人、俺と月子のことに口出しする資格なんて、お前にはない!」隼人は彼を見下ろしながら言った。「俺がお前の兄だ。それだけで十分だ」静真は言葉を失った。本当は罵詈雑言を浴びせようとしていたのに、突然詰まってしまった。隼人が「兄」として出てきたことなど、未だかつて想像もしていなかった。そんなことがあっていいのか?隼人に、一体なんの権利があってそんなこと
ここは静真の家だ。月子は、隼人がここに現れるとは思ってもみなかった。彼女はひどく驚いた。隼人は、先ほどの会食で着ていたシャツ一枚の姿だった。普段はきちんとボタンを留めている彼が、今日は上から二つほど外しており、いつもの気品ある雰囲気とは少し違っていた。しかし、彼の冷酷なオーラは健在で、むしろ威圧感が増していた。月子は目を合わせることさえできなかった。隼人は、月子の涙に気づいた。こんな彼女を見るのはおそらく初めてだろう。隼人は、だらんと下げていた手をぎゅっと握りしめ、冷徹な視線を彼女、そして彼女の後ろにいる静真へと向けた。その目線はまるで氷のように鋭かった。隼人は怒っていた。月子は怖くて何も言えなかった。この威圧感に耐えられるのはきっと静真だけだろう。静真の顔色は、隼人と同じくらい冷たく険しかった。静真は、隼人が月子に気があることを知っていたのもあって、だから、彼がここまで追いかけてきたことに、静真はそれほど驚きはしなかった。やはり、昔から隼人は目障りな存在だった。この世界に、隼人がいなければどんなにいいだろうか。静真は怒り心頭で、隼人がどうやって家に入ったのか詮索する気にもなれなかった。ただ、冷え切った顔で一言、「出て行け」と言った。声は静かだったが、今にも爆発しそうな危険な雰囲気だった。正雄がいない限り、静真と隼人が顔を合わせれば、いがみ合うほど険悪な雰囲気になるのはいつものことだった。だが今のように周囲の空気は瞬時に凍り付くほど張り詰めてくることはなかった。月子はそれに息苦しささえ感じ、その場から逃げ出したくなった。一方で「出て行け」と言われた隼人は静真を完全に無視し、冷酷な表情で月子の前に歩み寄った。隼人は、月子の視線を感じながら、彼女の手首を掴み、ベルトを外してあげた。この時すでに月子の手首は、ベルトで締め付けられて赤くなっていた。長い間もがいてベルトが外れなかったせいだろう、擦れ続けた手首には、痛々しいほどの赤い痕が残っていた。それを見ると隼人の目は怒りに満ちていた。月子は、すぐそばにいる隼人の変化を敏感に感じ取り、恐怖に震えた。少しでも彼から離れようとしたが、腕を掴まれて逃げることができなかった。隼人は、月子の手首から顔へと視線を移し、「痛かった?」と尋ねた。月子はまつげを震
静真は冷たく笑った。「俺の言うことを聞いてくれれば……」月子は彼の言葉に乗らず、鋭い視線で核心を突いた。「本当は、私がいないと寂しいんじゃないの?」静真は、両脇に垂らした手をぎゅっと握りしめ、二秒ほど沈黙した。そして、クスっと笑った。「まさか!」月子は、静真のことが理解できなかった。自分を嫌悪し、避け、冷淡で無情な男が、急にキスを求めてくるなんて?隼人のことで機嫌が悪いのは分かる。でも、静真の自分への嫌悪感は、たとえ彼が不機嫌になったとしても、いつものように暴言を吐いたり、嘲笑したり、ゴミを見るような蔑みの視線を向けるのが普通だろう。キスを求めるなんて、ありえなさすぎる。月子にとって、キスを求めるということは、独占欲があるということだ。しかし、静真は自分のことを愛していない。そんな彼は一体なにを独占したいんだろう。まったく理解できなかったが、月子は、静真の様子がおかしいと感じた。もうここにいたくないと思い、心の嫌悪感を抑えながら、彼女は冷淡な声で言った。「今晩、あなたが私に会いに来たのは、おじいさんの誕生日に行くようにって言いたかったんでしょう?もう分かったから、行くよ。静真、もう離婚したんだから、このまま穏便に済ませようよ」静真は「離婚」という言葉が耳障りで、もはや聞きたくなかった。彼は突然感情的になり、声を荒げた。「なぜ、お前の言う通りにしなきゃならないんだ!」月子も、負けじと声を上げた。「あなたを憎んでいるからよ!離婚の意味が分かっていないあなたを!狂人のように自分の気持ちに整理がついていないあなたを!私を尊重しないあなたを!あなたの執着を心のそこから憎んでるからよ!これだけ言えば十分でしょ!」感情が高ぶった月子は、目が熱くなるのを感じたが必死にこらえて、涙を流さないようにした。「あなたを愛したことを後悔したことはない。だから、静真、これ以上あなたを愛したことを、嫌な思い出にしないで!」静真は拳を握りしめ、手の甲に血管が浮き出た。彼は月子の怒りに満ちた訴えに驚き、空港への車の中での彼女の取った行動を思い出した。そして、涙を浮かべた彼女の目を見て、彼もまた深い悲しみを感じ、胸が締め付けられるような痛みを感じた。ここは、彼と月子が3年間暮らした家だ。彼はこの家での月子の姿を見て来た。深夜に自分を待つ彼女の優しい目を彼
静真は瞬きもせず、冷酷な視線を月子に浴びせていた。もし彼がキスを求めるような言葉を発していなければ、月子は今にも彼に殺されるんじゃないかという恐怖さえ覚えた。男のプライドなんて、滑稽なものだ。そして、それは静真の弱点でもあった。月子は、それを拒んだだけでも十分な打撃を与えられた。だから、彼の言葉を聞いて月子は冷笑し、顔をそむけた。手首は静真のベルトで縛られていて、逃げることができない。もし拘束されていなければ、とっくに平手打ちを食らわせていたところだ。彼を拒むようにして顔をそむける月子を見て、静真の心拍数は乱れた。彼は力づくで月子の顔を掴み、苦しげな表情で言った。「もう、俺の顔も見たくないっていうのか?」「あなたと話すことすら、時間の無駄よ!」誰かに冷たく拒まれることは、これほどまでに傷つくとは、静真は今まで思いもしなかった。月子が少しでも歩み寄ってくれれば、こんなことにはならなかったのに。乱暴に連れ戻したりもしなかった。なのに、彼女はまるで氷のように冷たい。一言も優しい言葉を口にせず、頑なな態度を崩さない。月子は何も気にしていない。だから、怒りをぶつけたところで、自分が一方的に取り乱しているだけになってしまう。静真は、月子にこれほど影響されたくなかったから、なんとか平静を装っていた。しかし、それと同時に彼もひどく疲れ果てていた。なぜ、欲しいものはいつも手に入らないんだろう?静真は、激しい苦痛を感じた。それは月子のことだけでなく、これまでの人生すべてにおけることだった。子供の頃、母親には優しくして欲しかった。父親には、自分の頑張りを認めて欲しかった。しかし、そんなことは一度もなかった。両親の言葉や視線は、いつも失望と不満で満ちていた。精一杯努力して、やっと少しだけ褒められ、母親の顔が少しだけ微笑んだ。そんなわずかな瞬間ですら、条件付きだった。必死に努力して、優秀な成績を収めなければ、手に入らなかった。静真はずっと分かっていた。生まれてこのかた、自分を心から愛してくれた人は誰もいないということを。そして、月子もそうだったなんて。静真は、月子は違うと思っていた。無条件に自分を愛してくれる女性だと信じていた。なのに、彼女は離婚を望み、そして今では、顔も見たくないほど自分を嫌っている。静真の心には、激しい怒りがこみ
静真は心臓が高鳴るのを感じた。まるで映画でよくある、一目惚れというやつだ。これまでの人生で感じたことのない、初めての感覚だった。だけど、彼は気にしなかった。ときどき心臓が乱れるのはよくあることだし、別に恋をしているからってわけでもない。しかし、心臓の鼓動はさらに速まり、呼吸も荒くなっていった。静真は自分が馬鹿みたいだと思った。月子からこの答えを聞いたら、なぜか少しだけ気分が良くなった。だが、良い気分はすぐに消え去った。彼女からの嫌悪感が信じられないほど、あまりにも強かったからだ。「人を好きになるということは、その相手ずっと好きでいることだろ?なのに、今のお前は俺をこんなにも拒んでいるのはどういうことなんだ?」それを言われて、月子は改めて思った。自分があれほど尽くしてきたのにも関わらずそれでも信じてもらえなかったんだから、この3年間は本当に無駄だったんだろうな。静真の友達はみんな、自分が彼にベッタリくっついている、と言っていた。なのに、静真自身は自分の愛に気づかない。それどころか、疑念まで抱いている。彼の心は本当に石でできているんじゃないだろうか?何も感じないのだろうか?月子の心は冷え切った。「もういい。3年間もあれば、あなたが私にとってふさわしくない男だってことは十分証明できた。もうこれ以上、時間を無駄にする必要はないから」彼女はいつも何かを決断するときには、それを裏付けるそれなりの理由があった。そして、一度決めたことは簡単には曲げない性格なのだ。つまり、月子にとって、もう静真とよりを戻す理由など見つからない以上、後戻りをすることはないのだ。それに、ここまで来てもまだ静真は彼女を信じていないのだから、月子からしてみれば、この3年間は本当にどぶに捨てたようで無駄だったわけだ。彼女からそんなことを言われ、静真は眉をひそめた。「本気なのか?」「ええ!」「お前は本当に気まぐれだな」月子は眉をひそめ、残りの僅かな忍耐力で冷たく言った。「役所を出た日に、はっきり言ったはずよ。あなたを無条件で愛してくれる女を探せばいい。でも、その人は私じゃない」役所での出来事を思い出しながら、静真は月子の言った言葉を一つ一つ思い出していた。ただ、なぜ、こんなにも急に態度が変わったのか、理解できなかった。それこそが、彼にはどうしてもわ
月子は驚いたように目を見開いた。静真に見せつけることができなかったのを悔やんでいた矢先、彼が盗み見ていたとは。だから彼のストーキングや、グラスを奪ったことも、全て理由があったんだ――静真は面白くなかったんだ。嫉妬していたんだ。もちろん、彼がこんな風に暴走したのは隼人のせいだ。自分とは関係ない。月子は、Sグループで働いていて本当に良かったと思った。だからこそ隼人と知り合うことができたのだ。そうでなければ、静真にちょっかいを出される度に、反撃の術がなかっただろう。今、静真がこんなに取り乱しているのは、彼が最も嫌っている男にキスをしたからだと思うと、月子は優越感に浸ることができた。静真の冷酷な視線に、ついに満足した月子は、笑みを浮かべながらこう言った。「こんなの序の口よ。私が彼と関係を持ってから、騒ぎ立てるのも遅くないんじゃない」以前、静真は月子のこんな言葉を真に受けず、単なる強がりだと思っていた。しかし今、彼女は本当にやりかねない。そんな可能性を考えると、静真は冷静ではいられなくなった。そして冷酷な表情で警告した。「月子、俺だって普通の男だ。復讐するにしても、俺の地雷を踏むな。それ以外のことなら、どんなゲームでも相手になってやる」「脅してるの?」そう聞かれて、静真は凄まじい目つきで答えた。「これは命令だ」静真は冷淡な性格で、付き合いづらい男だ。彼がこんな状態だと、一樹でさえ近寄りがたかった。月子も以前なら怖がっていたが、今は全く怖気着く様子がないのだ。愛情の問題ではない。月子は元々こういう性格なのだ。一度やると決めたら、どんな脅しにも屈しない。静真の警告は、むしろ彼女の勇気を掻き立てるだけだ。少なくともこの点は、洵と瓜二つだ。彼女は冷たく言い放った。「諦めなよ。あなたの言うことなんて聞くわけがないじゃない」静真を好きだった頃、月子は彼の全てが完璧だと思っていた。顔立ち、雰囲気、仕事に集中している姿……全てが好きだった。今も目の前にいる彼は、相変わらず整った顔立ちをしている。そして匂いも、よく知っている匂いだった……以前なら、月子は静真の取り乱しぶりを、嫉妬のせいだと都合よく解釈していただろう。しかし実際は、彼は自分のプライドを守ろうとしているだけなのだ。もし静真が離婚後、静かに元夫として振る