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第3話

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静真がスーツ姿で玄関に現れると、その気品あふれる佇まいとモデルのようにすらりとした身なりは、カフェの客たちからこっそりと寄せられる感嘆の眼差しを集めていた。

静真の傍らには、30代前半の清廉な雰囲気の男が立っていた。彼もまた風格があった。

月子はその男が誰なのかをすぐに分かった。

田中浩(たなか ひろし)。A大学コンピュータ科学科の教授だ。フォーラムを見たことがあるから、彼女は彼がAIデータ駆動による安定性について研究していることを知っていた。

彼らの後ろには、静真の秘書の鈴木渉(すずき わたる)が書類を抱えて立っていた。

入江グループはK市におけるIT業界の先駆者だ。浩との接触はおそらく仕事関係の付き合いだろう。

月子は静真に会いたくなかった。

だが、今席を立って出ていけば、もっと目立ってしまう。見られないように祈るしかなかった。

しかし、現実は甘くなかった。

次の瞬間、静真の視線が、正確に彼女をとらえた。

目が合った。

静真はまるで彼女を見知らぬ人であるかのように、冷ややかな視線を送り、すぐに目をそらした。

彼は彼女の存在を気にしていないようだった。

渉も視線の先を見て月子に気づいたが、特に反応を示さず、振り返って後ろにいる二人に声をかけた。「個室はこちらです。田中先生、入江社長、どうぞ」

月子は少しほっとした。

ところが、彼らは足を止めた。

浩が突然尋ねた。「入江社長、窓際に座っている女性をご存知ですか?失礼ながら、社長と鈴木さんも彼女に視線を向けていらっしゃったので、私も少し気になりまして」

静真は月子が会社に現れることは想定していたが、まさかこんな所で会うとは思ってもいなかった。

それでも、特に驚きはしなかった。

しかし、だからといって彼女に会いたいわけではない。

静真は冷淡な声で「家の家政婦だ」とそっけなく答えた。

浩は少し驚いた。

本当のところ、彼がわざわざ質問したのは、静真が誰かに注目したからではなく、A大学研究室で彼女を見かけた記憶があったからだ……

しかし、A大学は国内でもトップクラスの大学だ。A大学を卒業した学生が、どんなに落ちぶれても家政婦をするとは考えにくい。

それに、A大学で見たあの学生は天才中の天才だった。田中研究室は現在、技術的な難点に直面しており、もし彼女のような人材が研究室に加われば、現状を打破できるかもしれない。

しかし、どういうわけか、数年前に突然姿を消してしまった。

彼はすべての卒業生の記録を調べたが、ごく平凡な学生ばかりで、あの天才学生に該当する者はいなかった……

浩は、あの天才学生の才能があれば、数本の論文を発表するだけで学会を揺るがし、A大学史上最年少の教授になることも可能で、コンピュータ科学硏究院の殿堂入りも夢ではないと評価していた。

まさに前途洋々だった。

浩は少し残念そうに思いながら、「では、行きましょうか、入江社長」と声をかけた。

静真は月子に再び視線を向けることなく、個室へと入っていった。

月子の爪がコーヒーカップに当たった。

不快な音が響いた。

かつて一樹が家に遊びに来て、彼女の作った料理を食べて、それはそれは絶賛し、彼女と同じくらい料理上手な女性と結婚したいと宣言したことがあった。

そのとき静真は「じゃあ、女の料理人を嫁にもらえばいいじゃないか」と冷たく言った。

人を好きになると、本当に馬鹿になってしまうのかもしれない。

その時月子は特に何も感じなかった。

だけど今思えば、本当に馬鹿げた話だ。

3年間も尽くした結果、自分は料理人や家政婦のレッテルを貼られただけの存在だった。なんて惨めなんだろう。

月子は急に胸が苦しくなった。こんな風に後から気づかされることで、その真実はまるで無数の針のように胸の奥に突き刺さり、絶え間ない痛みとなって襲ってきているようだ。

コンコン。

静真が個室に入った後、渉が彼女のテーブルに近づき、ノックした。

月子は思考を遮られ、顔を上げた。

渉は不機嫌そうな顔で冷たく尋ねた。「ここで何をしている?社長の行動を二度と調べるなと警告されたはずだ」

以前、入江会長が病気になったとき、月子は静真に連絡が取れず、仕方なく彼の秘書を探し結果、結局彼をバーで見つけた。

だがその時静真は泥酔していて、彼女が彼を支えようとしたら、ソファに押し倒され、激しくキスされた。

その瞬間、月子は驚きと喜びを感じた。

静真はいつも彼女に冷たかった。そんな彼が初めて自分からキスしてくれたことに彼女は感激していた……

しかし次の瞬間、彼の口から「霞」という言葉が聞こえた。

月子は全身が凍りついたように感じ、必死に抵抗した。しかし静真が酔いから覚めると、彼は結婚以来初めて激怒し、1ヶ月間家に帰らなかった。そのうえ、警告をするかのように、今度こんなことがあれば例え、入江会長の顔を立てたとしても必ず離婚すると脅してきていた。

月子は当然、二度とする気はなかった。

何があっても、二度と彼の行動を調べたりしなかった。

秘書の渉は、月子の静真への想いを理解していた。

だから質問した後も、彼女にそんな度胸はないだろうと思った。

月子は二度と静真の機嫌を損ねることなどできないはずだ。

突然大胆にもここまでついてきたのは、何かショックを受けたのだろうか?

渉はすぐに理解した。「霞さんの帰国で、こんな間違いを犯したのなら、霞さんが社長にとってどれほど大切な存在か、よく考えるべきだ。こんなことをして、意味がないとは思わないのか?」

霞は博士号を取得して帰国し、面接を経て浩の研究室に採用された。

浩は業界の権威であり、彼の研究員は皆、業界のトップレベルの人材で、人工知能の最先端応用技術を研究している。

霞の世界は月子にはとって程遠い存在だろう。

それもそのはず、渉からしてみれば、もし自分が月子の立場だったら、きっと身の程をわきまえるだろう。でなければ、霞に会った時に、その歴然とした差に恥をかくのは自分自身だしな。

しかし、月子にはそのような自覚がないようだった。

月子と渉の関係は、常に険悪だった。

理由は特にない。ただ、彼が静真の秘書であるというだけで、上司の態度がそのまま彼の態度に反映され、冷たく皮肉っぽい言葉を浴びせられてきた。

月子はこれまで静真のことしか頭に無く、渉にはいつも丁寧に接していた。彼が冷淡な態度を取り、嫌味を言っても、彼女は特に気に留めなかった。

だが今はもう、そんな我慢をする必要はない。

月子は反論した。「どうすれば意味があるっていうの?あなたの理屈で言えば、朝から彼にべったりくっついて、彼が何をするにもこっそりついていくほうが、よっぽど簡単で便利じゃない。それこそ、あなたの言う、嫉妬に狂ったストーカーってやつじゃない」

渉は驚いて彼女を見つめた。

月子はいつも自分にはおどおどしていたのに、どうして急に強気に出るようになったんだ?

しかし、彼はすぐに理解した。

月子は昨日流産したが、入江社長はずっと霞と一緒にいた。

自分の子供のこととなると、どんなにおとなしい女性でも少しは変わるものだ。だから彼女はこんな風になっているんだ。

とはいえ、月子の強気も長くは続かないだろう。

渉は無表情で言った。「お前と口論するつもりはない。社長はお前に会いたくないんだ。帰ってくれ」

月子が強気に出れば出るほど、静真の邪魔になる。

彼女にとって何のメリットもない。

こんな子供っぽい真似をする必要もない。

「私、静真と離婚したの。これから私が何をしようと、あなたたちに関係ないでしょ。もう構わないで」

そう言うと、月子は背を向けて立ち去った。

渉は彼女の後ろ姿を見ながら、呆れて笑いたくなった。

彼は月子が理解できなかった

入江社長は何度も離婚を切り出してきたが、本当に離婚した試しがあっただろうか?

自分に腹を立てても、何になるというのだ。

それに、強がるにしてももう少しうまくやればいいのに。結婚指輪を左手の薬指にはめたまま、見え透いた嘘をついている。余計に滑稽に見えるだけだ。

……

月子は店を出てから、彩乃に連絡した。「会う場所を変えよう」

本来は、彼女と会った後に行くつもりだった。

もう待てなかった。

ジュエリーショップ。

店員がピンセットを使って、月子の左手の薬指にはめられた結婚指輪を切断した。

ここ数年、子供ができなかった彼女は、姑から様々な薬を飲まされ、少し太ってしまった。いつの間にか、指輪が抜けなくなっていた。

切断された指輪はもはやただの屑となり、プラチナの相場で買い取られた。

月子は派手なものが好きではなく、結婚指輪にはメレダイヤが埋め込まれていたが、メレダイヤにはほとんど価値がないため、買取価格は4万円にも満たなかった。

彩乃はその価格を聞いて、あまりにも呆れて思わず笑ってしまった。「結婚指輪まで売るとは、今回の離婚騒動、なかなか本気みたいだね」

これまでの3年間の月子の様子から、彩乃は彼女が静真と離婚する決意を固めたとは全く信じていなかった。
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Comments (1)
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岡田由美子
行動的なオンナは未来があるよ。良くやった!
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