LOGIN「昨夜、お前が飲まなければいけないって言っていた薬、流産した後のものじゃなくて、性病の薬だったんだろ?」智也は無惨な姿の柚葉を見下ろした。かつて想いを寄せ続けた女性は、今ではただの汚れた存在にしか見えない。智也は苦悶と憤怒に歪む顔で言い放った。「柚葉、お前は本当に気持ち悪い。そして、お前に人生も財産も全部捧げた俺も、同じくらい気持ち悪いんだ」彼は柚葉だけでなく、自分自身も責めていた。ここ数日で急激に痩せた身体は、今にも倒れそうだった。そして智也は、もう二度と柚葉の方を見ることはない。「毎月6万円、これを4年間。お前にやるのはこれだけだ」智也は医師の方へ向き直り、必死に平静を装って椅子へ座り直した。「手術の手配をお願いします。今後の治療計画も立ててください」医師が答える。「初期段階ですから手術は必要ありません。注射と内服薬、それから定期的な検査が主になります。あ、それと、ペニシリンのアレルギーはありますか?」智也は首を振り、ふと周囲の人たちを思い浮かべた。「日常生活での注意点も教えてください。身近な人にうつしたくありませんので」医師と連絡先を交換し、注意事項は後で送ってもらうことになった。薬と注射を済ませたら、すぐ帰る。何より、もう柚葉と同じ場所にいるだけで息が詰まりそうだったのだ。柚葉はよろめきながら追いすがり、いつものように自分を見捨てないでと泣き言を漏らしたが、智也からは何の答えも返ってこず、柚葉はただ、去っていく車をぼんやりと見送るしかなかった。車中の智也は複雑な心境だった。家族にどうやって検査を受けさせようか?家族は毎日一緒に食事をし、ときには同じトイレも使う。検査しなければ安心できない。病院に戻ると、両親からの温かい気遣いや胡桃の呼びかけが、より一層智也の胸を締め付けた。少し考え込んでから、口を開く。「もうすぐ正月だし、皆が病院にいる今、この機会に全員で健康診断でも受けないか?これからは、毎年受けようよ。母さんの脳腫瘍も早く見つかっていれば、ここまで苦しまずに済んだかもしれないからな」家族も智也の言う通りだと思った。特に、梨花は大賛成だった。脳腫瘍そのものより、診断された時の恐怖がよほど堪えていたのだ。智也は通常の健康診断に感染症検査とがん検診を追加する。智也はじっと結果を待ち、結果が
智也は尿意で目が覚めた。トイレへ向かい、用を足しながら何気なく視線を落とした瞬間、違和感を覚えた。何かできている。智也が目を凝らしてよく見ると、小さなカリフラワーのようなものができていた。その瞬間、一瞬で全身の血の気が引いた。智也は慌ててベルトを締めると、配車アプリでタクシーを呼んだ。梨花が入院している和心病院に行こうとしたが、そこの院長が策の父親であることを思い出し、背後に竹内家の影があることを察して、別の病院にすることにした。智也は行き先を変更する。市街地から一番遠い郊外の病院へ。それは、智也の人生で最も苦しい検査の時間だった。【梅毒トレポネーマ抗体(TP-Ab/TPPA):陽性】その結果を見た瞬間、智也はよろめいた。顔から血の気が失せ、唇は死人のように白くなる。皮膚科の医師は、こうした患者の反応には慣れていたため、落ち着いた口調で説明する。「初期段階です。早く見つかってよかったですね。この病気には潜伏期間がありますから、多くの方は症状が出た時には進行していますので。それに、治療もできます。近年の医療技術は進んでいますので、早期発見なら完治も十分可能ですし、治療後に夫婦生活に影響が出ることもありませんよ」続けて、パートナーがいるかを確認され、相手にも検査を受けるよう促された。智也の脳裏に浮かんだのは――柚葉。この病気は日常生活で簡単にうつるものではない。最も考えられる感染経路は、性的接触。智也は手を震わせながら言った。「わ、分かりました。ちょっと電話してみます」電話が繋がった。「智也?助けてくれる気になったの?」弾んだ柚葉の声が聞こえる。智也はまるで魂が抜けてしまったような表情のまま病院の住所を伝え、来るように言った。郊外の病院であることを、柚葉は一瞬不思議に思ったが、「来たら金を渡す」と言われ、すぐに言われた住所まで向かった。柚葉が到着するや否や、智也は彼女の腕をつかみ、そのまま診察室へ連れて行く。「この人にも検査をお願いします」検査内容を見て一瞬で顔色を変えた柚葉は、智也の腕を振り解こうと暴れ出し、必死に逃れようと叫んだ。「智也、何をする気?どうして私がこんな検査をしなくちゃいけないの?なんなのこれ!」「何の検査か知らないのに、なんでそんなに取り乱すんだ?」智
智也は憐れな彼女を見つめ、それから病室で眠る母を思い浮かべる。そして意を決して言った。「柚葉、俺にもう金はないんだ。稼いだ金は全部お前に渡したし、お前はその金で贅沢な生活を送ってきただろ?」言葉を失った柚葉。「あれは全部嘘……」「嘘かどうかは裁判所が判断してくれただろ。それに、正しい判断ができなかったのは、ずっと俺一人だけだったみたいだからな」と、智也は自嘲気味に笑った。柚葉は、自分が完全に憎まれていることを悟った。それでも、生き残るためには金が必要だった。「智也、あなたにはまだお金があるじゃない。少しだけでいいの。ほんの少しでいいから」「あれは母さんの治療費だ!」智也は信じられないといった顔で柚葉を見た。「柚葉、お前よくそんなことが言えたな!」怒鳴られた柚葉は、もう取り繕うのをやめ、半ば崩れ落ちるように叫ぶ。「智也、あなたが私から子どもを奪った!それに、私を一生子どもを産めない体にしたのもあなたでしょ!」その言葉が、智也の心を一瞬にして締め付けた。だが、母親の治療費だけは絶対に渡せない。「俺は……お前と結婚ならしてもいい」「なっ……!」結婚なんて望んでいない!欲しいのはお金なのだ!智也は繰り返した。「結婚はしてもいい。子どもだっていらないから、お前が子どもを産めようが産めまいが関係ない」すると、柚葉がもっともらしい口調で反論した。「智也、本気で私たちが結婚できると思ってるの?私に、自分と子どもを傷つけた相手と一生暮らせって?」「俺だって、自分を騙して利用した相手と毎日顔を合わせなければならないだろ?」どっちもどっちだ。柚葉は、自分の人生がここまで転落するとは思ってもいなかった。あの裁判さえなければ、ここまで追い詰められることもなかったはずだ。祖父は今も会ってくれない。会わないということは、助ける気もないということだろう。それに、智也は金を出すくらいなら、自分と結婚すると言う。結局、柚葉に足りないのは金だけなのだ。「智也、本当に私を見捨てるつもりなの?あなたってそんなに酷い人だったのね。今までの私たちの関係は、全て無かったことにするわけ?」その言葉を聞き、智也はようやく気づいた。柚葉は巧みな話術で相手を追い込み、罪悪感を植え付け、自分の責任を他人へ転嫁する。人の本性は、本当に
携帯に正人から、智也の母親の容体が落ち着き次第、そのまま望月グループへ入社できるよう手配を済ませたというメッセージが届いた。年収は3000万円。IT業界では、優秀なエンジニアなら年収1000万円を超えることも珍しくない。業界による待遇の差は、もともと大きい。年収3000万円の安定した職場か、条件は好きに決めていいという破格の誘いか。智也はすぐには結論を出さず、病室へ戻った。命を取り留めた梨花は喜んでいたものの、不器用な夫と世話慣れしていない子どもたちに囲まれ、心はあまり穏やかではなかった。そんな時、決まって思い出すのは凛のこと。気配りができ、誰よりも世話上手だった息子の元嫁。しかし残念なことに、もういなくなってしまった。自分たち家族が身勝手な振る舞いをしたせいで……今後の治療費を残すため、すべてを節約しなければならない今、谷口家に使用人を雇う金などない。胡桃も必死に母の世話をしようとしていた。彼女にやる気がないわけではない。ただ、人の看病などしたことがないのだ。そんな時、胡桃も凛を思い出す。兄から毎月6万円の生活費しかもらっていなかったのに、そのうち4万円で自分のためにと美味しいものを買ってくれた凛。今となっては、家族の誰もが凛を惜しみ、散々傷つけたことを悔やんでいた。人は失って初めて、その大切さに気づく。梨花や胡桃が凛の優しさと面倒見の良さを惜しんでいる一方、健吾は凛の才能を思い出し、特に柚葉の醜い本性を知った今、自分で凛を追い出してしまったことを心底後悔していた。智也に関しては、言うまでもない。彼にも凛への情はあった。たとえ周囲にはそう見えなかったとしても、何年もの時を共に過ごしたのだから、情が芽生えないはずがなかったのだ。誰よりも苦しんでいるのは、智也だった。初恋の人からの裏切り、そして去っていった妻。自分よりも顔色の悪い智也を見て、梨花はなんとか言葉を絞り出す。「帰ってしっかり休みなさい。ここはお父さんと胡桃に任せればいいから」梨花は智也を案じていた。健吾も智也の肩を叩く。「お母さんの言う通りだ。今日は家へ帰ってゆっくり寝てこい。明日また来ればいいから」智也はもう何日もまともに眠れていなかった。顔をこすり、病院を出たのが夜の10時。南山ヒルズへ戻った頃には11時を過ぎてい
「陸川社長ならわかるはずです。俺のホシゾラ・テクノロジーでの役職を考えれば、競業避止義務違反をした場合、単なる損害賠償といった民事の問題だけでは済みません。ディープデータ・テクノロジーも同業ですし、ホシゾラ・テクノロジーに営業秘密侵害罪で告訴されれば、刑事責任まで問われることになるんです。もう、本当に裁判なんか懲り懲りですから」宏明が柚葉を利用して智也を窮地に陥れたのは、こうして「救いの手を差し伸べる」ためだった。智也は女を見る目がないだけで、仕事の能力が無いわけではない。男は私生活で失敗しても、仕事で結果を出せば評価される。本心であれ、打算であれ、人は皆褒め称えるだろう。宏明はまだ諦めない。「もしかして、すでに行き先が決まっているのかい?」智也は何も答えなかった。宏明は推測を重ねる。「もしかして望月家のところ?望月家のような伝統産業中心の企業は、いつか衰退する可能性がある。それに、ああいう企業は血筋を重視するでしょ?一生雇われの身でもいいのかい?このIT業界は実力主義。その点で考えれば、ディープデータの方が、景山グループよりずっと良いんだよ。谷口くんが首を縦に振ってくれさえすれば、競業避止契約の話はこっちでどうにかする。絶対に悪いようにはしないから。それに、提示する条件はすべて飲む。何でも言って」智也も、宏明の望月家に対する分析は正しいと思っていた。それに、提示条件も魅力的。しかし、宏明と柚葉が並んで写っていた写真を思い出し、反吐が出るほどの不快感に襲われた。「ディープデータ・テクノロジーの新プロジェクト、責任者は誰なんですか?」宏明は法廷での智也と柚葉の変化を関係を測りかね、事務的に答えた。「柚葉さんだ」「あのすごいプロジェクトを、柚葉に任せるんですか?」柚葉が肩書きだけで、中身のない女であることを知っている智也は、ディープデータ・テクノロジーの判断が理解できなかった。宏明は一瞬驚いた。そして、この智也の態度から、裁判を経て、かつての恋人同士が憎み合う仲になったことを察した。宏明は苦笑いを浮かべる。「凛さんを呼べなかったから、柚葉さんを通してその祖父というリソースを動かせれば、と思ってね」智也は鼻で笑った。宏明の眉間に皺がよる。裁判で一体何があったんだ?あれほど柚葉に入れあげていた智
「分かりました。また伝えますね」凛は食卓に並ぶ料理を見つめた。もうこの時間では、夜食といっても良いだろう。席についた瞬間、携帯にメッセージが届いた。海斗からだった。【家に着いた?】【着いたよ】【夕飯は何だ?写真を送ってくれ】凛は写真を撮るとそのまま送った。そんな凛の様子を見て、そばにいた美穂子も目を細めた。今の若い人たちは、何でも共有したがるものなのだろう。ようやく、海斗様も積極的に動き始めたらしい。【冷めないうちに食べろ。俺の分も残しておいて】凛は少し考えてから送った。【何時に仕事終わるの?】【まだ分からない。会議中なんだ】送信後、しばらく反応がなかったため海斗は携帯を伏せ、会議の進行に耳を傾けながら、ふと恵の議事録に視線を向けた。恵はノートパソコンの画面を少し傾ける。海斗が見ることを、恵は分かっていた。わずか数秒で内容を頭に入れた海斗は、何食わぬ顔で会議へ視線を戻した。会議が終わったのは9時半。海斗が先に退室すると、戻ってきた拓海と廊下で鉢合わせた。二人は目を合わせ、そのまま社長室へ入る。拓海が資料を海斗に差し出した。「小林さんの流産に関わる監視カメラ映像をもらってきました。3つのカメラに記録があり、診察記録も入手済みです。医者が言うには、小林さんは倒れる前にすでに中絶用の薬を服用していた疑いがあったそうなのですが、その時点で検査していなかったため、具体的な薬の種類までは分かっていません」海斗も3つの映像を見比べたが、特に不審な点は見当たらなかった。確かに智也が柚葉の背中を押したように見える。薬については、医師の経験に基づいた推測だ。もし転倒だけなら、子どもが助かる可能性はあったかもしれない。しかし、薬と転倒が重なったことで、柚葉は身体に大きなダメージを負った。「まだ調査を続けますか?」拓海が尋ねた。海斗は頷いた。「凛の手元に、使える材料は残しておくべきだからな。いくら凛が谷口家や小林と二度と関わりたくないと思っていても、向こうが勝手に近づいてくる可能性はある」拓海はそのまま次の報告に移る。「谷口さんのお母さんの手術は成功しました。夕方、大勢が見舞いに訪れていましたが、その中に陸川社長がいました」海斗の眉間に皺がよった。「ディープデータ・テクノロジーの陸川社長か?
凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。「なんでこんなに遅いんだ?」「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も
「凛さん、何を見ていらっしゃるんですか?」「今、あっちから誰かに見られていた気がします」「え?」と理恵がそちらを見たが、人影はなかった。「もうエレベーターに乗ったみたいです」と凛は言った。「エレベーターって、あっちの?」理恵が指差すと、凛は頷いた。それを見た理恵は、緊張した面持ちでゴクリと喉を鳴らした。あそこは社長専用のエレベーターなのだ。理恵のオフィスのドアの前に来ると、凛はドアプレートに、「人事部ヴァイスプレジデント」と書かれているのを目にした。昇進したんだ。凛はにっこり笑って言った。「中村さん、御昇進おめでとうございます」「ありがとうございます」
「それで?彼に、私と離婚するように言ったの?」凛の問い返しは、柚葉の痛いところを正確に突いていた。この2週間、柚葉は何度もそれとなく話を振っていた。でも、智也は離婚するそぶりを見せない。それどころか、今まで通り、いえ、今まで以上に優しくしてくる。まるで自分が不倫相手みたいじゃない。愛されていない方が、邪魔者。よく言ったものだ。もともとは、凛の方が、自分と智也の間に割り込んできたのだ。大学の頃、智也はあんなに自分を愛してくれていた。それは誰の目にも明らかだったのに。それが、留学のことで喧嘩したのがきっかけで、智也がどこの馬の骨とも分からないような女と結婚するなんて、思って
「先生、どうしてか聞かないんですか?」凛は涙を拭うと、杏をソファに座らせ、お水を取りに行った。杏が言った。「智也から聞いたわ。子供のことで喧嘩して、昨夜は帰ってこなかったって。彼はまだ子供を欲しがらないの?」凛は首を振った。「今回は、私が欲しくないんです。彼は私に仕事を辞めて妊活に専念して、家で専業主婦をしろって言うんです」「私より考えが古いわね!」杏は腹が立って仕方がなかった。「あの男は出世して偉くなったから、あなたを見下してるの?よくもまあそんな態度がとれるわね。プロジェクトが発表されたら、どれだけの人があなたに会いたがると思ってるの。私の夫が手塩にかけた愛弟子を、使用







