Masuk「お願いします」と、百合がもう一度声をかけた。自分たちにできる範囲で、娘のために何かしてやりたいだけなのだ。それに、大学の教授である二人。凛は昔から、教師や研究者という立場の人を敬っていたため、そのまま数歩進んだものの、結局足を止め、二人を振り返った。二人はほっとしたように駆け寄り、10分だけでいいと凛に縋る。だから、凛は言った。「お二人とも、車の中でもいいですか?最近忙しいので」海斗には、これまで数え切れないほど助けてもらった。凛には、彼へ金銭や物で直接恩返しをすることはできない。だがトライドメイン・プロジェクトに力を尽くし、一日でも早く製品化にこぎつけることならできる。製品が市場へ出れば、竹内グループの企業価値は大きく上がり、継続的な利益を生み出す事業へと成長するはずだ。南山ヒルズと特別宿舎は方向が違うため、海斗も以前のように送迎車を寄こすことは控えていた。あまり世話を焼きすぎれば、凛に負担を感じさせると、海斗は考えたのだ。その時、凛が配車アプリで呼んだ車が、ちょうど道端に到着した。3人が車に乗り込む。最初に口を開いたのは、隆平だった。「娘があなたの結婚生活を壊してしまったこと……本当に申し訳ありませんでした。私たちの育て方が間違っていました。許していただこうとは思っていませんし、今の結果も、あの子が自ら招いたものですので、私たちに異論はありません」百合も言葉を続けた。「凛さん、本当にごめんなさい」凛には両親がいないため、両親のいる人を羨ましく思うことがあった。柚葉には、決して悪くない両親がいるのに、その両親にこうして頭を下げさせるとは、あまりにも親不孝だ。凛は二人を見つめ、責めることなく、静かに答える。「お二人を恨んではいません」二人は同時に言った。「わかっています」凛の態度を見れば、それは伝わっていた。そこで、百合がキャッシュカードを一枚凛に差し出す。「ここに10億円入っています。今の私たちが用意できる、精いっぱいの金額です。不動産や車については……お手数ですが名義変更の手続きにお時間をいただけないでしょうか。高級品もすべて返還しますので」凛の手のひらにあるカードは温かかった。きっとずっと握りしめていたのだろう。10億円となれば、おそらく二人の財産をほとんど処分し、借りられる相手
茂と剛の車を見送ると、日和はすぐに凛の腕へ自分の腕を絡め、笑顔で尋ねた。「どうでしたか?緊張しませんでした?」凛は首を振る。「緊張しなかったよ」二人が向きを変えようとした時、凛は茂の乗る車が走り去る方向をふと見て、思わずこう呟いた。「神谷弁護士と美雪さん、あんまり茂さんと似てないんだね」特に第一印象。利明は何度も、自分が孤児院育ちであることを持ち出してきて、柚葉や松田家と争うなど、弱者が強者へ無謀に挑むようなものだから、身の程を知れと言わんばかり。美雪は一見すると人当たりがよいが、何をするにもどこか妙な雰囲気で、凛は彼女に言い知れない寒気を覚えていた。それに対し、茂は物腰が上品で、話し方も穏やか。親しみやすい一方で、他人との境界もきちんと守っている。日和は凛と腕を組みながら歩き出し、こう言った。「当然ですよ。神谷家は竹内家よりずっと一族の数が多くて、分家も複雑なんです。それに、草壁家と神谷家は昔から付き合いがあるけど、お母さんが心から関係を築いているのは茂おじさんだけ。それも、お父さんが全然嫉妬しないくらいの関係なんですよ。それだけでも、茂おじさんの人柄が分かると思いません?利明さんや美雪とは比べられないんです。利明さんがB市で有名なトップクラスの弁護士だなんて言われても、どこまで本人の実力なのかは分からないし、法律事務所のパートナーだって、必ずしも飛び抜けた能力がある人だけがなれるわけじゃありませんからね。とにかく色々と裏があるんですよ。神谷家が利明さんを法曹界に入れたのだって、業界一の弁護士にしたかったわけじゃなくて、極論、人脈を広げるための手段でしかなかったんです。でも、そう考えると美雪は本当に幸せですよね」そこで日和は思い出したように続けた。「自分のやりたいことは何でもできるし、彼女の両親も応援してくれますから。もちろん、うちのお父さんとお母さんも同じですけどね。でもお父さんが言ってました。神谷家の環境には利明さんよりも美雪の方が向いてるって」日和は肩をすくめる。「おそらく、美雪の方が色々考えてるからだと思います」二人は話し込みながら車のもとへたどり着き、車に乗ると、そのまま一番町特別宿舎10号棟へと向かった。宿舎の前に着くと、警備員が外に出てきた。「凛さん。そういえば、今夜は小林という名のご夫婦が面会
まるで本当に偶然出会い、たまたま相席して夕食を取り、少し言葉を交わしただけのようだった。店を出て通りまで来ると、茂が尋ねた。「車はある?良ければ送っていこうか?」日和は笑顔で断った。「ありがとうございます。でも、私たちも車で来ましたから、お二人は早めに帰って先に休んでください」茂が頷く。「ああ」歩き出したところで何かを思い出したのか、茂は立ち止まって振り返ると、凛に名刺を一枚差し出した。「今度、息子が凛さんに失礼なことをしたら、遠慮なく連絡してくださいね。しっかり言い聞かせておきますから」政界からビジネスの世界へ転身した茂は、かつて南水茶寮で、利明が凛を「孤児」呼ばわりしていたことを聞いていたし、利明が海斗といがみ合っている姿も目にしている。さらに、凛の元夫と、息子が想いを寄せる柚葉との関係。それらを踏まえれば、数人がすでに面識を持っていることは容易に想像できたし、おそらく、あの不出来な息子は凛にも失礼な態度を取ったのだろう。凛は、なぜか目の前の茂から差し出されたものを断れなかった。「ありがとうございます。帰り道、お気をつけて」茂は優しく微笑む。「君たち二人も気をつけて」車に乗り込むと、茂はすぐ運転手にホテルへ戻るよう告げた。車内は静寂に包まれる。二、三度茂の顔色を窺っていた剛が、しばらくして口を開いた。「もう一度G県に行く?」茂はなかなか答えなかった。遠い記憶の中へ沈み込んでいるようで、長い時間が経ってから、ようやく我に返る。「いや、いい」と茂は言った。「暇なら凛さんの好きなものでも調べてきて。いや、いいや。自分でやる。君が調べても、分からないだろうから」瑶子や竹内兄妹からなら、少しは話を聞けるかもしれない。ホテルに戻ると、美雪がホテルのロビーで待っていて、茂の姿を見るなり駆け寄ってきた。「お父さん、どこへ行っていたの?お兄ちゃんと部屋を訪ねても返事が無かったし、連絡しても繋がらないから、受付の人に聞いたら、午後から出かけていたって言われたよ。誰か知り合いとでも会ってたの?」茂は笑った。「ちょっと用事でな」茂が具体的に答えなかったことで、美雪の胸に不安が広がった。それでも表情には出さず、自然な動作で父の腕へ自分の腕を絡める。「今日、いつ家へ帰ってくるのかって、お母さんも言ってたよ。家に一人で残
日和は茂たちの姿を見つけると、立ち上がって歩み寄り、エリーも、普段空いている自分の専用席を使っても構わないと伝えた。茂と剛も彼女たちのほうへ近づいていく。日和が茂に声をかけた。「茂おじさん」茂は穏やかな笑みを浮かべた。「日和ちゃん、友人と食事をしていたのかい?」「はい」「もしよければ、相席させてもらえないかな?」茂の視線は、時折すでに立ち上がっている凛へ向かっていた。まるで不思議な力に引かれるように、この若い女性へ近づきたくなる。日和はすぐには承諾せず、答えた。「友人に聞いてみますね」「すまんな」しかし、日和の目には少し疑問が浮かんでいた。エリーがいつもの席を使ってもいいと言っているのに、茂はなぜあえて相席を希望するのだろう?しかし、目上の人からの頼みのため、日和はとりあえず凛に聞いてみることにした。凛にも二人の会話は聞こえていたため、先ほど日和と話していた中年男性へ目を向ける。物腰の柔らかな、品のある人物。こちらを見る目にも、値踏みするような気配はなく、礼儀正しい善意だけが感じられた。日和が彼を茂おじさんと呼ぶことから、おそらく利明と美雪の父親なのだろう。あの兄妹とは似ても似つかない穏やかさだ。目には見えない何かに導かれるように、凛はなぜか自然と頷いていた。エリーも邪魔をしないようにと席を離れ、ちょうど自分の予定もあったので、日和たちに軽く挨拶をする。日和は釘を刺した。「エリーさん、若い男の子に簡単に夢中になっちゃ駄目ですからね。お母さんも心配してましたから」エリーが投げキッスを送る。「大丈夫よ」そして凛の方を向いてウインクした。「二人とも、食事を楽しんでね」凛も挨拶を返す。「エリーさん、また」エリーは茂の横を通り過ぎる際、丁寧に会釈し、フロントで荷物を受け取って立ち去っていった。凛の向かいの席に座った茂と剛。日和が双方を紹介する。「凛さん、こちらが茂おじさんと剛さんです。それで、この人は私の親友の凛さんです」剛が先に口を開いた。「凛さん、またお会いしましたね」凛も小さく頷く。「ええ」続いて、ずっと穏やかな目で自分を見ている茂へ向き直った。「日和さんと同じように、私も失礼ながら茂さんとお呼びしてもよろしいでしょうか?」茂はにこやかに凛を見つめた。そして、彼が最初に口
宏明は興味深げに言った。「ほう?自分の息子まで柚葉さんに騙されるのを警戒しているのか?」だが、よく考えると何かがおかしい。柚葉程度の女性について、茂が自ら動いて調べるだろうか?どうにも腑に落ちない。「彼らの動向を見張らせろ。わざわざB市から来た理由が、それだけとは思えないんだ」真依はうなずいた。……凛は午前中を研究室で過ごし、昼休みには海斗と運転の練習をした。午後は再び研究室へ入り、出てきたのは6時半だった。携帯を取り出したタイミングでアラームが鳴る。凛はすぐには止めず、音が自然に切れるまで待ってから、竹内グループのビルを出た。日和はすでに車の中で待っていた。「そこのお姉さん、乗っていかない?ドライブに連れていってあげるよ?」凛は助手席のドアを開け、シートベルトを締めた。「真冬にドライブ?」日和は楽しそうに笑う。「もちろん、ネイルに行くんですよ」明るく広々としたネイルサロンへ着き、凛が席へ座ると、日和がスタッフへ伝えた。「凛さんはあの透け感のあるくすみピンクがいいって言うので、ワンカラーでやってあげてください。二人とも自爪なので、形は本人に聞いてくださいね」スタッフが爪の形の見本を差し出す。凛はその中の一つを指さした。「これでお願いします」日和がのぞき込む。「やっぱりアーモンド型を選んだんですね。くすみピンクと合わせるとすごく優しい雰囲気になっていいですよね」「日和さんは何にするの?」日和は自分の指を眺めて言った。「私もシンプルなのにしようかなって思ってます。それなら、1時間くらいで終わるはずですし、その後エデンの園で一緒に夜ご飯を食べましょう!」凛はうなずいた。施術中、ネイリストは凛の指が細く綺麗だ、手も柔らかいと何度も褒めていた。そこで凛は初めて気づいた。いつの間にか、自分の手はもう荒れていない、柔らかく、滑らかな手になっている。ネイリストは、凛の爪のピンク色の部分も長く、形がとても綺麗だと言い、完成後には手のモデルになれるほどだとまで褒めた。あまりの熱量に、凛は丁寧に礼を述べた。施術が終わると、日和は凛の手を何枚も撮影し、すぐさまインスタに投稿した。それを見た海斗は、何を思ったのか、【きれいだ】とコメントした。日和はすぐに返信する。【でしょ?私のセンスだから!】
剛がすぐに名刺を差し出した。茂が説明する。「神谷と申します。どうぞ、こちらが名刺です。凛さんは極めて優秀な研究者のため、ぜひ一緒に仕事がしたいと考えているんです。そのために尋ねただけですので、話しにくいことであれば、無理に答えていただく必要はありません」菜々子は名刺を見て、目の前の男が上場企業の社長であることを知ったが、それでも答えはしなかった。「申し訳ありませんが、凛さんは私の尊敬する人なんです。ですから、凛さんのことを簡単に他人に話すわけにはいきません。仕事のお話であれば、直接ご本人に連絡を取ってみてください。私のところまで調べて来られるほどの方々なら、凛さんへの連絡方法もご自分で見つけられるはずですので」茂は断られても、まったく不機嫌にはならなかった。むしろ嬉しそうに言う。「きちんと一線を守り、彼女をそこまで高く評価していらっしゃるんですね」剛は告げた。「本日、私どもが訪ねてきたことは、どうか内密にお願いしますね。ご協力ありがとうございました」二人はそのまま立ち去った。菜々子は二人が階段を下りていくのを見送ったが、それ以上深く考えることはなかった。しばらくして、また誰かが玄関のドアを叩いた。先ほどの二人が戻ってきたのかと思い扉を開けると、そこに立っていたのは、きちんとしたスーツ姿の女性だった。一目で、菜々子がかつて憧れていたような、仕事のできる女性だと分かる。「こんにちは。どちら様ですか?」「青木さん。私はディープデータ・テクノロジーの社長秘書、甲斐と申します。突然の訪問で申し訳ないのですが、数日前に開かれた谷口さんと小林さん、そして凛さんが関係する裁判について、少しお話を伺いたくて参りました」「また?」菜々子はうんざりした。「そちらの社長の息子さんまで、あの小林さんに骨抜きにされて夢中になってるんですか?」真依は一瞬呆気に取られたが、すぐに答える。「採用前の身辺調査です。弊社では小林さんをプロジェクト責任者として迎えることを検討しているのですが、あまり評判が良くないようですので……」菜々子は本気で理解できなかった。あの女のどこが、そこまで人を引きつけるのだろう。上流階級の人間が何を考えているのか、まるで分からない。「どうぞ」真依が中へ入ると、テーブルにはまだ二人分のお茶が置かれていた。おそらく、
「同姓同名なだけだよ。彼女はただの、ごく普通の会社員だから」智也は、淡々とした口調で説明した。「でもまあ、プロジェクトにいる凄い人と同姓同名なんて、凛にとっても光栄なことじゃないかな」「ええ、本当に光栄だわ」柚葉はにっこりと微笑んだ。「私たちのプロジェクトの凛さんは、本当に優秀なんですよ」もっとも、優秀すぎて腹立たしいくらいですけど。プロジェクトの責任者であることを盾に、自分を歓迎しないどころか、中心業務にも一切関わらせてくれないんです。やっぱり、「谷口凛」という名前の人はどうも気に食わない。凛は、柚葉をまっすぐに見つめて言った。「小林さんは、どんなプロジェクトを?
梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話してい
「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活
凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。「なんでこんなに遅いんだ?」「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も