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第6話

Auteur: 橙川こがね
臣吾だった。

京介の兄。今の周防家を実質的に動かしている人物であり、かつて彼女が本来縁談を結ぶはずだった相手でもあった。

視線が絡み合った。

空気が、その一瞬で凍りついたようだった。

五年ぶりの再会が、こんなにも突然訪れるとは思っていなかった。

たとえ今、目の前にいるのが記憶を失った臣吾だとしても、紗羽は全身の血が一気に頭へ上ったように感じた。そして次の瞬間、その血が凍りついた。

こんな場所で、こんな惨めな姿で彼に会うことになるとは思わなかった。

臣吾の視線は、彼女の青白い顔に一瞬留まった。それから、強く握りしめられて白くなった指先をかすめ、最後に、閉ざされた書斎の扉を何気なく見やった。

彼は何も言わなかった。ただ彼女に向かって静かにうなずくと、そのまま静かな足取りで廊下の奥へ向かった。まるで今見たものなど、通りすがりに目に入っただけの些細な出来事にすぎないと言わんばかりだった。

その背中が廊下の奥へ消え、書斎の中から再び千治の低い声がかすかに聞こえてきたとき、紗羽はようやく大きく息をついた。

臣吾のあの一瞥は、ひどく静かだった。けれど、京介のどんな侮辱や脅しよりも、紗羽には堪えた。何も言われていないのに、隠したいものまで見透かされたような気がした。

彼は知っている。

きっと、すべて聞いていた。

彼はどう思うだろう。彼女を嘲笑うだろうか。

それとも京介の言うとおり、子ども一人産めず、周防家にすがるしかない、度胸もない哀れな女だと思うのだろうか。

胸の中で、いくつもの感情が入り乱れた。けれど最後には、そのすべてがすっと冷えて、何も感じないような静けさだけが残った。

今さら臣吾がどう思おうと、彼女には関係ない。

五年前、臣吾は出張中、敵対勢力に運転手を買収され、その運転手に車ごと崖から海へ突き落とされた。

それ以来、臣吾の生死は分からなくなった。

ほとんどの人が、臣吾が生きているとは思わなくなっていた。ただ千治だけは、幼いころから後継者として期待をかけてきた臣吾を、最後まで諦めようとしなかった。

幸いにも、その千治の執念があったからこそ、半年前、とある村で記憶を失った臣吾を見つけることができたのだ。

そして彼女が五年ぶりに彼に関する知らせを五年ぶりに耳にしたとき、告げられたのは、彼が記憶を失っているという事実だった。

臣吾はすべてを忘れていた。彼女のことさえも。

でも、それでよかったのかもしれない。かつてあれほど誇り高かった紗羽が、五年後、こんなにも哀れで惨めな姿になっていることを、彼に知られたいとは思わなかった。

紗羽はゆっくりと身を起こし、少し乱れた髪を整えた。改めて顔を上げたとき、その表情からは揺らぎが消えていた。残っていたのは、どこか冷めた静けさだけだった。

彼女は最後に、臣吾が去っていった方向を一度だけ見た。それから身を翻し、階下の明るいリビングへ向かって歩いていった。

足取りはしっかりしていて、背筋はまっすぐ伸びていた。

ただ、背筋を伸ばして歩くその後ろ姿だけが、広い廊下の中で、ひどく孤独で、それでも決して折れないもののように見えた。

窓の外は、すでに完全に暗くなっていた。庭の灯りが次々とともり、細い雨脚を照らしていた。

二階から、千治と京介が下りてくる音が聞こえた。

紗羽は立ち上がり、静かに脇へ寄った。

千治は歩み寄ると、彼女の顔にしばらく視線を留めた。けれど結局、ただため息をついただけだった。

「帰るときは、道中気をつけなさい」

「はい、お祖父様。ご安心ください」

京介が答えた。口調には、いつもの落ち着きが戻っていた。

彼は振り返って紗羽を見た。その目には、逆らうことを許さない警告と、早く来いと促す色があった。

紗羽は目を伏せ、千治に小さくうなずくと、京介の後についてリビングを出た。

雨は思っていたよりも強かった。

本邸を出ると、京介は先に車に乗った。振り返ることはなかった。紗羽は助手席のドアを開けて座り、シートベルトを締めた。

車はゆっくりと周防家本邸の門を出た。ワイパーが規則正しく水の幕を何度も払いのけていく。

車内には死んだような静けさがあった。雨粒が車窓を叩く音だけが、ぱらぱらと響いていた。

紗羽は横を向き、窓の外を見た。本邸の輪郭はバックミラーの中で次第に小さくなり、やがて雨の夜に消えていった。

彼女は、五年前に初めて京介についてここへ来たときのことを思い出した。あのときも、こんな雨の夜だった。

その頃の彼女は緊張しながら彼の手を握っていた。彼は笑って慰めてくれた。

「大丈夫。うちの祖父もきっと君を気に入るよ」

今も同じ雨の夜で、同じ道だった。けれど、胸の内はまるで違っていた。

車が大通りに入ったところで、京介が突然口を開いた。声は冷淡だった。

「ホテルの前まで送る」

紗羽は小さく「うん」と答えただけで、それ以上は何も言わなかった。

そのとき、京介のスマホが鳴った。

彼は着信表示を見ると、ほとんど即座に電話に出た。声は瞬時にやわらかくなった。

「皐月、どうした?」

電話の向こうから、泣き声交じりの皐月の声が聞こえてきた。電話越しでも、紗羽にはかすかに聞き取れた。

「京介さん、雷が鳴ってるの。怖いよ。来て、そばにいてくれない?私、こんな広い部屋に一人でいるの、本当に怖くて……」

京介は眉をきつく寄せ、声には心配が満ちていた。

「怖がらなくていい。すぐ行く」

「うん、窓がずっとガタガタ鳴ってるの。雨もすごくて……」

「いい子だから、窓をしっかり閉めて待っていろ。すぐ行く」

電話を切ると、京介はナビを一瞥し、迷うことなくウインカーを出して、車を路肩に停めた。

雨はますます強くなり、ばちばちと車の屋根を叩いていた。

「降りろ」

京介の声は、もう先ほどまでの冷たさに戻っていた。迷いは少しもなかった。

紗羽は一瞬固まり、彼を振り向いた。

「ここからホテルまでは近いわ。車で十数分もかからないのよ」

京介は苛立たしげに眉をひそめ、指でハンドルを叩いた。

「お前はそんなにプライドを守りたいんだろ?ホテルに泊まって、一人でやっていけるところを見せつけたいんじゃなかったのか。今さら俺に頼るな」

「私はただ、ここからホテルまでは近いし、それに雨がひどいから……」

紗羽は説明しようとした。

「紗羽」

京介が彼女を遮った。声は氷のように冷たかった。

「荷物を持って、今すぐ降りろ」

彼は横を向いた。薄暗い車内灯の下で、その横顔の線は冷たく硬かった。

「二度言わせるな」

紗羽は彼を見つめた。かつて彼女に向けてやさしく笑ってくれたその目には、今は隠しもしないうんざりした色と催促しかなかった。

彼女はふと、どんな説明も無駄だと悟った。

数秒沈黙したあと、彼女はシートベルトを外し、車のドアを押し開けた。

冷たい雨粒がすぐに顔へ打ちつけてきた。初秋の寒さを含んだ雨だった。

彼女は車の後ろへ回り、トランクを開け、苦労しながらスーツケースを取り出した。

雨はあっという間に彼女の髪と服を濡らした。薄手のカシミヤのカーディガンはすぐに身体へ張りつき、重く冷たくなった。

京介は車内から、バックミラー越しに彼女が苦労している様子を見ていた。眉間がわずかに寄ったが、それでも何もしなかった。

彼女がようやく立ち上がったときには、京介の車はすでに再び動き出していた。タイヤが水たまりを踏み、飛沫を跳ね上げた。そして一切の未練もなく雨の幕へ走り込み、通りの先へ消えていった。

紗羽はその場に立ったまま、テールランプの赤い光が次第にぼやけ、最後には完全に見えなくなるのを見送った。

雨はますます激しくなっていた。通りにはほとんど人影がなく、時折車が勢いよく通り過ぎては、さらに大きな水しぶきを上げた。

彼女はタクシーを止めようとしたが、通りかかった数台はいずれも客を乗せていた。

スマホを取り出してタクシーアプリを使おうとしたが、画面は数回ちらつき、完全に黒くなった。電池が切れたのだ。

冷たい雨水が髪の先から目に入り、視界がぼやけた。それが雨なのか、それとも別の何かなのか、もう分からなかった。

彼女は深く息を吸った。冷たい空気が胸の奥に痛いほど刺さった。それからスーツケースの持ち手を引き上げ、ホテルの方向へ歩き出した。

キャスターは濡れた歩道の上を重く転がり、鈍い音を立てた。

雨水はすぐに彼女の服を濡らし尽くし、ぴったりと身体に張りついた。彼女の歩みは遅かった。スーツケースの車輪は何度も敷石の隙間にはまり、そのたびに力を込めて引き抜かなければならなかった。

雨に滲んだ街灯の明かりが、路面に淡く広がっていた。人けのない通りを歩く紗羽の影は、伸びたり縮んだりしながら、ひどく心細げに揺れていた。

強い風が吹き、雨粒が斜めに打ちつけてきた。彼女は反射的に身をよじったが、それでも雨は容赦なく全身を濡らした。

髪は頬に張りつき、まつげには水滴がいくつもぶら下がり、視界はいっそうぼやけた。

彼女は足を止め、一本の街灯の下に立って、かすかに息を切らした。

周囲にあるのは、孤独な雨音だけだった。

ふと、ずっと昔のことを思い出した。あれも雨の夜だった。家族と口論して、家を飛び出した夜。

違っていたのは、あのときには彼女を探しに来てくれる人がいたことだった。

その人は大きな黒い傘を差して、バス停で震えていた彼女を見つけた。何も言わず、ただ傘を彼女のほうへ傾け、自分の肩半分を雨に濡らしていた。

「帰ろう」

彼はたった一言だけを口にした。

そのあと、彼は彼女を家まで送り、玄関先で言った。

「紗羽、誰かの過ちで自分を傷つけるな」

あの頃の彼女には、その言葉の意味がまだ完全には分からなかった。

今なら分かる。

けれど、もう遅すぎる。

紗羽は首を横に振り、不意によみがえった記憶を振り払った。そしてもう一度、スーツケースを引いた。

そのとき、背後からヘッドライトの光が差し込み、雨の幕の中に二筋の明るい光を描いた。

彼女は無意識に道端へ寄った。ただ通り過ぎる車だと思ったのだ。

だがその車は速度を落とし、彼女の少し前でゆっくりと停まった。

黒いセダンだった。控えめな外観の車だったが、紗羽はナンバーを見て分かった。周防家の車だった。

車窓が下がり、運転手が顔を出した。

「紗羽様?どうしてこんなところに……」

言葉が終わらないうちに、後部座席のドアが開いた。

臣吾が黒い傘を差して車から降りてきた。彼は車のそばに立ち、雨の幕越しに彼女を見た。

雨に滲んだ街灯の光が彼の顔に淡い陰影を作り、その表情までは読み取れなかった。

紗羽はその場で固まった。全身ずぶ濡れで、惨めな姿だった。それでもこの瞬間、無意識に背筋を伸ばしていた。

彼には、こんな自分を見られたくなかった。

とりわけ、彼にだけは。

二人の間には、数歩の距離があった。雨が傘の表面を叩き、細かな太鼓のような音を立てていた。

臣吾の視線は、ずぶ濡れになった彼女の姿をかすめ、最後に、スーツケースの持ち手を握りしめて白くなっている彼女の手に止まった。

彼の目はとても静かだった。

数秒後、彼は視線をそらし、運転手を見た。声に感情はなかった。

「彼女を送っていけ」

そう言うと、彼は傘を差したまま一人で踵を返し、その場を離れた。

自分の惨めさを痛感している紗羽を、もう一度見ることはなかった。

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