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第9話

Author: 橙川こがね
紗羽は温かなミルクを受け取った。指先に少しだけぬくもりが伝わる。彼女はまつげを伏せ、しばらく沈黙してから、静かに言った。

「寧々ちゃん、次からは呼ばないで」

「どうして呼んじゃいけないの?」

寧々の怒りは少しも収まっていなかった。

「あいつは柴崎のそばで平然としていて、あなたが一番つらいときには別の女に付き添ってる。そんなの許せるわけないでしょ?紗羽ちゃん、遠慮する必要なんてない。悪いのは京介よ。不倫したのも、妊娠した愛人をあなたたちの家に連れ込んだのも、全部あいつなんだから。あなたが体調を崩して倒れたなら、見舞いに来るくらい当然よ。どうしてあなたばかり我慢して、あの二人だけ何食わぬ顔で幸せそうにしてるのよ」

寧々は言えば言うほど怒りを募らせ、胸を上下させた。

「彼に迷惑をかけないようにとか、負担にならないようにとか、そうやって気を遣うのはもうやめなさい。あなたたちはまだ離婚してないのよ。法律上は、あなたはまだ彼の妻なの。分かってる?昨夜だって、救急外来で周防京介の妻だと言えば、すぐに個室を用意してもらえたはずよ。どうして待合の椅子で一人、丸まって点滴を受けなきゃいけないの?あなたはいつも彼のことを考えてきたけど、彼があなたのことを少しでも考えたことがある?ああいう最低な男は、使えるうちは使えばいいの。遠慮するだけ損よ!」

紗羽は静かに聞いていた。ミルクの温かさが喉を通っていくのに、それは冷えきった身体の奥までは届かないようだった。

彼女は先ほどの京介の非難を思い出し、瞳の奥の感情を隠した。それでもそっと首を横に振り、ひどく力のない声で言った。

「彼のことを思っているわけじゃないの、寧々ちゃん。ただ、もう彼と必要以上に関わりたくないだけ。連絡するたびに、会うたびに、この五年間がどれほど失敗で、どれほど馬鹿げていたかを思い知らされるみたいで。もう彼からは何も受け取りたくない。汚らわしいの」

寧々は、青ざめた紗羽の顔を見つめた。静かな声の奥に、もう京介を近づけまいとする固い決意が滲んでいる。胸いっぱいだった怒りは、いつの間にか痛みに変わっていた。

彼女は紗羽の点滴の針が刺さっていないほうの手を握り、声をやわらげた。

「分かった。あいつには頼らない。だったら、急ぎましょう。できるだけ早く証拠をそろえて、離婚を申し立てるの。こんな泥沼から、さっさと抜け出そう。体調が少し戻ったら、高田教授に会いに行くのも私が付き添う。もう一度、仕事も取り戻しましょう。紗羽ちゃん、あんな男と離れたら、あなたは今よりずっとちゃんと生きられる。もっと自分らしくいられる」

紗羽はうなずいた。瞳の奥に、ようやくかすかな光が灯った。

彼女は枕元のスマホを手に取り、画面ロックを解除すると、無意識にメッセージアプリを開いた。

臣吾とのトーク履歴は、相変わらず彼女が送ったぽつんとした「ありがとう」の一言で止まっていた。返信は何もなかった。

彼女はその空白を数秒見つめ、それから平静に画面を閉じた。

午後、寧々は緊急の案件でどうしても法律事務所へ戻らなければならなくなった。何かあったら必ず電話するようにと何度も念を押してから、ようやく心配そうに病室を出ていった。

病室は再び静かになった。

紗羽はひと眠りしたことで、少し体調がよくなっていた。ベッドの背にもたれ、スマホに保存していた昔の文化財修復のノートを見返しながら、専門分野に向き合っていたころの静かな集中を少しでも取り戻そうとしていた。

そのとき、病室のドアが軽くノックされ、続いて押し開けられた。

皐月が気遣わしげな笑みを浮かべて入ってきた。今日はわざわざ着飾っていて、淡いラベンダー色のゆったりとしたワンピースを身にまとっていた。その色が色白の肌を引き立て、長い髪はやわらかく下ろされていて、温和で愛らしく見えた。

そして彼女の左手の薬指にはめられた真新しいダイヤの指輪が、病室の明かりを受けて、ひときわ刺すような光を放っていた。

「紗羽さん、具合が悪いって聞いたから、わざわざお見舞いに来たんです」

皐月の視線は、少しやつれた紗羽の顔をなぞった。その声には、ほどよい優越感が滲んでいた。

「大丈夫ですか?京介さんも本当に困った人ですよね。私、紗羽さんのところへ行ってあげたほうがいいって、何度も言ったんです。でも、私を一人にするのが心配だったみたいで……結局、ずっとそばにいてくれて。紗羽さん、京介さんを責めないであげてくださいね。悪いのは私なんです。私が京介さんに甘えすぎているだけだから」

そう言いながら、彼女はさりげないふりをして手を上げ、耳元の髪を整えた。

そのダイヤの指輪が、またまばゆい光を放って紗羽の視界に飛び込んできた。

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