ホーム / 恋愛 / 元妻が兄嫁で何が悪いの? / チャプター 1 - チャプター 10

元妻が兄嫁で何が悪いの? のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

10 チャプター

第1話

浮気した男ほど、なぜか開き直るものだという。明石紗羽(あかし さわ)は最初、その言葉を信じていなかった。けれど周防京介(すおう きょうすけ)が、家で働く若い家政婦と関係を持ったことで、信じざるを得なくなった。妊娠検査の結果がまた望んだものではなく、沈んだ気持ちで家に戻ったその日、彼女は自分のものではない検査結果を見つけた。その瞬間、顔がこわばった。そこに記されていた名前は、柴崎皐月(しばさき さつき)。あまりにもよく知る名前だった。紗羽の胸に、ふいに嫌な予感が広がる。書類を握る手に、思わず力がこもった。彼女は顔を上げ、向かいにいる冷ややかな表情の男を見つめ、信じられない思いで問いかけた。「これは、どういうこと?」「離婚しよう」京介の黒い瞳は、何を考えているのか読み取れないほど暗く沈んでいた。彼は信じられないという顔をした紗羽を見つめ、一語一語、はっきりと告げた。「皐月ちゃんはずっと俺のそばにいてくれた。あの子は母親になりたがっているし、俺との結婚も望んでいる。今、皐月ちゃんは俺の子を身ごもっている。俺にとっても大切な存在だ。だから、叶えてやるのが当然だろう」紗羽の心は、底まで沈み込んだ。胸の奥で感情が激しく渦巻く。それでも彼女は、ただじっと彼を見つめていた。目の前の男は、仕立てのいい黒いスーツを着こなしていた。整った顔立ちには冷ややかで近寄りがたい雰囲気が漂い、今は薄い唇を固く引き結んでいる。感情を押し殺しているせいか、顎のラインはいっそう鋭く際立って見えた。浮気をしておきながら、どうしてここまで堂々としていられるのだろう。紗羽には、本当にわからなかった。結婚してからの五年間、友人たちはことあるごとに紗羽に忠告していた。京介と、家にいる幼なじみ同然の若い家政婦には気をつけたほうがいい、と。最初、彼女は信じなかった。紗羽と京介の結婚は家同士が決めたものだったし、京介はもともと冷たい性格だった。それでも彼女に対してだけは、いつも驚くほど根気強く、優しかったからだ。彼女がどんなに機嫌を損ねても、彼はできるかぎり望みを聞き入れてくれた。そして彼女を抱きしめ、柔らかな声で言った。「紗羽、君を笑顔にするのは、夫である俺の役目だろ」その言葉を聞くたび、彼女はひそかに思った。自分はきっと、周
続きを読む

第2話

翌日の午前十時、インターホンが時間どおりに鳴った。紗羽がドアを開けると、京介がきちんとプレスされたスーツ姿で立っていた。手にはファイルを持ち、表情はよそよそしい。「離婚協議書だ。署名しろ」彼はまっすぐリビングへ入ると、ファイルをローテーブルの上に置いた。紗羽はドアを閉め、彼の向かいに座った。協議書には目を向けず、ただ静かに彼を見つめた。「皐月は元気?」彼女がここまで落ち着いているとは思っていなかったらしく、京介はわずかに眉をひそめた。「元気だ。医者も、子どもは順調だと言っている」少し間を置いて、彼は付け加えた。「協議書に署名したら、まず君が出ていけ。本宅のほうにはまだ言うな。タイミングを見て、俺が処理する」「役所には行かなくていいの?」紗羽は目を上げて彼を見た。「当面は必要ない」京介はソファにもたれ、くつろいだ姿勢を取った。「今手続きをするのは面倒だ。皐月が子どもを産んでからでいい。安心しろ、その間の生活費は今までどおり渡す。お前んちの厄介ごとも、引き続き俺が片づけてやる」彼はそれを、さも当然のように言った。まるで彼女は感謝してしかるべきだとでも言いたげに。紗羽は協議書を開き、一項目ずつ目を通していった。京介は確かに気前がよかった。協議書では、彼女は都心のマンションの一室と相当額の慰謝料を受け取ることになっていた。その条件は、離婚の理由を外部に漏らさないこと、そして少なくとも一年は周防家の人々の前で表向きの夫婦関係を維持することだった。「読み終わったなら署名しろ」京介はペンを差し出した。「お前が断れないことくらい、分かっている」紗羽はペンを受け取り、署名欄のところでしばらく手を止めた。それから顔を上げ、彼を見た。「京介、結婚したとき、あなたが私に何と言ったか覚えている?」「何を?」彼は少し苛立っていた。「一生、浮気はしないって言ったの」彼女は静かに言った。京介は一瞬固まったが、すぐに鼻で笑った。「紗羽、今さらそんなことを言って何になる。人は変わるんだ。お前だってそうだろ。今のお前は、文句を言って、疑って、何もかも悪いほうに勘ぐるだけだ」紗羽は彼を見つめ、ふっと小さく笑った。京介は、彼女がこんなふうに笑うのを初めて見た。媚びるためでも、悔しさをこらえ
続きを読む

第3話

寧々はうなずいた。紗羽の胸の内も、もう察していた。「京介には、あなたの気持ちを受け止めるだけの器がなかったのよ。あんな男と離れたほうがずっと幸せになれる。さっき仕事に集中したいって言ってたけど、文化財修復をもう一度始めるつもり?」その話になると、紗羽の瞳にようやく本物の光が宿った。だがすぐに、不安そうな色も浮かんだ。「うん。恩師に連絡してみるつもり。でも、先生がこんなふがいない教え子にまだ会ってくださるかどうか……」当時、彼女は結婚のために、さらに研究を続ける道と、国立博物館に勤める機会をきっぱりと諦めた。恩師が痛ましげに嘆いていた姿を、今でもはっきり覚えている。「絶対に会ってくれるわよ!」寧々は励ました。「高田(たかだ)教授、あなたのことを一番かわいがっていたじゃない。当時は、期待していた分、悔しかっただけよ。今のあなたがもう一度この道に戻りたいって知ったら、先生だって喜んでくれるに決まってる。早く連絡してみなさい!」そう言われると、紗羽は胸につかえていたものが少し取れたように感じた。寧々が仕事の都合でどうしても帰らなければならなくなったあと、彼女はもう迷わず、連絡先の中から久しく使っていなかった番号を探し始めた。ところが、ちょうど「高田教授」と登録された連絡先を見つけたとき、スマホの画面上部に、LINEの通知が次々と表示された送り主は皐月だった。紗羽の目がわずかに鋭くなり、トーク画面を開いた。最初に目に入ったのは、一枚の写真だった。背景はオープンキッチンだった。暖かな灯りの下、京介は紗羽が買ったあの白いシャツを着たまま、別の女のために料理をしていた。その横顔は、紗羽の前ではもう見せなくなった柔らかさを帯びていた。続いて、二枚目の写真が届いていた。細い手が下腹部に添えられ、薬指にはまぶしいほどのダイヤの指輪がはめられていた。見たことのないデザインで、紗羽の持っているどの指輪とも違っていた最後に、一文が添えられていた。【紗羽さん、京介さんを譲ってくれてありがとうございます】吐き気が一気に喉まで込み上げた。紗羽は、見慣れたキッチンの背景を見つめた。そこはかつて、京介が彼女に買ってやると言っていたマンションだった。今ではそこで、別の女のために自ら料理を作っている。そのわざとらしい文章を見ても、不思議
続きを読む

第4話

彼のあまりにも率直な言葉に、小島の顔から笑みが少し薄れた。だが、そこまで驚いた様子は見せず、ただうなずいただけだった。彼女は紗羽のほうへ視線を移し、穏やかな声で言った。「紗羽様、お顔色があまりよくありませんね。よくお休みになれなかったのでは?」紗羽は小島の気遣わしげな目を見て、胸が少し温かくなった。この家で、小島は数少ない、今も本気で彼女を心配してくれる人だった。彼女はそっと首を横に振った。「大丈夫よ、小島さん。心配してくれてありがとう」小島はもう一度京介を見てから、言った。「京介様、大旦那様のお考えでは、あなたと紗羽様はしばらく本邸へお戻りになっていないので、今夜、お二人で一度本邸へお戻りになり、ご家族でお食事を、とのことです」彼女は少し言葉を切り、付け加えた。「大旦那様は、紗羽様には必ずいらっしゃるようにと、特に念を押しておられました」京介の顔色は明らかに沈んだ。彼はもちろん、それが何を意味するのか分かっていた。彼の祖父は高齢ではあったが、耳は早かった。そして何より、家の体面としきたりを重んじる人だった。この微妙な時期に、紗羽を名指しして家族の食事に出席させようとするのは、決して偶然ではない。彼は胸の苛立ちを抑え込み、冷たい声で答えた。「分かった、小島さん。この件は、俺がお祖父様に直接きちんと説明する」小島の笑みは、どこかぎこちなかった。京介と、黙ったままの紗羽を交互に見やり、何か言いたげに唇を引き結ぶ。けれど結局、何も言わず、小さくため息をついてキッチンへ入っていった。京介はそれ以上留まらなかった。皐月の手を引き、玄関へ向かった。紗羽のそばを通り過ぎるとき、彼は足をわずかに止めた。横を向き、少しも波立たない彼女の落ち着いた顔を冷ややかな目で見やった。「夜六時に迎えに来て本邸へ連れていく。覚えておけ。お祖父様の前で余計なことを言うな」そう言い終えると、彼は皐月の肩を抱いたまま、振り返りもせず出ていった。リビングには静けさが戻った。キッチンのほうから、食器がかすかに触れ合う音だけが聞こえていた。紗羽はその場に立ち、閉ざされた扉を見つめた。指がわずかに丸まり、またゆっくりとほどけた。彼女が振り返ると、ちょうど小島が温め直した栄養食と小鉢を持って、キッチンから出てくるところだった。
続きを読む

第5話

夜は深く更け、黒いベントレーは邸宅街を離れ、街の車の流れに合流した。車内には、息が詰まるような沈黙が落ちていた。京介はハンドルを握ったまま、前方だけを見据えている。固く結ばれた唇と張りつめた横顔から、近寄るなと言わんばかりの苛立ちが滲んでいた。それでも彼の視界の端には、助手席に座る紗羽の静かな横顔がはっきり映っていた。紗羽はずっと、窓の外を流れていく夜景を眺めていた。ネオンの光が横顔にちらちらと映っては消える。それでも、その表情から感情は少しも読み取れなかった。彼を完全に拒んでいるようなその静けさは、これまでのどんな口論や涙よりも、彼の心をかき乱した。やがて車は本邸の門前に停まった。京介はシートベルトを外し、癖のように身体を傾け、紗羽の手を取ろうとした。それは、この五年間、本邸に戻るたび、外では仲のいい夫婦を演じるための決まった動作だった。だが彼の手が伸びるより早く、紗羽は先に車のドアを開けて降りていた。彼を見ることさえなかった。京介の手は宙で固まり、やがてゆっくりと引っ込められた。彼もすぐに車を降り、すでに玄関へ向かっている紗羽に数歩で追いついた。彼女の横で声を落とし、警告するように言った。「いいか。お祖父様の前で余計なことを言うな。離婚のことは、一言も口にするな。あとは俺が頃合いを見て話す。お前は黙っていればいい」紗羽は足を止めなかった。横目で彼を見ることすらせず、ただわずかにうなずいた。聞こえた、という合図のようだった。その従順でありながらよそよそしい態度が、京介の胸にさらに火をつけた。彼はふいに足を止め、手を伸ばして彼女の手首を強く掴んだ。力は決して弱くなかった。紗羽はようやく振り向いて彼を見た。淡々とした瞳で彼を見つめるだけで、自分から口を開くつもりはなさそうだった。京介は一歩詰め寄った。高い身体が彼女の上に影を落とし、圧迫感を与える。声はさらに低く抑えられていた。「紗羽、自分がまだ昔のように、誰からもちやほやされる明石家のお嬢様だと思うな。今夜、俺の言うとおりにしなかったら、明石家がどうなるか、刑務所にいるお前の兄がどうなるか、よく分かっているはずだ」それは、紛れもない脅しだった。紗羽に残された数少ない弱みを正確に突き、彼女を逃げられない場所へ追い込もうとしていた。紗羽のまつげがかす
続きを読む

第6話

臣吾だった。京介の兄。今の周防家を実質的に動かしている人物であり、かつて彼女が本来縁談を結ぶはずだった相手でもあった。視線が絡み合った。空気が、その一瞬で凍りついたようだった。五年ぶりの再会が、こんなにも突然訪れるとは思っていなかった。たとえ今、目の前にいるのが記憶を失った臣吾だとしても、紗羽は全身の血が一気に頭へ上ったように感じた。そして次の瞬間、その血が凍りついた。こんな場所で、こんな惨めな姿で彼に会うことになるとは思わなかった。臣吾の視線は、彼女の青白い顔に一瞬留まった。それから、強く握りしめられて白くなった指先をかすめ、最後に、閉ざされた書斎の扉を何気なく見やった。彼は何も言わなかった。ただ彼女に向かって静かにうなずくと、そのまま静かな足取りで廊下の奥へ向かった。まるで今見たものなど、通りすがりに目に入っただけの些細な出来事にすぎないと言わんばかりだった。その背中が廊下の奥へ消え、書斎の中から再び千治の低い声がかすかに聞こえてきたとき、紗羽はようやく大きく息をついた。臣吾のあの一瞥は、ひどく静かだった。けれど、京介のどんな侮辱や脅しよりも、紗羽には堪えた。何も言われていないのに、隠したいものまで見透かされたような気がした。彼は知っている。きっと、すべて聞いていた。彼はどう思うだろう。彼女を嘲笑うだろうか。それとも京介の言うとおり、子ども一人産めず、周防家にすがるしかない、度胸もない哀れな女だと思うのだろうか。胸の中で、いくつもの感情が入り乱れた。けれど最後には、そのすべてがすっと冷えて、何も感じないような静けさだけが残った。今さら臣吾がどう思おうと、彼女には関係ない。五年前、臣吾は出張中、敵対勢力に運転手を買収され、その運転手に車ごと崖から海へ突き落とされた。それ以来、臣吾の生死は分からなくなった。ほとんどの人が、臣吾が生きているとは思わなくなっていた。ただ千治だけは、幼いころから後継者として期待をかけてきた臣吾を、最後まで諦めようとしなかった。幸いにも、その千治の執念があったからこそ、半年前、とある村で記憶を失った臣吾を見つけることができたのだ。そして彼女が五年ぶりに彼に関する知らせを五年ぶりに耳にしたとき、告げられたのは、彼が記憶を失っているという事実だった。臣吾はす
続きを読む

第7話

臣吾の運転手はすでに小走りで車の前を回り込み、後部座席のドアを開けていた。顔には控えめな恭しさと、気づかれないほどの同情が浮かんでいた。「紗羽様、どうぞお乗りください。雨がひどいですから」「ありがとう」紗羽は、自分の声がひどくかすれているのを聞いた。彼女は同じく雨に濡れたスーツケースを引きずり、どこかぎこちなく車のそばへ移動した。運転手はすぐにスーツケースを受け取り、トランクへきちんと収めた。暖かく乾いた車内に座ると、寒暖の差に身体がついていかず、彼女は抑えきれずに身震いした。車内の空気には、澄んだ清潔な木の香りが漂っていた。かつて臣吾の身に、かすかにまとわりついていた香りと少し似ていた。運転手は運転席に戻り、車を発進させた。車は滑らかに車列へ合流した。「紗羽様、どちらのホテルへ向かわれますか?」運転手がバックミラー越しに尋ねた。紗羽はホテルの名前を告げ、それから背もたれに身体を預け、目を閉じた。あまりにも疲れていた。身体の寒さや疲労はまだ耐えられる。けれど心の底に凍りついたような鈍い痛みは、何度も波のように込み上げ、彼女は外のすべてを遮断したいと思った。車は雨の夜を安定して走っていった。ワイパーが規則的にガラスを擦る音だけが聞こえていた。彼女は思わず考えてしまった。臣吾は先ほど、どこまで見ていたのだろう。本邸の書斎の外で立ち聞きしていた惨めな自分の姿から、今こうして京介に雨の中へ置き去りにされた哀れな姿まで、彼はすべて見てしまった。かつて、同じような雨の夜に彼女を見つけ、傘を差し出し、たった一言で目を覚まさせてくれた人は、今ではただ静かに彼女を一瞥し、運転手に送るよう告げると、そのまま一人で去っていった。記憶喪失とは、本当に人の過去の記憶も性格も、すべてきれいに消し去ってしまうものなのだろうか。それとも、彼が記憶を失う前から、彼女が大切にしていたあの些細な瞬間は、彼にとってもともと取るに足らないものだったのだろうか。だから、こんなにもあっさり忘れられたのか。車はホテルのエントランスに停まった。運転手は気を利かせて彼女の荷物を取り出し、部屋までお運びしましょうかと尋ねた。紗羽は丁寧に断り、もう一度礼を言ってから、スーツケースを引いて明るいロビーへ入っていった。チェックインを済ませ、カード
続きを読む

第8話

紗羽は一瞬固まり、声のしたほうを見た。そこには、京介が病床脇の椅子に座っていた。スーツの上着は背もたれに無造作に掛けられ、シャツの袖は肘までまくられている。表情は硬く、目には彼女が見慣れた苛立ちが滲んでいた。「寧々ちゃんは?」彼女は口を開いた。声はひどくかすれていた。「昨夜、寧々ちゃんに来てもらったはずだけど」最後に寧々へ連絡したことは覚えていた。京介はそれを聞くと、口元に隠しもしない嘲笑を浮かべた。「紗羽、今まで気づかなかったよ。お前、被害者ぶるのがずいぶんうまいんだな。こんな姑息な手まで使う女だったとは」紗羽はその言葉に呆然とし、彼を見つめた。「どういう意味?」「どういう意味?」京介は何かの冗談でも聞いたような顔をした。怒鳴りつけたいのを病院だからとこらえ、声だけを低くした。「お前がわざと寧々にあんな写真を送らせて、あんなことを言わせたんじゃないとでも?少し雨に濡れて熱を出しただけだろ。そこまで大げさに騒ぎ立てて、周りに知らせる必要があるのか?結局、みんなに見せつけたいんだろ。俺に冷たくされた、ひどい扱いを受けた、真夜中に一人で病院へ行くほど追い詰められた、可哀想な妻だって」彼は言えば言うほど早口になり、怒りを募らせていった。まるで、それが紛れもない事実だと決めつけているようだった。「そんなのじゃない……」紗羽は弁解しようとした。喉が乾いて痛み、言葉を出すのもつらかった。「昨夜、本当につらくて。ただ寧々ちゃんに助けに来てほしかっただけ……」「助ける?騒ぎを大きくしてお祖父様の耳に入れ、周りに俺を責めさせるための間違いだろ」京介はまるで聞く耳を持たなかった。立ち上がると、病床の上の紗羽を冷たく見下ろす。その目には、隠しきれない嫌悪が浮かんでいた。「紗羽、そういうみっともない小細工はやめろ。そんな芝居をしても、俺には効かない。次からは二度とこんな真似をするな。風邪で熱を出しただけだろ。死ぬわけでもあるまいし、まるで俺がお前に何かしたみたいに振る舞うな」彼は椅子の背に掛けていたスーツの上着を掴み、身を翻して出ていこうとした。病室の入口まで来たところで、また足を止めた。そして振り返り、最後に警告を投げつけた。「大人しくしていろ。お前の兄のことを考えろ。明石家のこともな」病室のドア
続きを読む

第9話

紗羽は温かなミルクを受け取った。指先に少しだけぬくもりが伝わる。彼女はまつげを伏せ、しばらく沈黙してから、静かに言った。「寧々ちゃん、次からは呼ばないで」「どうして呼んじゃいけないの?」寧々の怒りは少しも収まっていなかった。「あいつは柴崎のそばで平然としていて、あなたが一番つらいときには別の女に付き添ってる。そんなの許せるわけないでしょ?紗羽ちゃん、遠慮する必要なんてない。悪いのは京介よ。不倫したのも、妊娠した愛人をあなたたちの家に連れ込んだのも、全部あいつなんだから。あなたが体調を崩して倒れたなら、見舞いに来るくらい当然よ。どうしてあなたばかり我慢して、あの二人だけ何食わぬ顔で幸せそうにしてるのよ」寧々は言えば言うほど怒りを募らせ、胸を上下させた。「彼に迷惑をかけないようにとか、負担にならないようにとか、そうやって気を遣うのはもうやめなさい。あなたたちはまだ離婚してないのよ。法律上は、あなたはまだ彼の妻なの。分かってる?昨夜だって、救急外来で周防京介の妻だと言えば、すぐに個室を用意してもらえたはずよ。どうして待合の椅子で一人、丸まって点滴を受けなきゃいけないの?あなたはいつも彼のことを考えてきたけど、彼があなたのことを少しでも考えたことがある?ああいう最低な男は、使えるうちは使えばいいの。遠慮するだけ損よ!」紗羽は静かに聞いていた。ミルクの温かさが喉を通っていくのに、それは冷えきった身体の奥までは届かないようだった。彼女は先ほどの京介の非難を思い出し、瞳の奥の感情を隠した。それでもそっと首を横に振り、ひどく力のない声で言った。「彼のことを思っているわけじゃないの、寧々ちゃん。ただ、もう彼と必要以上に関わりたくないだけ。連絡するたびに、会うたびに、この五年間がどれほど失敗で、どれほど馬鹿げていたかを思い知らされるみたいで。もう彼からは何も受け取りたくない。汚らわしいの」寧々は、青ざめた紗羽の顔を見つめた。静かな声の奥に、もう京介を近づけまいとする固い決意が滲んでいる。胸いっぱいだった怒りは、いつの間にか痛みに変わっていた。彼女は紗羽の点滴の針が刺さっていないほうの手を握り、声をやわらげた。「分かった。あいつには頼らない。だったら、急ぎましょう。できるだけ早く証拠をそろえて、離婚を申し立てるの。こんな泥沼から、さっさと抜
続きを読む

第10話

紗羽の視線は、その指輪に向かった。脳裏にふいに、五年前の結婚式の光景がよぎった。京介が彼女の手を取り、結婚指輪をゆっくりと薬指にはめてくれたときの、あの大げさなほど真剣な眼差しと誓い。「紗羽ちゃん、この一生で、結婚指輪をはめるのは君一人だけだ」たった五年だった。誓いはまだ耳元に残っているのに、指輪はもう別の女の手にあった。別の女と、まだ生まれてもいない子どものために。皐月は、紗羽が一瞬だけぼんやりしたのを敏感に捉え、胸の内でますます得意になった。彼女はわざと指輪をはめた手を紗羽の目の前へ少し近づけ、声をいっそう甘くした。「紗羽さん、見てください。これ、京介さんが数日前にくれたんです。赤ちゃんが無事に生まれたら、私に最高に盛大な結婚式を挙げてくれるって言ってくれました。そのとき、私たちは本物の結婚指輪を交換するんです」彼女は少し間を置き、紗羽を見上げた。その目には見せびらかすような色が満ちていた。「どうです?この指輪、すごく綺麗でしょう?」紗羽は目を上げた。視線は指輪から、得意げな表情を隠しきれない皐月の顔へ移った。その顔には、皐月が期待していたような苦痛も、嫉妬も、崩れ落ちそうな様子もなかった。ただ静けさだけがあった。「指輪は確かに綺麗ね」紗羽は口を開いた。熱のせいで声はまだ少しかすれていたが、口調は落ち着いていて、はっきりしていた。皐月の口元が上がりきる前に、紗羽は続けて淡々と付け加えた。「でも、あなたの手にはめると、ひどく下品に見えるわ」皐月の笑みは一瞬で凍りつき、愕然とした表情に変わった。「どういう意味ですか?」紗羽は彼女をまっすぐ見つめ、真面目な顔でしばらく眺めてから、ゆっくりと問い返した。「どうしてか分かる?」皐月は、突然の反撃と冷静な態度に言葉を詰まらせた。「どういう意味ですか?」「つまりね」紗羽は視線を引き戻した。声には一切の揺れがなかった。「どれだけ高い宝石で飾っても、身につける人間が卑しければ品は出ないの。人から奪ったものは、どれだけダイヤで覆っても、奪った事実までは隠せないでしょう?」「私が下品だって言うんですか?奪ったって言うんですか?」皐月は怒りで声を尖らせた。「紗羽さん、まだ自分が明石家のお嬢様だとでも思ってるんですか?あなた
続きを読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status