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第7話

Auteur: 橙川こがね
臣吾の運転手はすでに小走りで車の前を回り込み、後部座席のドアを開けていた。顔には控えめな恭しさと、気づかれないほどの同情が浮かんでいた。

「紗羽様、どうぞお乗りください。雨がひどいですから」

「ありがとう」

紗羽は、自分の声がひどくかすれているのを聞いた。彼女は同じく雨に濡れたスーツケースを引きずり、どこかぎこちなく車のそばへ移動した。

運転手はすぐにスーツケースを受け取り、トランクへきちんと収めた。

暖かく乾いた車内に座ると、寒暖の差に身体がついていかず、彼女は抑えきれずに身震いした。

車内の空気には、澄んだ清潔な木の香りが漂っていた。かつて臣吾の身に、かすかにまとわりついていた香りと少し似ていた。

運転手は運転席に戻り、車を発進させた。車は滑らかに車列へ合流した。

「紗羽様、どちらのホテルへ向かわれますか?」

運転手がバックミラー越しに尋ねた。

紗羽はホテルの名前を告げ、それから背もたれに身体を預け、目を閉じた。

あまりにも疲れていた。身体の寒さや疲労はまだ耐えられる。けれど心の底に凍りついたような鈍い痛みは、何度も波のように込み上げ、彼女は外のすべてを遮断したいと思った。

車は雨の夜を安定して走っていった。ワイパーが規則的にガラスを擦る音だけが聞こえていた。

彼女は思わず考えてしまった。臣吾は先ほど、どこまで見ていたのだろう。

本邸の書斎の外で立ち聞きしていた惨めな自分の姿から、今こうして京介に雨の中へ置き去りにされた哀れな姿まで、彼はすべて見てしまった。

かつて、同じような雨の夜に彼女を見つけ、傘を差し出し、たった一言で目を覚まさせてくれた人は、今ではただ静かに彼女を一瞥し、運転手に送るよう告げると、そのまま一人で去っていった。

記憶喪失とは、本当に人の過去の記憶も性格も、すべてきれいに消し去ってしまうものなのだろうか。

それとも、彼が記憶を失う前から、彼女が大切にしていたあの些細な瞬間は、彼にとってもともと取るに足らないものだったのだろうか。だから、こんなにもあっさり忘れられたのか。

車はホテルのエントランスに停まった。運転手は気を利かせて彼女の荷物を取り出し、部屋までお運びしましょうかと尋ねた。

紗羽は丁寧に断り、もう一度礼を言ってから、スーツケースを引いて明るいロビーへ入っていった。

チェックインを済ませ、カードキーを手にエレベーターへ乗り、部屋のドアを開けた。そのすべてを終えた瞬間、身体中の力が抜け落ちたようだった。

彼女は冷たいドアに背を預けた。ただ寒かった。骨の髄から染み出してくるような寒さだった。

どれほどそうしていたのか分からない。ようやく身体を起こし、濡れて重くなったコートとワンピースを脱ぎ、裸足のままバスルームへ入った。

温かな湯が冷えきった肌を伝い、わずかに生き返るような感覚をもたらした。彼女は長い時間洗い続けた。肌が少し赤くなり、指先の冷えがようやく少しだけ和らいだように感じるまで。

髪を乾かし、清潔な寝間着に着替えると、彼女は窓辺へ歩いていった。

雨はまだやみそうになかった。窓ガラスには幾筋もの雨だれが伝い、外の街の灯りをぼんやりと滲ませていた。

充電してから電源を入れたスマホを手に取ると、画面が明るくなった。寧々から、ちゃんと落ち着けたかと尋ねるメッセージが何通か届いていた。

彼女は簡単に返信し、寧々を安心させた。

指先が連絡先の上を滑っていく。何かに導かれるように、ほとんど連絡したことのない名前の上で止まった。

臣吾。

彼のメッセージアプリのアイコンはとても簡素で、トーク履歴は空っぽだった。

長い間迷った。画面の上で止まった指先が、かすかに震えていた。

結局、紗羽はトーク画面を開き、一言だけ入力した。

【ありがとう】

呼びかけも、余計な挨拶もなかった。たった一言の「ありがとう」だけが、画面の上にぽつんと残った。

メッセージが送信された表示はすぐに出た。

そしてそのまま、何の反応もなかった。

紗羽は口元をわずかに引き、かすかな自嘲を浮かべた。

彼女はいったい何を期待していたのだろう。すべての記憶を失い、今の彼女にとって完全な他人である周防家の長男が、惨めな弟の嫁を気遣って声をかけてくれるとでも思っていたのか。

臣吾とのトーク画面を閉じると、SNSのフィードに赤い通知がつき、新しい更新を知らせていた。

彼女は無意識に開いた。

最新の投稿は、皐月のものだった。

投稿時間は三十分前。

添えられていた写真は、室内から撮られた夜景だった。雨水が床まで届く窓に跡を描き、その外にはぼやけたネオンが広がっている。

写真の片隅には、ルームウェアを着た男の後ろ姿がかすかに写っていた。俯いて手元のタブレットを見ているその横顔は、見慣れたものだった。

文章はこうだった。

【雷雨の夜、そばにいてくれる人がいてよかった。安心する】

最後に小さなハートが添えられていた。

その下には、すでに「いいね」が一件ついていた。

「いいね」をした人のアイコンは、京介のものだった。

刺すように鮮やかな赤いハートと、その見慣れたアイコンが、不意に胸へ突き刺さった。

紗羽は二秒ほど黙ってから画面を消した。ただ胸の奥が何かで塞がれたように感じた。息苦しいのに、涙は出なかった。

彼女は部屋の明かりをすべて消し、薄暗いベッドサイドランプだけを残して、布団の中へ身を丸めた。

窓の外では雨音がさらさらと続いていた。けれどそれは、少しの静けさももたらしてはくれなかった。むしろ騒がしい背景音となって、彼女の頭を割れるほど痛ませた。

身体の奥から、不自然な寒気が何度も込み上げ始めた。続いて、焼けるような熱さが襲ってきた。

風邪を引いたのかもしれないと思っていた。それでも疲労と、心まで冷え切ったような感覚に、彼女は動く気になれなかった。ただこのまま眠ってしまいたかった。目覚めたとき、すべては悪夢だったと思えるかもしれない。

意識は朦朧とした眠りと覚醒の間を漂った。夜半を過ぎるころには熱がさらに上がり、喉は焼けつくように乾いて痛んだ。

彼女は必死に起き上がった。額は恐ろしいほど熱いのに、手足は氷のように冷えていた。

病院へ行かなければ。

その思いだけに支えられ、彼女は服に着替え、カードキーとスマホを持ち、ふらつく足取りで部屋を出た。

エレベーターが下っていく間、鏡張りの壁には、赤く火照っているのに異様に青白い自分の顔が映っていた。

深夜の救急外来は、それでも明かりが煌々とともっていた。消毒液の匂いが漂っている。彼女は受付を済ませ、体温を測った。

39.5度だった。

検査結果を待つ時間は、ひどく長く感じられた。彼女は最後に残った意識をどうにかつなぎ止め、寧々へ現在地と短いメッセージを送った。

【寧々ちゃん、熱がある。救急にいる】

メッセージを送ったところで、張りつめていたものが切れた。紗羽は人の少ない隅の椅子にたどり着くと、冷えた座面に身を沈め、力尽きたように目を閉じた。

寧々が病院に駆けつけたとき、目に飛び込んできたのはそんな光景だった。

明け方近い救急外来は、ひどく静かだった。

紗羽は華奢な身体を、ぽつんと椅子の上で小さく丸めていた。目を閉じ、眉をかすかに寄せた顔には、熱のせいで不自然な赤みが差していた。そばには点滴スタンドが一本立ち、薬液が一滴ずつ、静かに管の中を落ちていた。

その瞬間、寧々の胸は締めつけられるように痛んだ。彼女は足音を潜めて近づき、自分の上着を脱いで、紗羽の身体にそっと掛けた。

そのとき、紗羽の膝の上に置かれていたスマホの画面が明るくなり、ぶうんと震えた。

寧々が手に取って見ると、着信表示は京介だった。

その瞬間、寧々の中で怒りが弾けた。

彼女は病院へ来る前に見た、皐月のあの見せびらかすような投稿と、京介が押した、目に刺さるような「いいね」をすぐに思い出した。

さらに紗羽と京介のトーク画面を開くと、最新のメッセージは京介から届いていた。たった一言だけだった。

【戻ったか?】

寧々は怒りで指先を震わせた。彼女はそのままカメラを開き、眠り込んでいる紗羽の写真を一枚撮って、京介へ送った。

続いて音声ボタンを押し、感情を必死にこらえながら言った。

「周防社長って、本当にいいご身分ですね。奥さんが高熱を出して救急外来で一人点滴を受けているのに、ご自分は新しい女のそばで仲良くお過ごしですか」

音声は送信された。

ほとんど同じ瞬間、京介から電話がかかってきた。

寧々は冷たく笑い、迷いなく電源ボタンを長押しして、スマホの電源を切った。

世界は静かになった。

寧々はそばに付き添い、痛ましげに、紗羽に掛けた自分の上着を整えながら、彼女が目を覚ますのを待った。

紗羽は喉を焼くような渇きと、身体の重さと、締めつけるような痛みで目を覚ました。

目に入ったのは、見慣れない天井だった。空気の中には、病院特有の匂いがいっそう濃く漂っていた。

彼女はこわばった首をわずかに動かし、自分が病室に寝かされていることに気づいた。手の甲にはまだ点滴の針が刺さっており、点滴の袋はすでに新しいものに替えられていた。

「目が覚めたか」

低く硬い声が、そばから聞こえた。

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