「姫様、お会いしたかったです」
「ルミナ⋯⋯会いたかった」やはり、アレキサンダー皇帝は優しい方だった。
私の我儘を聞いて、ルミナを呼んでくれた。レイ・サンダース卿が処刑され、ルミナはどうしているのか心配していた。
「ルミナ⋯⋯私、ここでアレキサンダー皇帝の妻として暮らすつもりなの」
マルテキーズ王家の意向に逆らおうとしている私を彼女はどう思うだろう。 私は彼女を勝手に母親のように思っているが、彼女は王家が雇ったメイドに過ぎない。「姫様、ルミナはいつも姫様と共にいます」
「ありがとう。じゃあ、早速準備にかかるわよ」支度を終えて舞踏会会場に向かう途中、何人かの貴族令嬢とすれ違った。
私は淡い水色のシンプルなロングドレスに、髪を下ろしていた。しかし、バラルデール帝国の貴族令嬢は髪を結い上げ、サファイアやルビーといった宝石の髪飾りをつけている。
ドレスも赤や緑といったハッキリしたもので、贅をつくすように宝石がまぶしてあった。
(どうしよう⋯⋯陛下のパートナーとして出席するのに質素過ぎる)
舞踏会会場の扉の前には緑色の礼服を着た陛下がいた。
(しまった⋯⋯パートナーなのに色も合ってない⋯⋯)何色を着るのか尋ねもしなかった自分の気の利かなさに、ため息が漏れそうになる。
「アレキサンダー・バラルデール皇帝陛下に、モニカ・マルキテーズがお目にかかります」
帝国では皇后になる人間だけ、バラルデールの姓を頂けるらしい。
ドレスを持ち上げて挨拶している間も、陛下は私をじっと見つめていた。「今日はそなたのお披露目にもなるな。まだ、体調が完全に回復してないだろうから、開会のダンスを踊ったら下がると良い」
「分かりました」
確かに陛下の言う通り、まだ足元がふらついている。
頭もモヤがかかっていて、脳が正常に働いていない気がする。 (失言でもしたらまずいから、陛下の言う通りにした方が良さそうね)それにしても、私の場違いな服装を指摘するのではなく、体調を気遣ってくれる陛下はとても親切な方だ。
「アレキサンダー・バラルデール皇帝陛下と、モニカ・マルキテーズ皇妃殿下のおなーり」
陛下にエスコートされて、舞踏会会場の中央まで来る。
煌びやかなシャンデリアに、贅を尽くした内装。
会場は室内とは思えない程広くて、大勢の着飾った貴族が騒がしくしていた。 周囲が一斉に私たちに注目しているのが分かった。 瞬間、静寂が訪れて不思議な緊張感に包まれる。 陛下のエメラルド色の瞳が私だけを見つめていて、なぜだか胸が少し苦しくなった。てっきり、陛下の挨拶があると思ったのに、急にオーケストラの音楽が始まり驚いた。
私は陛下のリードに合わせてダンスを踊る。
(知っている曲でよかった⋯⋯) やはり、頭が働いていない。 普段であれば、曲順までチェックして招待客を全て把握してから舞踏会に参加する。 「辛かったら、俺に体を預けて来い⋯⋯」 陛下に耳元で囁かれて、私はもっと彼に近づきたくて体を預けながら踊った。 彼の優しい温もりと爽やかな香りを感じ、とても幸せな時間だった。「良い時間だった」
「こちらこそ、夢のような素敵な時間でした」私は再びドレスを持ち上げて挨拶をし、陛下に言われた通り会場を去ろうとした。
その時、おそらく本日5歳になるカイザー・バラルデール皇子らしき方が、壁際に立っているのが見えた。
黒髪に黒い瞳をしたカイザー皇子を見た時、脳裏にルイの姿が蘇った。
私はカイザー皇子にお祝いの言葉を告げてから、会場を後にしようと彼に近づいた。「美しい姫君、どうかダンスのお相手をお願いできますか?」
突然目の前に見知らぬ、同じ歳くらいの貴族の男性が現れてダンスを申し込まれる。
また、新しい音楽が始まり、私は慌てて彼の差し出した手に手を重ねた。
(皇帝陛下の挨拶とか、今日の主役のカイザー皇子の挨拶じゃなくて、またダンスなの?)ダンスの誘いを断るのは失礼に値する。
それは万国共通の認識のはずなので、私はふらつきながらもステップを踏んだ。「本当に噂以上のお美しさですね。この会場に皇妃殿下が現れた時から、もう釘付けでした」
「ありがとうございます」私は取り敢えずお礼を言いながらも、心の中では名前を名乗って欲しいと願っていた。
やはり、肖像画で招待客を確認してから、舞踏会に出席するべきだった。 彼らは私を知っているかもしれないが、私は誰が誰だか分からない。マルキテーズ王国とバラルデール帝国は遠いので交流もなく、マルキテーズ王国に帝国の人間が訪れたことは記憶にある限りない。
(顔見知りがいない舞踏会なんて初めてだわ)
その状況に少しワクワクするも、脳が正常ではない状態で失態を犯したら致命的なので早いところ立ち去った方が良いだろう。
「大変光栄な時間でした」
「ありがとうございます」 何だか、本調子でないせいか語彙が異常に減っている気がする。私は再びカイザー皇子に近づこうとすると、また見知らぬ貴族の男が道を塞いだ。
「天より舞い降りた女神よ。どうか、私にあなたと踊る幸運を頂けませんか?」
「ありがとうございます⋯⋯」私は見知らぬ男の差し出した手を取るしかなかった。
(女神じゃないんでお断りしますと言えばよかった⋯⋯) 「女神の美しい輝きの前に、空の星々も恐れをなして今宵は雲に隠れているようですよ」 「ありがとうございます⋯⋯」 私は今とても苦手なタイプの方とダンスを踊っている。こういう臭いセリフを言われた時に、吹き出さずにやり過ごすのは困難だ。
しかし、苦手な方とも毛嫌いせず関わらないと陛下に迷惑がかかるだろう。「女神よ。どうか、天に戻らずに、またご一緒してください」
「ありがとうございます⋯⋯」私はやっとの思いで、念願のカイザー皇子のところにまで辿り着いた。
不思議なことに本日の主役なのに誰も彼に声を掛けていない。「カイザー皇子殿下にモニカ・マルテキーズがお目にかかります。お誕生日おめでとうございます。殿下の1年が素敵なものになりますようにお祈りさせてください」
「ありがとうございます。兄上のことを宜しくお願いします。ふふっ、そんな挨拶をしないでください。僕は皇妃殿下の臣下になるのですよ」
お誕生日だと言うのに、彼の瞳が暗い気がして気になった。
「皇妃殿下、どうか貴方と踊る光栄な一時を私にください」
無礼なことに私がカイザー皇子と話しているのに、口を挟んできた見知らぬ貴族の男がいた。
オーケストラがまた演奏を始めだす。
(この誘いは流石に受けなくて良いよね? もっと、カイザー皇子と話したいわ)「皇妃殿下、殿下に遠方より来客がいらっしゃっております。ご案内するので、どうぞこちらに⋯⋯」
その時、銀髪に紫色の瞳をして紫色の礼服を着た目つきの鋭い貴族の青年が私の前に現れた。
明らかに今までダンスをした貴族令息よりも高位の貴族だと一目で分かる。
「ジョージア・プルメル公子⋯⋯」
私にダンスを誘ってきた男は現れた銀髪の男性を見て、逃げ出すようにそそくさと去っていく。プルメル公爵の息子、ジョージア・プルメル公子なら知っている。
私の1つ年下で、帝国で最も力を持つ名門の公爵家の後継者だ。確かプルメル公爵家は代々帝国の宰相を輩出しているだけでなく、商売も手広くやっている。
バラルデール帝国だけでなく、周辺諸国にも何件か宝飾品店を経営していると聞いたことがある。「じゃあ、行きましょうか。皇妃殿下」
プルメル公子は柔らかく微笑むと、私をエスコートして会場の外に出た。「退屈なんてさせてくれるつもりはあるのか? モモ、君はかなり愉快な女だぞ。それよりも、君こそ俺と2人きりで良いのか? その⋯⋯ジョージアを連れて来ても⋯⋯」 アレクはいまだに私とジョージの仲を疑っている。 私は彼に近づき唇を軽く舐めた。「えっと⋯⋯それは、俺だけで良いという返事なのか? だったら、口づけで返して欲しいのだが⋯⋯たまに、君の行動が犬っぽくて⋯⋯」 アレクは頭を掻きながら困惑していた。「これだけ一緒にいるのに、まだ私の気持ちを疑っている人には口づけなんてしません」「それは、君も俺だけを好きだと言うことで良いのか?」 いちいち言質をとって来ようとするアレクに深く口づけをする。 もう随分と慣れた私を安堵させる味を感じる。 彼も私を思いっきり強く抱きしめてきた。「アレク⋯⋯カイザーに譲位するまで、解決できる問題は全て解決しますよ。あの子の心を煩わせる全てのものを取り払うのです」「モモは俺以上にカイザーに対して特別な感情を持っている気がするのだが⋯⋯」 アレクは鋭い。 彼の言う通り、私は出会った時からカイザーと元飼い主のルイを重ねている。「当然です。私はカイザーの忠犬ですよ。そして、あなたが愛する妻です」 忠誠を誓う相手、私を家族のように愛してくれる人を見つけた。 私は、今、最高に幸せだ。
「本当に私だけを思い続けてくれますか? この先、私が老いて醜くなっても?」 彼の頬を包み込みながら伝えた自分の声が驚く程、震えていた。 美しさという武器を失えば、犬のモモであった時のように粗末に扱われそうで怖かった。「モモ⋯⋯確かに、君は美しい。だけれど、俺が愛しているのは君の繊細で傷つきやすい純粋な心なんだ。いつも陰で俺のために動いてくれているって知ってるんだぞ。君は尖って見せているが、とても優しい人だ。君がどのような姿になっても、たとえ犬でも愛している」 アレクは私が過去に犬だったことを知らないのに、まるで全てを知っているかのような言葉を伝えてきた。「アレクが他の女と一緒にいるのは本当は嫌です。カイザーが成人したらすぐに譲位し私と2人長いお散歩に出かけませんか? ずっと、2人きりだと退屈するかもしれませんが⋯⋯」 私は初めて包み隠さない心の内を彼に伝えた。 私は彼に12年後には退位をするように迫っている。 これは完全な私の我儘だ。 ずっと神経を張り詰めらせて暮らして来た。 皇宮の創られた空間ではなく、本当は季節を楽しみながら愛する人と色々な事を体験したい。 世界を巡りながら美味しいものを食べたり、喧嘩しては仲直りするような毎日を過ごしたい。 役に立たない存在になった私を彼に愛して欲しいと言う希望。
あれから1年の時が経った。 私の執務室の机には父からの手紙が机の上に積み重なっている。 私はその手紙の束から1つをとった。『モニカ、なぜ、手紙を返さない! まさか、あの若造皇帝にお前が誑かされたのではあるまいな⋯⋯』 手紙の内容は私を罵倒する言葉が羅列していた。(父は本当に私を道具としか考えていない⋯⋯) 人に忠誠を誓う元犬であった私。だけれども、私を捨てた相手までに忠誠は誓えない。 マルテキーズ王国の規模では私の助けなくバラルデール帝国を責めるのは不可能だ。 私は意を決して、席をたちアレクの執務室に急いだ。 ノックをして部屋に入るとアレクとその補佐官は私の登場に驚いていた。 アレクが手を挙げて補佐官を下がらせる。「モモ、どうした? お腹が空いたのか?」 アレクの的外れな言葉に思わず苦笑いが漏れた。 彼は不思議な人だ。 気性も荒く自分勝手で最初であった時は、対応に困った。 それでも、今は何よりも私を優先してくれているのが分かる。「アレク、カイザーを立太子させてください。私はもう子供を産めません」 今まで何度もアレクに他の女を迎えるよう提言してきた。 その度に彼は私以外は必要ないと言ってきた。 その言葉は私を喜ばせたが、同時にプレッシャーにもなってきた。 カイザーは皇位継承権を放棄しているが、本人とアレクが望めば彼が皇位を継ぐことが可能だろう。「モモ、本当にすまなかった。俺は償いようもない過ちを⋯⋯」 アレクが立ち上がり私をそっと抱きしめてくる。 彼は意外と感受性が豊かで私が苦しい気持ちになるとその気持ちを受け取るように目を潤ませる。 私は泣いている顔を隠そうとする彼の頬を包み込んだ。
「アレクが誰より想っているのは自分でしょ」モモはそう言うと俺の唇を少し舐めた。(これがご褒美ということで、納得しろって事なんだろうな⋯⋯)彼女を縛りつけても日に日に距離は遠ざかるばかりだ。俺ばかりが彼女のことを考えている。 俺が自分勝手で自己中心的であることは自覚している。それでも、俺は自分と同じくらいモモを大切だと思っていた。(毒を盛った俺が何を言おうとこの気持ちが伝わる気がしない⋯⋯)「スラーデン伯爵の爵位を剥奪し国外追放にするにした」俺の言葉にモモが苦笑いする「首を切ると脅せば、何か吐いたかもしれませんよ? 中途半端な処罰ですね。生きるか死ぬかの罰を犯した彼にとってはラッキーだったでしょうね」 モモは俺よりも多くをみえていて洞察力が鋭い。 俺もスラーデン伯爵の裏に誰か潜んでいるのは感じ取っていた。 しかし、そこは曖昧にしてしまってバランスを保つのが良いと思った。プルメル公爵一族を処刑した後で、帝国は処刑に対して敏感になっている。俺が言い淀んでいると彼女は少し呆れたような顔をした。 「アレクは今、私のご主人様です。あなたの意向に従います」 モモがぺこりと頭を下げるが俺が欲しいのはそんな彼女の反応じゃない。(ただ、俺のことが好きだと言って欲しい)「その⋯⋯ジョージアに会っても良いぞ⋯⋯」 情けないことに彼女に好かれる為に何をして良いのか全くわからなかった。だからと言って、彼女の希望を叶える為に浮気相手に会っても良いと言っている俺はどうかしている。「おびき寄せて、彼を殺す気ですか? 結構です。私と彼は会えなくても、心は通じ合ってますので」 モモは俺の傷つく言葉を平気で言ってくるようになった。 そのことから、彼女が早く俺から離れたいと思っていることが伝わってくる。 まるで、近くにいても心の通じない俺と彼を比べられているようだ。 誰かと比べられて劣っていると言われる事はおろか、誰かと比べられること
スレラリ草の毒に侵されている状態だと聞いたが、突発的な熱と不妊以外は気にする必要がないだろう。 私は私のやるべき事をやるだけだ。 私は朝から、ずっと私と過ごそうとするアレクを引き剥がして部屋で今後の対策をしていた。 アレクは私がブームなのだろう。 本当に人間とはどこの世界でもトイプードル、パグ、チワワとブームによって可愛がるペットを変える。 私はそのようなブームさえもない雑種犬だった。 今は時の皇帝のブームになっているのだから、感謝して彼に尽くすべきだろう。 ノックの音と共に、見知らぬ令嬢がやってきた。侍従に連れられてきたその少女は茶色い短い髪と瞳をした割と地味な女の子だ。 彼女からは私への敵意を感じないので、不思議な感じがした。 「モニカ・マルテキーズ皇妃殿下に、リアナ・エンダールがお目にかかります」 「エンダール伯爵の娘さん。どうぞ、入って」 私の言葉に緊張しながら部屋に入ってくる彼女をみて、私の警戒心はとけていった。「皇妃殿下、しょ、処刑されてしまったジョ、ジョージ・プ、プルメル公子よりお手紙を預かってきました⋯⋯」 泣き出すリアナ嬢はジョージが本当に死んだと思っているのだろう。 明らかに手が震えていて、今、遺言を私に託すとばかりに手紙を渡してくる。「とにかく、そこに座ってくれる?」 リアナ嬢は嗚咽を耐えながらソファーに座った。 手紙の封を開けて私は思わずため息をついた。(ジョージ⋯⋯この手紙の危険性に気がつけないの?) ジョージは私の悩みを解決しようと、私と友人になれそうな令嬢を探してくれていたようだ。 マリリンとは関係がない私の助けになってくれそうな、令嬢や夫人たちがリストアップしてある。 プルメル一族の処刑の後に建国祭があって、私が準備をしなくてはいけない事を心配してくれていたようだ。 リアナ嬢はジョージとアカデミー時代の同期だったらしい。 彼女は見るからに貴族世界で揉まれてきたとは思えない純粋そ
「アレク、起きてください! 重いです」 私の昨日の高熱の原因はスレラリ草の毒だったらしい。 もう、子が望めないと皇宮医が言っているのを聞いて泣いてしまった。 アレクは私を抱きしめて寝てしまったようだが、非常に重い。「モモ、熱は下がったのか」 起きるなり、私の額に手を当ててくる彼は心底私を心配しているようだ。「はい⋯⋯それから、アレクが私に申し訳ないと思う必要はないです。毒を盛られる可能性に気がつけなかった私に落ち度があるのですから」 私はランサルト・マルテキーズの娘で、私に子が産まれたら自分にとって危険だと感じ毒を盛るのは想像できた。 普段の私だったら予想できる事が、犬の記憶が蘇ったことで主人に対する疑念より忠誠の心が勝っただけだ。 「そんなこと言わないでくれ! 俺が毒については絶対に何とかするから」 アレクが私をキツく抱きしめてくる。 彼自身も、毒を何とかできるとは期待できないだろう。 そのような事ができていたらタルシア前皇后は死んでいない。「アレク、それよりもスラーデン伯爵の問題に集中してください。あと、おそらくマルテキーズ王国がまた刺客を送ってくると思います。レイ・サンダース卿より厄介な、ルイーザ・サンダース卿を⋯⋯」 「ルイ! ルイが来るのか?」 ルイーザ・サンダース卿はレイ・サンダース卿の双子の妹だ。 私がルミナを返したので、メイドという設定で送り込まれてくるかもしれない。 (ルイって、なぜ愛称で呼んでるの?)「アレクはルイーザ・サンダース卿をご存知なのですか? 彼女は女性ということで油断されますが、レイ・サンダース卿と並び立つ暗殺術を持っています。本当に女好きなのですね⋯⋯命が狙われるかもしれないというのに⋯⋯」「えっ? ルイーザ? 女? 違う、俺は女は好きじゃない。誤解してないでくれ、モニカだけが好きなんだ!」 アレクの言葉は嘘じゃないだろう。 確かに彼の瞳からは私への好意を感じる。 ただ、その好意はやがて気まぐれのように終わる事を私が知っているだけ