ログイン私・月島佳奈(つきしま かな)は重度の海老アレルギーだ。 出汁が一滴ついただけでも、呼吸困難に陥るほど深刻なものだった。 かつて、家族は私を、触れれば壊れてしまう「ガラスの姫」のように扱っていた。 だから食卓に海鮮が並ぶことは決してなかったし、親戚の集まりでさえ、両親は口酸っぱく周囲に注意を促してくれていた。 けれど、妹が生まれてから全てが変わった。 妹は何よりも海老が好物で、いつも母にねだっていた。 その時、母・月島律子(つきしま りつこ)は初めて私に向かって声を荒らげた。 「あんた、少しは離れていられないの?わざわざ妹を不機嫌にさせなきゃ気が済まないわけ?」 父・月島彰人(つきしま あきと)は何も言わず、ただ黙ってキッチンのドアを閉め、私に一枚のマスクを手渡すだけだった。 だが、父の昇進祝いの日。悲劇は起きた。 出された料理の中に隠されていた「海老のすり身」を、私は誤って口にしてしまったのだ。 瞬く間に喉が締め付けられる。 私は首を掻きむしりながら母に助けを求めた。呼吸ができず、顔は紫色に変色していたはずだ。 けれど母は、私のすがりつく手を冷たく振り払った。その声は、氷のように冷え切っていた。 「今日はお父さんの大事なお祝いの日なのよ。また仮病を使って気を引きたいの? みんながあんたのご機嫌取りをしてくれるとでも思ってるわけ?さっさと部屋に失せなさい!」 彼女は私を寝室に突き飛ばすと、ドアを乱暴に閉め、外から鍵をかけた。 私にはもう、助けを呼ぶ力さえ残っていなかった。 薄れゆく意識の中で聞こえるのは、外でグラスを交わし、笑い合う祝福の声だけ。 私の爪は絶望的にドアを搔き、板には幾筋もの血の跡が刻まれていった。
もっと見る私は母が魂の抜けたような足取りで刑務所を出て行き、あてもなく街を彷徨う姿を見ていた。彼女の中の張り詰めていた糸が、完全に切れてしまったのだと分かった。……母は、誰もいない空っぽの家に戻った。電気も点けず、暗闇の中、私の部屋へと入ってくる。学習机の前に座り、引き出しを開けた。中には私の成長記録や、描いた絵、そして彼女宛に書いた、歪んだ文字のカードが入っている。【おたんじょうびおめでとう。せかいでいちばんきれいなおかあさんへ】【おかあさん、だいすき】彼女は一枚一枚手に取り、指でなぞり、その紙を音もなく涙で濡らしていった。最後に、彼女の視線が小さな薬瓶に落ちた。それは私が常備していた、アドレナリン注射ペンだ。ずっと引き出しの奥に入れてあった。あの日、私はあと数歩でこれに手が届く場所にいた。もしドアに鍵がかけられていなければ、もしこれを手に取れていれば、私は死なずに済んだのだ。母はそのペンを手に取り、強く握りしめた。針先が手のひらを突き刺し、鮮血が滴り落ちる。けれど、彼女は痛みを感じていないようだった。心が死ぬ痛みに比べれば、肉体の痛みなど取るに足らないのだろう。彼女は立ち上がり、キッチンへ向かうと、冷蔵庫を開けた。中身は空っぽで、あるのは密封袋に入った数匹の冷凍海老だけ。あの日、客をもてなすために彼女がわざわざ買ったものだ。彼女はそれを取り出し、水につけて解凍した。そして、不器用な手つきで殻をむき、背ワタを取り、鮮やかな赤色の海老を包丁で叩いて「すり身」にした。彼女はできた海老のすり身をすべて、一杯の麺に混ぜ込んだ。調味料は何も入れない。ただ、毒薬だけを入れた。私は彼女がそれを終えるのを静かに見守っていた。心は凪のように静かだった。彼女が何をしようとしているのか、分かっていたから。彼女はその麺が入った器を抱え、私の部屋に戻り、ベッドに腰掛けた。箸を手に取り、麺を大量に掴むと、口へと運んだ。母にアレルギーはない。彼女はただ、大口を開けて咀嚼し、飲み込んでいく。食べながら、彼女は涙を流し、うわごとのように呟き続けた。「佳奈、痛い?お母さんも一緒にいてあげる……痛いの?お母さんも食べたわ。あなたの痛みを感じてあげるから……これで、もう寂しくないでし
夜になると、母は私の部屋に入り、私がまだそこにいるかのようにベッドを整える。空気に向かって話しかけるのだ。「佳奈、今日学校でお友達できた?」そして、自分で答える。「あら、お母さん忘れてたわ。佳奈はまだ学校に行ってないものね」独り言を呟き、時に泣き、時に笑う。まるで気が触れてしまったようだ。愛梨は日に日に母を怖がるようになった。かつて優しく美しかった母は、今や陰気で不気味な存在に変わり果てていた。ある晩、愛梨が悪夢を見て、「お姉ちゃん」と泣き叫んだ。母は部屋に飛び込み、愛梨を抱きしめた。けれど、口をついて出た言葉は違っていた。「佳奈、怖くないわよ。お母さんがいるわ。お母さんはここにいるから」愛梨は恐怖で悲鳴を上げた。「私お姉ちゃんじゃない!愛梨だよ!離して!」母は呆然とした。腕の中で怯えきっている愛梨を見て、瞳にわずかな理性が戻った。次の瞬間、何かに刺されたように愛梨を突き飛ばし、部屋から走り去った。その夜、彼女は私の部屋に鍵をかけて閉じこもり、一晩中泣き続けた。私は彼女のそばに座り、その泣き声を聞いていた。激しい号泣から、低い嗚咽へ、そして最後は絶望的な哀鳴へと変わっていくのを。「佳奈、お母さんが悪かった……戻ってきて……お母さんの命をあげるから……」私は手を伸ばし、彼女の頭を撫でようとしたが、やはりそこにあるのは虚無だけだった。お母さん、もう戻れないのよ。私たちはもう、どこにも戻れない。……父の刑務所での日々も、過酷なものだ。体面を気にするインテリだった父は、あんな場所では格好の笑い者であり、いじめの対象になった。「よう、自分の娘を閉じ込めて殺したインテリ様のお出ましだ」「どうした?昇進祝いは終わったのか?ここへは社会科見学に来たのか?」侮辱と暴力が日常茶飯事となった。最初は抵抗していた父も、次第に感覚を失い、最後には完全に沈黙した。口を閉ざし、目は虚ろで、まるで生ける屍のようになってしまった。母が一度だけ、面会に行ったことがある。分厚いアクリル板越しに、二人は互いのやつれ果てた姿を見つめ合い、言葉を失っていた。沈黙を破ったのは、母だった。「愛梨は……今、実家に預けてあるわ」父は頷き、唇を動かしたが、声が出るまでに随分とかかっ
地獄の門を開いたのは、あなたたち自身よ。愛梨の世話が必要なため、母は保釈され、一時的に家に戻った。父は拘置され続け、判決を待つ身となった。家はもう、家としての体をなしていなかった。リビングには小さな祭壇が組まれ、中央には私の白黒写真が飾られている。写真の中の私は、天真爛漫に笑っている。母は喪服を着て、祭壇の前に跪き、身じろぎもせず線香を上げ続けていた。彼女の瞳は空洞で、感覚を失い、魂だけがどこかへ抜き取られたようだった。親戚たちがやって来て、両親を指差してひそひそ話している。「酷い話だねえ。子供を一人で部屋に閉じ込めるなんて」「そうよ、普段は律子さんも佳奈ちゃんに気を使ってるように見えたのに、どうして肝心な時にあんな馬鹿な真似を」「彰人さんの昇進も白紙だってさ。クビになるかもしれないって。これじゃあ踏んだり蹴ったりだね」その時、耳障りな声が響いた。遠縁の叔母だ。「はっきり言わせてもらうけどね、あの子は元々お荷物だったんだよ。早死にしてくれて精々したじゃないか。あの病気のせいで、今までどれだけ金がかかったと思ってるんだい?これで肩の荷が下りたってものさ」その言葉が出た瞬間、場が凍りついた。母の体が猛烈に震えた。彼女はゆっくりと顔を上げ、血走った目で叔母を死ぬほど睨みつけた。「……何て言ったの?」声は恐ろしいほど枯れていた。叔母は気圧されたが、それでも強気に言い返した。「だ、だから、本当のことじゃないか。薬漬けの厄介者が、家族の足を引っ張って……」パンッ!乾いた衝撃音が響いた。母だ。立ち上がり、渾身の力で叔母の頬を張り飛ばしたのだ。「出て行け!」彼女はドアを指差し、怒りで全身を激しく震わせた。「私の家から出て行け!」叔母は頬を押さえ、信じられないという顔で母を見た。他の親戚たちが慌てて止めに入る。「律子さん、落ち着いて!」母は彼らを振り払った。手負いの獣のように、憎悪を剥き出しにして。「あの子はお荷物なんかじゃない!私の娘よ!私がダメな親だったの!私が守ってあげられなかったの!」彼女は自分の胸を叩き、泣き叫んだ。「私が殺したのよ!私を罵りなさいよ!みんなで私を責めればいいじゃない!私のくだらない見栄のために!夫の出世のために!私の手であ
父は言葉を絞り出した。「あの子は……具合が悪いと言っていました。海老の入ったものを……食べてしまったと」警察官のペンが止まった。彼は顔を上げ、鋭い視線を向けた。「娘さんが重度の海老アレルギーだと知っていたんですか?」「知っていました……」「では、救急車を呼ぶなり、応急処置はしましたか?」父はさらにうなだれ、蚊の鳴くような声で言った。「私たちは……ただかんしゃくを起こしているだけだと思って……部屋に鍵をかけて閉じ込めました……」警察官の表情が険しくなった。「なんですって?重度のアレルギー反応が出ている子供を、一人で部屋に閉じ込めたと言うんですか?」その場が死んだように静まり返った。その問いは、毒を塗った短剣のように、両親の心臓を正確に突き刺した。そう、彼らはそれをやったのだ。自分たちの手で、実の娘を殺したのだ。私の遺体は運ばれ、司法解剖に回された。家には捜査用の封印テープが貼られ、両親は取り調べのために署へ連行された。妹の愛梨は、知らせを聞いて駆けつけた祖母に引き取られた。幼い彼女は何が起きたのか理解できず、ただ泣きながら「お姉ちゃん」と呼び続けていた。私は両親についていき、取調室へ漂い込んだ。冷たいパイプ椅子、刺すような蛍光灯の光。母はもう泣く気力もなく、操り人形のように座っていた。目は虚ろだ。父は一夜にして十歳も老け込み、こめかみの白髪が一気に増えていた。警察官が、一枚の報告書を彼らの前に置いた。「司法解剖の結果が出ました。死因は、アナフィラキシーショックによる窒息死です。もしあの時、すぐにアドレナリンを投与するか、病院に運んでいれば、娘さんは助かっていました」その言葉は、重いハンマーのように彼らの心を打ち砕いた。父は激しくよろめき、両手を髪に突き刺して、獣のような嗚咽を漏らした。母の目にようやく焦点が戻る。彼女はその報告書を凝視した。一文字一文字が、焼けた鉄のように網膜に焼き付いていく。「つまり……」彼女は亡霊のように呟いた。「私が……この手であの子を殺したの……?」警察官は彼らを見下ろした。その声に同情はなく、事務的な冷たさだけがあった。「月島さん、奥さん。あなたたちの行為は『保護責任者遺棄致死罪』に相当します。これより法に基づき
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