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第2話

Author: リリィ
記憶が潮のように押し寄せ、息が詰まるほどの苦しさを運んできた。

彼と結婚する前、奈緒は景介の名を幾度となく耳にしていた。

メディアはありとあらゆる美辞麗句を並べ、彼の端正な容姿、類まれなる能力、そして冷徹な手腕を絶賛した。彼は非の打ち所がない完璧な後継者であり、高橋グループを引き継いでわずか一年で高橋家を長者番付の頂点へと導いた。

唯一の欠点と言えば女っ気がまったくないことで、まるで仕事のために製造された精密機械のようだと評されていた。

だが、夜会で偶然目にした彼の一瞬の姿――高潔で禁欲的な雰囲気と、群を抜いて洗練された立ち振る舞いに、彼女は一瞬で心を奪われた。それ以来、彼女の心に他の男が入る余地などなかった。

だからこそ、家族から政略結婚の話を持ちかけられた際、彼女は狂喜乱舞してそれに応じた。

当時、親友はこう言って彼女を諫めたものだ。「景介さんは確かに非の打ち所がないけれど、あの人は感情のない仕事人間にすぎないわ。あんな血も通っていないマシーンのもとに嫁いだところで、幸せになんてなれるはずがない」

しかし奈緒は、自分が献身的に尽くし、彼を愛し抜けば、いつかその氷のような心も溶かせるはずだと無邪気に信じていた。

だが、現実はどうだったか。

新婚初夜。彼は夫婦の営みを義務として淡々と済ませると、何の感情も乗せずにこう言い放った。

「俺は男女の情愛には興味がない。お前を娶ったのは、あくまでビジネス上の必要性からだ。分を弁えて過ごすなら、夫としての義務は果たすし、高橋の妻としての栄誉も一生保証しよう。だが、それ以上のものは望むな」

だからこそ結婚して以来、彼が仕事にかまけて何度自分を二の次にし、平然と置き去りにしても、彼女はすべてを飲み込んで耐え忍んできた。

彼は自分を愛していないが、他の誰も愛していない。それだけで十分だと言い聞かせてきた。

だが、今日。彼が一葉という女をどれほど大切に掌中の珠として扱い、彼女のためにどれほど高く誇りある頭を垂れ、奈緒が五年間の結婚生活で一度も得られなかった「愛している」という言葉を囁いたのかを、目の当たりにしてしまった。

もはや、自分を欺き続けることは不可能だった。

彼は女っ気がないわけでも、生まれつき冷淡なわけでもなかったのだ。ただ単に、彼が愛しているのは自分ではなかったというだけ。

これまでのすべての辛抱と献身が、救いようのない滑稽な茶番に思えた。

奈緒は涙を拭うと、迷いなく警察署を後にした。そしてスマホを取り出し、ある番号へ電話をかけた。

「工藤弁護士、離婚協議書の作成をお願いします」

翌日、奈緒は出来立ての離婚協議書を手に、高橋グループの本社へと足を運んだ。

しかし、受付で告げられたのは予想外の言葉だった。「奥様、会長はずいぶんと長い間、出社されておりません」

奈緒の心に、また針で刺されたような痛みが走った。

ずっと会社に来ていない?

あの、一つのプロジェクトのためなら一ヶ月間も会社に寝泊まりしていたワーカホリックの景介が?

彼女は胸の詰まるような思いを抑え、尋ねた。「……彼はどこに?」

受付の女性は困り果てた様子で、声を潜めて答えた。「一葉さんのお供で、オークション会場へ行かれました」

オークション……

奈緒は、彼が愛する女性の笑顔のために大金を投じているという噂を思い出した。

彼女は深く息を吸い込み、車を走らせてオークション会場へと急いだ。

会場内は香水の香りに満ち、各界の名士たちが一堂に会していた。

奈緒は、最前列に座る景介の姿をすぐに見つけた。その隣には、可憐に振る舞う一葉が寄り添っている。

競売人は今、この日の目玉である最後の出品物を紹介していた。かつてある女王が所有していたとされるブルーダイヤモンドのネックレス。開始価格の時点ですでに、一般人には想像もつかないような莫大な数字が付けられている。

競り合いは熾烈を極めたが、誰かが値を更新するたびに、景介は迷いなく札を掲げ、即座にそれを塗り替えていく。その身のこなしは至って余裕綽々だが、その瞳には獲物を決して逃さないという不遜なまでの執念が宿っていた。

最終的に、彼は周囲が絶句するほどの破格の値段で、隣に座る一葉のためにそのネックレスを競り落とした。

会場中が騒然となり、羨望と嫉妬の眼差しが一斉に一葉へと突き刺さる。

一葉は嬉しそうに彼の首に抱きつくと、その頬にキスを落とした。

奈緒は少し離れた場所から、そのあまりにも残酷な光景をただ眺めていた。心臓を素手で握りつぶされるような感覚のあと、痛みさえ感じないほどに感覚が麻痺していく。

これほど長く連れ添ってきたというのに、彼は彼女にまともな贈り物一つしてくれたことがない。

彼女は、彼が単に女性に興味がなく、ロマンチックなことが苦手なだけなのだと自分に言い聞かせてきた。

……違ったのだ。彼はただ、自分に対して情熱を傾けるつもりがなかっただけなのだ。

奈緒は手に持った離婚協議書を強く握りしめ、深く息を吸い込み、眩いほどに残酷な輝きを放つ二人の背中に向かって歩き出す。

景介が真っ先に彼女に気づいた。先ほどまで浮かべていた余裕綽々の笑みは一瞬で消え去り、その表情は急速に凍りついた。彼は反射的に、隣の一葉を庇うようにして自分の背後に隠した。

「……何をしに来た」

その無意識の守護動作は、鋭利な刃となって奈緒の心を深く抉った。

彼女は懸命に平静を装い、手にしていた書類を差し出した。「サインしてほしい書類があるの」

ちょうどそこへ会場のスタッフが歩み寄り、ネックレスの引き渡し手続きのために景介をバックヤードへ案内しようとした。

景介は冷淡に言い放つ。「俺は今、手が離せない。話なら後にしろ」

後?……もう「後」になどしたくなかった。

彼女は一分一秒たりとも、これ以上待ち続けるつもりはなかった。

「大事な書類なの。数分で済むわ」奈緒は食い下がった。声が微かに震えるのを、自分でも抑えられない。

「景介。離婚しましょう。この書類にサインさえしてくれれば、一ヶ月の手続き期間を経て、私たちは完全に赤の他人になれる。

……あなたには、心から愛している人がいるのでしょう?だったら、私は身を引くわ。あなたも、私を自由にして。二人とも、それぞれの愛を探すべきだわ。お互いに時間を無駄にするのはもうやめましょう」

彼女は一気に言い切り、勇気を振り絞って彼の返答を待った。しかし、景介はわずかに眉をひそめ、しばらく経ってからようやく顔を向けたが、その言葉をまともに聞き取ってさえいないようだった。

「今、何と言った?用事があると言ったはずだ。後で聞く」

そう言い捨てると、彼はスタッフに従ってバックヤードへと消えていった。

奈緒は深く息をついた。彼はいつもこうだ。結婚して五年間、彼女のことなど、彼女の紡ぐ言葉など、最初からそこにいないものとして、あるいはただの空気同然に扱い続けてきた。

彼女が追いかけようとしたその時、一葉が突然歩み寄り、奈緒の手から書類をひったくった。

「あなたが、景介のあの『政略結婚の奥様』ね?」一葉は奈緒を頭の先から爪先まで値踏みするように眺め、その瞳に露骨な蔑みを浮かべた。

「サインが必要な書類なら、私が代わりにやってあげる。景介から名前入りの実印を預かってるの。どんな書類でも、私が代筆していいって言われてるんだから」

奈緒の心臓が、見えない手に強く握りつぶされた。激痛で呼吸が止まりそうになる。

実印を預け、すべての書類の代行を許している?

景介という男がいかに慎重で、完璧主義であるかを知らない者はいない。すべての重要書類に自ら目を通し、自筆で署名することを絶対としてきたはずだ。それなのに……

一葉はそれを証明するかのように、バッグの中から小ぶりで精巧な印章を取り出した。書類の内容など一瞥もせず、最後のページをめくると――

パチンと乾いた音を立てて、力強くそれを捺印した。
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