アトリエの扉が閉まると、外の空気はきれいに切り取られた。
扉の内と外とで、空気の密度が違う。礼司はそのことにすぐ気づいた。外の空気は風に揺れ、鳥の声や庭木の擦れる音を孕んでいたが、内側は静まり返っていた。まるで音すら絵の具で塗り潰されたかのように、ただ柔らかい光だけが静かに漂っていた。
薫が歩くたびに、床板が乾いた音を立てた。その後ろ姿を追いながら、礼司はゆっくりとアトリエの奥へと進んでいく。
室内は広くはないが、天井が高いせいか閉塞感はない。壁にはいくつかの作品が架けられており、空いたスペースにはイーゼルや額縁、スケッチブックの山が無造作に置かれていた。家具はほとんどない。代わりに、光と匂いと気配が、部屋の隅々にまで染み込んでいる。
「こっちです」
薫が言った。礼司は足を止め、その声の先に目をやる。
そこには、一枚の大きなキャンバスが壁に立てかけられていた。
縁に施された金の木枠が、夕陽の反射でわずかに光る。キャンバスは未完のようにも見えた。だが、それが“完成”であるかのような存在感を放っていた。
礼司は思わず息を呑んだ。
画面に描かれていたのは、一人の裸の男だった。仰向けに寝そべり、右腕を頭の後ろに回し、左足をわずかに折り曲げている。体は細身で、だが筋肉のつき方には職業的な堅さがあった。腹部の起伏、腿の陰影、鎖骨から胸元へと流れる滑らかな線。すべてが、生々しく、それでいて…美しかった。
だが、最も強く礼司の目を引いたのは、男の“顔”だった。
目が描かれていない。
いや、描かれてはいる。だがそれは、“眠っている”という以上に、“見られることを拒んでいる”ように見えた。まるで視線を持たない肉体。見ているのは、自分だけ。絵の中の彼は、誰の視線にも応じない。ただ、見られることを受け入れ、黙してそこに存在している。
礼司は、一歩近づいた。足音を立てぬよう、自然と呼吸を浅くする。
男の肌には、微かな体毛まで描かれていた。腹部にわずかに残る毛、脇腹に落ちた光の筋。その丁寧さは、明らかに“記憶”からではなく、“知っている”者の手によるものだと思わせた。
「これは…」
薫は礼司の隣に立ち、しばらく言葉を探すようにしてから答えた。
「《眠る水夫》と呼んでいます。パリにいた頃、港で出会った人を描きました」
「実在の人物か」
「ええ。よくモデルをしてもらっていた人です」
言葉の端に、何の濁りもなかった。その明瞭さが、礼司の胸の内に奇妙な感触を残す。
「これは…見せるための絵か」
薫はその問いに、すぐには答えなかった。視線を絵の中の男に向け、わずかに目を細める。
「あなたに見せるとは、思っていませんでした。でも……もう、見せてもいいかと思ったんです」
「なぜ今、私に」
「あなたが、見る目を持っているからです」
言葉の意味は、わかるようでわからなかった。
礼司はもう一度、絵の中の男を見た。指先が、勝手にポケットの中で拳を握っていた。
胸の奥が、ざわざわと騒ぎ出す。理由は、まだはっきりとしない。ただ、言葉にできない“何か”が、自分の中で確かに動いているのがわかった。
嫉妬とは、こういう感覚を指すのか。
そう思ったとき、ようやく礼司は己の感情に名をつけられた。
それは絵に対してではない。薫が、この男を“描いた”ことに対して。そして、その視線が、自分ではなく“別の誰か”に向いていた事実に対して。
筆先が触れた肌の記憶。目ではなく、指でなぞったような描線。あらゆる角度から、何度も、何時間も見つめた痕跡。すべてが、この絵の中に沈殿していた。
「…この男は、あなたの…」
喉まで出かけた言葉を、礼司は飲み込んだ。自分が何を問おうとしていたのか、理解した瞬間に、背中に冷たい汗が滲んだ。
薫は、答えを聞かずに言った。
「この絵には、私の視線が全部、入っています。あなたが見て感じたなら、それがすべてです」
視線。
それは、礼司にとって今や最も敏感な言葉だった。あの夜会で、あの硝子越しの夜で、薫の“見る”という行為が、自分をいかに揺さぶったか。
そして今、それが誰か“他者”に向いていたという証が、こうして絵として目の前に存在している。
絵は、見る者の心を反射する。
礼司は今、己の弱さを見せつけられていた。理性ではどうにもならぬ、制御不能の感情。そんなものを自分が抱くとは、思いもよらなかった。
薫の気配が、すぐ隣にある。だが、その距離はひどく遠く感じられた。絵を介した“他者”の存在が、二人の間に確かな影を落としていた。
「あなたは…この男を、好きだったのか」
問いは、唇の裏で消えた。
代わりに、礼司は絵に背を向けた。
それは敗北だった。自分では抗えない感情に、背を向けるしかなかった。
だが背を向けても、絵の中の男の肌が、眼裏から消えなかった。肌の温度も、薫の筆先も。何もかもが、礼司の記憶に焼きついて離れなかった。
薫は、それ以上何も言わなかった。
静寂が、再びアトリエに戻ってきた。
夕陽が窓硝子を赤く染める中、礼司の心には、まだ見ぬ問いと、触れられぬ感情が渦巻いていた。
アトリエの扉が閉まると、外の空気はきれいに切り取られた。扉の内と外とで、空気の密度が違う。礼司はそのことにすぐ気づいた。外の空気は風に揺れ、鳥の声や庭木の擦れる音を孕んでいたが、内側は静まり返っていた。まるで音すら絵の具で塗り潰されたかのように、ただ柔らかい光だけが静かに漂っていた。薫が歩くたびに、床板が乾いた音を立てた。その後ろ姿を追いながら、礼司はゆっくりとアトリエの奥へと進んでいく。室内は広くはないが、天井が高いせいか閉塞感はない。壁にはいくつかの作品が架けられており、空いたスペースにはイーゼルや額縁、スケッチブックの山が無造作に置かれていた。家具はほとんどない。代わりに、光と匂いと気配が、部屋の隅々にまで染み込んでいる。「こっちです」薫が言った。礼司は足を止め、その声の先に目をやる。そこには、一枚の大きなキャンバスが壁に立てかけられていた。縁に施された金の木枠が、夕陽の反射でわずかに光る。キャンバスは未完のようにも見えた。だが、それが“完成”であるかのような存在感を放っていた。礼司は思わず息を呑んだ。画面に描かれていたのは、一人の裸の男だった。仰向けに寝そべり、右腕を頭の後ろに回し、左足をわずかに折り曲げている。体は細身で、だが筋肉のつき方には職業的な堅さがあった。腹部の起伏、腿の陰影、鎖骨から胸元へと流れる滑らかな線。すべてが、生々しく、それでいて…美しかった。だが、最も強く礼司の目を引いたのは、男の“顔”だった。目が描かれていない。いや、描かれてはいる。だがそれは、“眠っている”という以上に、“見られることを拒んでいる”ように見えた。まるで視線を持たない肉体。見ているのは、自分だけ。絵の中の彼は、誰の視線にも応じない。ただ、見られることを受け入れ、黙してそこに存在している。礼司は、一歩近づいた。足音を立てぬよう、自然と呼吸を浅くする。男の肌には、微かな体毛まで描かれていた。腹部にわずかに残る毛、脇腹に落ちた光の筋。その丁
午后の陽が傾きかけた頃、礼司は中原家の離れ、薫のアトリエへと向かっていた。車を降りた瞬間、湿った土の匂いと、石畳の隙間から立ち上る初夏の熱気が鼻腔をくすぐった。舗道脇に整えられた生垣の中に、咲きかけの薔薇がちらほらと混じっている。門をくぐった瞬間、その甘やかな香りがふいに胸の奥へ忍び込んだ。アトリエの建物は、母屋と同じく瓦葺きの和洋折衷の造りだった。だが、こちらは外壁の塗りがやや粗く、無骨な木枠の窓がいくつも取り付けられている。窓のいくつかは開け放たれており、風が吹き抜けるたびに薄いカーテンが波のように揺れていた。庭先に踏み出した礼司は、木漏れ日を浴びる石段の下で足を止めた。アトリエの扉は半開きになっており、そこから男が一人、ちょうど出てくるところだった。男は若く、背の高い体躯に黒いコートを羽織っていた。開かれた襟元からは、白いシャツの肌着がのぞいており、まだ乾ききっていない絵具の匂いを纏っていた。手には細い布の包みと、丸められたスケッチらしき紙の筒。礼司が立ち止まったことに気づいたのか、男はこちらを一瞥し、すぐに視線を逸らすと、無言のまま石段を降りてきた。薫の声がした。アトリエの奥、扉の内側から。「また近いうちに…」男は軽く肩越しに手を振っただけで、返事らしいものはしなかった。ただ、頬にかすかな笑みが浮かんでいた。満ち足りたような、あるいは、どこか余韻を含んだ表情だった。すれ違う瞬間、男の身体から微かに香水のような香りがした。甘く、そしてどこか汗に近い体温の残滓が混じっていた。礼司は鼻先をくすぐるその匂いに、ほんの一瞬だけ足を止めた。だがすぐに表情を整え、男の背中が庭の出口へと消えていくのを目で追った。背広の後ろ姿は細身で、首筋の髪がやや長めに揺れていた。薫とは違う。まったく異なる輪郭の男。その背が視界から消えた瞬間、礼司はようやく静かに息を吐いた。誰だ、今のは。問いかけは声にならなかった。だが胸の内側で、低く響いていた。薫の声は、確かに男に向けたものだった。誰かと話す声だった。仕事かもしれない。モデルかもしれない。…それ以上の関係かもしれな
中原邸の応接間には、昼の光がしっとりと広がっていた。磨かれた窓硝子から差し込む陽射しは、どこか鈍く、絹張りのカーテンに吸い込まれるように滲んでいる。天井に吊られたシャンデリアの影が、床の大理石に静かに揺れていた。応接間の奥、低いテーブルを挟んで向かい合って座る二人の男。早川礼司と、中原薫。銀器の縁に薄く紅茶の香りが残っていた。午後三時を少し過ぎたばかり。屋敷の中は静まり返っており、庭に面した窓の向こうでは、剪定を終えたバラの枝が風に揺れている。礼司は、薄く砂糖を溶かした紅茶を口に含んだ。薫は、すでにカップを置き、両手の指先を軽く組み合わせていた。その手の甲の色は、外で焼けたのか、わずかに褐色がかっている。指は細く、しかし節は強く、絵を描く者の手だとすぐにわかる。礼司は無意識に視線をそこに留め、すぐに紅茶の残りに目を戻した。「礼司さん。来週、少し時間をもらえますか」柔らかくも芯のある声だった。礼司は顔を上げた。薫の眼差しがまっすぐに自分を見ていた。「時間……?」「アトリエを見に来てほしいんです。ちょうど、整理も終わりましたから」薫の瞳には曇りがなかった。その真っ直ぐさが、かえって礼司の中に小さなざらつきを生んだ。視線の奥に揺れも影もない。何の打算もないままに、ただ『見に来てほしい』と言う。「それは…私に、ですか」礼司の声は自然と低くなった。薫は頷いた。「はい。礼司さんに」庭の風が窓を揺らし、カーテンが一瞬だけ膨らんだ。薫の後ろに光の線が差し込み、黒髪の輪郭を細く縁取る。「…考えておこう」カップをテーブルに戻しながら、礼司はそう答えた。断る理由はなかった。だが、即座に頷けなかった。アトリエ。薫が何を描いているのか、どんな場所で絵を生んでいるのか。見たいという衝動と、それを見てしまったあとの自分を想像する恐れとが、喉の奥で交差していた。薫はそれ以上、何も言わなかった。ただ、軽く頷いたのみだった。そしてその数分後、用件を終えた礼司は屋敷を辞した。
夜の回廊には、濡れたような静けさが満ちていた。庭から吹き込む風が、竹の葉をかすかに揺らす音だけが障子の向こうで細く響き、早川家の重厚な邸内を包む沈黙を際立たせていた。礼司は回廊の柱に背を預け、手には小さな煙草の銀製ケースを持ったまま、蓋を開けもせず、ただ立ち尽くしていた。吐く息は白くない。空気はすでに夏の湿り気を帯び、けれど体の奥に溜まるものは冷えていた。数刻前の夕餉の光景が脳裏に蘇る。食卓に座る薫の姿、ナイフとフォークを扱うその手の滑らかさ、まっすぐ差し向けられた視線の、何かを試すような熱。それは明確な挑発ではなかった。だが、視線の底には、明らかに意図があった。礼司はそれに気づきながら、終始気づかないふりをして食事を続けていた。少しでも目を合わそうものなら、何かが壊れる気がした。「壊れる…?」自嘲のように唇がわずかに歪む。何が、何の関係が、と問えば、答えはなかった。ただ、壊れ得る何かが自分の中にあることだけが、妙に確かだった。そのとき、不意に背筋がぴんと伸びた。何かに見られている。ただの気配ではなかった。明確な、射抜かれるような視線の感覚が、肩口に触れた。ぎり、と煙草ケースの蓋を閉じる音が、やけに大きく響いた。礼司はゆっくりと振り向いた。回廊の先、客間の障子越し。少しだけ開かれた硝子窓の奥、薄く灯りの落ちる部屋の中には誰の姿もない。しかし、あの視線の残滓が、まだ皮膚の上に残っている。「…気のせいか」声に出してみても、その響きは空虚だった。いや、気のせいではない。そう思わせるのに十分すぎる強度で、あの視線は確かに自身を貫いていた。薫だったのか。そう思った瞬間、礼司は無意識に目を伏せた。顔の内側がじんわりと熱を帯び、心臓の奥が、まるで水に沈んだ石のように鈍く疼いた。まさか。あの少年が、男として…?否定しようとしたが、記憶が早すぎた。薫の黒髪がわずかに揺れた瞬間。涼やかな目元。光の下で白く浮か
夕陽が窓枠を朱色に染め、食堂には夕刻の柔らかな光が差し込んでいた。重厚な木のテーブルに並べられた銀器が光を反射し、食卓はまるで静かな舞台のように整えられていた。薫は控えめに着席し、膝の上にナプキンをたたんで置いた。香り立つスープの湯気と、煮込みの香りが混じり合う空気を、ゆるやかに吸い込んだ。目の前には、美鈴が丁寧に整えた皿が並び、小声で「召し上がってください」と言いながら、礼儀正しい微笑みを浮かべた。礼司は背筋を伸ばし、ナプキンを広げて丁寧に膝に置いた。その動きはまるで儀式的で、所作の一つ一つに無駄がなかった。薫はその様子をまっすぐ見つめた。外観上、食事は穏やかに進んでいた。料理の説明、美鈴の彩り豊かな献立の声、客としての薫への配慮――すべてが完璧に履行されていた。しかし、その完璧に揃った空間の中で、明らかなずれもそこかしこにあった。まず、視線が交わらない。美鈴が目を上げて礼司に微笑んでも、礼司はそっと頷くだけで目をそらす。視線の代わりに微かな気遣いが交わされ、彼女の頬に浮かぶ笑みはすでに儀礼の域を出ない。その冷たい静けさを薫は感じ取っていた。次に、身体の距離。椅子が向かい合わせという配置にもかかわらず、礼司と美鈴の間には明確なすき間があるように感じられた。肘をつく距離、カップを持ち上げる時の肩の角度、すべてが慎重に計算された配置に見えた。薫はフォークを軽く持ち、口に運ぶ動作を止めて目線だけを礼司へ向けた。彼の横顔は整っていた。けれどその横顔には、燃えるような温度はなかった。スープを一口飲む時の喉の動きすら、薫には演技のように思えた。「薫さん、お味はいかがでしょうか?」美鈴が穏やかに尋ねた。礼儀正しい問いかけに、薫は小さく笑って答えた。「とても美味しいです。こんなに落ち着いた夕食は久しぶりです」礼儀を尽くした言葉だったが、心の奥では、ある確信が広がっていた。——この二人には、感情の火がない礼司はその言葉に軽く微笑んだが、再び目を伏せた。薫の中で、静かな動揺が芽吹き始めていた。それは単な
午後の陽光が応接間に柔らかく差し込み、障子越しの光と洋窓からの直射が淡いコントラストを生んでいた。絨毯の模様がほのかに浮かび、家具の木目が温かく輝いている。香ばしいお茶の湯気が、小さく揺れながらカップの縁に絡む音がした。客間の中央に置かれた大理石のテーブルに、薫と美鈴が向かい合って座っている。薫は礼儀正しく背筋を伸ばし、白磁のカップを指先で静かに回していた。美鈴は、上品な着物の裾を整えながら慎ましく頭を下げる。柔らかな会話が、春の午後の穏やかな調べとなって広がっている。「パリではどのようなご様子でしたか」美鈴の声は静謐で、瑞々しい響きを帯びていた。薫は軽く笑って、口を開いた。「街の空気も美術館もすべてが刺激的でした。特にエコール・デ・ボザール(美術学校)では、観ることと触れることの境界が薄れて…」その言葉が柔らかい振動となって響く間に、薫の瞳はふいに窓の外へと泳いだ。クッションに寄りかかったまま、まるで無意識に視線だけが移動していく様子だった。美鈴もその変化に気づいて視線をそっと向けたが、薫はすぐに再び会話に戻った。だが、窓の外にあった視線の先には、確かに礼司がいた。庭をゆっくりと歩きながら、何かを考えているような姿が見え隠れしていた。太い木枠に収まる硝子越しの光景は、ひとつの絵のようだった。庭の苔の緑と礼司の背広の黒が淡いコントラストを描き、礼司は歩を緩めたり止めたりしながら、空茅の揺れや落ちる陽光をただ受け取っていた。薫の視線はそのまま動かず、彼の存在を確認した瞬間、礼司がふいに頭を上げた。まるで薫の視線を知覚したかのようだった。その目がこちらを探そうとしているのを、薫は硝子越しに捉えていた。ただし、すぐに薫は視線を逸らした。窓の外には、庭の風情と礼司の背中だけが残されていた。沈黙はその場の空気を少しだけ変えた。湯気がカップからゆらりと立ち上る、その香りも、木漏れ日も、まるでそれが何かの前触れであるかのように深く薫の感覚の奥に沈んでいった。時間が止まったような感覚。会話の余韻を引きずるように、ふたりの沈黙が間延びしながら広間に広がる。そしてその静けさは、やがて薄いざわめ