日が落ちかけていた。
アトリエの西側に設えられた窓から、斜めに差し込む夕陽がゆっくりと角度を変えていく。天井から吊るされた白布のカーテンが、風のない部屋でほのかに揺れた。灯りはまだ点けられていなかったが、空気の輪郭にすでに“夜”の気配が含まれている。色がすべて淡くなり、白壁も、木の床も、絵の具の香りさえも、まるで記憶の底に沈んでいくようだった。
薫が、ふと小さな箱からスケッチブックを取り出した。厚みのある表紙に指をかけながら、礼司に目を向ける。
「これは…少し古いものです」
そう言って、彼はゆっくりとページを開いた。
礼司は無言でその場に立ち、薫の動きを見つめていた。紙をめくる音が、妙にくぐもって聞こえる。周囲のすべてが静けさに包まれているからか、あるいは、礼司の内側が何かを先に予感しているせいか。
やがて、一枚の紙に薫の手が止まった。
「これです」
紙の上には、一人の男の上半身が描かれていた。シャツの第一ボタンが外され、襟元が少しだけ乱れている。首筋にかかる髪の影。鎖骨の線は細く、だがどこか張り詰めていた。腕は描かれていない。画面は、ちょうど胸のあたりで切れていた。
その“途中”で切られた構図が、絵に強い緊張感を与えていた。
「《未完の肖像》と呼んでいます」
薫の声は低かった。ページを開いたまま、彼は指先で絵の縁に触れた。描かれた人物は目を閉じていた。いや、目はもともと描かれていない。まるで眠っているかのように、瞼だけが線を引かれていた。
礼司は、なぜか言葉を失っていた。その絵に、見覚えがあったわけではない。ただ、そこに描かれたシャツの襟元、開いた胸元の角度、首の傾き――それらが、何か“自身の記憶の中の一場面”と強く重なった。
あれは、いつだったか。
夜会のあとか。あの静かな書斎の夜か。硝子越しに視線を交わした、あのひとときか。
思い出そうとするほどに、記憶は曖昧になった。だが確かに、自分もまた、同じように“見られていた”のだと、礼司は肌の上に蘇る感覚でそれを知った。
「……これは、誰を描いた?」
喉の奥から零れた問いは、聞くべきではなかったかもしれない。
薫はそのままページに視線を落としたまま、答えた。
「まだ…わからないんです」
「わからない?」
「触れていないものは、いつまでも未完のままですから」
その言葉は、意味の底を探ろうとする礼司の胸に、静かに沈んでいった。
触れていないもの。
それは、礼司自身か。それとも、薫がかつて届かなかった別の誰かか。
だが、礼司は直感的にわかっていた。これは、自分だ。
描かれたことがないはずの、自分の姿がそこにある。
ただの錯覚ではない。薫が、記憶と欲望のあいだで“触れなかった”ものを、そこに留めようとした結果が、目の前にある《未完の肖像》だった。
視線が絵に縫いつけられたまま、礼司は知らず知らずのうちに呼吸を浅くしていた。胸の奥で、波打つような動悸が始まっていた。何かが崩れるような音が、耳の奥で鳴っていた。
「…なぜ、仕上げない」
問いは、答えを知っている者の声だった。
薫は、しばらく黙ったままページを閉じた。
「仕上げてしまえば、終わってしまうからです」
「終わる?」
「完成することで、手放すしかなくなる。私にとってこれは…まだ手放せない記憶です」
その言葉の端々に滲んだ感情は、かすかだった。だが、それが礼司の中に不意打ちのように刺さった。
“まだ手放せない”。
その記憶に、自分が含まれているという確信。それが、礼司を不安にさせた。
“まだ”という言葉のなかに、どれほど多くの感情が詰まっているのか。諦めか、渇望か、あるいは未練か。そのどれかひとつでも触れてしまえば、全てが揺らいでしまう。
「見なければよかった」
礼司は背を向けた。目を逸らすように、視線を床に落とした。
薫の動きはなかった。静かに紙を閉じ、元の箱に戻しただけだった。
アトリエの中は、いつの間にかほとんど闇に近い薄明かりに包まれていた。誰も灯りをつけようとはしなかった。あえて、沈黙が濃くなるほうを選んでいた。
礼司は口をつぐみ、窓辺に歩いた。外の庭にはまだわずかな光が残っている。けれど、ここから見る景色は何も変わらない。ただ、肌の表面にひやりとした空気が触れ、今が確かに“夜のはじまり”であることを知らせていた。
背後から、薫の声がかすかに届いた。
「礼司さん。あなたが、もし…あの夜の続きを望んだなら、私は絵ではなく、触れていたと思います」
礼司は、返事をしなかった。
その言葉が、事実であることも、否であることも、もう関係がなかった。大切なのは、触れなかったという“結果”だけだった。
その結果が、今の自分をここまで揺らがせている。
絵の中には、言葉も手触りもない。ただ、そこにあるのは“触れなかった感情”の痕跡。静かで、けれど確かに熱を持つ残滓。
アトリエに漂う油絵の匂いと、わずかに汗ばむ肌と、夕闇の気配が、礼司の意識をやわらかく締めつけていた。
彼はもう一度、絵に背を向けたまま、低く息を吐いた。
そして、何も言わずにアトリエを出た。
その背後で、薫もまた、何も言わなかった。沈黙だけが、未完の肖像と共に、部屋に残された。
庭に足を踏み出した瞬間、礼司の頬を夜の冷気が撫でた。夏が過ぎたばかりの夜気は、すでに秋の匂いを孕み始めており、草木の湿り気と、どこか煙たい土の香りが肺の奥に沁みていく。アトリエの扉が閉まる音はなかった。振り返ることはなかったが、その背中にはまだ薫の気配が色濃く残っていた。まるで、誰かに追われているような感覚すらあった。だが、それは追う者ではなく、見送る者の沈黙だった。庭の小道には夜露が降りていた。礼司の靴底が土と擦れ合うたびに、ひそやかな音が生まれる。けれどその音は風に紛れ、すぐに闇の中に消えていった。彼は胸元に手を当てるように、右手をそっと持ち上げた。指先から掌まで、何かがまだ残っているようだった。熱。薫の手に触れかけたあの瞬間。たった一寸の距離だった。けれど、その一寸がどれほど遠かったかを、今さらのように思い知らされていた。触れてはいない。だが、触れなかったからこそ、その熱は皮膚の下に沁み込んだまま、まだ冷めずにいる。手のひらが焼けつくようだった。誰のものでもない、誰にも知られない熱。その余韻に、自分の呼吸すら濡れているように感じる。視線。あの静けさの中、薫はひとことも発しなかった。だが、何度もこちらを見ていた。礼司の輪郭を、骨格を、沈黙の中でなぞるように。礼司もまた、薫の視線に触れていた。それがただの目の動きではなく、感情を宿した熱源そのものだと知ってしまった今、もう視線をただの視線として受け流すことなど、できなかった。薫の瞳が、自分を“見ていた”。理解ではなく、欲望でもない。それは、もっと手前にあるものだった。名づけることのできない渇きのようなもの。足元に落ちた葉に、ふと目をやる。夜露に濡れたそれは、柔らかく光を帯びていた。濡れた地面に、靴の跡が浅く残る。だが、その道がどこへ続くのかを、礼司は知らない。「…まだ、届かない」誰にも聞かせるつもりのない声が、唇から零
アトリエの空気は沈黙の膜で覆われていた。ひとつ前の鼓動が、まだ身体の内側に反響しているようだった。鉛筆の擦れる音はすでに途絶え、代わって、遠くの路地から聞こえる犬の鳴き声が、薄く夜の輪郭を示している。礼司は、椅子の上で姿勢をわずかに崩した。脱力ではなかった。むしろ、それは緊張の解放ではなく、張りつめすぎた糸が一瞬だけ、軋むように揺れたものだった。視線を落とせば、足の指先にまで意識が届く。だが、最も鋭く熱を持っているのは、手のひらだった。対面にいた薫が、ようやく動いた。スケッチブックをゆっくりと閉じ、その表紙の上に両手を重ねる。どこか息を飲むような仕草で一拍の間を置き、それからふと礼司の方に視線を移した。「…見てみますか?」低く柔らかい声だった。まるで手渡すものが“紙”ではないと知っているかのように、その声音は慎重で、なおかつどこか試すようだった。礼司は立ち上がった。膝の裏にわずかな汗が滲んでいたことに気づく。椅子の影が床に長く伸び、薫の肩までかかっていた。光はすでに薄闇に包まれはじめ、電球の灯りだけがふたりの輪郭を淡く切り取っていた。薫はスケッチブックを胸元まで持ち上げた。両手で、そっと差し出すように。その動きに、礼司の喉がひとつ鳴った。近づく。ただそれだけの動作に、全身が神経を研ぎ澄ませていく。歩幅を一歩、二歩。あと一歩で、薫の手が届く距離になる。薫の手は、細く白い。男の手ではある。だが、どこか儚さがあった。皮膚の薄さが際立ち、骨の節々が浮き上がるほど繊細だった。その手が、今、礼司のために一冊のスケッチブックを抱えている。まるで、それを差し出す行為自体が告白のようにも見えた。礼司は、右手を上げた。指先が、ほんのわずか空気を押し分ける。その手が、スケッチブックに向かって伸びていく。あと一寸。たったそれだけの距離。手を伸ばせば、届く。触れら
部屋は静まり返っていた。窓の外にはまだ夕暮れの名残があったが、アトリエの内部にはすでに夜が忍び込んでいた。天井の隅に吊られた裸電球がひとつだけ灯っており、その淡い光が床に伸びた影を歪ませている。薫は無言で作業台に歩み寄ると、引き出しからスケッチブックを取り出した。礼司はその様子を見ながら、ただ呼吸を整えていた。胸の奥にある動悸は、いつの間にか律動のように脈打っており、皮膚の内側に熱がこもっていた。冷静であろうとする意志はあったが、それ以上に身体が先に反応していることに、彼自身が戸惑っていた。薫はスケッチブックを手に取り、静かにこちらを見た。「そのままの姿で、少しだけ、動かないでいてもらえますか」薫の声は、ごく穏やかだった。まるで午後の陽光のように、耳の奥に染み込んでくる。だが、その言葉の中にあった「見る者」と「見られる者」という明確な区分が、礼司の内側に目に見えない緊張を走らせた。「こう、ですか」礼司は椅子に腰掛け、上半身を少し斜めに向けた。ジャケットの襟元を緩めると、薫が首を横に振った。「シャツのままで、結構です。…今のままで、完璧です」その言葉に、なぜか礼司は不意を突かれた。完璧。その一言が、彼の中に妙な焦燥を灯した。完璧などという言葉は、ビジネスの場でも滅多に使われない。ましてや、人の姿に向けて発されることなど、ほとんどなかった。薫は鉛筆を構え、向かいのイーゼルに腰を下ろした。鉛筆が紙に触れる音が、ひそやかに部屋を満たす。最初は、ただの静寂だった。だが数分も経たぬうちに、その静けさは“張り詰めた何か”へと変わっていく。礼司は、視線を宙に留めたまま、薫の顔を直接見ようとはしなかった。だが意識は、嫌でもそこへ向かう。どこに目をやっても、薫の気配が迫ってくる。まるで、彼の視線が空気の粒子を通って、礼司の肌の上をなぞってくるようだった。視線というものが、これほどに熱を帯びていたとは知らなかった。見られている。それは言葉よりも濃密な体験だった。皮膚に触れるわけでもない、けれど
日が落ちかけていた。アトリエの西側に設えられた窓から、斜めに差し込む夕陽がゆっくりと角度を変えていく。天井から吊るされた白布のカーテンが、風のない部屋でほのかに揺れた。灯りはまだ点けられていなかったが、空気の輪郭にすでに“夜”の気配が含まれている。色がすべて淡くなり、白壁も、木の床も、絵の具の香りさえも、まるで記憶の底に沈んでいくようだった。薫が、ふと小さな箱からスケッチブックを取り出した。厚みのある表紙に指をかけながら、礼司に目を向ける。「これは…少し古いものです」そう言って、彼はゆっくりとページを開いた。礼司は無言でその場に立ち、薫の動きを見つめていた。紙をめくる音が、妙にくぐもって聞こえる。周囲のすべてが静けさに包まれているからか、あるいは、礼司の内側が何かを先に予感しているせいか。やがて、一枚の紙に薫の手が止まった。「これです」紙の上には、一人の男の上半身が描かれていた。シャツの第一ボタンが外され、襟元が少しだけ乱れている。首筋にかかる髪の影。鎖骨の線は細く、だがどこか張り詰めていた。腕は描かれていない。画面は、ちょうど胸のあたりで切れていた。その“途中”で切られた構図が、絵に強い緊張感を与えていた。「《未完の肖像》と呼んでいます」薫の声は低かった。ページを開いたまま、彼は指先で絵の縁に触れた。描かれた人物は目を閉じていた。いや、目はもともと描かれていない。まるで眠っているかのように、瞼だけが線を引かれていた。礼司は、なぜか言葉を失っていた。その絵に、見覚えがあったわけではない。ただ、そこに描かれたシャツの襟元、開いた胸元の角度、首の傾き――それらが、何か“自身の記憶の中の一場面”と強く重なった。あれは、いつだったか。夜会のあとか。あの静かな書斎の夜か。硝子越しに視線を交わした、あのひとときか。思い出そうとするほどに、記憶は曖昧になった。だが確かに、自分もまた、同じように“見られていた”のだと、礼司は肌の上に
アトリエの扉が閉まると、外の空気はきれいに切り取られた。扉の内と外とで、空気の密度が違う。礼司はそのことにすぐ気づいた。外の空気は風に揺れ、鳥の声や庭木の擦れる音を孕んでいたが、内側は静まり返っていた。まるで音すら絵の具で塗り潰されたかのように、ただ柔らかい光だけが静かに漂っていた。薫が歩くたびに、床板が乾いた音を立てた。その後ろ姿を追いながら、礼司はゆっくりとアトリエの奥へと進んでいく。室内は広くはないが、天井が高いせいか閉塞感はない。壁にはいくつかの作品が架けられており、空いたスペースにはイーゼルや額縁、スケッチブックの山が無造作に置かれていた。家具はほとんどない。代わりに、光と匂いと気配が、部屋の隅々にまで染み込んでいる。「こっちです」薫が言った。礼司は足を止め、その声の先に目をやる。そこには、一枚の大きなキャンバスが壁に立てかけられていた。縁に施された金の木枠が、夕陽の反射でわずかに光る。キャンバスは未完のようにも見えた。だが、それが“完成”であるかのような存在感を放っていた。礼司は思わず息を呑んだ。画面に描かれていたのは、一人の裸の男だった。仰向けに寝そべり、右腕を頭の後ろに回し、左足をわずかに折り曲げている。体は細身で、だが筋肉のつき方には職業的な堅さがあった。腹部の起伏、腿の陰影、鎖骨から胸元へと流れる滑らかな線。すべてが、生々しく、それでいて…美しかった。だが、最も強く礼司の目を引いたのは、男の“顔”だった。目が描かれていない。いや、描かれてはいる。だがそれは、“眠っている”という以上に、“見られることを拒んでいる”ように見えた。まるで視線を持たない肉体。見ているのは、自分だけ。絵の中の彼は、誰の視線にも応じない。ただ、見られることを受け入れ、黙してそこに存在している。礼司は、一歩近づいた。足音を立てぬよう、自然と呼吸を浅くする。男の肌には、微かな体毛まで描かれていた。腹部にわずかに残る毛、脇腹に落ちた光の筋。その丁
午后の陽が傾きかけた頃、礼司は中原家の離れ、薫のアトリエへと向かっていた。車を降りた瞬間、湿った土の匂いと、石畳の隙間から立ち上る初夏の熱気が鼻腔をくすぐった。舗道脇に整えられた生垣の中に、咲きかけの薔薇がちらほらと混じっている。門をくぐった瞬間、その甘やかな香りがふいに胸の奥へ忍び込んだ。アトリエの建物は、母屋と同じく瓦葺きの和洋折衷の造りだった。だが、こちらは外壁の塗りがやや粗く、無骨な木枠の窓がいくつも取り付けられている。窓のいくつかは開け放たれており、風が吹き抜けるたびに薄いカーテンが波のように揺れていた。庭先に踏み出した礼司は、木漏れ日を浴びる石段の下で足を止めた。アトリエの扉は半開きになっており、そこから男が一人、ちょうど出てくるところだった。男は若く、背の高い体躯に黒いコートを羽織っていた。開かれた襟元からは、白いシャツの肌着がのぞいており、まだ乾ききっていない絵具の匂いを纏っていた。手には細い布の包みと、丸められたスケッチらしき紙の筒。礼司が立ち止まったことに気づいたのか、男はこちらを一瞥し、すぐに視線を逸らすと、無言のまま石段を降りてきた。薫の声がした。アトリエの奥、扉の内側から。「また近いうちに…」男は軽く肩越しに手を振っただけで、返事らしいものはしなかった。ただ、頬にかすかな笑みが浮かんでいた。満ち足りたような、あるいは、どこか余韻を含んだ表情だった。すれ違う瞬間、男の身体から微かに香水のような香りがした。甘く、そしてどこか汗に近い体温の残滓が混じっていた。礼司は鼻先をくすぐるその匂いに、ほんの一瞬だけ足を止めた。だがすぐに表情を整え、男の背中が庭の出口へと消えていくのを目で追った。背広の後ろ姿は細身で、首筋の髪がやや長めに揺れていた。薫とは違う。まったく異なる輪郭の男。その背が視界から消えた瞬間、礼司はようやく静かに息を吐いた。誰だ、今のは。問いかけは声にならなかった。だが胸の内側で、低く響いていた。薫の声は、確かに男に向けたものだった。誰かと話す声だった。仕事かもしれない。モデルかもしれない。…それ以上の関係かもしれな