Share

第133話:その絵を、知っている

Author: Sunny
last update publish date: 2026-10-10 22:24:59

最初に目に入ったのは、海だった。

深い青の下に、鈍い緑。その奥には灰色に近い紫が沈み、僅かな暖色が、夜明け前の光のように滲んでいる。

幾重にも重ねられた色が、互いを消すことなく、水の奥行きを作っていた。

静かな海だった。

それなのに、見つめていると、遠くからゆっくりと潮が満ちてくるような錯覚を覚える。

ジャンは、無意識に息を止めた。

「……」

何だ、これは。

画面の手前に残された光は、海を明るくするためのものではない。

むしろ、暗い場所がどれほど深いのかを意識させるために置かれている。

そして、その海の前には、一人の男がいた。

まだ輪郭しか描かれていない。

顔も分からない。

けれど、その男がいるだけで、絵の意味が変わっていた。

誰かが見た海。

あるいは、誰かと見たかった海。

「……ジャン?」

エマの声がした。

ジャンは答えられなかった。

手にしていたワインが滑り落ちそうになり、慌てて瓶の首を握り直す。

趣味や落書き。

そんな軽い想像は、もう消えていた。

これは、長い時間をかけて描いてきた人間の絵だ。

どこを描かずに残すのか。どこで色を止めるのか。何を隠し、何を見せるのか。

その選択が
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第133話:その絵を、知っている

    最初に目に入ったのは、海だった。深い青の下に、鈍い緑。その奥には灰色に近い紫が沈み、僅かな暖色が、夜明け前の光のように滲んでいる。幾重にも重ねられた色が、互いを消すことなく、水の奥行きを作っていた。静かな海だった。それなのに、見つめていると、遠くからゆっくりと潮が満ちてくるような錯覚を覚える。ジャンは、無意識に息を止めた。「……」何だ、これは。画面の手前に残された光は、海を明るくするためのものではない。むしろ、暗い場所がどれほど深いのかを意識させるために置かれている。そして、その海の前には、一人の男がいた。まだ輪郭しか描かれていない。顔も分からない。けれど、その男がいるだけで、絵の意味が変わっていた。誰かが見た海。あるいは、誰かと見たかった海。「……ジャン?」エマの声がした。ジャンは答えられなかった。手にしていたワインが滑り落ちそうになり、慌てて瓶の首を握り直す。趣味や落書き。そんな軽い想像は、もう消えていた。これは、長い時間をかけて描いてきた人間の絵だ。どこを描かずに残すのか。どこで色を止めるのか。何を隠し、何を見せるのか。その選択が、画面の隅々にまで行き届いている。ジャンは、数え切れないほどの作品を見てきた。だから分かる。これは、単に上手い絵ではない。描くことを、自分の言語として使ってきた人間の絵だった。「……なんで」声が漏れた。似ていない。エレナの絵とは、まったく似ていなかった。あの頃のエレナは、もっと激しかった。怒りも、欲望も、寂しさも、隠すより先に色が叫んでいた。けれど、この絵は違う。感情を何層もの色の下へ沈め、見る者に答えを与えない。優しさも、後悔も、愛情も、喪失も。どれか一つに決めることを拒んでいる。だからこそ、ジャンの背筋に冷たいものが走った。ずっと昔。パリのアトリエで、エレナと夜が明けるまで絵の話をしたことがある。『いつか、今の描き方を全部捨ててみたいの』『君が?』『そう。感情をそのまま出すんじゃなくて、色の下に時間を入れてみたい』エレナは、飲みかけのワインを揺らしながら笑った。『最初に見たものと、五分後に見えるものが違う絵。見る時間そのものが、作品を変えるような』あの頃、彼女自身にも方法は分からなかった。少なくとも、ジャンが知る限り、作品にはならなか

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第132話:最後の夜の訪問者

    翌日。展示の最終調整は、予想以上に長引いた。借り入れ作品の保険条件。輸送経路。照明の角度。展示室の湿度管理。帰国前に確認しておきたいことは、いくらでもあった。「ここ、もう少し落とせない?」ジャンは展示室の中央に立ち、壁面を指した。担当者が照明の調整を始める。少しずつ、作品の表面に落ちる光が変わっていく。「……そこ」ジャンが手を上げた。「そのくらいがいい」隣にいた学芸員が、ようやく安堵した顔をした。「モローさん、本当に細かいですね」「いい作品だからね」ジャンは当然のように答えた。「いい作品ほど、見せ方で損をさせたくない」そこで、不意にエマの言葉を思い出した。『最初に色を見せすぎると、それだけで満足する人がいるので』あのとき、彼女はほとんど迷わず照明を選んだ。しかも、理由まで明確だった。感覚だけで判断したのではない。鑑賞者がどこを見るのか、どの順番で作品を理解するのか。そこまで考えていた。「……本当に面白い」「何か?」学芸員に聞かれ、ジャンは首を振った。「いや、何でもない」明日には、この町を出る。一週間。思っていたより短かった。展示の調整は十分に進んだし、フェスティバルの準備も順調だ。仕事としては、申し分ない滞在だった。それでも。もう少しだけ、ここにいてもよかったと思っている。その理由が、展示だけではないことも分かっていた。*美術館を出た頃には、すっかり日が暮れていた。港へ向かう道には、まだ昼間の熱が残っている。海から吹く風が、少し湿っていた。ジャンは車の窓を開け、街並みを眺めた。毎日通ったカフェ。あの小さな店へ行けば、エマがいる。最初は、エレナによく似た女性だった。それだけの理由で気になった。けれど今は違う。朝倉エマという、少し変わった女性。人のことはよく見るのに、自分のことは話さない。絵について聞けば逃げる。それでいて、話し始めれば遠慮がない。自分の肩書きにも興味がない。何より、思っていた以上によく笑う。「……もう少し話したかったな」口に出してから、自分で少し驚いた。一週間も、ほとんど毎日会っていたというのに。まだ足りないらしい。そこで、昨夜の資料を思い出した。海岸沿いの倉庫。もし本当に絵を描いているなら。一度くらい、見せてもらいたい。嫌だと

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第131話:違うはずだった

    *** ホテルの窓には、夜の海が映っていた。正確には、海そのものはほとんど見えない。港の灯りが暗い水面に細長く伸び、ときおり波に崩されているだけだった。ジャンはソファに腰を下ろし、タブレットを開いた。画面には、一人の女性についてまとめられた資料が表示されている。朝倉エマ。三年前から、この町で暮らしている女性。現在の勤務先、住居、交友関係、金銭面、確認できる範囲での経歴。美術市場との接点も、犯罪組織との関係も、特に見つからなかった。念入りに調べたつもりだった。それでも、エレナへ繋がるものは何ひとつ出てこない。「……綺麗なものだね」ジャンは小さく呟いた。不自然に整えられた経歴という意味ではない。本当に、ただ静かに暮らしている女性の記録だった。もっとも、三年前より以前の経歴には、確認できない部分もある。それだけで疑うのなら、世の中の人間をいくらでも疑えてしまうだろう。そろそろ終わりにしてもいい。そう思いながら、もう一度資料を遡った。数年前。エレナの最後の一枚を追っていた頃、彼女の死について僅かに不自然な情報を拾ったことがあった。死亡時の周辺情報。関係していた犯罪組織。その後、妙に途切れた記録。死亡偽装。そんな可能性まで、個人的に調べたことがある。だが、確証は得られなかった。だからこそ、この町でエレナによく似た女性を見たとき、忘れかけていた疑念が蘇ったのだ。けれど。この一週間、エマと話してみて分かった。彼女は、エレナではない。少なくとも、ジャンにはそう思えた。エレナは、自分の才能に対して驚くほど傲慢だった。自分が何を見ているのか。何を描けるのか。その感覚を疑うことがなかった。彼女にとって、世界はまず自分の目を通して存在していた。それが、あれほど強烈な作品を生み出す理由でもあった。一方、エマは違う。人を見る。相手が言葉にする前に、その表情を確かめる。自分の言葉が誰かを傷つけないか、一度考えてから口にする。そのくせ、境界線を越えられると容赦がない。『別人の故人の話を、私に当てはめないでください』あのときの顔を思い出し、ジャンは笑った。自分にあんな態度を取る人間は、最近ではほとんどいない。財団の人間も、美術館関係者も、コレクターも。ジャン・モローという名前を知る人間ほど、多少は態度を

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第130話:一歩先

    ジャンが。 先に店を出る。「明日で最後だから、また来る」エマは。 カウンター越しに。「仕事してください」と返した。「してるよ」「ここに来るのは仕事じゃないでしょう」「僕には大事」「知りません」ジャンが。 楽しそうに笑って出ていく。玲は。 その背中を一度だけ見た。気に入らない。正直に。 そう思う。ジャンが。エマの知らない部分を。 自分より先に少し知っていること。フランス語で。 あんなふうに気軽に話すこと。けれど。ジャンがいなくなると。エマは。 玲の前へ戻ってきた。「ジャン、最近毎日来るんです」「そうみたいですね」「少し疲れます」思わず笑う。「楽しそうでしたよ」エマが。 少し首を傾げた。「そう見えました?」「はい」「……話しやすくはなりました」胸の奥が。 小さく沈む。でも。「遠慮する意味がない人なので」エマが続けた。玲は。 少し笑う。「それは分かります」「でしょう?」エマも笑う。今度は。 日本語。二人だけの会話だった。「神崎さんは?」「何ですか?」「最近、忙しいんでしょう」「かなり」「なのに来たんですね」「来たかったので」エマが。 少し黙る。玲は。 もう言葉を引っ込めない。「三日も来られなかったので」「三日くらいでしょう」「僕には長かったです」「……そういうの」エマが。 少し困ったように笑う。「本当に、普通に言うようになりましたね」「嫌ですか?」聞いた。エマの表情が。 僅かに止まる。以前なら。きっと。 すぐに答えた。困ります。 やめてください。そう言われても。 おかしくなかった。でも。「……慣れてきました」小さな声だった。玲は。 何も言えなくなる。たったそれだけ。好きだと言われることに。 慣れた。拒絶ではない。それだけで。三日間。 どれだけ会議をしても感じなかった疲れが。少しだけ。 ほどけていく。「それは」玲は。 笑った。「かなり嬉しいです」「そうですか」「はい」エマが。 また少しだけ笑う。その顔を見て。玲は思った。もっと。 この人と話したい。こんなふうに。誰かがいる場所ではなく。二人で。*ビーチハウスへ戻る車の中。次の会議まで。 四十分。加瀬から。

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第129話:知らないエマ

    「玲」ジャンが。 呆れたように笑った。「君、相変わらずだね」今度は。 フランス語だった。玲も。 そのまま返す。「何が?」「重い」「知ってる」「自覚あるんだ」「かなり」コーヒーを準備していたエマが。 フランス語で口を挟んだ。「自覚があるなら、少しは直してください」玲の手が。 僅かに止まる。フランス語。それ自体は。 以前にも聞いている。でも。今の言い方。明らかに。 以前より砕けていた。「……今」思わず。 口から出た。「何ですか?」エマも。 そのままフランス語で返す。「少し、話し方が違いましたね」「そうですか?」「はい」「ジャンがいるからじゃないですか」ジャンが笑う。「僕のおかげ?」「違う」エマが即答する。「あなたに丁寧に話しても疲れるから」「ひどいな」「事実でしょう」「玲、最近ずっとこんな感じだよ」ジャンが。 楽しそうに言った。玲は。 エマを見る。「ずっと?」「ジャンが毎日来るので」エマが。 少し面倒そうに答える。「もう丁寧に話すのを諦めました」「最初はもっと冷たかった」「今も十分冷たいです」「今はだいぶ優しい」「気のせいです」二人のやり取り。自分の知らないところで。ジャンとエマが。 こんなふうに話すようになっていた。胸の奥が。 ざらつく。「玲もそう思うでしょう?」ジャンに振られる。「何がですか」「僕は面倒じゃない」エマが。 先に玲を見る。「それは嘘です」反射的に。 玲は笑った。そして。エマも。 一瞬だけ笑った。「ほら。二対一」「納得いかないな」「諦めてください」エマが。 フランス語のまま。 さらりと言う。その瞬間。ざらついていたものが。 少しだけ形を変えた。楽しい。ただ。 それだけだった。エマが。 自分に対して少し砕けて話した。一緒に。 ジャンをからかった。ほんの数秒。それだけなのに。 嬉しい。エレナを失ってから。仕事。 投資。 作品。 女性。 旅行。何をしても。一定以上。 心が動くことはなかった。なのに。エマに関してだけ。三日会えない。 寂しい。少し笑われる。 嬉しい。他の男が近い。 嫌

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第128話:三日ぶり

    *** ジャンが帰る予定の、二日前だった。まだ残って行って欲しい仕事がある。だからこそ、後一日延ばせないか連絡したものの。まだちゃんとした返事が来ていなかった。でも、そんなことはどうでもよくて。 ここ数日。玲は、思っていた以上にカフェへ行けていなかった。港町へ拠点を移せば。 東京にいるよりは、少し時間ができると思っていた。完全に見込み違いだった。リモートに切り替えたことで。 移動時間が消えた。そして。 その空いた時間へ。 会議が容赦なく詰め込まれた。朝はニューヨーク。 昼間は国内。 夕方から夜はヨーロッパ各所。ビーチハウスの窓から海が見えているのに。ここ三日。 昼間の海をまともに眺めた記憶すらなかった。「次、三十分後です」画面越しに加瀬が言う。「分かっています」「その後、一時間空いてますけど」玲の目が。 予定表の空白へ落ちた。「そこは入れないでください」「珍しいですね」「予定があります」「何の?」「私用です」加瀬が。 少しだけ眉を上げる。「この三日、同じこと言って全部潰れてますけど」「だから今日は潰さないでください」思ったより。 強い声が出た。加瀬は数秒黙ってから。「了解です」とだけ答えた。画面が切れる。玲は。 椅子の背へ身体を預けた。疲れている。でも。一時間半。 あれば行ける。エマに会える。そう思っただけで。 少し気分が軽くなった。自分でも。 単純だと思う。スマートフォンを手に取る。エマとのやり取りは。 相変わらず多くない。最初は。 ほとんど業務連絡だけだった。『展示導線の変更、確認しました』『ありがとうございます』それだけ。けれど。 最近は。少しずつ。 余計な一言が増えた。昨日も。 フェスティバルの資料についてやり取りしたあと。『今日、海がすごく綺麗です』エマから。 そんなメッセージが来た。玲は。 窓の外の海を撮って。『こちらからも綺麗に見えます』と返した。しばらくして。『同じ海なので当然ですね』返ってきた文章を見て。 一人で笑った。ほんの少し。エマの言葉が。 自分に対して柔らかくなった。それだけのことが。 妙に嬉しい。自分の気持ちは。 もう隠していない。好きだと。 惹かれていると。 あな

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status