その世間知らずな眼差しに、北斗は意地の悪い笑みを浮かべる。「俺たちの世界じゃ、恋愛なんて生ぬるい言葉は使わない。支配下に置くってことさ」葵は首を傾げた。「じゃあ、今は誰も支配下にいないんですか?」「……」北斗は言葉を飲み込んだ。怪我をしていない方の手を握り締めながら、葵は心の中で計算していた。これは絶好のチャンスかもしれない。楓の兄を利用すれば、彼女の正体を暴くのは容易いはず。怯えたような目で北斗を見上げ、無邪気な表情を装う。「じゃあ、給料はいくらくれるの?週休二日?社会保険も?条件次第では、あなたの望み通りになってあげるかも?」北斗は奥歯を噛みしめた。「そういう話じゃないんだ」無害な花のように、葵は艶やかな唇を噛んで「私が初めてなの?あなたの……支配下の」北斗は片方の唇を上げ、鋭い犬歯を覗かせる。「自分が特別だとでも思ってるのか?」葵は聖女のような純真な瞳で見つめ、溜め息をつく。「ずっと独りぼっちだったの?かわいそう……寂しかったでしょう?」「……」楓は腰を押さえながら、足を引きずるように宴会場へと戻った。人混みの中を目を凝らして探すも、冬真の姿は見当たらない。大奥様の姿も消えていた。まさか、レセプションパーティーを途中で切り上げたのだろうか。携帯を取り出して冬真に電話をかけようとしたが、画面には蜘蛛の巣状のひびが入っていた。手の甲には木の枝で付けられた無数の傷跡が残る。漆黒の画面に映る自分の姿——乱れた髪、頬に付いた擦り傷——を目にして、楓の胸の内が更に暗く沈んでいく。やっとの思いで生け垣から這い出し、お尻を突き出しながら必死で携帯を探し当てた。バルコニーに戻った時には、そこには既に誰もおらず、床に散らばるガラスの破片だけが、先ほどまでの出来事を物語っていた。こんなみすぼらしい姿で宴会場に戻ったのは、冬真の気遣いと優しさを期待してのことだったのに。なのに冬真は一体どこへ?ふと気付けば、宴会客たちが幾重にも輪を作って誰かを取り囲んでいる。中心にいる人物は見えないが、これほどの注目を集めるなら、業界で最も話題の新星に違いない。楓も興味を引かれ、近づいてみた。するとその時、人垣が両側に分かれ、中心の人物のために道が開かれた。「失礼いたします」群衆の中から現れたのは夕月だった
夕月と涼は声のする方を振り向いた。涼は自分の演技を暴かれても動じず、むしろ夕月に更に近寄り、図々しく顔を寄せた。「よく嗅いでみて。血の匂い?それともワイン?」近づく涼に、夕月は思わず息を止めた。慎重に呼吸を整えながら確かめると、そこにあったのは紛れもないワインの芳醇な香り。さっき涼が殴られた時、夕月はワイングラスを手に持っていた。彼女はてっきり、香りの源は自分のグラスのワインだと思っていた。けれど今では、そのワインは全て冬真の顔にかかってしまっている。それなのに涼に近づくと、まだ芳醇なワインの香りが漂ってくる。涼の唇をよく見ると、確かに血の固まった色とは少し違う色をしていた。それに、実に綺麗な形の唇だった。不意に夕月の頭に、ある言葉が浮かんだ。「キスをするのに相応しい唇」そんな考えが脳裏を過ぎった瞬間、慌てて心の中で「いけない、いけない!」と叫んだ。「橘博士だ!!」「まさか!本物の橘博士を生で見れるなんて!」一階のゲストたちは、凌一が姿を現したことに驚嘆の声を上げた。毎年のレセプションパーティーに凌一が出席することは知っていても、この世俗を超越した天才が一般客の前に姿を現すことは決してなかった。今、神が俗世に降り立ち、人々は巡礼者のように熱狂的に彼の元へと駆け寄っていく。凌一の後ろにいたボディーガードたちが前に出ようとした時。凌一は軽く手を上げ、彼らの動きを制した。ボディーガードたちは困惑していた。人前に姿を見せることを好まない凌一が、エレベーターで降りてきたことは、二階の会議室にいた重鎮たちをも驚かせるほどの異例の出来事だった。あっという間に、凌一は数十人のゲストに取り囲まれてしまった。ボディーガードたちは我慢できず、現場の秩序維持に声を上げ始めた。夕月は騒がしくなった客たちの様子に目を向けた。車椅子に座った凌一の姿が、群衆の中に埋もれていく。こんな状況では、まともに呼吸すらままならないだろう。夕月は即座に前に出て、客たちを掻き分けた。「すみません、通してください!」夕月の声に、目の前の客たちが道を開けた。凌一は夕月が近づいてくるのを見て、目を伏せながらも、思わず口元が緩んだ。夕月は人混みを掻き分け、凌一の後ろに回る。スカートの裾が凌一の脛を掠め
「先生はそんな方じゃありません!」夕月の反論に、涼の胸が高鳴った。やはり橘凌一が本命か。となれば自分にもチャンスが……夕月は言い返した。「先生は氷雪のように清らかな方。傷つき、痛んでも、決して口にはなさらない」凌一が膝を擦っているのを見た夕月は、すぐに車椅子の後ろの小物入れから膝用の温熱シップを二枚取り出した。「貼らせていただきます」「すまない」凌一は淡々と応じた。夕月が膝元に屈んでシップを貼り始めると、凌一は彼女の頭上を深い眼差しで見つめ、次の瞬間、その視線を涼の顔へと移した。二人の男の鋭い視線が、エレベーター内で火花を散らすように交差する。夕月には気付かないその一瞬の睨み合いを、凌一のボディーガードたちは見逃さなかった。彼らの表情が一瞬、強張る。涼は口の動きだけで「狡猾な演技派」と凌一を罵りながら、声に出しては「おじさま、これからはお年も気になる年頃ですから、お膝のケアは欠かせませんよ」と言った。身分関係からすれば、涼は凌一をおじさまと呼ばなければならない立場だった。夕月は毛布を取り出し、凌一の膝にかけながら、尊敬する人を守るように言った。「先生とそんなに年は変わりませんよ」凌一は車椅子に座ったまま、横を向いて涼から目を逸らした。扇のように広がった睫毛の下には、才能を知り尽くした者特有の傲慢さが漂っていた。犬のIQが60、人間の平均が100、そして凌一は国際基準の満点である150。だからこそ凌一は、まるで人間が犬を見るような目で、周りの人間を見ていた。涼は凌一の口元に浮かぶ笑みを見逃さず、奥歯を噛みしめた。「あれ?」夕月が立ち上がった時、何かが落ちた。屈んで拾ってみると、国際レース大会・桜都ステージのVIPパス二枚だった。さっき凌一を助けようと群衆を掻き分けた時、誰かがポケットに滑り込ませたのだろうか。ビジネスマン特有の手の回し方だ。人前でチケットを渡せば断られかねないし、その行為自体が注目を集めてしまう。VIPシートに夕月が現れれば、チケットの主も姿を見せ、本来の目的を明かすというわけだ。もし夕月がレースを観戦しなければ、チケットの件は無かったことになる。夕月の指先がチケットを握り、微かに震えた。七年前、桜都ステージの出場資格を得ながら、レース直
「試してもいないのに、どうしてプロレーサーに戻れないって分かるんだ?」夕月は涼に優しい微笑みを向けた。レースに関しては、彼が一番自分のことを理解してくれている。招待状を見つめ直し、心に決意を固める。「まずはメールを送ってみる。返事が来たら……このレースに出てみようかな」涼にはすぐに察せた。夕月が連絡を取ろうとしているのは、かつてのナビゲーターだ。親友として共に走った仲間。五年前に別れを告げた相手。Lunaが引退して以来、二人は一度も連絡を取り合っていなかった。夕月はスマートフォンを取り出し、メールアカウントにログインした。メール以外に、もうあの人と連絡を取る手段があるのかどうかも分からない。送信先欄に、暗記している相手のアドレスを打ち込む。画面を見つめながら、言葉を選んでいく。あの日、涼がコロナを駆って現れ、夢は まだ持っているかと問うた時。真っ先に、親友の顔が浮かんだ。「もう一度Lunaになって、私たちの夢を叶えたい」送信ボタンを押した瞬間、胸が激しく鼓動を打つ。このメールを送った今、もう心は落ち着かない。数学コンテストの時でさえ、これほど緊張したことはなかった。慌ただしく画面をロックする。エレベーターのドアが開くと、涼が声をかけた。「送っていこうか」道中、国際レースの話ができる。きっと断られることはないはずだ、と涼は確信していた。「ママ!」幼い女の子の声が響く。夕月は瑛優の姿を素早く捉えた。ランドローバーの窓から身を乗り出し、瑛優が手を振っている。運転席の大柄な男性は、車内の影に身を潜めていた。夕月は涼に微笑みかけ「お兄さんが迎えに来てくれたみたい」涼が瑛優に挨拶しようと近づいた時、咳き込んだ。「涼おじさん、大丈夫?」瑛優は心配そうに尋ねた。涼は流れるような動きで車のドアを開け、後部座席に滑り込んだ。「さっき橘冬真と会ったんだけど……」その一言で瑛優の関心は一気に涼に向けられ、パーティーでの出来事に真剣な眼差しを向けた。夕月が凌一と別れを告げ、車に乗ろうとした時、涼は隣の席を軽く叩いた。その輝く瞳は「お嬢さん、こちらへどうぞ」と言わんばかりだった。「降りろ」天野昭太は容赦なく追い払った。涼は胸に手を当て「ゴホッ、ゴホッ」瑛優は慌てて
ジープが駐車場を出て行くと、冬真は凌一の傍らに立ち、恭しく声を掛けた。「叔父上」「面汚しが」凌一の一言に、冬真の顔が血の気を失った。凌一は冬真を見向きもせずに続けた。あの時、私が『才知に溢れた生徒を預かっている』と告げず、夕月の学業支援も黙認していなければ、全てが違っていたかもしれんな」冬真は凌一の膝に掛けられた毛布を見つめ、まつ毛を伏せて瞳の奥に渦巻く殺気を隠した。「叔父上、それはどういう……」嘲るような笑みを浮かべ「叔父上の判断に間違いはない。父上も祖父上も、あなたの言葉を絶対の真理として扱ってきた。まさか……後悔などなさっているのですか?」この瞬間、冬真は凌一が少し近い存在に感じられた。なんだ、この完璧な人物にも、誤った決断があったのか。冬真は顎を上げ、凌一の後頭部に視線を向けた。まるで狼のように、その目には反抗的な色が滲んでいた。「叔父上、私の元妻が気がかりなのですか?」あの時、凌一の口から夕月の名を初めて聞いた時から、冬真には分かっていた。夕月が凌一にとって特別な存在だということが。山寺の梵鐘のような、深く響く声が凌一から漏れた。「私は確信していた。彼女をお前に託せば、女性が望むものを全て手に入れられると。お前を買いかぶっていたようだ。所詮、彼女を手にする資格などなかったな」冬真は拳を握りしめ、すぐに力を抜いた。冷たい空気を胸に吸い込みながら、嘲るように笑う。「そんなに素晴らしい女性なら、なぜ叔父上自身が娶らなかったのです?何故、私に押し付けたのです?」「ママ、これ見て!」瑛優が一束の書類を夕月に差し出した。夕月が手に取ると、それは桜井幼稚園の恒例行事である親子野外活動のお知らせだった。園では園児と保護者が一緒になって野外活動に参加することで、親子の触れ合いの場を設け、さらには他の家族との交流を通じて様々な親子関係の在り方を学ぶ機会を提供するという。「ここに書いてあるんだけど」瑛優は真剣な表情で言った。「野外活動には両親の参加が必要で、どちらかが参加できない場合は欠席理由を書かなきゃいけないんだって」年少組の頃から、夕月は瑛優と悠斗の野外活動に付き添ってきた。冬真は当然のように仕事に追われ、一度も親子活動に顔を出したことはなかった。夕月は一人で双子の面倒を見ながらも、様
瑛優は真剣な表情で考え込み、涼と天野を交互に見つめた。本当に迷っている様子で「うーん……明日の朝、ママに教えるね!」帰り道、涼は瑛優を優しくあやして眠らせた。そっとイヤホンを取り出し、瑛優の耳に優しく置いた。スマホに入力した文字を音声で再生する。「今日、藤宮瑛優ちゃんは、ママと涼おじさんと一緒に親子活動に参加しました。瑛優ちゃん一家は、天下一の仲良し家族賞を獲得しました!」瑛優は夢の中で、幸せそうに微笑んだ。「一方、瑛優ちゃんがママと天野おじちゃんと参加した時は、おじちゃんの恐い顔に他のお友達が泣き出してしまい、瑛優ちゃん一家は最悪家族賞をもらってしまいました」瑛優の笑顔は一瞬にして消え、口元が下がった。「涼おじさんと瑛優ちゃんはどの競技でも優勝して、意地悪なパパは土下座して謝りました。でも天野おじちゃんとイベントに行くと、ルールが分からなくて失格になって、意地悪なパパは悠斗くんと一緒に瑛優ちゃんを笑いものにしました」その光景が瑛優の夢の中で再生され、不安げに体を縮める。無意識に指を口元へ持っていこうとする。ランドローバーが桐嶋家の門前で停まると、涼は車を降りながら、さも何気なく夕月に声をかけた。「週末、時間あるんだけど」運転席の天野の表情が一気に険しくなった。翌朝目を覚ました瑛優は、ぷっくりした指先で耳をほじった。昨夜見た予知夢のような夢。涼おじさんと行く親子活動は素敵な光景だったのに、天野おじさんだと子供たちが大泣きする悪夢だった。ベッドに座ったまま、しばし考え込む。自分で服を着て、布団を畳んで、子供部屋のドアを開けると、美味しそうな匂いに包まれた。ママがご飯作ってるのかな?わくわくしながら台所へ走っていく。すると身長190センチ近い屈強な体つきの天野昭太が、粉まみれの指でコンロの前に立っていた。「おじちゃん、何作ってるの?」天野は振り返って「小籠包だよ。もうすぐ一籠目が蒸し上がるんだ」瑛優は小籠包の香りに誘われ、思わず唾を飲み込んだ。「他にも何か美味しそうな匂いがするよ!」コンロの前に歩み寄ると、天野は土鍋の蓋を開けて見せた。黄金色の泡が立ち上る粥が姿を現した。「塩漬け卵黄と海老の土鍋粥だよ」「わぁ!!」瑛優の瞳が星のように輝いた。天野は土鍋
夕月は何気なく兄の自慢を始めた。「おじちゃんのお弁当はね、豪華で見た目も素敵なの。蓋を開けたら、その香りが辺り一面に広がるのよ!」天野は何かを思い出したような表情を浮かべ、残念そうに言った。「でも、これからしばらくは私も夕月も忙しくて、お弁当作る機会がないかもね」瑛優は即座に椅子から滑り降り、自分の部屋に駆け込んだ。すぐに書類を手に持って、ドタドタと走って戻ってきた。「おじちゃん、私とママの幼稚園の親子遠足に来てくれない?」天野は瑛優から書類を受け取り、しばし考え込んだ。「おじちゃん、お願い!他のお友達が泣いちゃっても、ゲームのルールが分からなくても構わないの!もう仲良し家族賞なんていらない!おじちゃんとママと一緒に行きたいの!」「……」自分のことを随分誤解されているようだが。天野は頷いて「ちょうどその日は空いてるよ」と答えた。そう言いながら夕月の方を見ると、夕月も「じゃあ、一緒に行きましょう!」と笑顔で返した。瑛優を幼稚園に送り、園門で姿が見えなくなるまで見送った後、夕月はスマートフォンの画面を確認した。送信したメールに返信が来ている!REI「まだ、僕が必要?」その言葉を目にした瞬間、夕月の目に熱いものが滲んだ。思わず手で口を覆う。昨夜メールを送ってから、何度も何度もメールボックスを開いては、返信を確認していた。時間が過ぎるにつれ、心が沈んでいくのを感じていたのに。今、その沈んでいた心臓が、再び大きく震え始めた。スマートフォンのダイヤル画面を開く。数字を打とうとする指が震え、涙で画面が滲んで見える。でも、この番号なら目を閉じていても打てる。心に刻み込まれた数字の並びだった。すべての番号を入力し終えると、夕月は発信ボタンを押した。受話器を耳に当て、目を閉じる。長い睫毛が涙で濡れていた。長く続く呼び出し音の後、ついに電話が繋がった。「もしもし」爽やかなミントのような少年の声が耳に響く。熱い涙が一筋、睫毛から零れ落ちた。「会いたかった」夕月は掠れた声で絞り出した。受話器の向こうから返ってきた声は「me too」車の中で夕月は涙を拭おうとしたが、止まることを知らなかった。受話器の向こうには、彼女の情熱的で無謀だった青春の証人がいる。二人で肩を並べて歩き、より良い
昼休み、瑛優は涼からのメッセージを受け取った。「瑛優ちゃん、週末空いてるよ。みんなを驚かせちゃうような、素敵な親子コンビの準備はバッチリだからね!」自信に満ちた涼のメッセージ。瑛優はボイスメッセージを送り返した。「ごめんね、涼おじさん。おじちゃんと一緒に行くことにしたの」オフィスで椅子に座っていた涼は、瑛優からのボイスメッセージを目を細めながら再生した。きっと瑛優は自分を誘ってくれるはず——そう確信していたのに。メッセージを聞いた瞬間、涼の心は粉々に砕け散った!灰色の石像のように椅子の背もたれに崩れ落ち、力なくスマホを手に取ってボイスメッセージを録音する。「どうして急におじちゃんと行くことにしたの?」まさか、天野のやつ、トイレに連れ込んで脅したとか……!?すぐさま瑛優から返信が届いた。「だってね、おじちゃんのお弁当すっごく美味しいの!ママと一緒においしいお弁当食べたいな。おじちゃんの料理、最高なんだよ!」涼は再び自分の心が砕ける音を聞いた。涙をこらえながらボイスメッセージを送る。「うん、いいよ。涼おじさんは全然寂しくないからね」メッセージを送った後、1.5秒ほど茫然と過ごした涼は、スマホで検索をしてからとある番号に電話をかけた。「もしもし、料理教室ですか?生徒募集してますか?」数日後、桐嶋幸雄が桜都大学の同僚たちと帰りがけのところ、息子の涼から電話が入った。「父さん、花月楼に来ないか。僕が奢るよ」幸雄の心臓が跳ねた。こんな良い話があるなんて!仲間たちに嬉しそうに別れを告げる。「うちの息子が花月楼に誘ってくれてね。別に何の日でもないのに、親孝行してくれるんだよ。君たち花月楼なんて行ったことないだろう?予約が取れない店なんだぜ。先に味見してやるよ!」花月楼に着くと、黒いコックコートに黒い調理用手袋をはめた涼の姿が目に入った。幸雄の瞳が震え、口が「O」の形になった。「涼よ……何があった?何かショックでも受けたのか?」息子は新しいことを覚えるのが早く、手を出した分野は何でも成功してきた。だからこそ、様々な業界で頂点を極めてきたのだが、突然料理人になろうとする大転換に、幸雄は戸惑いを隠せなかった。「座って」涼は父を席に案内した。「この数日、料理の研究に没頭してたんだ。試食してもらえ
冬真の瞳が見開かれた。涼の言葉の意味を、まさか……思わず写真で確認しそうになる衝動を必死に抑え込む。涼のあそこの色が本当にピンクなのかどうか……怒りに震える冬真の視線の先で、涼は冷ややかな目つきで彼の胸元を見つめていた。冬真の顔が真っ黒に染まる。涼は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。まるで何かの勝負に勝利したかのように。冬真の喉が詰まりそうになる。こんな馬鹿げた争いで負けるわけにはいかない。「ふん」鼻を鳴らして態勢を立て直す。「メラニン色素の沈着は普通だ。布との摩擦で色が濃くなるのは当然のことだろう。お前みたいに薄いほうが異常なんだ!」自分の言葉の意味に気付いた瞬間、冬真の頭の血管が爆発しそうになった。涼の罠にまんまとはまってしまった。誘導されるままに、仕掛けられた罠に足を踏み入れていた。冬真は顎を上げ、スマートフォンを涼に投げつけた。しかし涼は受け取らない。端末は床に落ち、数メートル先まで滑っていった。ふん、怖気づいたか。冬真の瞳に冷たい光が宿る。先日のテクノロジーサミットで一発食らわせた時のことを思い出す。涼は血を吐くほどの打撃を受けた。この男は自分の前では無力な雑魚同然だ。「なるほどね」涼は涼しげに微笑んだ。「俺は七年前からスキンケアを欠かさないんだ。事実、この色の方が夕月の心を揺さぶれるってことさ」冬真の怒りは限界に達していた。「どんなに取り繕っても、所詮は見かけだけだ!私が彼女に与えた悦びには及びもしない!」鼻から荒い息を吐き出す。自分が今、怒り狂った野獣のように醜い形相をしているのは分かっていた。橘グループの後継者として常に冷静さを保つべきなのに。なぜこんなにも涼に感情を掻き立てられるのか。制御が利かない。これは男としての独占欲なのか?いや、違う。ただ涼のこの傲慢な挑発が許せない。男としての誇りを踏みにじられた——これは夕月とは無関係だ!涼の整った顔立ちが冷たさを帯び、氷の結晶のような瞳が冬真を射抜く。「彼女が俺では物足りないなら、他の男を探せばいい。でも覚えておけ。他の男は一時の宿、俺こそが彼女の居場所になる」冬真の価値観が根底から揺さぶられ、瞳が激しく震えた。両手が強く握り締められ、手の甲から腕にかけて青筋が浮き上がる。涼には分かっていた。この男が今
長身で背筋の伸びた涼は、あまりにも端正な容姿のせいか、店内の視線を一身に集めていた。涼がトイレの方へ向かうのを見た冬真も、席を立った。「冬真さん!」女性の呼び声も無視し、彼は冷たく言い放った。「お帰りください。一人にしてもらいたい」世間知らずの令嬢が、こんな扱いを受けたことなどあるはずもない。顔から血の気が引いた。「ふん!」お見合い相手はブランドのバッグを掴むと、怒りに任せて店を出た。レストランを出るなり、携帯を取り出して電話をかける。「はい、楼座様。私の任務は……失敗したようです」*夕月は冬真がトイレに向かうのを見て、二人の男が同時にトイレへ行くのは明らかに不自然だと感じ、すぐに涼にメッセージを送った。個室の中で、涼は夕月からのメッセージを確認する。スマートフォンの光が瞳に映り込む中、彼は口元を緩めて小さく笑った。夕月が自分を気にかけてくれている。なんだか、嬉しいな。涼は個室を出て、洗面台にスマートフォンを置いた。手を洗い、ペーパータオルで手を拭きながら出口へ向かう。険しい表情の冬真が奥の個室から出てきて、洗面台に置き忘れられたスマートフォンに目を留めた。涼のスマートフォンか。手に取ると、画面にLINEの通知が表示されていた。相手の名前は「月ちゃん」。「橘のやつもトイレに来た」その表示名を見た瞬間、冬真の胸に鈍い衝撃が走る。メッセージの内容を確認した途端、その表情は今にも豪雨を落とさんばかりの暗雲のように険しくなった。奥歯を強く噛みしめ、顎の筋肉が微かに震える。スマートフォンにロックが掛かっていないことに気付いた。冬真は即座に画面をロック解除した。息を詰まらせながら、親指が画面上を這うように動く。まるで闇に潜む怨霊のように、夕月と涼のやり取りを覗き込んでいった。突然、冬真の指が止まった。涼の自撮り写真が目に飛び込んでくる。涼が夕月に送っているのは、一体何なんだ……!?冬真の目が憤怒に燃えた。画面に触れる指の関節が、力が入り過ぎて真っ白になっている。手の甲に浮き出た青筋が、今にも皮膚を突き破りそうだ。これは……見るに堪えない!!破廉恥な男め!荒い息を吐きながら、獅子のように激昂した冬真が顔を上げると、鏡に涼が映っていた。西洋ズボンのポケット
降り注ぐ淡い陽光の中、冬真の頭の中で無数の蝿が飛び交うような騒がしさが渦巻いていた。*昼時、夕月は涼と共にレストランを訪れていた。涼がメニューに目を落としている間、夕月は何気なく視線を巡らせ、そこで凍りついた。少し離れたテーブルに冬真が若い女性と座っているのが目に入った。今日は厄日だったのか。あの男が視界に入っただけで胸が締め付けられる。「夕月さん、何か食べたいものは?」涼の澄んだ声に、夕月は慌てて視線を戻した。「もう他の男性に目移りですか?」涼が片眉を上げて茶目っ気たっぷりに言った。夕月は思わずナプキンで顔を隠したくなった。「あの人が見えちゃって……」頬を膨らませながら、涼に向かって舌を出す仕草を見せた。涼の目の前で、彼女の表情が途端に生き生きとして、たまらなく愛らしい。「僕の店選びが悪かったね」涼が口元を緩めて言った。「席を替わろうか?」涼の座る席は、ちょうど衝立で隠れていて、冬真からは見えない位置にあった。夕月は首を振った。「もう気付かれてると思う」冬真は席に着くなり、窓際に座る夕月の姿を目にした。スーツ姿の夕月など見たことがなかった。子供の世話に明け暮れていた元妻が、キャリアウーマンのように凛とした雰囲気を纏っているとは。一瞬、目を疑うほどだった。彼の視線に気付いたのか、夕月は顔を逸らした。もしや、自分を観察していたのか。この店は橘グループのビルから近い。夕月は自分を待ち伏せていたというのか。昼下がりの光が夕月の周りを優しく包み込み、束ねた黒髪の端が金色に輝いてい「冬真さん?聞いてらっしゃいます?」向かいに座る女性が彼の様子に気付き、その視線の先を追おうとした。その時、一本のフォークが夕月に差し出された。長く逞しい指をした男の手だった。「味見してみて」涼が切り分けたステーキを夕月の唇元まで運ぶ。夕月は頬を染めた。これは冬真に見せつけているのだろうか。口を開けて、差し出されたステーキを受け取る。瑛優以外の人に食べ物を口移しされるのは、なんだか変な感じ。夕月の頬が薔薇色に染まる。まるで本当に恋をしているみたいだった。涼が分けてくれたステーキは、確かに美味しかった。冬真は突然立ち上がった。向かいの女性が驚いて身を引く。男から放たれる威圧的
楓は期待に満ちた目で彼を見つめた。しかし、男の表情は冷ややかなままだった。「お前は悠斗の人生を台無しにした。刑務所に入らないで済むと思っているのか?甘すぎる」その声に、楓は全身の血が凍るのを感じた。「やだ……刑務所なんて嫌!汐だって、私が刑務所に入るなんて望んでないはず……昔は警察に捕まっても、汐がすぐに助けに来てくれたのに……」楓は涙を流しながら、必死に首を振った。男は彼女の言葉を冷たく遮った。「それは汐の話だ。私は違う。私は悠斗の父親なんだ」冬真は、もはや楓を非難する言葉すら口にしなかった。バイクに悠斗を乗せた彼女の無謀な行動も、あれほど止めていたのに。楓の考えは見え透いていた。悠斗が自分に懐いていれば、どんな面倒を起こしても冬真が庇ってくれると。そして事実、汐との絆を考えて、冬真は何度も彼女を見逃してきた。だが今回は違う。我が子がICUに運ばれるところまで追い詰められた。もう、彼女の行動を許容できる限界を超えていた。楓は彼から放たれる威圧的な雰囲気に萎縮し、赤く腫れた瞼を震わせた。「今日、私が来たのは……汐との約束があったからだ。お前の面倒を見てやってくれと」冬真は差し入れの入った袋をテーブルに置いた。留置場でゆっくり正月を過ごすといい」立ち上がって背を向けた冬真に、楓は必死な声で叫んだ。「私の部屋の化粧台、二段目の引き出しに古い携帯があるの。汐が……最期に残した伝言が入ってるわ」その言葉に、冬真の足が止まった。「本当は教えるつもりじゃなかったの。でも冬真、汐の死の真犯人はまだ罰を受けていないのよ!」冬真がゆっくりと振り返る。その鋭い眼差しは、まるで楓の心の奥底まで見通すかのようだった。「その犯人というのは……」楓は冬真の鋭い視線に震えながら、「私の家に行って、汐の最期の声を聞いて。冬真、また会いに来てね……」もう後がない。楓は、ここまで追い込まれた自分の境遇を肌で感じながら、全てを賭けた一手を打つことを決意した。留置場を出た冬真の携帯が鳴り響く。母親からの着信に、思わず眉間にしわが寄った。無視しようとしたが、執拗に鳴り続ける着信音に、結局応答せざるを得なかった。「はい、母上」「冬真、お見合いの約束を入れたわよ。正午にムードレストランで。お相手は……」冬
「私のため?」盛樹の体が震えた。雅子は髪を弄びながら、シートに片手をついた。深く開いたスーツの襟元には何も着ていない。少し前かがみになると、盛樹の視線は自然とその谷間へと吸い寄せられ、思わず喉が鳴った。目の前で艶やかに揺れる魅惑的な曲線に、盛樹は我を忘れ、ただ真紅の唇の開閉を追いかけるばかり。「藤宮テックを買収したいの」「な、何だって?」盛樹は再び震えた。しなやかな指が彼の太ももに触れる。「盛樹さん、私の願いを叶えて?」盛樹は鼻腔が熱くなり、全身が強張る。もはや自分の言葉すら制御できない。「い、いいとも……」雅子が片方の唇を上げて笑う。対面に座っていた北斗が耐えきれず口を開いた。「父さん、確か買収案件は全て夕月に一任したはずでは?」「夕月?」雅子が首を傾げた。盛樹は北斗を睨みつけながら答えた。「私の娘だ。雅子さん、彼女に関するニュースを見たことがあるだろう?」「海外にいたものでね。国内の話題にはうとくて」雅子は首を振った。盛樹は誇らしげに語り出す。「うちの娘はALI数学コンペで金賞を取ったんだ!それだけじゃない。あの有名なレーサー、Lunaとしても活躍している。この前の国際レース・エキシビションにも出場したんだよ。七年間も主婦をしていたのに、社会に出るや否や八面六臂の活躍ぶり。すごいと思わないかい?」「主婦がコンペの金賞?何か裏があるのでは?」雅子は物思わしげに呟いた。「うちの娘は14歳で花橋大学の飛び級に入った天才なんだ!」盛樹は興奮気味に反論する。雅子は艶のある眼差しを向けながら、「でも、ALIコンペが主婦に金賞を与えるなんて……研究に打ち込む院生や博士たちに失礼じゃないかしら?それに、また主婦に戻るかもしれないのよ?」「そ、それは……」盛樹は言葉に詰まった。「七年も主婦をしていた人が、急にレース界に現れるなんて。プロのレーサーたちはどう思うでしょうね?」盛樹は雅子の言葉に次第に説得され始めていた。「でも夕月は買収案の責任者として、二つの有力な買い手を見つけてきた。ムーンワールドグループ傘下のフェニックス・テクノロジーと桐嶋氏の引力テクノロジーが競合していて、引力は4000億もの高値を提示してきたんだ」「雅子おばさん」北斗が割り込む。「うちの会社、いくらで買収するつもり?」雅
「#楼座雅子帰国#」というトレンドワードが瞬く間にネットを席巻した。「女帝、お帰りなさい!」「楼座雅子様の帰国で、桜都の名門家に激震が走るぞ」「楼座雅子って誰?すごい人なの?」「知らないとか、さては2000年代生まれでしょ」年配のネットユーザーたちが、次々と解説を始めた:楼座家は桜国を代表する財閥の一つ。古くから金融界に君臨してきた名門で、雅子は楼座家が迎えた養女。今年で47歳。25年前、彼女と楼座家三兄弟との愛憎劇は、長編小説が書けるほどの話題を呼んだ。最終的に、雅子は心を閉ざし、楼座財閥の経営に専念。三人の兄は、一人が不具に、一人が精神を病み、もう一人は出家した。25年前、雅子は最も注目された女性実業家で、メディアは彼女の出現を「新時代を切り開く女性の幕開け」と称えた。子供は一人もおらず、結婚歴もない。だが、世界中から才能ある少女たちを養女として迎え入れ、育て上げた。その養女たちは今や、各界で活躍する著名人となっている。*桜都国際空港。VIP専用ゲートの前で、盛樹は真っ赤なバラの花束を抱え、首を伸ばして待ちわびていた。その横で北斗は両手をポケットに入れ、退屈そうにガムを膨らませては潰す。「パチッ」という音が何度も鳴り響く。「うるさい!」盛樹が苛立ちを爆発させた。「私が雅子を迎えに来てるのに、お前は何しに来たんだ」北斗は艶のある瞳に笑みを浮かべる。「父さんの忘れられない初恋の人が、もしかしたら僕の母親かもしれないじゃない」盛樹が何か言おうとした瞬間、黒いスーツワンピースを纏った女性が姿を現した。漆黒の髪が滝のように流れ、真紅の唇が艶めく。サングラスを外すと、まるで花のように美しい横顔が露わになる。時の流れが彼女だけを特別扱いしたかのように、年齢を感じさせない艶やかな表情。丸みを帯びた顔立ちに、凛とした眉目は妖艶な大人の魅力を漂わせていた。10センチの厚底ヒールを履いた足取りは、まるでランウェイを歩くモデルのよう。「雅子!」盛樹の目が釘付けになる。楼座雅子の後ろには、黒い制服に身を包んだ六人の精悍な男たちが整然と並び、30インチの黒いスーツケースを手に、まるでトップモデルのような佇まいで従っていた。北斗は盛樹と共に歩み寄る。「雅子おばさん」北斗は雅子の顔をじっ
「……もう一つは桐嶋さんが率いる引力テクノロジーからの提案です。買収額400億、全従業員と部門の維持、そして新オーナーの下での独立経営を保証する内容となっています」盛樹は真っ先に引力テクノロジーの企画書を手に取り、数ページ目を捲って呟いた。「400億?なぜ桐嶋さんがこれほどの高額を……」涼は椅子に深く寄りかかり、どこか投げやりな態度で答えた。「美人の笑顔一つのためさ。夕月さんへのプレゼントってところかな」盛樹の疑わしげな視線が、夕月と涼の間を行き来する。「夕月さんは僕の彼女だからね」涼は続けた。「彼女が喜ぶなら、それだけで価値があるさ」盛樹は驚愕の表情で夕月を見つめた。「お前と桐嶋さんが……」実は盛樹は、娘のために離婚歴のある実業家を何人か物色していた。早く夕月を片付けて、藤宮家の利益になる縁戚関係を作りたかったのだ。まさか、あまり期待していなかった長女が、こんな大きな驚きを用意していたとは。「やるじゃないか、夕月」盛樹は満足気に顎を撫でながら、口角を上げた。他の役員たちも内心で思いを巡らせていた。まさか桐嶋が長年独身を通してきたのは、橘冬真の妻を想っていたからとは。盛樹は引力テクノロジーの企画書を手に、零れそうな笑みを必死に押さえ込んだ。「400億か。さすが桐嶋さんだ」「夕月さんのことは随分前から好きでした」涼は率直に言った。「今、やっと付き合えることになった。だから、彼女が喜ぶ数字を出させてもらいました」声のトーンを落として続ける。「藤宮社長、断る理由はないでしょう?」グラスを指先で回しながら、一滴の水も零さない。「断るなんて、少し物分かりが悪すぎますよね」涼は軽く笑ったが、漆黒の瞳に鋭い光が宿る。「冗談ですよ。義父上を脅すわけないじゃないですか」その傲慢な眼差しに、盛樹は凍りついた。「義父上」という言葉に、体が震える。まさか、娘を遊び半分で口説いているわけではない?興奮で手を擦り合わせながら、何か言おうとした瞬間、テーブルの上の携帯が震えた。最初は無視するつもりだったが、画面を見た途端、また体が震えた。慌てて電話に出る盛樹。声が震えている。「も、もしもし……」女性の声が響いた。「盛樹さん、帰国したわ」盛樹は立ち上がった。「会議は一時中断!空港まで行っ
でも、涼が自分を見つめる時、その夜空の星のように深い瞳の中には、ただ夕月だけが映っていた。エレベーターのドアが開くと、夕月は颯爽と外に出た。会議室に向かいながら、後ろを歩くフェニックス・テクノロジーのメンバーに指示を飛ばす。「三分以内に全役員を会議室に集めて」その言葉を受けて、背後の精鋭たちが瞬時に散開した。彼らは次々と役員たちを半ば強引に会議室へと連れてきた。「何者だ!」「警察を呼びますよ!」役員たちは顔を真っ赤にして抵抗する。だが会議室に入れられた途端、彼らは椅子の背もたれに寄りかかるように座る夕月の姿を目にした。細身の体つきに柔和な表情。しかし主席に座る彼女から放たれるオーラは、その場にいる全員を圧倒していた。役員たちは皆、夕月のことを知っていた。中には夕月の叔父にあたる者も何人かいる。「夕月、お前がこんなことを?」「夕月、やり方が乱暴すぎるぞ」夕月は腕時計に目をやり、「定刻に遅れました。今年のボーナスは30%カットです」と告げた。「何の権限があってボーナスをカットするんだ?」藤宮の姓を持つ役員が不満げに言う。その時、藤宮盛樹が怒りに任せて駆け込んできた。「反乱を起こすつもりか」夕月を見るなり詰め寄る。「お父さん」夕月は穏やかな声で返した。「私は、あなたが任命した副社長であり、買収プロジェクトの責任者です。業務にご協力をお願いします」盛樹は嘲るように冷笑を浮かべ、まるで三つ子を見るかのような目で夕月を見下ろした。「新任の意気込みってやつか。さあ、どんな手を打つのか、見物だな」そう言いながら、入室時から気になっていた涼の方へと歩み寄る。キャビネットから葉巻を取り出すと、にやつきながら涼に差し出した。「桐嶋さん、お忙しい中、わざわざ娘の付き添いとは」涼は翡翠を彫り上げたような長い指で葉巻を受け取った。低く声を落として言った。「藤宮社長、察しが悪いですね」盛樹は即座に会意し、ライターを取り出して葉巻に火を点けた。立ち昇る青い煙に夕月が眉を寄せるのを見て、涼は直ちに葉巻を消し、ゴミ箱に投げ入れた。上着を脱ぎ、夕月の隣に座り直す。夕月は思わず舌先を噛んだ。妊娠中、冬真の吸う煙を散々吸わされた日々が蘇る。受動喫煙の害を伝えた時、大奥様に「田舎者の分際で、よくそん
朝焼けがほのかに空を染め始めた頃、専用のマイバッハSクラスが、黒豹のように藤宮テックの本社ビル前に滑り込むように停車した。ドアが開き、長い脚が最初に姿を現す。艶やかな革靴が大理石の床を踏みしめた。涼が車から降り立つ。深みのあるグレーのオーダーメイドスーツが、鍛え上げられた体躯にぴったりと馴染んでいた。彼は振り返り、今まさに降りようとする夕月に手を差し出した。「彼女さん」すっかり役になりきった様子で、夕月は微笑みながら、その大きな手のひらに自分の手を載せた。オフィスビルのロビーに入ると、夕月と涼を先頭に、フェニックス・テクノロジーの買収プロジェクトチーム——会計士、財務アナリスト、税理士たちが堂々たる行列を成していた。先頭を歩く二人の姿に、フェニックス・テクノロジーのプロジェクトリーダーは思わず目を留めた。夕月の黒いスーツは肩のラインが美しく、細い腰が際立つ上品な仕立て。そして気づいたのは、夕月と涼のスーツが同じブランドだということ。二人の歩調が自然と揃い、醸し出す雰囲気が不思議なほど調和していた。その光景は、まるで絵になるようだった。夕月は迷うことなくエレベーターに向かう。以前二度訪れた経験から、社内の配置は把握していた。「ちょっと!」受付の女性が、ヒールを鳴らして駆け寄ってきた。予約なしでエレベーターには乗れませんよ!」夕月は振り返り、「新任副社長の藤宮夕月です」と告げた。「副社長だなんて、そう言えばなれるんですか?そんな通達、受けてませんけど!」夕月は相手を見向きもしなかった。この異常な対応は、明らかに誰かの指示を受けてのことだった。エレベーターのドアが開く。受付は叫び声を上げ、ドアを押さえようとすると同時に夕月を押しのけようとした。だが夕月に触れる前に、フェニックス・テクノロジーのメンバーが動いた。鉄壁のように夕月の前に立ちはだかり、受付との間を遮った。全員が退役軍人という経歴を持つ専門家たちは、一糸乱れぬ威厳に満ちていた。彼らは何も言わず、ただそこに立っているだけで、小柄な受付の女性の背筋が凍るほどの存在感を放っていた。エレベーターに乗り込みながら、夕月は受付に告げた。「給与計算を済ませて、明日から来なくていいわ」「私を解雇するって?何の権限があるんですか!」受付