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第452話

Author: こふまる
「先生、これは日興を丸ごと私に託すということですか?」

「日興を新時代へ導きたいんだ」凌一は言った。

「私はこの七年間、日興を率いてきた。七年の間、日興は黙々と貢献を続けてきたが、今の時代は以前とは違うと気づいた。

私はスポットライトを浴びるのが得意ではない。だから日興をお前に任せたい。

藤宮所長、頼む。日興の名を世に広め、より多くの研究者たちが注目され、脚光を浴びられるよう導いてほしい」

春風が吹き抜けるように、夕月の湖水のような瞳に波紋が広がった。

「先生のお考えと、私の思いが重なります」

夕月は契約書を握りしめながら言った。「一般研究員の給与はどれくらいですか?」

「年間約200万円、国からの補助金を含めると昨年の平均は360万円ほどだ」

「楼座雅子の量子科学部門は新卒で月給60万円。

オームテックからは年俸2千万円と、プロジェクト報奨金2千万円、それに利益配当の提示がありました。

兄のフェニックス・テクノロジーでは技術者の平均月給が80万円です」

凌一の表情が僅かに曇った。研究所の年間研究支出は2億円を超え、国からの助成金は日興の研究支出に比べれば焼け石に水だった。

日興は十大研究所の一つだが、国内には何十万もの研究所が資金を渇望し、大量の経費支援を必要としていた。

これまで凌一はビジネスで稼いだ資金で日興を補助してきた。彼は従業員に最高の福利厚生を提供し、日興に入れば食事と住居が保障され、病気になれば軍の病院で優先診療を受けられるようにした。

「月給を2万円上げるだけでも、他の研究所は人材を失い、職員の心が揺らぐ。そうなれば業界全体のバランスが崩れてしまう」

この点を考慮し、凌一は桜都の研究所の平均給与に合わせて従業員に支払うしかなかった。

「先生がお望みなのは、日興研究センターの待遇改善だけではなく、国内研究業界全体の改革と変革をもたらすことなんですね。でも私は……」

夕月の声は躊躇いを含んでいた。

「挑戦してみてはどうだ、藤宮所長」

凌一の声は谷間を吹き抜ける風のように澄んでいた。「この七年間、君は任務を立派にこなしてきた。皆、君の帰還を待っているんだ」

夕月の胸が熱くなり、彼女の視線は凌一の両脚へと落ちた。

「私は任務を上手くこなせていません。もっと早く……もっと早ければ、先生の足は……」声が掠れた。

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